荻野洋一 映画等覚書ブログ

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廣瀬純 著『蜂起とともに愛がはじまる』

2012-02-22 20:01:19 | 
 私事となるが、本書の著者・廣瀬純と私とは同じ高校、同じ大学の出身であり、しかも「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」誌(休刊)の編集委員どうしとして前世紀の末から今世紀初頭にかけて多くの時間を共有したため、私は非常なる親愛と懐旧の情を抱いている。そういう輩が言ってもなんの説得力も発揮せぬことは承知の上で大風呂敷を広げさせていただくならば、彼の新著『蜂起とともに愛がはじまる』(河出書房新社)は、日本の読書人が世界の最前線と同格の気位で持つことのできる数少ない思想書であり、文明批評の書だと思う。
 《思想/政治のための32章》というサブタイトルを付された200ページあまりのこの小さな本は、序章にロンドン大学バークベック校における昨年11月の記念すべき講演「頭痛──知力解放から蜂起へ」を、終章に昨年6月の論考「原発と蜂起」を置き、その中間に30個の短い記事が並ぶ。話題の中心は思想家と映画作家の活動について。
 彼の文章から漂い出る腕白な感じ、面白可笑しいことを他人の予期せぬタイミング、文脈で言ってやろうという野心、こういうものは、書き手の人格そのままを表している。ごく小さな比喩的なタームをブローアップして、「蜂起」や「68年5月」や「国家」「叛乱」「ネオリベラリズム」といった大文字に属する単語と対置させつつ、グロテスクな思考の見取り図を提示するのが本書でよく使われる手法で、たとえば「頭痛」であるとか、「蟹缶」「ドラえもんの4次元ポケット」「ホタル」「ヘビ/モグラ」「ガラス/矢印」といった小さな比喩的タームが本書の中を腕白さとともに跋扈している。
 このタームを展開の起点として若手のような勢いのある文を、彼は書く。それはたとえば、私のように若くしてつまらぬ老成へ向かって元気なくとぼとぼ歩いてきた輩とは正反対である。『蜂起とともに~』は小さいながらも、読み手を知的興奮と哄笑によって俄然元気にさせる本で、ゴダール『中国女』の登場人物たちが本書と同じく赤い表紙の「毛沢東語録」を片手で掲げるように、さっと持ち上げてみたくなる誘惑に駆られるのだ。廣瀬純の爪の垢を煎じて飲む必要が私にはあるけれども、その処方箋を必要とするのは、どうやら私だけでもなさそうである。


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