荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『告白』 中島哲也

2010-06-06 00:08:09 | 映画
 最近、TBSドラマのロケの影響なのであろうか、日本橋人形町、蛎殻町界隈が大にぎわいである。戌の日のきょうなどは、水天宮の参拝帰りらしいお腹の大きい女性とその家族などが、重盛永信堂(人形焼)の前で人垣をつくっている。三味線屋のばち英、つづら屋の岩井、豆腐の双葉、たいやきの柳屋、牛肉の今半の前も、たいへんな人垣である。午後の光落ちる甘酒横丁、ばち英の店先からは、気持ちよさそうに三弦が響いていた(ちなみに、ときどき弾いているあの爺さんは、じつは店の人ではありません)。
 いかなる理由であるにせよ、ここ半世紀近く、人の流れが西側に傾きっぱなしであった大東京で、さびれるばかりの東側に少しでも人が関心を寄せてくれるのは、結構なことである。阿部寛サマサマである。
 ところでこの人には一昨年に『青い鳥』という教師役の出演作があって、これがなかなか真面目でいい作品だったのだが、荒廃した学級を舞台にしながら、この『青い鳥』と正反対の方向に向かう映画が、きょう公開初日を迎えた。

 つい先日に見たばかりのサマセット・モームの『2人の夫とわたしの事情』に引き続き、この『告白』で、またしても松たか子を見てしまった。『坂の上の雲』『ヴィヨンの妻』『SISTERS』『パイパー』『ジェーン・エア』などと、さまざまな場所でここ1~2年、やたらと松たか子を見る機会を得ている。ようするに私はひょっとすると、この人のファンなのであろうか。元来、さして好みではなかったはずであるが、今回の新作においても、かなり堪能してしまったことを白状しなければならない。
 それにしてもこの白状、ならぬ『告白』、いくつかの映画についての作者の記憶が、素直に表出した作品である。『バトル・ロワイヤル』と『親切なクムジャさん』の凄惨な物語が合体し、その上に岩井俊二、ガス・ヴァン・サントとおぼしきイメージがまぶされてゆく。これはどうなのだろう。そして、やたらと逆光を使った暗い画面、スーパースローを濫用したグラフィカルな実写、脱力系グランジっぽい音楽などは、さすがに使い古されてげっぷが出そうである。勘弁してほしい。
 とはいえ、子役も芸達者が揃い、いつもくどくて見ていられない中島哲也監督作の中では、もっとも悪くないレベルに達した作品であること、また、『重力ピエロ』『さまよう刃』と最近やたらと作られている〈復讐のための私刑なら、半分ほど是認してもよいと思わせる映画〉の系譜、これをなんと呼べばいいのかわからないが──まぁ単なる〈反動の映画〉とでも呼んでおけばよいのだろうが──そういう昨今の系譜の中では、もっとも演技が見られるレベルの作品であること、これはまちがいない。


TOHOシネマズ日劇ほか、全国で上映中
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5 コメント

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Unknown (無名)
2010-06-06 04:33:14
久しぶりに書かせていただきます。

松本白鴎の家系では、松たか子がいちばん白鴎に似ているような気がします。
『告白』の映画的記憶は同じように感じましたが、ちょっと『ロープ』や『完全犯罪クラブ』みたいだなあと言ったら褒めすぎ、というか的外れでしょうか。岩井俊二は同様に感じました。何か画面の上や左右がスカスカなのがやたら見にくくて気になったのですが、あれはカメラ(たぶんフィルムじゃなくてDV?)のせいなんでしょうか。
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松たか子 (中洲居士)
2010-06-06 21:47:06
無名さん、こんばんは。コメント、どうも有難うございます。

おっしゃる通りですね、松たか子は、松本白鴎の面影が下瞼から頬のあたりに濃厚に──ようするにムーミンのママみたいな──残っているとわたくしも思います。また彼女は、元・劇団朋友の長山藍子さんにも少し似ているような気もします。

画面の端のほうの、指摘しておられる「左右がスカスカな」見づらさについては、わたくしも映像業界を生業とする端くれではありますが、どうもメカには弱く、よくはお答えできませぬ。ただし、あの販促くさい、いわゆるCMの連中がよく言うところの「しずる感」、あれはやはりデジタル臭い。ああいう画面を劇場で眺めなければならないということに対して、わたくしなどは、すぐに侮辱されているような気がしてしまうのです。
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過剰と貧しさ (Tattaka)
2010-06-09 19:28:28
コメント失礼します。
画面のイメージから苦手意識が先行する監督ですが、毎回批評の対象になっていることから関心も高まってましたが、記事を読ませていただき、ますます気になっております。
CM出身、或いはテレビ的過剰とそれに由来する画面の貧しさはやはり苦手ですが、一方で無視できない歴史もあり、中島監督などはその今日的な表れなのかなと、記事から感じました。例えば大林宣彦監督にはそうした特徴がすべて異質な次元に至る不思議さがあり、必ずしも悪いことでもないかもしれないですね。
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過剰と貧しさについて (中洲居士)
2010-06-10 00:53:31
Tattakaさん、こんばんは。

どうもわたくしは、CMという販促分野に対して、偏見みたいなものがあるのだと思います。むしろ、その偏見をいやらしく楽しんでいるというか。大林宣彦をはじめとして、CMディレクターというのはたいがい、高校や大学では自主映画をやっていたわけですよね。

うまくは言えませんが、CM出身の人の根っこの部分の映画青年ぶりが、へんてこな形でプロフェッショナル化していくケースが多い気がしてしまうんです。
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補足 (Tattaka)
2010-06-11 13:27:30
お返事ありがとうございます。
この項で、脳裏に浮かんだのは以前、青山監督が「はるか、ノスタルジー」について書かれていた「映画が好きな芸術家」(正しくないかもしれません)という言葉です。
そこから寺山修司さんや市川昆さんもイメージされますが、個人的に今の邦画とどう自分が対峙するか、答えが見つからないなりに、和解したいのかもしれません。
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