荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『無言日記2014』『無言日記2015』 三宅唱

2016-03-23 23:52:19 | 映画
 週刊で電子販売されるウェブメディア「boidマガジン」で随時アップされてきた三宅唱『無言日記』が合冊され、このたび『無言日記2014』『無言日記20115』という2本の「長編」として、東京・渋谷円山町のユーロライブ(旧オーディトリウム渋谷)で上映会が催された。上映後には三宅唱監督×松井宏(映画批評・翻訳家 『playback』プロデューサー)×五所純子(文筆家)の鼎談イベントもあったが、あいにくそちらは見ることができなかった。こちらも缶詰になっているスタジオからいったん抜け出して、ユーロライブにずらかっているだけだったからだ。
 上映されたプリント(?)は、「boidマガジン」でアップされてきた『無言日記』を単純に棒つなぎしたものであり、カットの入れ替えや時系列の変更はしていないそうである。今回あらたに披露された『2015』は、棒つなぎしたのち、少々の尺調整をしていたら『2014』と同尺の66分にたまたまなったため、そのままそれを完成版としたとのことだ。観客とすれば、このどんぶり勘定を堪能するということになる。
 ただ、「boidマガジン」でアップされた際に見るのと大きな違いは、作者によるエッセー、というかキャプション解説を読みながら画面を見るのではなく、テキストによる手助けなしに、映画館でうやうやしく2本立ての映画として鑑賞されるという点だ。画面内に写る登場人物たちはこれといって意味のあるセリフを述べないし、作者によるナレーションもない。iPhoneで日々撮影された断片がぶっきらぼうに流れ続けるのみであり、同時に拾われたノイズだけがこの「作品」のサウンドトラックである。多少のレベル調整はされていても、マルチトラックのダビングも音楽づけもない。作者によるキャプションの文章さえ剥奪された画面は、より抽象度を増して観客の前に投げ出されることだろう。
 意味が剥奪され、類推によって多少のコンテクストを拾い読む形となった観客は、地図をどこかに忘れた外国人旅行者のように、「作品」の細部のなかをあてどなくさまよいだすだろう。「ああ、そうか、あれが樋口泰人らと共に訪れたモンテ・ヘルマンのロッジだったわけだな」などと呟きながら、観客は、半分だけ迷子になりながら66分間の彷徨を体験する。
 物語として回収される一歩手前で逃げ切りながら、短いカットが積み重ねられていく。これ以上見せると、意味という病にかかるというところを巧みに回避していく。しかし、それにしてもそれを棒つなぎしただけなのに、「作品」は「映画」になってしまう。物語として回収されることを拒絶し、細かく断片化してもなお、映画はみずからを「映画」として整形する。タフな「映画」の神のこの現前ぶりに、作者も観客も恐れおののくしかない。そしてこの残酷を、この「映画」は身をもって体現せざるを得ない。今回の上映会は、映画の黒魔術祈祷会であった。ただし、作者は錬金術のレシピを忘れてきたとうそぶいて、あくまでシラを切っている。
 これを言っても、作者は怒るまいから言おう。今回上映に立ち会った観客は、作者の死の瞬間に作者自身の瞼の裏皮をスクリーンにして上映されるであろう、いわゆる「走馬灯」なるものを、あらかじめ試写チェックしたのである。死の手前の一瞬は、一生の長さに伸縮しつつ、ソニマージュ(映像=音)が起ち上がる。作者の死に際し再生されるはずのものが、ここであまりにも早期に、試写会が執りおこなわれたのである。


三宅唱『無言日記』は「boidマガジン」にて連載中
http://boid-mag.publishers.fm/


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2 コメント

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日記映画 (PineWood)
2016-04-14 10:21:24
恵比寿映像祭りで一部を観た事がありましたが、何処かメカスの日記映画みたいだった気がした。列車のシーンが佳かった…。マイブリッジの馬や人体の運動する映画の起源みたく連続して行く。日毎の切れ切れの断章はシュールな自動筆記のような極私的なメモでありエッセーで、謎めいた魔術的なアブストラクト♪
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PineWood様 (中洲居士)
2016-04-15 05:34:09
PineWood様

拙ブログの複数記事に目を通していただき、ありがとうございます。ハンドルネームからイギリス映画のファンでらっしゃるのでしょうか。それはあまり関係ないですかね。

至らぬなりに、精進(消尽?)して参りますので、よろしくお願い致します。
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