Photo by Ume氏(再録)
外はいい天気だ。西の山も東の山も昨日あたり大分雪が降ったようで、輝いて見える。
昨日の毎日新聞は「環境省などの報告」を取り上げ、桜の開花は10年に1日の割合で早くなっていると報じていた。しかし、そのことを単純に喜んでもいられない。さらに温暖化が進めば、その花も見られなくなるという。花芽の眠りを覚まさせるには、ある程度の低温の日が続かないと駄目で、そのある程度とは「1日の平均気温が5度前後」が目安だと。温暖化の影響を考えれば、確かに都会では花見などできなくなるかも知れない。小学校の入学式、笑顔を浮かべた親子の姿と満開の桜はよく似合ったが、あんな光景も都会からは消えてしまうということか。
まだこの辺りでは梅の花も咲き揃わないのに、なぜこれほどまでに人は「花」に拘り、語るのだろう。その花も今では、大方はオオシマザクラとエドコヒガンの雑種、ソメイヨシノという新種である。春、花の下で死のうと詠い、その思いを遂げた幸福な歌人の愛した「花」とは、だから同じではない。あの時代に詠まれた花とは山桜のことだったはずで、当時の人が今の周囲を蔽いつくさんばかりに咲き誇る万朶のソメイヨシノを前にして、果たしてあんな繊細な歌を作ることができただろうか。
いや待て、吉野へ行ったことはあるが、実際に桜の花の咲いているさまを見たことはない。しかし、当時も今と負けないほどの桜の木が植わっていたとしたなら、いくら山桜でも絢爛に恥じない豪華さを見せてくれただろうとは想像できる。ということは、山桜と言えばつい、入笠の牧場に咲く清楚な花ばかりを思い浮かべていたが、古(いにしえ)の人々が遠路を吉野山へと桜狩に行こうとしたのも、つまりは桜の花の華やかさや、艶やかさに惹かれたからだったのだろうか、かも知れない。
吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたずねむ ― 西行 ―
限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春のやまかぜ ― 氏郷 -