入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’21年「冬」(39)

2021年12月20日 | 入笠にまつわる歴史


 まずまずの天気、冷たそうな青空が拡がりきょうも気温は低い。11時から始まる農協の会議に参加するため、これから本所へ出向くことに。牧場のことが話題に出ると思うが、さて。

 結局、一方的にあれこれ話して帰って来た。要は入笠の美しい自然を守りたいこと、そのためには牧場の存続が必要で、当然ながらその存続のためには牛が必要だという、考え方としては敢えて逆の方向から話した。だからキャンプ、山小屋、撮影などの仕事は、あくまでも牧場を維持するための手段に過ぎず、牧場は安易、安直な観光政策など拒否して自然を守り、自然と一体化しつつある第2の自然だと言ってきた。
 同意もされなければ、反論もされず(クク)、あれは聞き置くということだろうが、それでも営農担当常務、営農部長、畜産課長、同係長の参加があった。

 第1牧区の一部を含む「御所平」は、後醍醐天皇の皇子、宗良親王が潜伏した地と伝えられているが、疑わしいと以前に呟いたことがある。それよりか、鎌倉幕府滅亡後に、前執権の北条高時の遺児亀寿丸(後の時行)が諏訪氏の支援でそこに連れてこられ、1335年の鎌倉奪還を企てた中先代の乱を起こすまで潜んでいた場所ではないか、と控え目に囁いた。
 宗良親王には南信濃の大鹿村に長年(通算では30年を超えると言われる)過ごした拠点があったからだ。それに、この時点では南朝は北条氏一門にとっては敵方であって、行動を共にするはずがない。しかし、とにかくかなりの軍勢がいたと思しき跡はある。であれば、親王よりか幼少の時行を担いだ鎌倉の残党ではないかと考えたのだ。
 ところが昨日、発売されたばかりの「中先代の乱」(鈴木由美著、中公新書)を読んでいたら、あながち口碑を否定できないことが分かった。大事なことを知らずにいたが、時行は3回も鎌倉の奪還に挑んでいたのだ。
 先の本によれば、1340年「大徳王時城」の戦いではかつての敵方であった南朝の宗良親王に味方し、共に信濃守護小笠原氏と戦っている。諏訪上社の神長官守屋氏が、40年後に書いた守屋文書によれば、この戦いに敗れたとあるようだ。戦いの場所については、伊那市長谷説を疑う人もいる。
 ともかく、何らかの事情で親王が大鹿に帰らず、時行としばらく行動を共にしていた可能性がないとは言えない。その場所がもしも入笠の「御所平」であったとすれば、いまだに残るこの地名は口碑と一致する。
 その後時行の消息は、12年後の1352年、3回目にして最後の鎌倉奪還を試みたことで分かる。そして、ついには囚われの身となり、20数年の短い生涯を終えたという。ただ、これにも逃げたという説がある。
 北条時行、物心ついた時から戦いの渦に飲まれながら生き、やがて歴史から消えた。しかし下って、幕末から明治にかけての偉人、横井小楠は時行の末裔だと、本人は信じていたようだ。
 本日はこの辺で。
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