入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’20年「冬」(73)

2021年02月01日 | 入笠にまつわる歴史


 大河ドラマ「麒麟が来る」もいよいよ来週の放映が最終回となる。この番組制作では、入笠牧場も多少の縁があり、そのためばかりではないがほぼ毎回見た。主君織田信長を裏切った三日天下の明智光秀という、これまで多くの人が抱いていた人物像もこの番組で大分変ったのではないかと思う。
 
 伊那谷にも高遠城ばかりか、入笠や芝平の谷にも、そんな戦国の世の歴史の踏み跡が残っている。中でも確かに高遠城の戦いは特によく知られ、攻める織田、徳川勢に対し守る武田方の勇猛な戦いと壮烈な最期は、ここで呟くまでもない。しかし、かつて戦国の覇者と目された武田も、高遠城を失った後はまともな戦いもかなわぬまま、数々の悲劇を残し滅び去っていった。
 荊口には「気の寺」として知られる「巧妙寺(ぐみょうじ)」という古刹がある。1444年に、日学上人によって真言系の寺から日蓮宗に改宗されたと同寺の沿革にある。何でも、織田の軍勢が高遠城を攻めた際に、炊き出しを求められ、それに対し住職が拒否し寺は焼かれたという。このことはすでに一度呟いた。この時、寺の中の本尊や仏具は焼かれる前に持ち出されて無事だったこと、それを命じたのが信長の寵臣、森蘭丸の兄である森長可(ながよし)であるとまで語った、かどうか。
 最近知ったことだが、長可この時まだ二十歳を過ぎて間もないころのこと。その若さで規模までは分からないが一軍を束ねて、しかも寺宝は守るという判断ができたことに驚かざるをえない。なお、地元の口碑では高遠城を陥す前のこととされているが、その後のことではないかという気がする。そうでないなら、この軍勢は一体、どこから来たというのか。背後は山で、その向こうはその後に攻略しなければならない武田方の諏訪の地である。法華道にも「万灯」とか「厩の平」という、この戦いにちなむ名前が残っているが、ここも下ってきたことになっている。しかし、逆に登っていったのではないかと思う。
 入笠湿原の北方、早稲田中学・高校の寮の傍に「鐘打平」と呼ばれる平地がある。そこの案内板には、織田と徳川軍が諏訪を攻める前夜、ここで武田勢を威嚇するため鐘を打ち鳴らし、それが地名の起こりだと記されている。この兵らが長可勢であるかどうかはさておき、弘妙寺焼き討ちが高遠城攻撃の前か後かの疑問と、芝平を通過していった軍勢の諏訪から甲斐攻略の経路とが、これで繋がってくるような気がする。

 兄長可がその若さだとすると、森蘭丸は二十歳にもならぬ身で終わった一生ということになる。この森兄弟の縁の地が光秀の領地坂本であり、この地が召し上げられてこの兄弟のものになるかも知れないという懸念が、光秀をして謀反に走らせた原因の大きな理由と、「細川ガラシャ婦人」の作者三浦綾子は書く。
 本日は風が強い、この辺で。

 

 
 

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