入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’18年「冬」 (32)

2018年12月12日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 F氏から届けられた写真集「源流の記録」についてもう少し呟いてみたい。撮影者の伊藤正一氏は山岳雑誌の座談会で、自身が中心になって切り開いた伊藤新道に関して、費やした費用や、労力が大変だったことを語っていた記憶がある。このころには三俣小屋(山荘)の伊藤正一氏といえば山岳の世界ではかなり知られた山小屋経営者だったと思う。
 詳しいことはもう覚えていないが、その前だったか後だったか、湯俣からこの新道を登ったことがある。写真集にあるような湯俣渓谷の岩壁を横切って進んだ記憶はないが、幾つかの不安定な吊り橋を渡ったこと、崩落個所が多くその度に高巻きしなければならなかったこと、ついには億劫になって川の中を歩いたことなどは覚えている。なぜ10時間以上もかかるあんな登山道を通り、どこへ行くつもりだったのか、今となっては思い出せない。単独だった。その時登った鷲羽岳は、100名山の中でも行程の長い、深い山だと後に知ったが、行く前から計画していた山ではなかったはずだ。その山の存在すらも頭にはなかったくらい、ここらの山のことには他の山域に比べまだ疎かった。
 伊藤正一氏の三俣山荘には泊まらず、そこで生ビールを飲み「ステーキ」を食べたことはよく覚えている。ビールは生暖かくて「馬の小便だ」と文句を言ったが、ステーキとやらは何の肉だったか、期待してなかっただけに意外と美味かった。翌日雲ノ平へ登るのが面倒になり、まだ渓谷というよりか川のような黒部川の上流へ入渓した。全くの思い付きで、それから赤木沢の出会いや、薬師沢小屋のことは薄ぼんやりと記憶にあっても、後のことは幾つもの記憶がこんがらかってしまって判然としない。ともかくその後、上下の廊下を含めて何度も黒部方面に足を運ぶようになり、黒部谷は魅力のある山域となった。
 この写真集によって、伊藤正一氏が勤労者山岳会(現在の「日本勤労者山岳連盟」)の設立にも関わっていたことを初めて知った。労山(同連盟の略称)とくれば、話はそれるが、吉尾弘の名がすぐに浮かんでくる。62歳という年齢で谷川岳の一ノ倉尾根にその生涯を閉じた人だ。彼の著書「垂直に挑む」(中央公論社)は読んでいたから、先鋭を貫いた登山家の宿命のようにその人の死を聞いた。多くの登山家の生命を奪った岩壁登攀の変種は「フリークライミング」の名で、今やオリンピックの競技にまでなった。氏ならそのことをどう評価しただろうかと、ふと思う。

 そういうわけで「冬の営業案内」をご覧ください(下線部を左クリックしてください)。予約は早めに頂ければさいわいです。













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