「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

東近江・布引丘陵散歩「陸軍八日市飛行場掩体壕」(1/13)

2018年01月14日 05時00分00秒 | 東近江ローカル散歩

↑陸軍八日市飛行場掩体壕

1月13日(土)、東近江市の布引丘陵を散歩した。
運動公園は布引丘陵にある。丘陵の北側に陸軍八日市飛行場の掩体壕が今も2つ残っている。
掩体壕は過去、2016年4月28日と8月19日のこのブログで紹介している。








↑今日も見える湖北の伊吹山

↑湖西の比良山系もよく見える

リハビリ散歩ー今年初の布引運動公園コース (1/12)

2018年01月13日 05時00分00秒 | 東近江ローカル散歩

↑北東に見えた遠くの伊吹山

2018年元旦に、「東近江元旦健康マラソン」の応援を兼ねて行ったが規制があり近づけなかった。
1月12日(金)午後、今年初めての布引運動公園の散歩となった。
東近江市も新年早々に少し雪が降ったが、その後は毎日寒いが雪は降っていない。しかし、遠くに見える湖北の伊吹山や鈴鹿山系には冠雪が見える。
このところの寒さは平年より寒いのか分からないが故郷外での暮らしが40年以上だっただけに歳のせいか近江の冬の寒さが堪える。


↑練習中の滋賀学園の選手

↑周回コースを車いすでトレーニング

↑いつもの太郎坊

↑遠く西側に見える比良山系

2018年千葉県ウォーキング協会及び加盟6団体のウォーキング行事表

2018年01月12日 05時00分00秒 | ウオーキング
CWA千葉県ウォーキング協会はHPで2018年CWAと6つの加盟団体(ちば歩こう会、船橋歩こう会、北総歩こう会、いちかわ歩こう会、東総歩こう会、東葛ウォーキングクラブ)の年間ウォーキング大会・例会の予定表を公開しているのでこのブログでも紹介する。

昨年8月船橋市から東近江市にUターンして早や半年になるが千葉県ウォーキング例会行事をみると懐かしさを感じる。歩友は今年も元気で歩いているだろう。

  
↑クリックすれば大きくなる

1/16 SWA大津なぎさウォーク12km【イベント紹介】

2018年01月10日 05時00分00秒 | ウオーキング
SWA滋賀県ウォーキング協会主催の平日ファミリー「大津なぎさウォーク」12kmを紹介する。

開催日: 1月16日(火)
集合: JR大津駅 09:30
解散: JR石山駅
コース: (初詣ウオーク)大津駅~県庁前~(東海道)~膳所神社~膳所城址公園~近江大橋~建部大社~石山駅 12km

東近江市新成人「20畳敷東近江大凧」揚げ (1/7)

2018年01月08日 05時00分00秒 | 東近江ライフ

↑東近江市新成人「20畳敷東近江大凧」

1月7日(日)午後、成人を祝して東近江市の「20畳敷東近江大凧」揚げが聖徳中グラウンドにて行われた。
昔から東近江市(八日市)は100畳大の大凧で有名だが数年前、大凧揚げ時に事故があったらしく、それ以来暫く大凧揚げは自粛されているらしい。従って今回は20畳の小型サイズである。
それでも好天に恵まれ大凧保存会、新成人らが大空に大凧を揚げた。










近江(滋賀)探訪 近江・肥田城(彦根市)

2018年01月07日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑近江・肥田城趾

12月24日(日)、「近江・肥田城」(彦根市)を訪れた。
肥田城跡の石碑は肥田公民館の100m北方の広場が整備され建てられている。この場所は元々城趾だったところだ。
公民館に隣接する崇徳寺は肥田城主の菩提寺でもあり、肥田城を築いた高野瀬氏累代の墓がある。崇徳寺の和尚様によると肥田城は現在は市街地や水田となって大半の遺構は残っていないが土塁と水路となった堀跡が東側と南側に残されており、かなり広範囲な城域だったようだ。








↑城域内にある肥田城主の菩提寺「崇徳寺」



近江(滋賀)探訪 近江・目加田城(滋賀県愛荘町)

2018年01月05日 05時00分00秒 | 近江の城郭

↑近江・目加田城石碑

12月24日(日)、「近江・目加田城」(滋賀県愛荘町)を訪れた。
目加田城は愛荘町目加田集落のほぼ中央にある目加田公民館南側にあり、公民館駐車場の片隅に石碑と案内板がある。
城跡は広場になっているが大きな2つの本丸土塁の姿が目を引く。まるで古墳みたいな大きさだ。
城主の目加田氏は近江守護佐々木氏に仕えた。

戦国時代、佐々木六角氏の観音寺城の支尾根の一つに支城目加田城を築いて居城していた。この目加田城があった支尾根が安土山である。目加田貞政は、天正4年に織田信長が安土築城の際、目加田氏本来の地、目加田に戻り館を整備したのが目加田城である。
貞政の子堅政は織田信長に従い、天正10年の本能寺の変後は明智光秀に従った。山崎の合戦で光秀が敗死すると堅政は浪人となり目加田氏は滅亡したと言われる。