3.アドルノの問いとドストエフスキー
『西欧の没落』は近代ヨーロッパ文明の終焉を予告したドイツの哲学者シュペングラー(1880-1936年)の書として有名ですが、実はそれに遡る半世紀ほど前、ロシアの作家°ドストエフスキー(1821-1888年)が『カラマーゾフの兄弟』で暗示していたのです。ヘルマン・ヘッセは『カラマーゾフ兄弟、ヨーロッパの没落―ドストエフスキーを読んでの着想』(1919年)の冒頭で述べている「「カラマーゾフ」において、私には私が自分の用語で「ヨーロッパの没落」と呼んでいる事柄が、おどろくほどの明瞭さをもって、表現され予言されていると思われるのである。ヨーロッパの青年、とくにドイツの青年が、自分たちの偉大な作家と感じているものが、ゲーテでなくまたニーチェでもなく、実にドストエフスキーであるということは、私たちヨーロッパ人の運命にたいして決定的な意味をもつことであると思われるのである。」(手塚富雄訳)からも明らかです。そのドイツの青年たちの一人がこの作品の影響を受けて著したと思われる『ヨゼフとその兄弟』の作者トーマス・マン(1875-1955年)であり、筆者が取り上げているアドルノ(1903-1969年)は彼の友人でもありました。
筆者は、理性による合理主義の近代社会に移行したにもかかわらず、「人類は何故に真に人間的な状態に達する代わりに、新しい種類の野蛮に陥って行くのか」というアドルノの問いを、「はじめに 核時代に対応する社会諸科学の不在」で取り上げていますが、私は正にドストエフスキーは、理性による合理主義の近代社会の危険性(ヒットラーが選挙で選ばれナチの台頭を許しアウシュビッツに繋がり、第二次大戦が勃発した)を予知していたがゆえに、二二が四を玉条とする理性の哲学に抗議する情念の哲学を対置し、サルトルの言葉を借りれば「表面的な事実の理性」よりも「人間の深い現実」捉え、「西欧の没落」が避けられないことを、予言したように思えるのです。
『カラマーゾフの兄弟』の要で、主人公アリョーシャの師となるゾシマ長老は死別に際し、科学と自由について次のような言葉を残しています。「彼らには科学はあるが、科学の中にあるのは人間の五感に隷属するものだけなのだ。(略) 世界は自由を宣言し、最近は特にそれがいちじるしいが、彼らのその自由とやらの内にわれわれが見いだすものは何か。(略)彼らは自由を、欲求の増大や急速な充足と解することにより、自己の本姓をゆがめている。なぜなら、彼らは自己の内に、数多くの無意味で愚劣な欲望や習慣や、愚にもつかぬ思いつきを生み出しているからである。(略)だが、ほどなく、酒の代わりに血に酔いしれることだろう。彼らの導かれて行く先はそこなのだ。わたしはみなさんにうかがいたい――こんな人間が果たして自由なのだろうか?」(原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』新潮文庫版)。さらに自由の問題については、西欧の啓蒙思想の影響を受けながら苦悶するカラマーゾフ家の二男イワンを通じて「大審問官」のところで語らせているとおりです。
『西欧の没落』は近代ヨーロッパ文明の終焉を予告したドイツの哲学者シュペングラー(1880-1936年)の書として有名ですが、実はそれに遡る半世紀ほど前、ロシアの作家°ドストエフスキー(1821-1888年)が『カラマーゾフの兄弟』で暗示していたのです。ヘルマン・ヘッセは『カラマーゾフ兄弟、ヨーロッパの没落―ドストエフスキーを読んでの着想』(1919年)の冒頭で述べている「「カラマーゾフ」において、私には私が自分の用語で「ヨーロッパの没落」と呼んでいる事柄が、おどろくほどの明瞭さをもって、表現され予言されていると思われるのである。ヨーロッパの青年、とくにドイツの青年が、自分たちの偉大な作家と感じているものが、ゲーテでなくまたニーチェでもなく、実にドストエフスキーであるということは、私たちヨーロッパ人の運命にたいして決定的な意味をもつことであると思われるのである。」(手塚富雄訳)からも明らかです。そのドイツの青年たちの一人がこの作品の影響を受けて著したと思われる『ヨゼフとその兄弟』の作者トーマス・マン(1875-1955年)であり、筆者が取り上げているアドルノ(1903-1969年)は彼の友人でもありました。
筆者は、理性による合理主義の近代社会に移行したにもかかわらず、「人類は何故に真に人間的な状態に達する代わりに、新しい種類の野蛮に陥って行くのか」というアドルノの問いを、「はじめに 核時代に対応する社会諸科学の不在」で取り上げていますが、私は正にドストエフスキーは、理性による合理主義の近代社会の危険性(ヒットラーが選挙で選ばれナチの台頭を許しアウシュビッツに繋がり、第二次大戦が勃発した)を予知していたがゆえに、二二が四を玉条とする理性の哲学に抗議する情念の哲学を対置し、サルトルの言葉を借りれば「表面的な事実の理性」よりも「人間の深い現実」捉え、「西欧の没落」が避けられないことを、予言したように思えるのです。
『カラマーゾフの兄弟』の要で、主人公アリョーシャの師となるゾシマ長老は死別に際し、科学と自由について次のような言葉を残しています。「彼らには科学はあるが、科学の中にあるのは人間の五感に隷属するものだけなのだ。(略) 世界は自由を宣言し、最近は特にそれがいちじるしいが、彼らのその自由とやらの内にわれわれが見いだすものは何か。(略)彼らは自由を、欲求の増大や急速な充足と解することにより、自己の本姓をゆがめている。なぜなら、彼らは自己の内に、数多くの無意味で愚劣な欲望や習慣や、愚にもつかぬ思いつきを生み出しているからである。(略)だが、ほどなく、酒の代わりに血に酔いしれることだろう。彼らの導かれて行く先はそこなのだ。わたしはみなさんにうかがいたい――こんな人間が果たして自由なのだろうか?」(原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』新潮文庫版)。さらに自由の問題については、西欧の啓蒙思想の影響を受けながら苦悶するカラマーゾフ家の二男イワンを通じて「大審問官」のところで語らせているとおりです。