8月23日の『新日本風土記』は、≪花火≫を特集していた。
番組では、いろんな花火の映像が紹介された。
そのなかの、幾つか。
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その中で、私の心を特に捉えた花火と、それを作った花火師について、書いておきたいと思う。
それは、新潟県長岡の花火師・嘉瀬誠次(かせ・せいじ)さんの花火‥『白菊』
嘉瀬さんは、日本三大花火の一つ・長岡の花火を支え続けてこられた花火師だ。
現在、91歳。
嘉瀬さんは、第二次世界大戦の折、20歳で出征、戦後シベリアに抑留された。
当時、シベリアに送られた日本人は、56万人。
そのうちの5万人が、食糧難と寒さ、過酷な労働によって、無惨な死を遂げた。
なんとか生き延びて長岡に帰り、花火師の仕事を継がれた嘉瀬さんには、ずっと心に秘めた想いがあった。
それは、極寒の地で無念の死を遂げた戦友に捧げる花火を、シベリアの空に上げることだった。
嘉瀬さんの強い気持ちで、その願いが、1990年にやっと実現する。
上は、その模様を伝える当時のテレビ番組のタイトル画面。 (でも私には、この番組の記憶がまったくない‥。)
当時の嘉瀬さんは、語られている。
「あの空に“白銀の花火”をいっぱいあげて、シベリアで亡くなった人の霊を少しでも慰めたい!」と。
当時打ち上げられた花火の映像が、わずかながら、今回の番組でも映されたが、残念ながら画像が古く鮮明ではなかった。
しかも、肝心の“白銀の花火”は、花火が開いた時の映像がなかった。
なので、不鮮明だし不十分だけれど、当時の映像から花火の写真を、2枚だけ載せておきます。
シベリアの空に咲いた“白銀の花火”は、その後『白菊』と名付けられ、長岡で花火大会が行われる度に、トリをとって打ち上げられた。
“長岡の花火”には、また別の逸話がある。
戦後、花火大会の準備に忙しくされている嘉瀬さんのところに、一人の男がふらりと現れた。
放浪の画家・山下清氏だ。
彼は長岡の花火大会をじっと眺めたあと、あの有名な『長岡の花火』の切り絵を創られた。
その切り絵は、今も加瀬さんの家に大事に残されている。
『長岡の花火』を描いたあと、山下清氏は、ボソッと次のようにつぶやかれたという。
“みんなが爆弾なんか作らないで
きれいな花火ばかり作っていたら
きっと、戦争なんか起きなかったんだな‥。”
新潟県・長岡市は、昭和20年8月1日、100分にわたる大空襲を受けた。
街は火の海となり、死者は1484人に及んだという。
今でも8月1日には、死者を悼む灯篭が川に流され、花火が打ち上げられる。
そして、空襲が始まった夜10時30分には、あの嘉瀬さんの『白菊』が、死者の冥福を祈って、長岡の夜空に打ち上げられるのだそうだ。
次は、9月1日に放映された『こころフォト・スペシャル』から。
「こころフォト~忘れない~」は、東日本大震災で亡くなった人たちが確かに生きた証しを残すために、NHKが今年1月からネット上で始めたプロジ
ェクトだ。
亡くなった人の写真と、遺された家族の想いを綴った文章が、掲載されている。
今までに、100人を超える人たちからの投稿があったという。
『こころフォト・スペシャル』は、今までの投稿をまとめて作られた特集番組だった。
投稿者の一人、南相馬市・萱浜(かいはま)地区の上野敬幸さんは、8歳の永吏可(えりか)ちゃんと3歳の倖太郎くんを、津波で奪われた。
永吏可ちゃんの遺体は見つかったが、倖太郎くんはまだ見つかっていない。
上野さんは、「倖太郎が見つかったら、自分も子どもたちのところに行こうと思っていた。」と言われる。
「でも、今になっても倖太郎は見つからない。もしかしたら倖太郎は、わざと出て来ないのではないか‥。僕は倖太郎に、生かされている気もする」と。
少しずつ立ち直られた上野さんは、自分と同じように、大切な家族を津波で失った萱浜地区の人たちと心を繋ぎ、亡くなった人を悼むために、この夏
花火大会をすることを思い立たれる。 (津波で亡くなった萱浜地区の人は、全部で77人に及ぶそうだ。)
そうして、打ち上げられた花火‥。
2つの番組を見て、花火には、さまざまな人の想いや願い・祈りが託されていることを、私は改めて強く感じた。
(※本当はこのブログで、もっともっと沢山の人&花火を取り上げるつもりで写真も用意していたのですが、途中で疲れてしまい、初めの半分くら
いで終わってしまいました‥〈涙〉)