ァミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)
願いが叶うとき、まずは相矛盾するネガティビティーを自覚すること(“Discovering Your Hidden Agendas And Not Despairing “ By Y.Y. Jacobson を参考に):
先週の「アンビバレンスの旋律」が見られる四つの箇所の一つ、エリエゼル(Eliezer)がアブラハムに息子アイザックの配偶者を見つけるよう命ぜられる部分は、『トラ』の中で最も長い章とされる。67の節(verse)が冗長に物語を繰り返す。
エリエゼルの「アンビバレンスの旋律」とは、配偶者探しの使命を成し遂げたいという望みと、アイザックに自分の娘と結婚して欲しいという望みを行き来する揺れ。配偶者が見つからないまま40になったアイザック、エリエゼルは、アブラハムが最後には妥協し、ふさわしくないとされた自分の娘との結婚を許してくれるのではないかと望んでいる。
「冗長な繰り返し」は、アンビバレンスに揺れるエリエゼルの心理的な変化を表しているとされる。
初めの部分でエリエゼルは言う、「『もしかすると』その女性はついてこないかもしれません。」アブラハムは「もしその女性がここへ来たくないというのならば、お前の使命はもう満たされた」と伝える。その後エリエゼルが使命を果たそうと祈る場面で「アンビバレンスの旋律」が表れる。
そして目当ての女性が見つかり、その家族にエリエゼルはアブラハムとの会話を再現する。「私は『もしかすると』その女性はついてこないかもしれないと、私の主人に伝えたのです」
この二回目の「もしかすると」は初めの「もしかすると」と表記が異なり、「私のために」といった意味にも取れる単語が用いられている。
そして結局その女性はエリエゼルとともにアブラハムのもとへ来、アイザックと結婚する。
何が起こったのか? この二回目の「もしかすると」を口にした時、エリエゼルははっきりと自分の内にあるもう一つの望み(アイザックに自分の娘と結婚して欲しい)を自覚したとされる。
相矛盾する望みは、時に片方が片方を隠し、無意識の領域に抑え込む。潜在意識に潜り込んだ「望み」は、見えないところで肥大化し、その者の根底を揺るがし始めることがある。闇の中で怪物が力を持ち、闇の中で悪が蔓延るように。
自らが矛盾した望みを持っていると自覚すること、無意識から意識にあげること。いかに邪悪な望みであろうとも、まずは正直に向き合う。すると、邪悪さは力を弱める、まぶしい光の中では闇の怪物が生きていけないように。
そして、エリエゼルがアイザックの配偶者を連れ帰ったように、望みは、現実となる(物質化materializeする)と。
ユダヤには「思いは両手で押す必要がある」という言葉があるという。多くの場合、人は、片方の手で思いを押し、もう片方の手で相矛盾する思いを抱き寄せようとしている。
人は何層もの複雑な意識を持っているもの。
大切なのは、いい人正しい人であろうと自らのネガティビティーに蓋をし続けるのではなく、自らに渦巻く邪悪さ・ネガティビティーを正直に自覚し続けること。
そうして初めて、光の力に頼ることができる。
大切なのは、いい人正しい人であろうと自らのネガティビティーに蓋をし続けるのではなく、自らに渦巻く邪悪さ・ネガティビティーを正直に自覚し続けること。~おっしゃる通りだと思います!
邪悪さ、ネガティビティーに沈むすさまじいエネルギーを、前へ進む力へと生かしていけたら、そう思います。ありがとうございます!