「『幸せである』ことは権利ではなく義務(obligation)である」という言葉を聞いたことがある。ユダヤの教えだったと思う。
私には幸せになる権利がある、ではなく、私には幸せになる責任がある。
これは子どもに教えていきたいメッセージの一つだと思っている。幸せであることの責任は他者や周りにあるのではなく、自分自身にある。自分で自分自身を幸せにする。親は子どもを幸せにするためにいるのではなく、子どもが自身で自身を幸せにできるよう、支え教えていくためにいる。
「たいくつ~」「何でこんなにつまんないの~」「全然楽しくな~い」、そんな言葉、聞くことがある。「じゃあどうしたらいいと思う?」と尋ねてみる。そうであることの責任は周りにはない、自分で考え動いていくしかないんだよ、と。子ども自身がアイデアを出し工夫して動いていく過程をサポートしていく。
物を手に入れ物に溢れる喜びよりも、また違った喜びをたくさん体験させることも大切なのだろう。物を追い続け手に入れることは一時の喜びではあるけれど幸せとはまた別のもの、そう感じていけるように。
物に溢れる喜びとはまた違った喜び、例えば:
・あげる喜び
もらうだけでなく、与えることの喜びを体験させる。まだ使えるけれど使わなくなったものを寄付する。親戚や友人などの誕生日にカードを作ったりプレゼントを選んだりしてあげる。困っている人を助けてあげる喜び。病気の人を訪ねたり、老人ホームを訪ねたり、ホームレス支援センターを手伝いに行ったり、ごみ拾いや掃除のボランティアに参加したり。電車やバスで席をゆずってあげたり、重そうに荷物を持っている人を手伝ってあげたり。子どもは実は「あげる」のが大好き、目がきらきらと輝いていく。
・日常の喜び
大きな出来事だけでなく、普段当たり前に通り過ぎてしまうようなことに喜びをたくさん見つける。赤紫色の朝焼け、雪雲の銀色、虹、真っ青な空、サラサラの新雪、氷の結晶になぞられた枝、真っ青な空、夕焼けのグラディエーション、まん丸な月、ジューシーなフルーツ、新鮮な野菜の甘さ。「うわ~きれいだねえ、うわ~美味しいねえ」などと隣で感動してみたり。
・感謝の喜び
朝目が覚めて息をしていることに、寝る前その日あったことを思い出しながら、感謝する。食べる前にも食べ物が食卓に上るまでの過程を想像して感謝。何かいただいたらサンキューカードを書いて、上の日常の喜びにも一つ一つ感謝。感謝することで喜びを感じそしてまたその喜びに感謝し。
・目的があることの喜び
目の前の「やるべきこと」も必ず何らかのより大きく広く高い目的に繋がっている。目的を見出しその目的に向う喜び。今従事していることに目的を見出すことで生き生きと取り組める。目の前の勉強も脳を鍛えてもっと勉強が楽しくなるため、部屋をきれいにするのも来客に気持ちよく過ごしてもらうため。周りの大人も、目の前の山積みの仕事もよりよい品・サービスを世の中にプロデュースするため、山積み家事繰り返し送り迎えも子どもたちが創る未来の世界のため、などなど。
・皆で笑う喜び
ユーモア、笑いをあちらこちらに。クスクスから涙を流してゲラゲラまで、皆で腹を抱えて笑う喜び、日常生活に散りばめて。
日常の当たり前にしているようなことにもたくさんの喜びを見つけられ、感謝でき、目的を持ち、ユーモアに溢れ、人からしてもらうだけでなくしてあげることに喜びを感じられるのなら、その子はいつだってどんな状況であろうと幸せであれるだろう。体現が一番の教授法、周りの大人がまずは体現してみる。
朝息をし生きていることに喜びを感じる人もいれば、周りがうらやむような生活をしながら喜びを感じない人もいる。あれさえあればこれさえあればと外に追い求め続けるよりも、喜びはもう既に目の前に溢れているはず。
今日も子ども達と共にたくさん感動していけたら。
こうして今日も息をし書くことができ読んでくださる方がいることに感謝を込めて。
私には幸せになる権利がある、ではなく、私には幸せになる責任がある。
これは子どもに教えていきたいメッセージの一つだと思っている。幸せであることの責任は他者や周りにあるのではなく、自分自身にある。自分で自分自身を幸せにする。親は子どもを幸せにするためにいるのではなく、子どもが自身で自身を幸せにできるよう、支え教えていくためにいる。
「たいくつ~」「何でこんなにつまんないの~」「全然楽しくな~い」、そんな言葉、聞くことがある。「じゃあどうしたらいいと思う?」と尋ねてみる。そうであることの責任は周りにはない、自分で考え動いていくしかないんだよ、と。子ども自身がアイデアを出し工夫して動いていく過程をサポートしていく。
物を手に入れ物に溢れる喜びよりも、また違った喜びをたくさん体験させることも大切なのだろう。物を追い続け手に入れることは一時の喜びではあるけれど幸せとはまた別のもの、そう感じていけるように。
物に溢れる喜びとはまた違った喜び、例えば:
・あげる喜び
もらうだけでなく、与えることの喜びを体験させる。まだ使えるけれど使わなくなったものを寄付する。親戚や友人などの誕生日にカードを作ったりプレゼントを選んだりしてあげる。困っている人を助けてあげる喜び。病気の人を訪ねたり、老人ホームを訪ねたり、ホームレス支援センターを手伝いに行ったり、ごみ拾いや掃除のボランティアに参加したり。電車やバスで席をゆずってあげたり、重そうに荷物を持っている人を手伝ってあげたり。子どもは実は「あげる」のが大好き、目がきらきらと輝いていく。
・日常の喜び
大きな出来事だけでなく、普段当たり前に通り過ぎてしまうようなことに喜びをたくさん見つける。赤紫色の朝焼け、雪雲の銀色、虹、真っ青な空、サラサラの新雪、氷の結晶になぞられた枝、真っ青な空、夕焼けのグラディエーション、まん丸な月、ジューシーなフルーツ、新鮮な野菜の甘さ。「うわ~きれいだねえ、うわ~美味しいねえ」などと隣で感動してみたり。
・感謝の喜び
朝目が覚めて息をしていることに、寝る前その日あったことを思い出しながら、感謝する。食べる前にも食べ物が食卓に上るまでの過程を想像して感謝。何かいただいたらサンキューカードを書いて、上の日常の喜びにも一つ一つ感謝。感謝することで喜びを感じそしてまたその喜びに感謝し。
・目的があることの喜び
目の前の「やるべきこと」も必ず何らかのより大きく広く高い目的に繋がっている。目的を見出しその目的に向う喜び。今従事していることに目的を見出すことで生き生きと取り組める。目の前の勉強も脳を鍛えてもっと勉強が楽しくなるため、部屋をきれいにするのも来客に気持ちよく過ごしてもらうため。周りの大人も、目の前の山積みの仕事もよりよい品・サービスを世の中にプロデュースするため、山積み家事繰り返し送り迎えも子どもたちが創る未来の世界のため、などなど。
・皆で笑う喜び
ユーモア、笑いをあちらこちらに。クスクスから涙を流してゲラゲラまで、皆で腹を抱えて笑う喜び、日常生活に散りばめて。
日常の当たり前にしているようなことにもたくさんの喜びを見つけられ、感謝でき、目的を持ち、ユーモアに溢れ、人からしてもらうだけでなくしてあげることに喜びを感じられるのなら、その子はいつだってどんな状況であろうと幸せであれるだろう。体現が一番の教授法、周りの大人がまずは体現してみる。
朝息をし生きていることに喜びを感じる人もいれば、周りがうらやむような生活をしながら喜びを感じない人もいる。あれさえあればこれさえあればと外に追い求め続けるよりも、喜びはもう既に目の前に溢れているはず。
今日も子ども達と共にたくさん感動していけたら。
こうして今日も息をし書くことができ読んでくださる方がいることに感謝を込めて。
権利ではなく責任かぁ~
確かに権利だと他力本願な所があるかも(笑)
もう1つ付け加えさせて頂くなら、幸せとは愛する誰かの為に生きるという事かな。
人はやはり一人では生きられない、誰かの心の支えでありたいと同時に、支えてあげたいと思われる存在でもありたいなと。
まあマチカさんの言ってる事が実践できたらおのずと、人は集まって来るよね
マチカ家に沢山の人が集い笑顔が絶えないわけがわかる気がするよ♪
理想的なビジョンはこうなのだけれどね、日々色々なチャレンジのなかで実践していくのが難しい場面もあり。それでもこうやって基本的に戻る場所のようなものがあると迷いっぱなしにはならずにすみます。
「幸せであることは自身の責任」私もこの言葉にはハッとさせられました。自身を幸せにするのは自身でしかない、そう思います。そしてこうして生まれてき息をしている奇跡を思い出すだけでももう幸せでないわけがないとも。
ただこれは自身に向けてや、育てる視線としての言葉であって、他者に向ける場合は気をつける必要があるのだろうなと思ってます。
他者に対しては「あなたの責任」と突き放すことなく苦しみ痛みに寄り添い自分がしてあげられることをする、それだけなのかもしれません。
「幸せとは愛する誰かの為に生きるという事かな」、
うん、自分のためだけというのは行き詰まっていくと私自身の体験を通して思うよ。他のためという姿勢をもてるのならどんどん広がっていけるよね。「愛する誰かのために」、周りの愛する人への姿勢、そこに築かれたものはもうその二人を超えていくのかもしれない。
実践、かなりぶれることもあるけれど(笑)、一歩進んで二歩下がったとしても、諦めずに心に留め進んでいきたいよ。
本当、友人達にね、私の方が随分と助けられてます。頼もしい友人たちに囲まれていること、感謝してます。
よっちゃんもいつも温かいコメントありがと~!よっちゃんの気持ち考え知ることができて嬉しいです。今日もよい一日を!