いち、に、さん、いち、に、さん
ほらこっちは、
いち、に、さん、し、いち、に、さん、し
何で分かんないかなあ。三角と四角をイメージしてみて。(宙に腕をふりながら)いち、に、さんって三角のリズム、こっちは、いち、に、さん、しって四角のリズム。自分で三角と四角書いて言ってみて。(手を叩きながら)、「いち」に少し力を入れて、いち、に、さん、こっちは、いち、に、さん、し。ほら、声出しながら手叩いてみてよ。もっと大きな声で!
私がひいたリズムが、三拍子か四拍子かを当てる練習。六歳三女、どうしてもぴんとこない。次第にイライラしていく私。泣きべそ顔になり始めている三女。
こうなると、もう三女の中で「分かろう」という気持ちがシャットダウンしていくのが分かる。「できなくて悲しい」「ママが怒り始めて悲しい」そんな気持ちだけ大きくて。寝る前の時間、三女も随分と疲れている、私も一日走り回りへっとへと。
「じゃあ、明日もうちょっと練習してみようか。ピアノ頑張ってひけたね。先週はぜんぜん弾けなかった曲がすらすらできるようになって!」そう言うと、下を向いてこくんと頷き、涙を堪えた顔で二階に駆け上がっていく。
ピアノが楽しい様子で頑張っている三女。練習も自分から進んでし、練習の合間には自分で色々な音を組み合わせてうっとり聞き入っている。その日も、練習中一本の指をぎゅっと押さえているので、どうしたの?と聞いたら、「ちょっとひねって痛くしておくの、そうしたらね、一じゃなくて三のこの指でこの鍵盤を押すんだって覚えていられるのよ」と。「痛くしたら指が可愛そうよ」ちょっと驚いて言う私。「ふふふ、これくらい大丈夫」。
深呼吸。
すると、先日の三女と四歳次男の会話を思い出した。隣で聞いていて、つい笑ってしまったのだった。
どれだけの幅ジャンプできるかを競う二人。小さな幅から始めて、徐々に広い幅へ。
次男: う~ん、これよりおおきいのできな~い。でもね、もうすこししたらできるようになるんだよ。
三女: うん、もうすこししたらね。
次男: そうだよ、いっぱいれんしゅうしたらね、できるようになるの。
三女; ちがうよ。しばらくね、しないでおくと、できるようになるのよ。
次男: ちがうよ。なんかいもなんかいもしたらできるようになるんだよ~。
三女: そうじゃないよ。しばらくしないほうが、できるようになるんだってば。
子供は一日一日驚くスピードで成長している。心も身体も。
少し待ってみる、すると、コーディネーションや全体的なバランスなどが発達し、すっとできてしまうことがある。今これをしなさいと何度も何度も練習し、互いに何でできない!とイライラし、それでも、あの苦労は何だったんだろうと後で思うほど。
三拍子四拍子なんていうのも、ピアノを弾いている内に、耳も身体も発達し分かってくるもの。「分かる土台」ができてないのに、無理に押し込んでもしょうがない。
ついついこの日までに仕上げないと、といった期限があったりで、強く背中を押さざる得ないこともあるのだけれど、長い目で見ると、「練習を積み重ねて」と「その子自身のレディネスに達して自然に」と、「できるようになった」ということに何ら変わりがない。そして返って無理なくできる時を迎える方が、例え周りに比べ遅いとしても、その身に着けたものが「その子自身のもの」となるのかもしれない、最近上の子たちを見ていてもよく感じること。
確かに何事も練習を積み重ねてできるようになるというのは大切。練習を積み重ねたらできるようになる!といったマインドセットを教えていくことも。それでもその子の中にパッションがある場合はいいのだけれど、周りからの無理やりが続いて練習だけしているといったような場合は、結局それがどんなに高度な技術であろうとその身についたものは、「その子自身のもの」とはなりにくい。
その子自身のパッションを基にした練習を続けつつ、どうしてもできない場合は少し下がり、励ましながら待ってみる。できるできないより、その子自身の内面から湧き出る意欲、それこそを大切にしていきたい。
昨夜の反省を込めて。
ほらこっちは、
いち、に、さん、し、いち、に、さん、し
何で分かんないかなあ。三角と四角をイメージしてみて。(宙に腕をふりながら)いち、に、さんって三角のリズム、こっちは、いち、に、さん、しって四角のリズム。自分で三角と四角書いて言ってみて。(手を叩きながら)、「いち」に少し力を入れて、いち、に、さん、こっちは、いち、に、さん、し。ほら、声出しながら手叩いてみてよ。もっと大きな声で!
私がひいたリズムが、三拍子か四拍子かを当てる練習。六歳三女、どうしてもぴんとこない。次第にイライラしていく私。泣きべそ顔になり始めている三女。
こうなると、もう三女の中で「分かろう」という気持ちがシャットダウンしていくのが分かる。「できなくて悲しい」「ママが怒り始めて悲しい」そんな気持ちだけ大きくて。寝る前の時間、三女も随分と疲れている、私も一日走り回りへっとへと。
「じゃあ、明日もうちょっと練習してみようか。ピアノ頑張ってひけたね。先週はぜんぜん弾けなかった曲がすらすらできるようになって!」そう言うと、下を向いてこくんと頷き、涙を堪えた顔で二階に駆け上がっていく。
ピアノが楽しい様子で頑張っている三女。練習も自分から進んでし、練習の合間には自分で色々な音を組み合わせてうっとり聞き入っている。その日も、練習中一本の指をぎゅっと押さえているので、どうしたの?と聞いたら、「ちょっとひねって痛くしておくの、そうしたらね、一じゃなくて三のこの指でこの鍵盤を押すんだって覚えていられるのよ」と。「痛くしたら指が可愛そうよ」ちょっと驚いて言う私。「ふふふ、これくらい大丈夫」。
深呼吸。
すると、先日の三女と四歳次男の会話を思い出した。隣で聞いていて、つい笑ってしまったのだった。
どれだけの幅ジャンプできるかを競う二人。小さな幅から始めて、徐々に広い幅へ。
次男: う~ん、これよりおおきいのできな~い。でもね、もうすこししたらできるようになるんだよ。
三女: うん、もうすこししたらね。
次男: そうだよ、いっぱいれんしゅうしたらね、できるようになるの。
三女; ちがうよ。しばらくね、しないでおくと、できるようになるのよ。
次男: ちがうよ。なんかいもなんかいもしたらできるようになるんだよ~。
三女: そうじゃないよ。しばらくしないほうが、できるようになるんだってば。
子供は一日一日驚くスピードで成長している。心も身体も。
少し待ってみる、すると、コーディネーションや全体的なバランスなどが発達し、すっとできてしまうことがある。今これをしなさいと何度も何度も練習し、互いに何でできない!とイライラし、それでも、あの苦労は何だったんだろうと後で思うほど。
三拍子四拍子なんていうのも、ピアノを弾いている内に、耳も身体も発達し分かってくるもの。「分かる土台」ができてないのに、無理に押し込んでもしょうがない。
ついついこの日までに仕上げないと、といった期限があったりで、強く背中を押さざる得ないこともあるのだけれど、長い目で見ると、「練習を積み重ねて」と「その子自身のレディネスに達して自然に」と、「できるようになった」ということに何ら変わりがない。そして返って無理なくできる時を迎える方が、例え周りに比べ遅いとしても、その身に着けたものが「その子自身のもの」となるのかもしれない、最近上の子たちを見ていてもよく感じること。
確かに何事も練習を積み重ねてできるようになるというのは大切。練習を積み重ねたらできるようになる!といったマインドセットを教えていくことも。それでもその子の中にパッションがある場合はいいのだけれど、周りからの無理やりが続いて練習だけしているといったような場合は、結局それがどんなに高度な技術であろうとその身についたものは、「その子自身のもの」とはなりにくい。
その子自身のパッションを基にした練習を続けつつ、どうしてもできない場合は少し下がり、励ましながら待ってみる。できるできないより、その子自身の内面から湧き出る意欲、それこそを大切にしていきたい。
昨夜の反省を込めて。
直線でするすると伸びるのでなく、横一直線だったり下降したりを経、「できた!」となるんですね。「一晩おいて寝かせてみたら、発酵」も、まさしく! 焦らず寝かせたからこそ、もっといいものいなったり。
本当に、内側から湧き出る意欲があるのなら、目の前の壁もどんどん越えていけるんだなあ、と子供達を見ていて思います。周りにできるのは、どうその子の内の炎に点火するかなんですね。
この年になってようやく、「時間がかかって面倒くさい」ものの価値というのが、少しずつ実感として分かるようになってきたように思います。時間をかけてこつこつ丁寧に作られたものの貴さ。
unknownさんは、子育てでのその大切さを身をもって示してくださった方なんですよ。
ありがとうございます。こちらはすっかり冬支度。タイヤも換えましたよ~。いつでも積雪OK状態です。週末お楽しみくださいね。そちらのさんさん太陽を想いつつ。
「大事なことは時間がかかって面倒くさい」ですが、マチカさんを見習って、辛抱強く続けてみます。大切なことをシェアしてくださり、をありがとう。