靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

整理、微笑がこぼれ落ちる暮らし

2012-10-28 02:05:01 | 今週の整理
1.今週はアンカレッジの公立学校全てで先生と親の懇談会。水曜日木曜日は昼までの半日、金曜日は休み。小学校ではいつも続けて時間を組んでくれる。一時から一時二十分まで三女、一時二十分から一時四十分まで次女、といった具合に。三人終わったら車で十五分程の中学校へ向かう。四人続けての懇談会。誰についてどんな話になったのか、ちょっと混乱しながら。(笑)今の時点での状況の説明だけでなく、ではどう伸ばしていけるか、の話し合いに親身になって下さる先生方、ありがたい。周りの大人というのは、子供をジャッジし振り分けるためにいるのではなく、子供を育てていくためにいるのだと改めて思う。その子の持てるものをどう最大限開花させられるか、その子に縁ある大人が力を合わせ、そんな体勢を整えられたら。「教育はバケツを満たすようなものではなく、火をつけるようなもの(Education Is Not the Filling of a Pail, But the Lighting of a Fire)。」詩人Yeatsの言葉を胸に

2.昨日の金曜休日は、朝小児科医へ長男長女次女と健康診断に。成人するまで毎年診断に来るようにと言われつつも、お蔭様で傍目には元気なので、ついつい二年ぶり三年ぶりの診断に。身長体重をはかり、一通りの検査を終える。長男と長女次女とは同じ担当医でも別の部屋で。十三歳の長男、一人の大人として扱われ、まず本人に、親が立ち会っての検査でもいいかと了承を得ることから始まる。「何か悩みがあったら相談に来るように、親に伝えてもいいとあなたからの許可がなければ、悩みの内容を私は親に話す権利がない」とも。思春期の親と子のコミュニケーションについての話も。「家族より友達や周りのことがより気になり始める時期、それでも両方に耳を傾けてね。子供は親を今の流れに合わない時代遅れとみなし、親は子供をまだ経験浅く何も知らない幼い者とみなす。そこからコミュニケーションがうまくいかなくなりもする。あなたの思うことが伝わらないと感じるのなら、書いて整理し親に伝えるのも一つの手」と。私の方を向き、「危険なことでないのならば、本人に体験をさせ失敗させてください。子供は体験をしたいのです、自身の体験を通して子供は大きくなるのです」と。最後に「よく考えて選択するようにね。周りの子がしていることでも、あなたがおかしいと思うのなら立ち上がりあなたが正しいと思う方向へ」とアドバイス。長男長女には思春期の身体の変化についての説明もあった。皆で一時間半ほどみっちり。
身体の検査だけだと思っていたのだけれど、これほど様々な面に踏み込んだアドバイス、驚いた! 赤ちゃん時代から子供たちを知っている担当医、こうして親子共に話を聞ける機会というのはありがたい。本人達もかなり納得して耳を傾ける。一年に一度「健康診断」に出かけよう、そう思いつつ。

4.五人本当に個性様々だと思う。生まれた順によって育った環境もそれなりに違うだろうけれど、同じ親の下に育ちながら、こうも違うものかと。その子の本来持つ性質と、親との性質が組み合わさり、その子が形成されていく。それでもこれとこれを組み合わせるとこうなるといった決まった方程式はなく、化学反応のようなもので、一体どうしてこういうことになったのか!というような驚きも生まれる。
 昔、多くの兄弟の中で育ったという年配の方と話していたとき、どう育てていいかと頭を抱える私を前に、「親の思い通りに育つわけじゃないんだよ、結局その子はその子になっていくんだから、あなたがそんなに背負い込む必要なんてないと言われたことがある。それでも当時は、私が私が何とかしなければ!と踏ん張っていた。年を重ねるにつれ、その方の言葉をしみじみと思い出すことがある。ふっと力が抜ける瞬間。自分のできる限りを尽くしつつ、委ねる。

4.子供に対する様々な思いを整理し、結局子供に何を最も望むかといえば、「幸せ」を感じられる人に育って欲しいということ。それは世間的に立派な地位や仕事や学歴や、多くの人がうらやむような業績や、物質的に富み溢れる生活やといった、そんな断片的な様相ではなく。億万長者であっても、質素な家屋に家族肩寄せ合いひっそりと暮らしていたとしても、キャリアを積み世界中をバリバリと飛び回っていたとしても、小さな町で一生過ごそうとも、毎日微笑みがこぼれ落ちるような生活を送られるということ

5.昨夜は病気を乗り越えた年配の方と話す。「西洋東洋医学の助けも借りつつ、でも基本は自分で自分の身体を労わっていかないといけないのよ。今からでも何か体のためになることを少しずつでも毎日続けなさい」とアドバイス。話してくださった中から、四つに絞ってみる。
一、身体を温めることを心がける(手足の爪揉みやつぼマッサージ)
二、日に当たる(アラスカではかなり難しいけれどそれでも外を歩く時間を取る)
三、腹式呼吸
四、筋肉を鍛える(この必要性をかなり感じる今日この頃。ヨガをしつつ、腕ふり・腹筋・腕立て伏せを取り入れてみようかな)。
「シンプルでいいのだから、とにかく毎日ね」と。淡々と続けてみたい。

6.子供の発達には様々な段階があるけれど、子供達を見ていて「大切なもの」という概念を理解するようになったのが、一つの発達の段階だったと感じる。一歳前後のこと。「だいじだいじ」が分かるようになると、言い聞かせも随分と楽になる。お友達の柔らかい頬や手やさらさらとした髪、眠る赤ちゃんの肩、黄金色の落ち葉が敷き詰める地面、炊飯器に計りいれる米、触って欲しくない貴重品、「だいじだいじ」と指し示すことで、ああ身の回りには大切に注意を払う必要のあるものがあるんだな、と子供なりに納得する。「あれを触ってはだめ、そっちへ行ってはだめ!」と声を立てるよりも、「だいじだいじ」と伝えることですむ。辺り構わず無邪気に境界を越える赤ちゃん期から一歩次の段階へ。
 「だいじだいじ」を分からせるには、赤ちゃんが興味を示すものを目の前で大切に扱って見せること。赤ちゃんはきらきらとしたものが大好き。吸い込まれるように見つめる赤ちゃんの前で、「だいじだいじ」と声をかけながら、そっとそのきらきらと光を放つものをなぜて見せたり、小さな手が握り締める人形などを「だいじだいじ」とそっと抱いてみたり。
 二歳にもなり、自我が芽生え始めると、この「だいじだいじ」にも自分と他者との境界が引かれ始め、他者との葛藤も始まる。それでもまだまだその境界は曖昧。教育心理学者のピアジェは、人としての発達の初期段階にある子供というのは、本来自己中心的なもので、周りの人々や物事までも、皆自分と同じように感じたり考えたりするものだと捉えていると言う。私が大好きなプリンはお隣の何々ちゃんも大好きであるに違いない、僕がお気に入りの赤いミニカーはクラスの何々君のお気に入りでもあるに違いないなどと考え、そして人形や小さな石ころや小枝にも、自分と同じ気持ちのようなものがあると感じていると。それら自分の延長上に、全ての人々や物事を捉える段階から、他者との交流を通し、また様々な物事を体験することで、徐々に自分と相手とは、違う見方や考え方をする違う存在なのだと、また自分は周りに様々溢れる物事において、一つの異なるユニークな存在なのだと学んでいく 
 子供は自分の「だいじだいじ」と、他者の「だいじだいじ」との間に葛藤が生じた場合はどうしたらよいのかを、他者と交わる体験を通し学ぶ。私がいつも遊んでいるお気に入りの緑色のブランコに他の子が乗っている、僕が作ったブロックの塔を何々ちゃんは壊して他のものを作りたいと言う、私はドラマを見たいのに妹は歌番組を見たいという。一つ一つの葛藤が、互いに納得する着地点を見つけ、葛藤を乗り越えるための学びの機会
 「砂場で社会を学ぶ」とはそういうことなのだろうけれど、コミュニティーの人間関係も希薄で、核家族化した現代の子育てを取り巻く状況では、なかなか「砂場で社会を学ぶ」機会を見つけるのも難しい。自分のしたことで相手に悲しい思いをさせてしまった、何々君に叩かれた時痛くて悲しかった、そんな体験を繰り返し、言葉や頭での理解ではなく、体験として身体で学んでいくのが確かに理想なのだけれど、多くの子が「砂場で社会を学ぶ」ような機会に恵まれない中で、「子供の喧嘩はほおっておくのが一番」では、もううまく回っていかない面もある。「砂場」にも、「カエルの選択」などの知識や、先達の知恵や言葉が必要になってきている。それらの知恵を示しつつ、できる限り他者と交わる機会を作り出していきたい。

8.慣れ親しんだ自分を離れ、踏み出す

今日は朝から大量クッキー作り! 旅立つ友人へ。
朝八時過ぎても真っ暗なアンカレッジより。

Have a wonderful week!

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