「親はなくとも子は育つ」
これは元々はコミュニティーが育ててくれるという意味で用いられた諺。コミュニティーの価値観や構造がはっきりしていた昔、何が良くて何が悪いか、どうしたら「立派な」人間に育っていけるか、確固とした「良心」といえるような土台がコミュニティーの中にまだまだ根付いていた。
今は価値観が入り交ざり構造の流動性も加速化、何が良くて悪いかも相対的に、コミュニティーの中での「立派な」人間像といったら、マスメディアから繰り返し流される「お金があって格好よくて」、といった薄っぺらなイメージが主流。
コミュニティーに子育てを依存できる状態にはもうない。「親はなくとも」はもう通用しない。家族、親子(※)という最小単位の集団をより充実させていく必要がある。外のコミュニティーからの影響への「受身」を続けるよりも、家族単位・親子単位で立ち上がり、逆に外に影響を与える「変化の主体」となっていく必要がある。
外から内でなく、内から外へ。
外のコミュニティーで育てられる価値観・生きる姿勢を外で繰り返し実践して鍛える、
から、
家族親子単位で育てられる価値観・生きる姿勢を外で繰り返し実践して鍛える、へ。
外のコミュニティーにもまだまだ「良心」は確かに点在している。ネットの発達などでますます個々単位が発信できるようになってきた中で、面白い流れもたくさん起こってきているとも思う。ただますます清濁混在する中にそれらの「良心の光」を見出す目は、家族親子という「内」でまずは築いていく必要がある。そう感じている。
(※)「家族・親」というのは血の繋がりがあり男女の親がいて、といった形以外にも様々な形がある。どんな形であろうと子育てに関わる最小単位の関係ということ。
これは元々はコミュニティーが育ててくれるという意味で用いられた諺。コミュニティーの価値観や構造がはっきりしていた昔、何が良くて何が悪いか、どうしたら「立派な」人間に育っていけるか、確固とした「良心」といえるような土台がコミュニティーの中にまだまだ根付いていた。
今は価値観が入り交ざり構造の流動性も加速化、何が良くて悪いかも相対的に、コミュニティーの中での「立派な」人間像といったら、マスメディアから繰り返し流される「お金があって格好よくて」、といった薄っぺらなイメージが主流。
コミュニティーに子育てを依存できる状態にはもうない。「親はなくとも」はもう通用しない。家族、親子(※)という最小単位の集団をより充実させていく必要がある。外のコミュニティーからの影響への「受身」を続けるよりも、家族単位・親子単位で立ち上がり、逆に外に影響を与える「変化の主体」となっていく必要がある。
外から内でなく、内から外へ。
外のコミュニティーで育てられる価値観・生きる姿勢を外で繰り返し実践して鍛える、
から、
家族親子単位で育てられる価値観・生きる姿勢を外で繰り返し実践して鍛える、へ。
外のコミュニティーにもまだまだ「良心」は確かに点在している。ネットの発達などでますます個々単位が発信できるようになってきた中で、面白い流れもたくさん起こってきているとも思う。ただますます清濁混在する中にそれらの「良心の光」を見出す目は、家族親子という「内」でまずは築いていく必要がある。そう感じている。
(※)「家族・親」というのは血の繋がりがあり男女の親がいて、といった形以外にも様々な形がある。どんな形であろうと子育てに関わる最小単位の関係ということ。
子育てについてだけはライフワークとして真面目にこつこつと取り組んでいこうと決めてます。幸い実践の場に恵まれてますから。まだまだ続きそうですし、いや一番下が小さいという意味で続くということです。(笑)
「全くその通りだと思う」、この言葉大切に歩いていきます。感謝を込めて。