浪速は大坂の町なか、町人の子供たちが武士の子息とみられる少年を取り囲んでいる。
「銭を持っているやろ、全部出せ」
「持っていません、小遣いなど貰っていないのです」
「嘘をつけ、お前は侍の子やろ」
「そうですけど、小遣いなど貰ったことはありません」
「この嘘つき、裸にして調べてやる」
ガキ大将の号令で、ガキどもが武士の子を取り巻いた。着物も袴も脱がして探してみたが、銭など持っていない。
「よし、明日まで待ってやる、親の金をくすねてここへ持ってこい」
「そんなことは出来ません」
侍の子は、蚊の鳴くような声で言ったが、ガキ大将に拳で頬を殴られ、その場に倒れてしまった。ガキどもは、「持ってこい」と、口々にガキ大将の口真似をして、倒れた少年の脇腹や腰を蹴って立ち去った。
少年は起き上がり、掌で頬を抑えて、涙を堪えていたが、やがて大粒の涙を一粒だけ零した。
彼は、大坂東町奉行所与力、矢野浅右衛門の長男貫十郎十五歳である。本来なら、「俺は武士の子だ、お前らには負けぬ」と、ガキどもに組み付いて行く負けん気があって当然なのだが、生来気が弱くて、父親浅右衛門(あさえもん)から「意気地なし」と罵られ、屋敷内に父が居るときは小さくなっている。
「兄上、その顔どうしました?」
弟貫五郎十四歳である。
「ああ、ちょっと柱にぶつけたのだ」
「腫れているじゃないですか、冷やしてあげますから、井戸端へ行きましょう」
兄の貫十郎は、痩せていて色白であるが、貫五郎は浅黒く、兄よりも背は高く、体格も優れている。江戸から父の転属により大坂へ来て二年になるが、今まで喧嘩などしたことはなかった。
弟は向こう意気が強く、腕っ節もかなり強いようで、喧嘩でやられたのであれば、仇をとるつもりである。
「兄上、本当は喧嘩をしたのでしょう」
「しないよ、喧嘩をしても負けるのに決っているから」
「では、一方的にやられたのですか」
「うん」
「やはりそうですか、それで話はついたのですか?」
「いいや、明日、親の銭を盗んで持ってこいと言われた」
「恐喝じゃないですか、それで黙って帰ってきたの」
「うん、俺にはどうしょうもなかった、弱虫だからな」
「そうか、それで銭はどうするつもりです」
「盗めっこないよ、明日行って殴られてくるよ」
貫十郎は、「殺しはしないだろう」と、然程苦にはしていない様子である。
翌日、弟貫五郎は兄貫十郎が出かけた後をこっそり付けていった。兄を取り囲んだのは、下は十歳ぐいから、上は十七歳位のデカガキどもであった。
「持って来たか?」
「無い、親の銭を盗むなど、断じて出来ない」
「痛い目に遭ってもええのか?」
「仕方ない」
ガキ大将が拳を上げた瞬間、貫五郎が体当たりをしてきた。
「痛ぇ」
ガキ大将がよろけた。
「誰や、お前」
ガキどもは、キョトンとして見守っている。
「俺は弟だ、東町奉行所与力、矢野浅右衛門の倅だ」
名を聞いて、ガキどもはお互いの顔を見交わして、後じさりをした。
「与力さまの倅やって」
「これはヤバいぞ」
ガキ大将とガキどもは、「逃げろ」と、叫びながら散り散りに去っていった。
「兄上、何故に父の名を出さずに、殴られようとしたのですか」
「貫五(かんご)、弱虫の俺が無闇に父の名を出せば、父が笑いものになりはしないか」
「兄上は、大樹の陰に寄るのが嫌いなのですか?」
「うん、嫌いだ」
貫五郎は、兄の根強さに触れたような気がした。
「兄上は、弱虫なんかじゃない、兄上を弱虫だ、意気地なしだと罵る父上がいけないのだ」
「貫五、父上の悪口を言ってはいけない、父は真の武士なのだ」
「兄上、武術に秀でたものだけが武士ではありません」
「父は武術と馬術に秀でているからこそ与力という重職を全うされているのだ」
「それはそうですが…」
「貫五、お前は父の跡を継いでくれ、父がお前のことを褒めていたぞ、剣道ではきっと道場一の腕前になるだろうと」
「父の跡目を継ぐのは長男の兄上です」
貫十郎は、決して僻(ひが)んでいる訳ではない。父に見捨てられていることを嘆いているのでもない。心から弟の貫五郎が跡目を継がなければならないとさえ思っているのだ。
「貫五、馬にも乗せて貰ったそうじゃないか、凄いぞ」
「馬に跨(またが)って、少し歩いただけです」
「父は、筋がいいと誇らしげだった」
「父上は、俺の武術ばかり褒めるが、兄上の頭脳明晰さにはとんと気付かれないのですね」
「与力の子に生まれたのだから、仕方がないよ」
矢野浅右衛門は、その頭脳の良さも弟の貫五郎に求めた。貫五郎を朱子学塾に通わせようとしたのだ。これには、貫五郎は断固反対した。兄上に通わせるべきだと主張したのだ。
「私は、兄上程も頭が良くない、勉強好きの兄上の才能を認めてやって欲しい」
貫五郎は、父にそう迫ったが、「貫十郎に使う銭はない」と、頑として譲らなかった。
「俺に朱子学塾へ通えと仰ったではありませんか」
「お前は、儂の跡目を継ぐのだから、無理をしてでも幕府が推奨する朱子学塾に通わせたいのだ」
浅右衛門は、すっかり自分の跡目は貫五郎と決めているようであった。貫十郎もまた、弟貫五郎が朱子学を学ぶことに大賛成した。貫五郎が持ちかえる書物を、自分もこっそりと読みたいと思ったからだ。
もとより、子供たちの意見に耳を傾ける気など毛頭無い浅右衛門は、妻の意見を訊くまでもなく、貫五郎を朱子学塾に通わせることにした。
「貫五、有難う、こんなにも次々と書物を借り出して、怪しまれないのか?」
「俺が勉強する為だと言って許可をとってあるから、何も怪しまれることなぞありません」
「うん、そうだろうが、書物の内容について質問されたりはしないのか?」
「されるかも知れませんが、俺の口先で適当に誤魔化しておきます」
「そうか、せめて私が読んだ書物の内容は、貫五に判り易いように説明するよ」
貫五郎が思ったように、兄貫十郎は素晴らしい勢いで書物から知識をとり入れていった。塾の師範のように理論ばかりを捏(こ)ねくり回さず、易しい言葉で解るように教えるので、貫五郎は師範から質問を受けても、的確に答えることが出来た。
ある日の夕刻、貫五郎は父浅右衛門に呼び寄せられた。
「貫五、今日、塾の師範と出会ってなぁ、流石は矢野殿のご子息だと、お前のことを褒めていたぞ」
父は、鼻高々だったと言う。
「兄上のお陰ですよ」と、貫五郎は言おうとしたが、「何故か」と質問されて説明をするのが面倒であったし、兄もまたそれを望まないだろうと思って止めた。
貫五郎は、そのことを兄に伝えると、貫十郎は笑っていた。
「私が勉強出来るのも、貫五のお陰だよ」
仲の良い兄弟で、生まれてこの方、兄弟喧嘩などしたことが無い。兄は弟を立て、弟は兄を庇い、父の偏った弟贔屓(ひいき)を交わして生きてきた。
「貫五、明日の朝、父とともに奉行所へ行って貰うので、何時もより早く目を覚ますように」
父、矢野浅右衛門は貫五郎に言った。
「何事で御座いますか?」
「事故で方が付いた事件なのだが、お奉行が疑問をお持ちなのだ」
「それに私が、どう関わるのですか?」
「わしらの硬い頭ではどうもあてにはならないと、お奉行様が仰せられたのだ」
「それなら、兄上が適任です」
「あいつを連れて行っては、わしは恥をかくだけだ」
「何てことを仰るのですか、今のわたしは兄上の支えが有ってこそのわたしなのです」
「とにかく、お奉行は貫五郎をご指名なのだ、明日はお前を連れて行く」
父は、貫五郎が何を言おうと聞く耳は持たぬ頑なさである。
その夜、貫五郎は兄貫十郎に相談した。
「貫五、行って来なさい、私がノコノコ出向いたのでは、お奉行はがっかりなさるでしょう」
「わかりました」
「貫五の後ろにはこの兄が居ます、困ったことがあれば私に任せなさい」
兄の力強い言葉に、貫五郎は安心したようであった。
その日は、お奉行も役宅を何時もより早く出られたようで、矢野浅右衛門父子が奉行所の門を潜ったときは、既に控えの座敷で待っていた。
「貫五郎、呼び出して済まなかった」
「いえ、わたしのような子供に、何かお役に立つことができるのか、その方が不安です」
「実は、住田大社の境内で見つかった死体なのだが、事件か事故か、或いは病死かと調べておるのだが、どうも決め手がなくて弱っておる」
「検死されたお役人様は何と?」
外傷は無く、水も飲んでいない。首を括った跡も、何者かに締められた跡もない。毒を飲んだ形跡もないのだという。境内を歩いていて、突然呼吸が止まったようなのだが、倒れた時に頭を打った跡もない。強いて状況を言うならば、境内の玉砂利に静かに横たわり、静かに息が止まって死んだようなのである。
たとえ屈強な男数人に抑え込まれて、口と鼻を塞がれたとしても、境内の玉砂利は荒らされておらず、あまりにも安らかに死んでいったように思える。
死んだ男は殆ど酒を嗜まず、人々には優しく、馬鹿が付く程生真面目な男で、寺社の修理や普請の請負、材木などの建築材料を調達、大工、左官などの職人達を束ねるのを生業(なりわい)としていた。
貫五郎は、奉行所で得た情報をいちいち書き留めて、死んでいた男の住居と名前を訊き「整理して考える時間が欲しい」と申し出て帰宅した。
奉行は、
「くれぐれも単独で行動をしないように、聞込み等の行動をとる場合は、同心を付けるので、必ず奉行に申し出るように」と、貫五郎に注意を与えた。
貫五郎が屋敷に戻ると、兄の貫十郎が待ち受けていた。貫五郎は、聞いてきたことを漏らさず兄に報告した。
「うーん、これは正しく殺しだぞ」
「男を恨んでいる人など居ないそうだが…」
「それは、殺されたのではないという理由にはならない」
「こともあろうに、何故神社の境内で殺されたのですか?」
「そこに殺された理由があるようだ」
貫十郎は、「殺された男の身内に会ってみたい」と、言い出した。とは言え、奉行は貫十郎に同心を付けてくれないだろう。貫五郎を指名したのは、朱子学の塾での成績を耳にしたからである。貫十郎は、弟が塾に行っている間に、被害者の家族に会ってみようと思った。
「兄上、ぜったいに独りで行動してはいけませんよ」
「はい、わかっています」
土建請負、立花屋の看板がかかった間口の広い店の前に、貫十郎が独りで立っていた。戸は閉められ「喪中」と書かれた紙が張られていた。貫十郎は店の前に屈むと両掌を合わせ、お題目を唱えだした。
やがて店の中から貫十郎と同い年くらいの少年が出てきた。
「お侍の坊ちゃま、どうなさいました?」
「済みません、この屋の旦那様がお亡くなりになったと聞きまして、悔やんでいたところです」
「旦那様をご存知なのですか?」
「はい、以前わたしがお社の境内で意地悪な子供たちに苛められていたところを、助けて頂きました」
「そんなことがあったのですか、旦那様はお優しい方でしたから、見て見ぬふりはできなかったのでしょう」
「それからは、この辺りで旦那様を見かけると、陰から頭を下げておりました」
「それはご奇特なことで、旦那様は良い徳を積んだとあの世でお喜んでいましょう」
まだ子供ながら、躾の行き届いたこの少年に貫十郎は好感が持てた。浪速の訛りがないのは、何処か余所の地方の生まれなのだろう。
「旦那様は、ご病気でお亡くなりだと聞きましたが、まだお若くてお元気なご様子でしたのに…」
もちろん、貫十郎は会ったことなど無い。
「病気だなんて、嘘ですよ」
「えっ、嘘ですか?」
「大きな声では言えませんが、旦那様は殺されなさったのです」
もっと話を訊きたかったのだが、店の中から少年を呼ぶ声が聞こえて、慌てて中へ入ろうとしたが、少年は立ち止まった。
「今日の昼から、わたしは独りでお使いにでかけます、まだお話をしたいことがありますので、お手隙でしたらその折に…」
少年は、木戸の中へ消えた。
「あっ、本当に待っていてくれたのですか?」
「はい、懐かしい旦那様のお話なら、どんなことでも伺いたいので、待っていました」
二人、仲の良い友達のように、肩を並べて歩いた。同じ年格好なのに、少年は歩きが早くて、貫十郎は遅れがちだった。息も荒くなってきた。
「ちょっと休みませんか」
「すみません、何時も急(せ)かされているもので、つい早足になってしまいます」
貫十郎は、貫五郎が母から塾で必要な書物を買うと言って頂いた二朱(約6300円)を貫五郎が渡してくれたので、茶店で休憩することにした。
「わたしは東町奉行所与力、矢野浅右衛門の倅、貫十郎と申します」
「おいらは立花屋の手代、佐吉です」
「私達、仲の良い友達になれそうですね」
この貫十郎の言葉には、佐吉の猛烈な反対にあってしまった。
「友達なんてとんでもありません、お侍のお坊っちゃんと、店の奉公人では身分が違い過ぎます」
「佐吉さん、古い考えをお持ちですね、子供同士が友達になるのに、身分などチャンチャラ可怪しいですよ、それにわたしはお大名の若様ではないのですから」
その後は、佐吉が話し手で、貫十郎は聞き手に回って、いろいろと聞き出すことが出来た。
あの夜、佐吉は旦那様のお供をして、住田神社の社務所建て替え工事の競(せ)りに出かけた。工事の請負業者が話し合って競り値を相場の五割高に決め、競り落とす業者を順番で決めようと言うのを、立花屋の主人仙左衛門が談合を蹴って相場以下の値段で競り落とした。
立花屋の近くまで戻ってきた仙左衛門は、何時ものように佐吉を先に店へ帰し、按摩の留市のところへ寄った。
「最近、歳の所為か肩が凝りましてなぁ」
その日、夜が更けても旦那様は戻らなかった。
「佐吉、留市さんのところへ旦那様を迎えに行っておくれ」
女将に言われて佐吉が按摩の市の元へ走ったが、「とっくにお帰りになりました」とのことだった。
貫十郎は、得た情報を全て貫五郎に伝えた。殺しのカラクリは恐らく「鍼」だろうと、自分の推理、意見を伝えた。
常日頃から立花屋仙左衛門の正義面(せいぎづら)を憎んでいた同業者、または複数の同業者、将又(はたまた)全ての同業者が共謀したのかも知れないが、仙左衛門の存在を疎んじた者が、仙左衛門殺しを企んだ。按摩の留市を抱き込み、鍼のツボ「頸中」に鍼を刺させ、気を失った僅かな時間を利用して、濡れた和紙を何枚か重ねて口と鼻を塞いだ。仙左衛門は、苦しむことなく、安らかに眠るように息絶えた。死体は気付かぬように布団に包んで神社の境内の玉砂利に寝かせた。「鍼」のツボ「頸中」は、導眠のツボであるが、深く刺すと一瞬気を失うほどの危険なツボでもある。
貫五郎が朱子学塾で借りてきた書物に、鍼灸学の書物も有ったので、貫十郎は読んで記憶していたのだ。
「貫五、同心を付けて貰い、その留市という按摩を追求してほしい」
留市に鍼を刺させた真犯人を吐かせるのだと、貫十郎は弟を焚き付けた。だが、按摩の留市のまわりを同心が嗅ぎまわると、留市の命が狙われるかも知れないと、貫十郎は付け加えた。
「わかりました、明日お奉行に全てを話してみます、その折、この推理をしたのは兄上だと打ち明けたいのですが、構いませんか?」
「それは止めた方がよい」
貫十郎の寝言などあてには出来ぬと、父上に止められるだろうと言うのだ。父上も頑なだが、兄上も卑屈過ぎると、貫五郎は溜息を一つついた。
翌日の夕刻、貫五郎は帰宅した。貫十郎は、待ち構えていたようである。
「どうだった、お奉行は手を打ってくださいましたか?」
「はい、同心の方に言いつけて、按摩の留市の家を張っています」
「変装してか?」
「いいえ、十手を見せびらかせて、同心とその手先がうろうろと…」
「留市は、大事な証人だぞ、命が狙われたらどうする?」
「お奉行に、考えがおありのようです」
「そうか」
按摩の留市に目を付けられたとなると、真犯人は不安になり、留市の口を塞ぎにかかるだろうと見て、その場を見届けてふん縛ろうという目論見(もくろみ)らしい。
「大丈夫だろうか」
「兄上、お奉行に任せておきましょう」
「そうだなぁ」
日暮れまでは留市の家を張っていた同心と手下は、日が暮れると引き揚げていった。留市は支度をすると、町へ出て行った。昼は家で客(患者)を待って、夜は笛を吹いて流しの按摩である。
何人か呼び寄せられ、旅籠や商人の女中に連れられていった。夜も更けた頃、商家の旦那らしい男に「おい」と呼び止められた。
「留市、こっちや」
「おや、旦那様でしたか」
常連の客らしく、留市は素直に声の主の肩に手をかけた。導く人の肩に手をのせて、半歩後ろを歩くことで、道の凹凸や、階段を留市は判断しているようだ。
「旦那様が自らのお声掛けとはお珍しい」
いつもなら、旦那のお店なり、水茶屋の座敷に呼ばれるのに、今日は別の場所であった。
「おや、新しいお妾さんのお屋敷ですか?」
「余計なことを訊くな、祝儀を弾むから黙って歩きなはれ」
留市が旦那様と呼んだ男の語気が荒くなったのを、留市は敏感に察知した。
「旦那様嫌ですぜ、脇腹をブスッなんて」
「黙って歩けというのがわからへんのか」
「留市は口が堅いのです、秘密は漏らしませんので、それだけは堪忍してください」
男は黙りこくってしまったが、それはそれで更に留市は不安に陥った。留市は感覚を研ぎ澄まして辺りの気配を探ったが、「プーン」と漂う壁土と黴の臭いから、やはり市が想像した通りで、人けのない廃屋へ向かっているようだった。
「旦那様、後生ですから、命を取るのだけは思い留まってくださいな」
「留市、流石やな、目が見えない分、勘が鋭いやおまへんか」
留市は、男が懐から匕首を出し、鞘を振り落としたのを男の肩の動きで察知し、男から飛び退き、杖を左右に振った。
「嫌がるのを無理矢理やらせておいて、お上に目を付けられたからと口封じをするなど、お前は鬼だ、糞っ、ただでは殺されないぞ」
杖の一撃でも食らわそうと、夢中で振り続けた。
「鬼っ、鬼っ、畜生め!」
男が自分の右に回ったと留市が感じたとたん、右腕に鋭い痛みを覚えた。留市は観念して、その場に蹲(うずくま)った。その時、今二人が歩いて来たあたりから声が飛んだ。
「御用だ!」
留市を殺そうとした男が驚いた様である。
「あっ、あれは常陸屋の旦那様です」
立花屋の手代の声がした。証人として連れて来られたようだ。
「常陸屋、観念致せ、もう何もかも露見しておるぞ!」
留市は、刺殺を逃れた安堵からか、後に来る処刑の恐怖からか、脱力感に襲われ土の上に横たわって大泣きをしている。恐らく、見えぬ目から大粒の涙が溢れているのであろう。
「兄上、殺しの下手人が捕まったそうです」
貫五郎は、朱子学塾からの帰りに、奉行所に寄ってきたらしい。
「何もかも、兄上が仰った通りでした」
下手人は、単独ではなく、立花屋仙左衛門の同業者の共謀であった。立花屋がこの世からいなくなると、競りなど有って無いようなもので、自分たちの思うように競り値を吊上げて大儲けが出来る。立花屋は、悪徳商人たちの目の上のたん瘤だったようだ。
「実は、この推理をしたのは、俺ではなく、兄上だったと打ち明けました」
「父上が、がっかりするぞ」
「お奉行は納得してくださり、兄上に褒美をやろうと仰いました」
「飴玉三個であろう」
「それも俺には魅力ですが、兄上は書物が好物だから書物を借りたいと言いました」
お奉行は、
「奉行所には、庶民から没収した裏本が多く、碌な書物は無いので、この度の事件に関わった住田大社の御文庫の書物が借りられるように当たってみようと仰いました」
「これは、奉行のお言葉とも思えません、住田大社の御文庫は、お社の宝物です、それを子供ごときに貸し出す訳がありません」
「そうなのですか、でもお奉行のお声掛かりでは、何とか成るのではありませんか」
後日知らされたのだが、住田大社の宮司は見事に断わったようであった。ところが、相手が子供であろうとも、奉行も面目が立たなかったのであろう。なんと、江戸城の御文庫から書物を借りられるようにしてやろうと言ってきたのだ。それも、お城内に立ち入って好きなだけ読んでもいいというのだ。
江戸城の御文庫は、八代将軍吉宗候のお声掛かりで書物が集められ、充実した日本一の御文庫である。
「それも無理でしょう、旗本ではない御家人の倅が、お城内に入れる訳がないではありませんか」
貫十郎は、何と安請け合いをするお奉行だと、腹を抱えて笑った。しかし、一概にお奉行の大法螺(おおぼら)とも言えなかった。貫十郎はお奉行と面談をして、字が綺麗で、博識の貫十郎をいたく気に入られた様子で、江戸城楓山(ふうざん)御文庫書物奉行配下として推薦してくれることになったと言うのである。
一番驚いたのは、父の矢野浅右衛門であった。
「貫五郎ではなく、貫十郎なのか」
浅右衛門は、貫五郎に聞き直した。
「はい、わたしが朱子学塾で成績上位に居ますのも、兄上のご指導を受けているからでございます」
「剣術も、馬術も出来ぬ貫十郎が…」
「今は、武術よりも学問が重んじられる世の中です」
「儂は、間違っていたのかのぅ」
貫十郎の江戸城勤めは異例ではあったが本決まりとなり、近々江戸へ旅立つことになった。
「兄上独りでは心許ないので、俺が江戸まで送って行きます」
「馬鹿を言え、お前には塾と道場通いがあるではないか」
「訳を話して、両方の許可を得て、一ヶ月の休みが頂けましたよ」
「そうか、お前が一緒なら心丈夫だが、心許ない兄で申し訳ないなぁ」
「いいえ、どう致しまして、浪速へお戻りの時も、お迎えに上がります」
「貫五、ありがとう、何もかもお前のお陰だよ」
母が選んだ佳日に兄弟は旅立った。生まれてこの方、兄弟だけで旅をしたことがなかったので、旅は二年前に家族で浪速へ来た時とくらべて目新しいことの連続であった。田には蓮華草がびっしり咲き乱れ、蝶が優美な舞を見せてくれた。船で川を渡るのも、人足の背で渡るのも、つい燥(はしゃ)いでしまいそうのなるのを抑えるのがやっとであった。
「貫五、私達は父に肩車をされた記憶がないな」
「はい、父の膝に座ることもありませんでした」
「江戸へ行ったら、私達が育った屋敷を訪ねてみたいものです」
「知らない方々が住んでおられることでしょう」
「蝉捕りをしたお社の杜(もり)や、かくれんぼをしたお寺の境内も懐かしいです」
「兄上は、生き物を殺すのが嫌だと、虫も魚も捕らなかったではないですか」
「そうだったなぁ、お前が生き物を捕ってきては死なすので、屋敷の裏は小さなお墓だらけだった」
「兄上は心優しいから、どんなものでも死んだらお墓を作ってやっていました」
貫五郎は、流石は与力の息子である。旅の途中で巾着切りや騙りに遭っても、決して隙を見せなかった。それに反して、貫十郎は隙だらけで、江戸での独りの生活をうまくやっていけるのか貫五郎は心配であった。
とは言え、貫五郎には貫五郎の生活がある。生涯、兄の面倒をみてやれるものではない。職に就いても、虐めもあれば辛い仕事もあろう。良い友達や、好い恋人が出来ればよいのだがと、貫五郎はまるで親心を持った弟である。
宿場町に入り、往来の人が目立ってきたあたりで、貫五郎の草鞋の紐を通す「チチ」と呼ばれる輪の部分が切れた。
「兄上、応急措置をします、ちょっと待って…」
貫五郎がしゃがみ込んだその時、先を歩いていた貫十郎は立ち止まって振り返った。そこへ貫十郎の後ろを歩いていた旅の女が貫十郎に突き当たった。
「お兄さん、御免なさいよ」
「いやいや、わたしが急に止まったのがいけないのです、こちらこそ御免」
女は、サッサと先へ行ってしまった。
「兄上、また財布をやられましたね」
これが、三度目であった。
「あの女も掏摸なのか?」
「そうですよ、油断も隙もないでしょう」
「そうだなぁ」と、言いながら「えへへ」と貫十郎は照れ笑いをした。
貫五郎は、自分の振り分け荷物を下ろすと、中から紙で折った財布を貫十郎に渡した。
「これが用意してきた最後の一つです」
貫十郎は、紙の財布を受け取りながら、貫五郎に言った。
「私が財布を持つから盗られるのだから、私は持たない方が良いのではないだろうか」
「いいえ、これは兄上を訓練しているのです、もっと気を付けてくださいよ」
「そうか」
「江戸は 生き馬の目を抜く と言われているところです、これから兄上はそこでひとり一年間生きていくのですから、注意力、集中力を研ぎ澄まさねばなりません」
「それで、訓練なのか? 財布を持っていなくても訓練はでは出来よう」
「いいえ、盗られて、盗られて、盗られまくって、掏摸というものを体得してください、財布は旅籠で私が幾らでも作ります」
「財布の中に入れる平らな石が、川原でたくさん見つかれば良いのだが…」
「無ければ、山の粘土で作ります」
「貫五、こんなぼんやり兄貴の為に、苦労をかけるなぁ」
「そのかわり、江戸城でどんなに苦労をしても、負けないでくださいよ」
「うん、負けない」
「どんなに辛くても、我武者羅に、そして貪欲に知識を深めてください」
「一年間だが、書物の修理と整理、目録の新規作成、それから翻訳や解説書の作成など仕事は山積みだそうだ、自己研鑚の時間はとれるのだろうか」
貫十郎は、そこの御文庫で働きながら書物を読ませてもらうことになったのだ。
「俺は同じ書物を何度も読まなければ理解できないが、兄上は一度読んだ書物は確実に理解して記憶するではありませんか」
「うん、そうだなぁ、寝る間も惜しんで読み漁る覚悟だ」
貫十郎は、江戸へ着くと一先ず書物奉行の屋敷に草鞋を脱いだ。明日から、この奉行の手となり足となり、頭脳となって働くのだ。
「大坂東町奉行与力、矢野浅右衛門の倅、貫十郎で御座います、どうか宜しくお願い致します」
「遠路、ご苦労であった、大坂東町奉行とは、長崎で一緒だったのだ」
その大坂東町奉行の推薦で矢野貫十郎が書物奉行の配下になったのだと言う。
「今日からそちは、我が屋敷の離れに寝泊まりするがよい」
朝の登城も、夕の下城も奉行と一緒だそうで、貫十郎は自分の緊張が解れる間がないだろうと思った。
「書物奉行様、私は弟の貫五郎でございます、どうか兄上を宜しくお願い致します」
貫五郎は、挨拶を済ませると兄に別れを告げ、大坂へ戻っていった。
「兄上が大坂へ戻られる日を楽しみにしています」
だが、貫十郎が大坂へ戻ることはなかった。この後、貫十郎は読書好きの将軍様に気に入られ、将軍様書物御案内役に任命されて旗本と同格となり、更に書物奉行の娘の婿養子となり、後に義父が引退して貫十郎は書物奉行にまで出世した。 (終)
(これはフィクションであり、時代背景、登場人物等、全て架空であります)
「銭を持っているやろ、全部出せ」
「持っていません、小遣いなど貰っていないのです」
「嘘をつけ、お前は侍の子やろ」
「そうですけど、小遣いなど貰ったことはありません」
「この嘘つき、裸にして調べてやる」
ガキ大将の号令で、ガキどもが武士の子を取り巻いた。着物も袴も脱がして探してみたが、銭など持っていない。
「よし、明日まで待ってやる、親の金をくすねてここへ持ってこい」
「そんなことは出来ません」
侍の子は、蚊の鳴くような声で言ったが、ガキ大将に拳で頬を殴られ、その場に倒れてしまった。ガキどもは、「持ってこい」と、口々にガキ大将の口真似をして、倒れた少年の脇腹や腰を蹴って立ち去った。
少年は起き上がり、掌で頬を抑えて、涙を堪えていたが、やがて大粒の涙を一粒だけ零した。
彼は、大坂東町奉行所与力、矢野浅右衛門の長男貫十郎十五歳である。本来なら、「俺は武士の子だ、お前らには負けぬ」と、ガキどもに組み付いて行く負けん気があって当然なのだが、生来気が弱くて、父親浅右衛門(あさえもん)から「意気地なし」と罵られ、屋敷内に父が居るときは小さくなっている。
「兄上、その顔どうしました?」
弟貫五郎十四歳である。
「ああ、ちょっと柱にぶつけたのだ」
「腫れているじゃないですか、冷やしてあげますから、井戸端へ行きましょう」
兄の貫十郎は、痩せていて色白であるが、貫五郎は浅黒く、兄よりも背は高く、体格も優れている。江戸から父の転属により大坂へ来て二年になるが、今まで喧嘩などしたことはなかった。
弟は向こう意気が強く、腕っ節もかなり強いようで、喧嘩でやられたのであれば、仇をとるつもりである。
「兄上、本当は喧嘩をしたのでしょう」
「しないよ、喧嘩をしても負けるのに決っているから」
「では、一方的にやられたのですか」
「うん」
「やはりそうですか、それで話はついたのですか?」
「いいや、明日、親の銭を盗んで持ってこいと言われた」
「恐喝じゃないですか、それで黙って帰ってきたの」
「うん、俺にはどうしょうもなかった、弱虫だからな」
「そうか、それで銭はどうするつもりです」
「盗めっこないよ、明日行って殴られてくるよ」
貫十郎は、「殺しはしないだろう」と、然程苦にはしていない様子である。
翌日、弟貫五郎は兄貫十郎が出かけた後をこっそり付けていった。兄を取り囲んだのは、下は十歳ぐいから、上は十七歳位のデカガキどもであった。
「持って来たか?」
「無い、親の銭を盗むなど、断じて出来ない」
「痛い目に遭ってもええのか?」
「仕方ない」
ガキ大将が拳を上げた瞬間、貫五郎が体当たりをしてきた。
「痛ぇ」
ガキ大将がよろけた。
「誰や、お前」
ガキどもは、キョトンとして見守っている。
「俺は弟だ、東町奉行所与力、矢野浅右衛門の倅だ」
名を聞いて、ガキどもはお互いの顔を見交わして、後じさりをした。
「与力さまの倅やって」
「これはヤバいぞ」
ガキ大将とガキどもは、「逃げろ」と、叫びながら散り散りに去っていった。
「兄上、何故に父の名を出さずに、殴られようとしたのですか」
「貫五(かんご)、弱虫の俺が無闇に父の名を出せば、父が笑いものになりはしないか」
「兄上は、大樹の陰に寄るのが嫌いなのですか?」
「うん、嫌いだ」
貫五郎は、兄の根強さに触れたような気がした。
「兄上は、弱虫なんかじゃない、兄上を弱虫だ、意気地なしだと罵る父上がいけないのだ」
「貫五、父上の悪口を言ってはいけない、父は真の武士なのだ」
「兄上、武術に秀でたものだけが武士ではありません」
「父は武術と馬術に秀でているからこそ与力という重職を全うされているのだ」
「それはそうですが…」
「貫五、お前は父の跡を継いでくれ、父がお前のことを褒めていたぞ、剣道ではきっと道場一の腕前になるだろうと」
「父の跡目を継ぐのは長男の兄上です」
貫十郎は、決して僻(ひが)んでいる訳ではない。父に見捨てられていることを嘆いているのでもない。心から弟の貫五郎が跡目を継がなければならないとさえ思っているのだ。
「貫五、馬にも乗せて貰ったそうじゃないか、凄いぞ」
「馬に跨(またが)って、少し歩いただけです」
「父は、筋がいいと誇らしげだった」
「父上は、俺の武術ばかり褒めるが、兄上の頭脳明晰さにはとんと気付かれないのですね」
「与力の子に生まれたのだから、仕方がないよ」
矢野浅右衛門は、その頭脳の良さも弟の貫五郎に求めた。貫五郎を朱子学塾に通わせようとしたのだ。これには、貫五郎は断固反対した。兄上に通わせるべきだと主張したのだ。
「私は、兄上程も頭が良くない、勉強好きの兄上の才能を認めてやって欲しい」
貫五郎は、父にそう迫ったが、「貫十郎に使う銭はない」と、頑として譲らなかった。
「俺に朱子学塾へ通えと仰ったではありませんか」
「お前は、儂の跡目を継ぐのだから、無理をしてでも幕府が推奨する朱子学塾に通わせたいのだ」
浅右衛門は、すっかり自分の跡目は貫五郎と決めているようであった。貫十郎もまた、弟貫五郎が朱子学を学ぶことに大賛成した。貫五郎が持ちかえる書物を、自分もこっそりと読みたいと思ったからだ。
もとより、子供たちの意見に耳を傾ける気など毛頭無い浅右衛門は、妻の意見を訊くまでもなく、貫五郎を朱子学塾に通わせることにした。
「貫五、有難う、こんなにも次々と書物を借り出して、怪しまれないのか?」
「俺が勉強する為だと言って許可をとってあるから、何も怪しまれることなぞありません」
「うん、そうだろうが、書物の内容について質問されたりはしないのか?」
「されるかも知れませんが、俺の口先で適当に誤魔化しておきます」
「そうか、せめて私が読んだ書物の内容は、貫五に判り易いように説明するよ」
貫五郎が思ったように、兄貫十郎は素晴らしい勢いで書物から知識をとり入れていった。塾の師範のように理論ばかりを捏(こ)ねくり回さず、易しい言葉で解るように教えるので、貫五郎は師範から質問を受けても、的確に答えることが出来た。
ある日の夕刻、貫五郎は父浅右衛門に呼び寄せられた。
「貫五、今日、塾の師範と出会ってなぁ、流石は矢野殿のご子息だと、お前のことを褒めていたぞ」
父は、鼻高々だったと言う。
「兄上のお陰ですよ」と、貫五郎は言おうとしたが、「何故か」と質問されて説明をするのが面倒であったし、兄もまたそれを望まないだろうと思って止めた。
貫五郎は、そのことを兄に伝えると、貫十郎は笑っていた。
「私が勉強出来るのも、貫五のお陰だよ」
仲の良い兄弟で、生まれてこの方、兄弟喧嘩などしたことが無い。兄は弟を立て、弟は兄を庇い、父の偏った弟贔屓(ひいき)を交わして生きてきた。
「貫五、明日の朝、父とともに奉行所へ行って貰うので、何時もより早く目を覚ますように」
父、矢野浅右衛門は貫五郎に言った。
「何事で御座いますか?」
「事故で方が付いた事件なのだが、お奉行が疑問をお持ちなのだ」
「それに私が、どう関わるのですか?」
「わしらの硬い頭ではどうもあてにはならないと、お奉行様が仰せられたのだ」
「それなら、兄上が適任です」
「あいつを連れて行っては、わしは恥をかくだけだ」
「何てことを仰るのですか、今のわたしは兄上の支えが有ってこそのわたしなのです」
「とにかく、お奉行は貫五郎をご指名なのだ、明日はお前を連れて行く」
父は、貫五郎が何を言おうと聞く耳は持たぬ頑なさである。
その夜、貫五郎は兄貫十郎に相談した。
「貫五、行って来なさい、私がノコノコ出向いたのでは、お奉行はがっかりなさるでしょう」
「わかりました」
「貫五の後ろにはこの兄が居ます、困ったことがあれば私に任せなさい」
兄の力強い言葉に、貫五郎は安心したようであった。
その日は、お奉行も役宅を何時もより早く出られたようで、矢野浅右衛門父子が奉行所の門を潜ったときは、既に控えの座敷で待っていた。
「貫五郎、呼び出して済まなかった」
「いえ、わたしのような子供に、何かお役に立つことができるのか、その方が不安です」
「実は、住田大社の境内で見つかった死体なのだが、事件か事故か、或いは病死かと調べておるのだが、どうも決め手がなくて弱っておる」
「検死されたお役人様は何と?」
外傷は無く、水も飲んでいない。首を括った跡も、何者かに締められた跡もない。毒を飲んだ形跡もないのだという。境内を歩いていて、突然呼吸が止まったようなのだが、倒れた時に頭を打った跡もない。強いて状況を言うならば、境内の玉砂利に静かに横たわり、静かに息が止まって死んだようなのである。
たとえ屈強な男数人に抑え込まれて、口と鼻を塞がれたとしても、境内の玉砂利は荒らされておらず、あまりにも安らかに死んでいったように思える。
死んだ男は殆ど酒を嗜まず、人々には優しく、馬鹿が付く程生真面目な男で、寺社の修理や普請の請負、材木などの建築材料を調達、大工、左官などの職人達を束ねるのを生業(なりわい)としていた。
貫五郎は、奉行所で得た情報をいちいち書き留めて、死んでいた男の住居と名前を訊き「整理して考える時間が欲しい」と申し出て帰宅した。
奉行は、
「くれぐれも単独で行動をしないように、聞込み等の行動をとる場合は、同心を付けるので、必ず奉行に申し出るように」と、貫五郎に注意を与えた。
貫五郎が屋敷に戻ると、兄の貫十郎が待ち受けていた。貫五郎は、聞いてきたことを漏らさず兄に報告した。
「うーん、これは正しく殺しだぞ」
「男を恨んでいる人など居ないそうだが…」
「それは、殺されたのではないという理由にはならない」
「こともあろうに、何故神社の境内で殺されたのですか?」
「そこに殺された理由があるようだ」
貫十郎は、「殺された男の身内に会ってみたい」と、言い出した。とは言え、奉行は貫十郎に同心を付けてくれないだろう。貫五郎を指名したのは、朱子学の塾での成績を耳にしたからである。貫十郎は、弟が塾に行っている間に、被害者の家族に会ってみようと思った。
「兄上、ぜったいに独りで行動してはいけませんよ」
「はい、わかっています」
土建請負、立花屋の看板がかかった間口の広い店の前に、貫十郎が独りで立っていた。戸は閉められ「喪中」と書かれた紙が張られていた。貫十郎は店の前に屈むと両掌を合わせ、お題目を唱えだした。
やがて店の中から貫十郎と同い年くらいの少年が出てきた。
「お侍の坊ちゃま、どうなさいました?」
「済みません、この屋の旦那様がお亡くなりになったと聞きまして、悔やんでいたところです」
「旦那様をご存知なのですか?」
「はい、以前わたしがお社の境内で意地悪な子供たちに苛められていたところを、助けて頂きました」
「そんなことがあったのですか、旦那様はお優しい方でしたから、見て見ぬふりはできなかったのでしょう」
「それからは、この辺りで旦那様を見かけると、陰から頭を下げておりました」
「それはご奇特なことで、旦那様は良い徳を積んだとあの世でお喜んでいましょう」
まだ子供ながら、躾の行き届いたこの少年に貫十郎は好感が持てた。浪速の訛りがないのは、何処か余所の地方の生まれなのだろう。
「旦那様は、ご病気でお亡くなりだと聞きましたが、まだお若くてお元気なご様子でしたのに…」
もちろん、貫十郎は会ったことなど無い。
「病気だなんて、嘘ですよ」
「えっ、嘘ですか?」
「大きな声では言えませんが、旦那様は殺されなさったのです」
もっと話を訊きたかったのだが、店の中から少年を呼ぶ声が聞こえて、慌てて中へ入ろうとしたが、少年は立ち止まった。
「今日の昼から、わたしは独りでお使いにでかけます、まだお話をしたいことがありますので、お手隙でしたらその折に…」
少年は、木戸の中へ消えた。
「あっ、本当に待っていてくれたのですか?」
「はい、懐かしい旦那様のお話なら、どんなことでも伺いたいので、待っていました」
二人、仲の良い友達のように、肩を並べて歩いた。同じ年格好なのに、少年は歩きが早くて、貫十郎は遅れがちだった。息も荒くなってきた。
「ちょっと休みませんか」
「すみません、何時も急(せ)かされているもので、つい早足になってしまいます」
貫十郎は、貫五郎が母から塾で必要な書物を買うと言って頂いた二朱(約6300円)を貫五郎が渡してくれたので、茶店で休憩することにした。
「わたしは東町奉行所与力、矢野浅右衛門の倅、貫十郎と申します」
「おいらは立花屋の手代、佐吉です」
「私達、仲の良い友達になれそうですね」
この貫十郎の言葉には、佐吉の猛烈な反対にあってしまった。
「友達なんてとんでもありません、お侍のお坊っちゃんと、店の奉公人では身分が違い過ぎます」
「佐吉さん、古い考えをお持ちですね、子供同士が友達になるのに、身分などチャンチャラ可怪しいですよ、それにわたしはお大名の若様ではないのですから」
その後は、佐吉が話し手で、貫十郎は聞き手に回って、いろいろと聞き出すことが出来た。
あの夜、佐吉は旦那様のお供をして、住田神社の社務所建て替え工事の競(せ)りに出かけた。工事の請負業者が話し合って競り値を相場の五割高に決め、競り落とす業者を順番で決めようと言うのを、立花屋の主人仙左衛門が談合を蹴って相場以下の値段で競り落とした。
立花屋の近くまで戻ってきた仙左衛門は、何時ものように佐吉を先に店へ帰し、按摩の留市のところへ寄った。
「最近、歳の所為か肩が凝りましてなぁ」
その日、夜が更けても旦那様は戻らなかった。
「佐吉、留市さんのところへ旦那様を迎えに行っておくれ」
女将に言われて佐吉が按摩の市の元へ走ったが、「とっくにお帰りになりました」とのことだった。
貫十郎は、得た情報を全て貫五郎に伝えた。殺しのカラクリは恐らく「鍼」だろうと、自分の推理、意見を伝えた。
常日頃から立花屋仙左衛門の正義面(せいぎづら)を憎んでいた同業者、または複数の同業者、将又(はたまた)全ての同業者が共謀したのかも知れないが、仙左衛門の存在を疎んじた者が、仙左衛門殺しを企んだ。按摩の留市を抱き込み、鍼のツボ「頸中」に鍼を刺させ、気を失った僅かな時間を利用して、濡れた和紙を何枚か重ねて口と鼻を塞いだ。仙左衛門は、苦しむことなく、安らかに眠るように息絶えた。死体は気付かぬように布団に包んで神社の境内の玉砂利に寝かせた。「鍼」のツボ「頸中」は、導眠のツボであるが、深く刺すと一瞬気を失うほどの危険なツボでもある。
貫五郎が朱子学塾で借りてきた書物に、鍼灸学の書物も有ったので、貫十郎は読んで記憶していたのだ。
「貫五、同心を付けて貰い、その留市という按摩を追求してほしい」
留市に鍼を刺させた真犯人を吐かせるのだと、貫十郎は弟を焚き付けた。だが、按摩の留市のまわりを同心が嗅ぎまわると、留市の命が狙われるかも知れないと、貫十郎は付け加えた。
「わかりました、明日お奉行に全てを話してみます、その折、この推理をしたのは兄上だと打ち明けたいのですが、構いませんか?」
「それは止めた方がよい」
貫十郎の寝言などあてには出来ぬと、父上に止められるだろうと言うのだ。父上も頑なだが、兄上も卑屈過ぎると、貫五郎は溜息を一つついた。
翌日の夕刻、貫五郎は帰宅した。貫十郎は、待ち構えていたようである。
「どうだった、お奉行は手を打ってくださいましたか?」
「はい、同心の方に言いつけて、按摩の留市の家を張っています」
「変装してか?」
「いいえ、十手を見せびらかせて、同心とその手先がうろうろと…」
「留市は、大事な証人だぞ、命が狙われたらどうする?」
「お奉行に、考えがおありのようです」
「そうか」
按摩の留市に目を付けられたとなると、真犯人は不安になり、留市の口を塞ぎにかかるだろうと見て、その場を見届けてふん縛ろうという目論見(もくろみ)らしい。
「大丈夫だろうか」
「兄上、お奉行に任せておきましょう」
「そうだなぁ」
日暮れまでは留市の家を張っていた同心と手下は、日が暮れると引き揚げていった。留市は支度をすると、町へ出て行った。昼は家で客(患者)を待って、夜は笛を吹いて流しの按摩である。
何人か呼び寄せられ、旅籠や商人の女中に連れられていった。夜も更けた頃、商家の旦那らしい男に「おい」と呼び止められた。
「留市、こっちや」
「おや、旦那様でしたか」
常連の客らしく、留市は素直に声の主の肩に手をかけた。導く人の肩に手をのせて、半歩後ろを歩くことで、道の凹凸や、階段を留市は判断しているようだ。
「旦那様が自らのお声掛けとはお珍しい」
いつもなら、旦那のお店なり、水茶屋の座敷に呼ばれるのに、今日は別の場所であった。
「おや、新しいお妾さんのお屋敷ですか?」
「余計なことを訊くな、祝儀を弾むから黙って歩きなはれ」
留市が旦那様と呼んだ男の語気が荒くなったのを、留市は敏感に察知した。
「旦那様嫌ですぜ、脇腹をブスッなんて」
「黙って歩けというのがわからへんのか」
「留市は口が堅いのです、秘密は漏らしませんので、それだけは堪忍してください」
男は黙りこくってしまったが、それはそれで更に留市は不安に陥った。留市は感覚を研ぎ澄まして辺りの気配を探ったが、「プーン」と漂う壁土と黴の臭いから、やはり市が想像した通りで、人けのない廃屋へ向かっているようだった。
「旦那様、後生ですから、命を取るのだけは思い留まってくださいな」
「留市、流石やな、目が見えない分、勘が鋭いやおまへんか」
留市は、男が懐から匕首を出し、鞘を振り落としたのを男の肩の動きで察知し、男から飛び退き、杖を左右に振った。
「嫌がるのを無理矢理やらせておいて、お上に目を付けられたからと口封じをするなど、お前は鬼だ、糞っ、ただでは殺されないぞ」
杖の一撃でも食らわそうと、夢中で振り続けた。
「鬼っ、鬼っ、畜生め!」
男が自分の右に回ったと留市が感じたとたん、右腕に鋭い痛みを覚えた。留市は観念して、その場に蹲(うずくま)った。その時、今二人が歩いて来たあたりから声が飛んだ。
「御用だ!」
留市を殺そうとした男が驚いた様である。
「あっ、あれは常陸屋の旦那様です」
立花屋の手代の声がした。証人として連れて来られたようだ。
「常陸屋、観念致せ、もう何もかも露見しておるぞ!」
留市は、刺殺を逃れた安堵からか、後に来る処刑の恐怖からか、脱力感に襲われ土の上に横たわって大泣きをしている。恐らく、見えぬ目から大粒の涙が溢れているのであろう。
「兄上、殺しの下手人が捕まったそうです」
貫五郎は、朱子学塾からの帰りに、奉行所に寄ってきたらしい。
「何もかも、兄上が仰った通りでした」
下手人は、単独ではなく、立花屋仙左衛門の同業者の共謀であった。立花屋がこの世からいなくなると、競りなど有って無いようなもので、自分たちの思うように競り値を吊上げて大儲けが出来る。立花屋は、悪徳商人たちの目の上のたん瘤だったようだ。
「実は、この推理をしたのは、俺ではなく、兄上だったと打ち明けました」
「父上が、がっかりするぞ」
「お奉行は納得してくださり、兄上に褒美をやろうと仰いました」
「飴玉三個であろう」
「それも俺には魅力ですが、兄上は書物が好物だから書物を借りたいと言いました」
お奉行は、
「奉行所には、庶民から没収した裏本が多く、碌な書物は無いので、この度の事件に関わった住田大社の御文庫の書物が借りられるように当たってみようと仰いました」
「これは、奉行のお言葉とも思えません、住田大社の御文庫は、お社の宝物です、それを子供ごときに貸し出す訳がありません」
「そうなのですか、でもお奉行のお声掛かりでは、何とか成るのではありませんか」
後日知らされたのだが、住田大社の宮司は見事に断わったようであった。ところが、相手が子供であろうとも、奉行も面目が立たなかったのであろう。なんと、江戸城の御文庫から書物を借りられるようにしてやろうと言ってきたのだ。それも、お城内に立ち入って好きなだけ読んでもいいというのだ。
江戸城の御文庫は、八代将軍吉宗候のお声掛かりで書物が集められ、充実した日本一の御文庫である。
「それも無理でしょう、旗本ではない御家人の倅が、お城内に入れる訳がないではありませんか」
貫十郎は、何と安請け合いをするお奉行だと、腹を抱えて笑った。しかし、一概にお奉行の大法螺(おおぼら)とも言えなかった。貫十郎はお奉行と面談をして、字が綺麗で、博識の貫十郎をいたく気に入られた様子で、江戸城楓山(ふうざん)御文庫書物奉行配下として推薦してくれることになったと言うのである。
一番驚いたのは、父の矢野浅右衛門であった。
「貫五郎ではなく、貫十郎なのか」
浅右衛門は、貫五郎に聞き直した。
「はい、わたしが朱子学塾で成績上位に居ますのも、兄上のご指導を受けているからでございます」
「剣術も、馬術も出来ぬ貫十郎が…」
「今は、武術よりも学問が重んじられる世の中です」
「儂は、間違っていたのかのぅ」
貫十郎の江戸城勤めは異例ではあったが本決まりとなり、近々江戸へ旅立つことになった。
「兄上独りでは心許ないので、俺が江戸まで送って行きます」
「馬鹿を言え、お前には塾と道場通いがあるではないか」
「訳を話して、両方の許可を得て、一ヶ月の休みが頂けましたよ」
「そうか、お前が一緒なら心丈夫だが、心許ない兄で申し訳ないなぁ」
「いいえ、どう致しまして、浪速へお戻りの時も、お迎えに上がります」
「貫五、ありがとう、何もかもお前のお陰だよ」
母が選んだ佳日に兄弟は旅立った。生まれてこの方、兄弟だけで旅をしたことがなかったので、旅は二年前に家族で浪速へ来た時とくらべて目新しいことの連続であった。田には蓮華草がびっしり咲き乱れ、蝶が優美な舞を見せてくれた。船で川を渡るのも、人足の背で渡るのも、つい燥(はしゃ)いでしまいそうのなるのを抑えるのがやっとであった。
「貫五、私達は父に肩車をされた記憶がないな」
「はい、父の膝に座ることもありませんでした」
「江戸へ行ったら、私達が育った屋敷を訪ねてみたいものです」
「知らない方々が住んでおられることでしょう」
「蝉捕りをしたお社の杜(もり)や、かくれんぼをしたお寺の境内も懐かしいです」
「兄上は、生き物を殺すのが嫌だと、虫も魚も捕らなかったではないですか」
「そうだったなぁ、お前が生き物を捕ってきては死なすので、屋敷の裏は小さなお墓だらけだった」
「兄上は心優しいから、どんなものでも死んだらお墓を作ってやっていました」
貫五郎は、流石は与力の息子である。旅の途中で巾着切りや騙りに遭っても、決して隙を見せなかった。それに反して、貫十郎は隙だらけで、江戸での独りの生活をうまくやっていけるのか貫五郎は心配であった。
とは言え、貫五郎には貫五郎の生活がある。生涯、兄の面倒をみてやれるものではない。職に就いても、虐めもあれば辛い仕事もあろう。良い友達や、好い恋人が出来ればよいのだがと、貫五郎はまるで親心を持った弟である。
宿場町に入り、往来の人が目立ってきたあたりで、貫五郎の草鞋の紐を通す「チチ」と呼ばれる輪の部分が切れた。
「兄上、応急措置をします、ちょっと待って…」
貫五郎がしゃがみ込んだその時、先を歩いていた貫十郎は立ち止まって振り返った。そこへ貫十郎の後ろを歩いていた旅の女が貫十郎に突き当たった。
「お兄さん、御免なさいよ」
「いやいや、わたしが急に止まったのがいけないのです、こちらこそ御免」
女は、サッサと先へ行ってしまった。
「兄上、また財布をやられましたね」
これが、三度目であった。
「あの女も掏摸なのか?」
「そうですよ、油断も隙もないでしょう」
「そうだなぁ」と、言いながら「えへへ」と貫十郎は照れ笑いをした。
貫五郎は、自分の振り分け荷物を下ろすと、中から紙で折った財布を貫十郎に渡した。
「これが用意してきた最後の一つです」
貫十郎は、紙の財布を受け取りながら、貫五郎に言った。
「私が財布を持つから盗られるのだから、私は持たない方が良いのではないだろうか」
「いいえ、これは兄上を訓練しているのです、もっと気を付けてくださいよ」
「そうか」
「江戸は 生き馬の目を抜く と言われているところです、これから兄上はそこでひとり一年間生きていくのですから、注意力、集中力を研ぎ澄まさねばなりません」
「それで、訓練なのか? 財布を持っていなくても訓練はでは出来よう」
「いいえ、盗られて、盗られて、盗られまくって、掏摸というものを体得してください、財布は旅籠で私が幾らでも作ります」
「財布の中に入れる平らな石が、川原でたくさん見つかれば良いのだが…」
「無ければ、山の粘土で作ります」
「貫五、こんなぼんやり兄貴の為に、苦労をかけるなぁ」
「そのかわり、江戸城でどんなに苦労をしても、負けないでくださいよ」
「うん、負けない」
「どんなに辛くても、我武者羅に、そして貪欲に知識を深めてください」
「一年間だが、書物の修理と整理、目録の新規作成、それから翻訳や解説書の作成など仕事は山積みだそうだ、自己研鑚の時間はとれるのだろうか」
貫十郎は、そこの御文庫で働きながら書物を読ませてもらうことになったのだ。
「俺は同じ書物を何度も読まなければ理解できないが、兄上は一度読んだ書物は確実に理解して記憶するではありませんか」
「うん、そうだなぁ、寝る間も惜しんで読み漁る覚悟だ」
貫十郎は、江戸へ着くと一先ず書物奉行の屋敷に草鞋を脱いだ。明日から、この奉行の手となり足となり、頭脳となって働くのだ。
「大坂東町奉行与力、矢野浅右衛門の倅、貫十郎で御座います、どうか宜しくお願い致します」
「遠路、ご苦労であった、大坂東町奉行とは、長崎で一緒だったのだ」
その大坂東町奉行の推薦で矢野貫十郎が書物奉行の配下になったのだと言う。
「今日からそちは、我が屋敷の離れに寝泊まりするがよい」
朝の登城も、夕の下城も奉行と一緒だそうで、貫十郎は自分の緊張が解れる間がないだろうと思った。
「書物奉行様、私は弟の貫五郎でございます、どうか兄上を宜しくお願い致します」
貫五郎は、挨拶を済ませると兄に別れを告げ、大坂へ戻っていった。
「兄上が大坂へ戻られる日を楽しみにしています」
だが、貫十郎が大坂へ戻ることはなかった。この後、貫十郎は読書好きの将軍様に気に入られ、将軍様書物御案内役に任命されて旗本と同格となり、更に書物奉行の娘の婿養子となり、後に義父が引退して貫十郎は書物奉行にまで出世した。 (終)
(これはフィクションであり、時代背景、登場人物等、全て架空であります)