雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「股旅演歌」

2016-03-19 | エッセイ
 ここのところ、猫爺はブログへの投稿をサボっている。こんなにサボるのは、入院していた時以外では初めてだろう。
 だが、サボるというのは正しいのだろうか。サボるとは、勉強とか仕事とか、やらなくてはならないことを怠けることの筈だ。ブログに記事を載せるのは、やらなければならないことではない。趣味を楽しんでいるのである。猫爺には、「ボケ防止」という目的もあるには有るが‥。

 若い方々のブログを拝見していて、更新が途絶えることが、まるで罪であるような意識を持っておられる方もいらっしゃるのだなぁと生真面目さを感心する一方、そのひたむきさを「余計なお世話」ながら心配する猫爺である。

 猫爺は若いときからそうであるが、趣味、興味は周期的にシフトする。文芸に熱を入れているかと思えば、アマチュア無線に懲り、電波を飛ばす為に態々山登りをしたり、バイクでツーリングをしてみたり、作曲に凝ったり、写真に凝ったり等々、移り気で一つのことに落ち着けない人間である。

 今はと言えば、ヨボヨボで行動範囲が狭くなり、音楽を聴くことが主になっている。それも、若いときには興味が無かった演歌を、年寄らしく好んで聴いている。演歌の中でも、「股旅演歌」がいい。
 股旅とは、江戸時代やそれ以前に足で歩いて旅をすること言ったものであるが、特にヤクザな男や女が賭博で旅籠賃を稼いだり、侠客一家で一宿一飯の恩義を受けながら旅をすることである。旅の目的は、たいてい罪を犯して無宿者になった者達が追手を逃れるための旅である。
 これに対して、武士や堅気の衆の歩き旅は、旅人の脚を馬の足に例えて「膝栗毛」といったようだ。


 猫爺の書く「連続小説」にも、この股旅のスタイルを使っている。その一番目が、肥桶を担ぐ天秤棒を持たせると天下無敵の「池田の亥之吉」である。この亥之吉、形(なり)はヤクザではあるが、無宿者ではなく実は大坂のお店(たな)の番頭である。しかもこのお店のお嬢さんとは許嫁で、末は暖簾分けをして貰える堅気で、ある目的を持って旅に出たのである。その目的とは、身を持ち崩したお店の長男が店を飛び出しヤクザに身を窶していると知り、同じく身を窶し、探し旅にでたのである。

 二番目に登場するのは、旅雀と揶揄(からか)われる「チビ三太」五歳である。たった五歳の少年が大坂から江戸まで旅をするのは到底無理であるが、彼には「中乗り新三」という守護霊が憑いているのだ。旅の途中、親に捨てられた同年の少年と、穴にはまり母狐に見捨てられた狐の仔が道連れになる。江戸には「池田の亥之吉」が待っている。その頃は、江戸の町に店を開いていた亥之吉のところに丁稚奉公し、棒術を教わるためだ。

 三番目に登場する旅鴉は「江戸の辰吉旅鴉」である。彼は、亥之吉の長男で、町で喧嘩に巻き込まれ、人を殺した結果の逃亡旅である。


 この投稿は、猫爺の「取り敢えず投稿」だなと気付かれた方、鋭いっ!