雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「死んだら我が身はどうなる?」

2014-11-22 | エッセイ
 何も身体を動かしたくない時に、録り溜めた医療サスペンス・ドラマ「チーム・バチスタ4、螺鈿迷宮」を全話見た。看取りの病院で、寺院、火葬場まで敷地内にあり、院長が内科医、監察医、僧侶、葬祭ディレクター、火葬技術管理者まで兼ねているとは、「また何と合理的な!」と、感心させられた。(猫爺の推測を含む)

 死を「暗闇」と捉まえて、五感からの情報の無い意識が、暗闇のなかで彷徨っているようなイメージ持ち、恐怖に慄いている老人を描いていた。

 死を完全な閉じ込め症候群のように考えると、恐怖には違いない。しかもそれが永遠に続くとは、なんとか地獄で責められるよりも恐ろしいことだ。

 猫爺は、特に楽天家でもないと思うが、死を恐れる気持ちは六十代になったとともに薄らいでしまった。天国だ、極楽だ、神だ、仏だのを信じれる人は、それはそれで良いじゃないかと思うが、死は暗闇などではなく、無だと考えた方が余程恐くない。

 生き物は、「無」から生じて「無」へ戻るものだ。生じるとは、受精の瞬間である。生じたものは、成長して老化し、再び「無」へ帰って行く。愛しき自然のなりわいではないか。

 猫爺が死を語るとき、よく引き合いに出すのは「生前」である。「死んだことが無いので、死んだらどうなるのか解らない」と言う人に、「それは生前と同じだ」と、話す。過去に向かって永遠だろうが、未来に向かって永遠だろうが、「永遠の無」は「永遠の無」なのだと。

 「無」は「安らか」でも無ければ「楽」でもない、「苦」でも無いし「痛く」も「退屈」でも無い。「苦しいから」または「辛いから早く楽にさせてくれ」なんて言うドラマのセリフがあるが、死ねば苦しみはなくなる代わりに、楽にもならない。

 それで十分ではないか。焼かれようが、灰を砕かれようが、海に撒かれようが、死んだ本人には無関係である。全ては残された者の心の持ちようだ。