雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

浄霊

2012-03-29 | 日記
 今週の水曜日も、恐怖番組とかを放送していた。 私が台所のテレビで見ていたのは、荒れた廃屋にカメラを持ち込み、霊能者と称する男と共に、例によって「キャーッ」と叫んで何ぼの女性タレント、或いはアナウンサーの盛り立てで作成したおとぼけ番組。 破れ天井から木片が落ちてきたら、霊能者が視聴者サービスのつもりだろう、「何かいる」とつぶやいていた。 それは霊だという。 霊能者が「危険だから浄霊して立ち去ろう」と言って霊取材は終わった。 大荒れの廃屋に大勢が詰めかけたら、壁や天井が崩れ落ちるのは当たり前だ。 危険なのは霊ではなくて崩れかけの廃屋だ。 廃屋のなかで撮影すれば、得体の知れないものが映りこんでも「当たり前田のクラッカー」だろう。 (古っ!)  得体が知れないのは、作為か取材不足がどちらかだと思う。

 霊が存在して、うかばれない霊が浄霊することでうかばれるのなら、東北の震災・津波の被災地に霊能者を集めて、日本全国規模の「浄霊大会」を何故行わないのだ。 行方不明の死者の霊を呼び寄せて、どうして霊の話を聞いてあげるような番組を作らないのだ。 この大会によって行方不明者がゼロになったら、死者の家族がどれほど救われることだろう。 テレビ局のスタッフたちが霊の存在を本当に信じているのなら、スポンサーを説得し、寄付金やボランティアを集めて、それくらいの事をしても良かったのではないだろうか。 本当は、スタッフも霊能者さえも、霊の存在など信じていないのだろう。 視聴率稼ぎと金儲けのために、廃屋でチマチマと霊を追っているふりをしているだけではないのか。 

 番組のあほらしさを通り越して、少し腹立たしささえ覚える番組(一部しかみてないが…)だった。 

崇徳院

2012-03-29 | 日記
 和歌が出てくる落語の3席目、「崇徳院」YouTube に、かなり若い頃の笑福亭仁鶴師匠の落語があった。 

   瀬をはやみ岩にせかるる滝川の  われてもすゑにあはむとぞ思ふ (崇徳院) 詞花集

 落語のストーリーは至極シンプルで、商家の若旦那「作次郎」が高津神社へお詣りの帰り、立ち寄った茶店で水も滴る若い女性に一目惚れする。 女性が先に帰って行ったが、座っていたところに茶袱紗を忘れているのに作次郎が気付く。 追いかけて届けてやると、女性は崇徳院の歌の上の句を料紙に書いて作次郎に渡した。 その後、作次郎はその女性のことが寝ても覚めても頭から離れず、病の床に就いてしまう。 父親が医者を呼び診てもらうと、思うことが叶わないために病気になったもので、あと5日は持たないだろうという。 父親は作次郎の幼馴染の熊五郎を呼び、叶わぬことが何なのか訊いてくれと頼む。 結果恋患いと判明、作次郎は女性を3日以内に探すようにと褒美を餌に半ば命令される。 手がかりは崇徳院の歌だけ、熊五郎は女房の知恵を借り、人の集まるところで「瀬をはやみー」と叫んでまわる。 ようやく3日目、例によって床屋で叫んでいると、お嬢さんに頼まれたという大工の棟梁に出くわす。 先に若旦那の方へ来い、いやお嬢さんの所へ来いともめているいるうちに、床屋の大鏡を割ってしまう。 怒る床屋に向かって熊五郎、「割れても末に 買わんとぞ思う」(落ち)

    崇徳院(すとくいん)=崇徳天皇
    茶袱紗(ちゃぶくさ)=茶道の用具で、絹のハンカチのようなもの