雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺の短編小説「母をさがして」第二部 野宿   (原稿用紙9枚)

2016-01-26 | 短編小説
 翌日の早朝、父親が鼾をかいている間に、普段に着ているボロ着のままで、家に有った塩と火打ち鉄を懐に入れて兄弟は家を後にした。向かうは江戸である。会津西街道に出ると、兄弟はただ西へ西へと歩き続けた。陽が頭上近くに昇りつめた頃、ようやく腹が減ってきたことに気が付いた。朝から、なにも食っていないのだ。
   「耕太、腹が減ってきただろう」
   「うん」
   「街道脇に農家がある、行ってみようや」
   「うん」

 農家の近くまで来ると、初老の農夫が一人で薪を割っていた。駿平は恐る恐る農夫に近付き、一本割り終えて腰を伸ばしたところで声を掛けた。割っている最中に声を掛けて、驚かせてはいけないと気を配ったのである。
   「おじさん、お願いがあります」
   「おや、見慣れない子だね、この辺の村の者かね」
   「いいえ、会津の方から来ました」
   「こんな遠くまで遊びに来たのか」
   「遊びに来たのではなく、江戸へ行く途中です」
   「子供二人で、江戸へ何をしに行くのかね」
   「母を探しに行くのです」
 男は訝かし気である。
   「そんなことを言って、本当は江戸に憧れて家出をして来たのだろう」
   「違います、本当に母を探しに江戸へ行くのです」
   「お母さんは、どうして江戸へ?」
   「父の借金の肩に、売られて行きました」
   「それじゃあ、子供がノコノコ出掛けて行っても会えないだろう」
   「一目だけでも、元気な顔を見るだけでいいのです」
   「一目見た後は?」
   「兄弟して、死んでも構いません」
 男は声高に笑った。
   「馬鹿な作り話をしていないで、早く家に帰りなさい、親達が心配しているぞ」
   「本当なのです、薪割りでも、畑仕事でも手伝わせてください」
   「しつこいと、役人に言って連れ帰って貰うぞ」
 農夫は、駿平の言うことなど全く信じることはなかった。

 言いたいことを最後まで聞いて貰えず、駿平は悄気返ってしまった。
   「兄ちゃん、今度はおいらが頼んでみるよ」
 耕太は、まったく悲観していなかった。

 次に見つけた農家には、耕太が走って行った。
   「こんにちは、誰か居ますかー」
 二、三度叫んで、漸く老婆が出てきた。
   「はい、はい、何処のお子じゃな」
   「おいら、耕太と言います、会津から江戸へ行く途中です」
   「おやおや、遠くまで行くのですね」
   「はい、おとうの借金の肩に、江戸へ売られていったおっかぁを探しにいくのです」
   「たった一人で?」
   「いいえ、お兄ちゃんと一緒です、どうせ飢え死にするのなら、少しでもおっかぁに近いところで死のうと話し合いました」
   「それで、どうしてここへ?」
   「薪割りでも、畑仕事の手伝いでもなんでもやります、おいら達に野菜屑を恵んでください」
 耕太は、尋ねられるだろう事情を、先に訴えるのだった。
   「分かったよ、野菜屑だったらあげるけど、それよりお爺さんが野良から帰って来たら相談するので、今日は家で泊まって行きなさい」
 老婆は兄弟の為に、雑炊を作って食べさせてくれた。駿平は、取り敢えずお礼にと、納屋から短く切った丸太を運び出して斧で割った。
 耕太は耕太で、縁側で老婆の肩を叩いていた。駿平は弁えたもので、割った薪を荒縄で束ねて納屋に次々と重ねていった。
   「お爺さんが喜ぶよ、年をとると薪割りも辛いらしくてねぇ」
 
 だが、この農家の主が帰ってくると、兄弟を見て行き成り怒り出した。主の留守を見計らって入り込み、何かを盗んだに違いないと、駿平を捕まえて柱に縛り付けた。縛られた駿平に縋りつく耕太を、そのまま駿平と共に縛り付けてしまった。
   「お爺さん、何をするのです、この子たちは素直な良い子たちですのに」
   「いいや、何か無くなっているに違いない、探してみろ」
 主は箪笥の抽斗や、押し入れの中まで探したが、何も無くなってはいなかった。納屋はどうだと探しに行ったが、薪が割られて綺麗に積み上げられていただけであった。
   「これは、ガキどもがやったのか?」
   「そうですよ、お昼に雑炊を食べさせてやったので、そのお礼だと言って」
 主は、感謝しているに違いないのだが、えらい剣幕で疑った手前、素直に折れることが出来ないらしく、仕方が無さげに兄弟を解き放った。
   「許してやるから、とっとと出て行け」
 兄弟は黙ったまま出て行こうとすると、老婆がそっと風呂敷包を渡してくれた。
   「百文しか入っていないけど、持って行きなさい、爺さんを許してやってね」
 包には、巾着と白い大きな握り飯が二つ入っていた。

 兄弟が、会津西街道にとって返した時は、太陽は西の山並みに沈みかかっていた。
   「今夜は野宿だ」
 街道を逸れて、山道を少し行くと荒れた墓場があった。墓場に入って突き進むと、昔は墓守が寝泊まりしたのであろう壊れかかった小屋が有った。恐る恐る中へ入ると、プーンと黴と壁土の臭いがした。
   「筵も藁もないけど、雨露は凌げる、耕太、墓場が怖いかい?」
   「ううん、兄ちゃんと一緒だから怖くない」
 その夜、兄弟は農家の老婆に貰った握り飯を食って、幸せな気分で抱き合って眠った。
 
 真夜中、耕太が物音に気付いて目を覚ました。
   「兄ちゃん起きてくれ、今、外で音がした」
   「どんな?」
   「カリカリカリ ゆうた」
 駿平が耳を澄ませると、小屋の外を動物が歩き回っているようである。
   「野犬か、狼かも知れん」
   「おいら達を食べに来たのか?」
   「そうらしい」
   「怖いなぁ」
   「小屋の中に居れば大丈夫だ」
 駿平は床板を一枚剥がし、足音のする方向に構えた。板壁の隙間からにゅっと前足が入ってきた。どうやら、この板を抉じ開けようとしているらしい。その前足を目掛けて、駿平は板の角で思い切り叩きつけた。
   「キャン、キャン」
 やはり野犬らしい。逃げて行ったのか、それっきり物音は止んだ。だが、またいつ仲間を連れて仕返しにやって来るかも知れない。兄弟は眠れぬままに夜明けを迎えた。

   「兄ちゃん起きろよ、もう昼近いみたいだぜ」
 夜が明けてから、兄弟は安心して眠ってしまったらしい。

 昨日は、昼と夜に鱈腹食ったので、今日は空腹を我慢して歩き続けた。懐に百文入っているが、これは万が一のときに備えてとっておくことにしたのだ。

-つづく-


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猫爺の短編小説「母をさがして」第一部 旅立ち   (原稿用紙8枚)

2016-01-25 | 短編小説
 会津の国は、とある山村の農家に夫婦と二人の息子が慎ましく生活していた。夫は働けど働けど貧しさから抜けることの出来ない憤懣が募り、いつしか働くことを止めて酒に溺れていった。妻と十二歳と七歳の兄弟は僅かな畑にしがみつき、その日その日を生きていた。妻は夫の憤懣の捌け口となり、重なる暴力にも涙ひとつ零さずに耐え忍んでいた。

   「おとう、おふくろは何処へいった」
 朝早く目が覚めた長男の駿平が父親孫六に尋ねた。
   「さあ、今朝目が覚めたら居なくなっていた」
   「どこへ行ったか、心当たりはないのか?」
   「ない」
 何処かへ行くなら、一言告げて行けば良いのにと、駿平は文句を言いながら母に代わって朝餉の支度をした。

 その日、酒の臭いが残る父親を家に残し、駿平と耕太は畑仕事に出掛けた。夕刻になっても母は帰っていなかった。母は、何も言わずに出かけて、日暮れまで帰って来なかったことなど、今まで一度もなかった。また、身寄りもなく、行くあてなどないのである。
   「おとう、おかしいぞ、もう暗くなって来たのに帰って来ねえなんて」
   「そうだなぁ」
 父親は嘯いているようにも見える。弟の耕太が、泣きべそをかき始めた。
   「おっかあ、どこへ行った」

 次の朝にも帰って来なかった。
   「おら、村長さんに相談して来る」
 駿平が駆け出そうとすると、孫六が止めた。
   「わしが不甲斐ないから、家出したのかもしれねぇ」
 駿平も耕太も驚いた。耕太は大声を出して泣き喚いた。
   「おとう、おふくろは俺たちを残して家出なぞする筈がねえ」
 孫六は、黙って俯いた。駿平は、父親が何かを隠していると勘付いた。
   「おとうは知っているのだろう、言ってくれ」
 駿平は母親を迎えに行くと言いだした。孫六は相も変わらず黙って下を向いている。
   「もしや‥」
 駿平は、不吉なことを想像して、身震いをした。
   「もしや、おふくろを売っちまったのではなかろうな」
 言われて、孫六は二人の息子に手をついた。
   「許してくれ、わしの借金の肩に連れて行かれたのだ」
 それを聞いて、駿平は顔を真っ赤にして逆上した。仕事をしないばかりか、母親に暴力を振るい、挙句の果ては借金の肩にするとは、どうしてもこの父親が許してはおけなかった。
   「殺してやる!」
 駿平は水屋へ行くと、出刃包丁を握りしめた。
   「何処へ行ったら、おふくろに会えるか言え!」
   「わからん、何処かへ売られたのだろう」
   「売られたのだろうと、他人事のように言うな、お前がそう仕向けたのだろうが」
 包丁を両手で握り、父親に突進しようとしたが、弟の耕太が叫んで止まらせた。
   「兄ちゃん、止めてくれ」
 兄ちゃんがそんなことをしたら、おいらは独りぼっちになると、泣いて駿平の足に縋った。気付いて出刃包丁は手放したが、駿平はどうにも遣る瀬無い気持ちでその場に蹲った。

 その日は野良仕事に出掛ける気にもならず、駿平は外へ飛び出すと小川の縁に腰を下ろして水の流れを眺めていた。
 いつの間にか、耕太が兄の姿を見付け出し、そっと寄り添って涙を零していた。それから数日が経った。駿平は小川で小魚を獲り野菜を煮て弟に食べさせたが、働く気にもなれずに同じ場所に座り込んでは水の流れを見て時を過ごした。夜になると家に帰るのだが、父親に背を向けて黙りこくるばかりであった。

 ある日、やはり小川の縁に座り込んでいると、この日も耕太がやってきて駿平に寄り添った。
   「なあ耕太、おら達二人で家出をしようか」
   「おっかぁを探しにいくのか?」
   「うん、隣の権爺に訊けば、おっかぁの行先が分かるかも知れん」
 母親は、よく権爺の家に行き悩み事を話しては癒されて帰ってくるのを思い出したのだ。権爺が野良から戻る頃を見計らって、兄弟そろって権爺が通る農道に座り込んで待っていた。
   「あっ、権爺だ!」
 耕太が鍬を担いで戻ってくる権爺の姿を見付けて叫んだ。
   「駿平と耕太じゃないか、そんなところで何をしている」
   「権爺を待っていたのです」
   「そうか、おっかぁのことを訊きたいのか」
   「うん」
   「孫六の為に、お前たちも悲しい思いをされられたのだろう」
   「うん」
   「お前たちに言うのは残酷なのだが、おっかぁは売られていったのだ」
   「何処へ?」
   「女衒に連れられてお江戸方面に向かうお由さんの姿を、月明りに見た村の若衆が居たのだ」
   「お江戸のどこか分かりませんか、おふくろは権爺に告げませんでしたか」
   「お由さんも、寝耳に水だったようじゃ、お前たちやわしにも別れを言う間も無かったのだろう、可哀そうに‥」
 権爺は、涙で言葉を詰まらせた。
   「権爺、ありがとう」
 駿平と耕太は、何やら希望の光が射したような明るい顔になって権爺と別れた。

 その日の朝も、駿平と耕太は小川の流れを眺めていた。ただ、今までとは違って駿平の目は輝いていた。
「なあ耕太、このまま家に居ても冬になれば、おいらたちは飢えて死ぬかも知れない」
   「うん」
   「家出をしてお江戸へ行かないか」
   「だって、おいら達は一文なしだろ」
   「途中の農家で、手伝いをして食べ物を貰うのだ」
   「手伝いって?」
   「薪割りとか、草むしりとか、荷物運びとか土竜退治だ」
   「そんなこと、させて貰えるのか?」
   「きっと居るさ、そんな優しい人が」
 もし、盗人だと騒がれて役人に引き渡されたら、誰も庇ってくれる人は居ないだろう。そうなれば牢に入れられ、働かされて牢死するかも知れない。駿平は、弟を不憫に思うが、あの暴力を振るう父親のところに一人残しては行けない。
   「どうせ死ぬなら、兄ちゃんは少しでもおっかぁに近いところで死のうと思う」
   「おいらも」

-つづく-
 

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猫爺の短編小説「お松の子守唄」   (原稿用紙30枚)

2015-09-13 | 短編小説
   「姉ちゃん、行くな」
 小さなお寺の墓地の隅に、丸太の一面だけを平らに削って墓標にし、「俗名、お菊」と書かれた墓があった。その前で合掌している少年と、少女の二人が居る。
   「そうはいかないの、弦太は男の子でしょ、お父っつぁんを護ってあげて」
 弦太と呼ばれた少年は、「うん」と、返事をしようとするが声にはならず、黙って頷いた。だが、それまで堪えていた悲しみが込み上げてきてしゃくり上げはじめ、やがて慟哭した。
 少女は、お松十三歳、弦太は九歳、貧しい農家の生まれで、仲の良い姉弟であった。
   「行けば、もう帰れないのか?」
 弦太がしゃくり上げながら訊いた。
   「そんなことはないの、十二年経てばきっと帰ることが出来るわ」
 お松は十両で売られて、十二年の年季奉公に出るのだ。
   「おいらを連れて、逃げてくれよ、おいら、どんな辛抱もする」
   「それは出来ないの、おっかさんが病気になって、お医者に診てもらうために借金をしたのだけど、それを返すあてがなく、姉ちゃんが奉公に出ることになったのよ」
 弦太は納得しなかった。
   「だっておっかさん、死んじゃったじゃないか」
   「それでもねぇ、何もしてやれずに死なせてしまうよりも、出来る限りのことをして送ってあげたのだから、私もお父つぁんも悔いが残らないわ」

 お松は、もう一度お墓に掌を合わせた。
「おっかさん、行って参ります、暫くのお別れですね」
 泣き止んでいた弦太が、再び大声で泣いた。

 翌朝早く、父の弥平と娘のお松は旅立った。「おいらも行く」と、泣き叫ぶ弦太を隣人の男に預けて、弥平とお松は一度も振り返ることなく、峠の道に消えて行った。それが、弦太が見た最後のお松の姿だった。

   「お松、済まない、お父つぁんが不甲斐ないばかりに、お前に苦労をかける」
   「私は大丈夫だよ、どんなに辛くても耐えてみせます」
 そう言ったものの、お松の胸は不安で圧し潰されそうであった。故郷美濃の国、御嶽村を出て、二人は近江の国に向かって黙って歩いていたが、突然、弥平が独り言のようにぽつりと呟いた。
   「十二年か、長いなぁ」
 その頃には、お松は二十五歳になっているのだ。まだ若いとは言え、当時では婚期を逸しているのだ。
   「お父つぁん、それまで元気で居てね」
   「弦太が二十一歳だ、頼もしい男になっているだろう」
   「もう、お嫁さんを貰っているかな」
 お松は、父に心配をかけまいと、無理に明るく振舞っている。


 着いたところは近江商人の町で、中でも可成りの大店である上総屋(かずさ)という米問屋であった。
   「私は女将のお豊です、この娘かいな、なかなか素直そうな娘じゃないか」
   「父親の弥平でございます、田舎者の娘ですが、どうぞ宜しくお願いいたします」
   「お松さんには、赤子の世話をしてもらいます、何、心配しなくても母親が付いていますので、その言い付け通りに働いて貰えば宜しいのです」
 女将は、お松の見ているところで、十両の金を弥平に渡した。
   「十両でおましたな、それではこの証文に印鑑を押してもらいます、判子は持ってきていますか」
   「へい、村長に届けた判子を持ってきました」
   「ああ、そうか、それならここへ」
 女将が差し出した証文と、黒肉(こくにく)を受け取り、印鑑を押して差し出した。この瞬間から、お松の体はお松の物ではなくなった。
   「もし、お松が働けなくなったら、代わりの者に来てもらいます、兄弟はいますのか」
   「はい、九歳の弟が一人」
   「さよか、ほんならそのへんのところ、宜しく頼みます」
 女将は、お松が年季の最中に身投げでもしたら、残りの年数を兄弟に働いて貰うと言っているのだ。弥平は、何かしら不吉なものを感じた。このまま、お松を連れて帰りたい衝動に駆られたが、仕方がなく承諾した。

   「お父つぁん、さよなら」
 お松は店の外で手を振って弥平を見送っていたが、女将に手を引っ張られて店の中に消えた。その様子を振り返って見ていた弥平は唖然とした。拳で涙を拭いながら、思い切ったように故郷へ帰って行った。

 お松の仕事は、子守りだけではなかった。飯炊き、掃除、洗濯、風呂焚き、などの手伝いと使い走りなど、中でもオムツの洗濯はお松に任されて、目の回るような忙しさであった。
   「坊ちゃん、お願いだから泣かないで」
 火のついたように泣き叫ぶ赤ん坊の口を塞ぐ訳にもいかず、おろおろするばかりのお松のところへ、赤ん坊の母親が飛んできた。
   「これはお腹がすいているのよ、お乳を飲ませるからこっちにお寄越し」
 母親は、赤ん坊にお乳を飲ませながら、赤ん坊の背中を覗いて驚いた。お松に任せるまでは無かった汗疹(あせも)が出来ているのだ。
 乳を飲ませた後、赤ん坊を裸にしてみると、股間はおむつ気触(かぶ)れで真っ赤である。母親は女将に見せに行った。
 女将は、血相を変えて飛んできて、行き成りお松の頬を平手打ちした。お松はぶっ飛んで土間に倒れたが、慌てて起き上がり、手をついて謝った。
   「すみません、他の仕事が忙しかったもので、気が付きませんでした」
 この言葉が、女将を更に怒らせてしまった。
   「奉公人の分際で、口答えをするな」
 こんどは往復ビンタを喰った。
   「他の仕事が忙しかっただと、それじゃまるで扱き使ってようじゃないか」
 再びひっくり返ったお松の横腹を、力任せに蹴っ飛ばされ、一瞬息ができなくなって、目を白黒させてもがいた。
 物音を聞いて飛んできた番頭に、女将が言い付けた。
   「今夜、お松は食事抜きや、物置蔵に放り込んできておくれ」

 真っ暗闇の蔵の中で、お松は「死んでしまいたい」と、独り言を呟いた。仕事はきついし、赤ん坊はしょっちゅう泣く。その度にお松が叱られているのだ。顔を拳で殴って傷をつけると世間体が悪いと言って、使用人のまえで裸にさせられて竹の物差しで背中を叩かれる。痛みよりも、恥ずかしいうえに男連中の目が怖いのだ。お松にはまだよくは分からないものの、ギタギタした視線がお松の裸姿を嘗め回している。何時かあの目が自分を襲ってくるような気がして、ブルッと身震いをするのだった。

 その日は、すぐにやってきた。真夜中にお松が入れられた蔵の扉がソーッと開かれて、男が入ってきたのだ。
   「しーっ、静かに」
   「誰?」
   「女将さんが寝てしまったので出してやる」
 男は番頭だった。明日、一緒に詫びてやると言うのだ。お松が気を許した時だった。番頭はお松に近付き抱き寄せた。
   「音を立てたら、人がとんでくる」
 大きな左掌で、お松の口を塞がれてしまった。
   「わしは子供好きなのじゃ、大人しくしていたらお前の味方になってやる」
 お松は、大蛇に巻き付かれたように身動きが取れなくなった。番頭の右手は、ゆっくりとお松の帯を解きはじめた。
 次の瞬間、股間に痛みが走り、そのうちお松は気を失ってしまった。翌朝、目が覚めたが、やはり蔵の中であった。番頭は、自分の欲望を満たしたあと、お松を蔵に残したまま、出て行ったようだ。

 お松は、明るくなった蔵を見回していた。年季が明けても、もう嫁にはいけないと、蔵の梁に自分の帯を掛けて、首を括ろうと思ったのだ。そのとき、故郷の弦太のあどけない顔が浮かんだ。
   「お姉ちゃん、行くな」
 昼になっても、蔵の扉は開かなかった。
   「何これしき、自分はこんなことで挫けるものか」
 弦太を、こんなところに連れてこられてたまるものか。弦太を護るためなら、何だってできる。そう考えると、もりもりと勇気が湧いてくる。その代り、お腹が空いてきた。

 午後になって、ようやく番頭が入って来た。昨夜のことなど忘れてしまったかのように平然としている。
   「女将さんが許してくれた、早う出てきて謝ってきなさい」
 お松は、黙って従った。
 
 苦しく悲しい年月が流れ、お松は十六歳になっていた。坊ちゃんは目が離せない三歳である。素早く歩けるようになってきたが、すぐにこける。怪我でもしたら、お松はどんな仕置きをされるか分からない。薄氷を踏むような毎日であった。

 深夜には、お松が寝ている布団部屋に、毎夜のように使用人の男が忍んでくる。それは、まるで順番を決めているように順序正しく、二人の男が鉢合せをすることがなかった。
 お松は、ただ黙って、男たちのなすがままになっていた。そんな時、弟弦太が自分に甘えてくるのを思い浮かべていたが、弦太を汚しているような気になるのでやめた。ただ無感情に嵐が去るのを待つばかりであった。

 そんなある日、お松は飯を炊いていて、急に吐き気を覚えて厠に走り込んだ。年増の女中がそれを見て、悪阻(つわり)に違いないと女将に言い付けた。
   「男は誰や、言うてみい、まさか倅の安吉やなかろうな」
   「わかりません」
   「お前を胎ました男がわからないのか」
 無理もないことである。大旦那と、最近来た丁稚二人の他の男は、みんなその可能性があるのだ。女将も、その意味が分かったようである。
 年増の女中を呼び、こっそりと取り上げ婆のところへお松を連れて行くように言い付けた。
   「世間体が悪いので、くれぐれも内密にな」

   「前回、月の物が有ったのはいつ頃じゃ」
   「はい、先々月のおわり頃です」
 お松が蚊の鳴くような声で答えた。恥ずかしくて消え入りそうなのである。頑固そうな老婆は、お松の体を撫でまわした。挙句は、股を開かせて指を差し込んだりもした。お松は恥ずかしさを通り越して、気が遠退くようであった。
   「はっきりしたことはまだ分からぬが、ややこが出来たようじゃな」
 お松は、何が起きたのか事態が呑み込めず、呆然としていた。
   「奥さんと相談して、また二十日後に来なさい」
 老婆は、お松の様子を女中から聞いて、知っているようであった。

 女将は、先に女中から聞いたようで、いきなり平手打ちをされた。
   「小娘のくせに、何とふしだらな女だ」
 お松はただ謝るしかなかった。「男たちが悪い」とでも言おうものなら、「口答えをするな」「言い訳をするな」と、また叩かれるだけだと言うことは分かっていたからだ。
   「奥様、どうかお腹の赤ん坊の命を助けてください」
   「年季奉公の小娘が、父親のわからない子を生むなど、許されることではない」
 二十日後に取り上げ婆のところへ行き、子を孕んでいるとわかれば、何が何でも下ろして貰えと、取り付く島もない。
   「こっそりと育てます、どうか赤ん坊の命を取らないでください」
   「馬鹿なことを言うのではない、世間に知れたらうちのお店は物笑いの種だす」
 その日から、お松は念仏のように「赤子の命をとらないで」と、ぶつぶつ呟くようになった。

 二十日後、年増の女中に連れられて取り上げ婆に診てもらうと、やはり妊娠だと言われた。帰りぎわ、女中は老婆から何やら薬のような物を受け取って金を払っていたが、お松にはそれが何か分からなかった。

 夕食のあと、女将は薬包みを一包お松の掌に乗せた。
   「これは、お松のお腹の赤ちゃんを元気にする薬だよ」
 女将から一包の薬を見せられて、お松は喜んだ。
   「それでは、赤ん坊を生んでもいいのですか」
   「いいとも、お生みよ、そのかわり仕事もきっちりやるのだよ」
 この時は、恐い女将の顔が、優しい母親のように見えた。
   「今、お水を持ってきてあげますから、残さず飲みなさいね」
   「はい、有難う御座います」

 お松は、少し変な臭いがするこの薬を、水で一気に飲み込んだ。これは、赤ん坊を元気にする薬ではなく、「中條流の早流し」という堕胎薬であった。これには、劇薬が入っており、うまく堕胎しても心身に後遺症が残ったり、酷い場合は死に至ることもある。

 薬を飲んだ後、お松は床に就き、次第に弱っていった。
   「赤ちゃん、元気に生まれるでしょうか」
 部屋に入ってくる人に、必ず尋ねるようになり、やがてそれが譫言となり、床に就てから七日目に、お松は息を引き取った。たった十五年余の、短い人生であった。

 お松の父と弟が待つ故郷へ、使いの者が出され、「お松が病死した」と伝えられた。父の弥平と、弟の弦太が訪れたのはお松の死後五日経ってからで、その時、お松の遺体は既に埋葬された後であった。父子が案内されたのは思いも寄らない「投げ込み寺」であった。投げ込み寺は、無縁仏を葬る照石寺である。
   「なんと酷いことを…」
 父子は嘆いた。弟の弦太は、拳を固めて涙を拭いながら呟いた。
   「姉ちゃん、きっといつか美濃の御嶽村につれて帰り、おいらが墓を立ててやるからな」

 父弥平は御嶽へ戻っていったが、弦太は戻ることが出来なかった。お松の年季が後九年も残っているからだ。
   「お松がもし働けなくなったら、弟に奉公してもらう」
と、女将に念を押されていたのだ。
   「お父つぁん、俺が居なくなっても、元気に居てくれよ」
 父子の別れ際、弦太は明るく手を振った。だが、九年は長い。弦太は自分のことよりも、父親が心配でならなかった。

 弦太は年下の丁稚の下で、十二歳の丁稚として働き始めた。弦太は山里生まれの貧乏農家に育った割には、気が利くし、思い遣りがある。人の嫌がる汚い仕事も自ら引き受けてテキパキと働く、そのうえ記憶力が優れていて、言い付けられたことを正確に果たす。店では重宝がられて、だんだんと店に馴染んでいった。
 弦太の他に、ふたりの丁稚が居たが、すぐに兄貴的な立場になっていた。弦太は、そのうちの一人、千太という好奇心の強い丁稚と仲良くなっていった。
 千太は、弦太と二人きりになると、実家の父母や兄弟の話をよくする。弦太は聞き上手なので、本当は興味のないことでも親身になって聞き、まじめに相槌を打ち感想を伝える。千太にとっては仕事の辛さも、叱られた悲しみも、弦太が半分引き受けてくれる兄貴であった。
 ある日、弦太は何気なく千太に訊いた。
   「おいらの姉ちゃん、なんで病気になったのだろう」
 千太は驚いた。
   「病気? 弦太は病気だと聞いているの」
   「うん、突然倒れて、何日か後に息を引き取ったのだろう」
   「違うよ、取り上げ婆から買った、お腹の子を下す薬をのまされたのだよ」
 弦太は「姉の死には、何かある」と、疑っていたのだが、こんなに早く「謎」に近づけたのは、姉お松の導きがあったのだと感じた。
   「姉が好きになった男は、どんな人だったのかなぁ、きっと優しい男だったのだろう」
   「一人じゃないよ、この店の大人の男みんなに弄ばれたのだ」
   「千太は子供なのに、よくそんな弄ばれたなんて言葉知っているのだね」
   「女中たちがそう言っていたのだ」
   「へぇー、大旦那様や、旦那様もかい?」
   「大旦那様は知らないけれど、旦那様が一番いやらしいのだって」
 女たちの陰口を、千太は聞いていたらしい。それっきり、弦太は姉のことを口にしなくなった。いつも通りの朗らかな弦太の笑顔が、店中を和やかにしていた。

 女将のお豊が、千太を呼び寄せた。
   「千太、ちょっと使いに行っておくれ」
   「へい、どちらまで?」
   「町はずれのお稲荷さんにお参りをして、新米をお供えしてくるだけだよ」
   「えー、こんな夕方になってからですか?」
   「嫌なのか?」
   「だって、帰りは薄暗くなってしまう」
   「主人の言い付けが聞けないのか」
   「だって、あそこは狐の神社でしょ」
   「神社の狐は神様のお使いだよ、そこらの性悪狐と違う」
   「怖いなぁ」
 弦太が二人の話を聞いていたので、自分が行くと名乗り出た。
   「お米は重いので、千太には無理ですよ」
   「弦太が行ってくれるのかい、それなら行ってきておくれ」
 米は、四升(6kg)、それを担いで町はずれまで行くのは、やはり子供には重過ぎると思った。だが、弦太は小さい頃から重い物を運んでいたので、苦にはならなかった。
   「弦太ありがとう」
   「何、いいのだ、嫌なことを押し付けられた時は、おいらに言いな」
 弦太は、姉のことを知らせてくれたお礼の積りなのだ。

 帰り道は日が暮れていたが、「いい機会だ」と、少し遠回りして「取り上げ婆」のところに挨拶にいった。床下に物入れがあるらしく、丁度それを閉めるところだった。
   「そう、あのお松ちゃんの弟かい、お姉ちゃんは気の毒なことをしたねぇ」
 自分が毒の入った薬を売りつけて姉を死に至らしめたくせに、他人ごとのように言うこの婆に弦太は腹を立てたが、そんな腹の内を覗かせずに、弦太は頭を下げた。
   「姉が生前にお世話になりました」
   「お腹のややこの父親は、名乗り出もしないで薄情な男だねぇ」
   「もう、済んだことですから、今更何も言うつもりはありません」
 弦太は、老婆に反省の色がないことを確かめるだけで良かった。帰る時間が少し遅くなったので、女将に文句を言われるかなと思いながら、帰途を急いだ。

 途中で、路端に蹲っている女を見つけた。
   「ははぁん、以前、番頭さんが遭ったという騙りだな、ばーか、その手に乗るものか」
 通り過ぎたが、女は顔を上げない。
   「どうせ、おいらは一文なしだ、話を訊いてやるか」
 弦太は後戻りした。
   「おばさん、どうかしましたか?」
 弦太は女の首筋を見て、「これは騙りではないぞ」と思った。冷や汗が出ていたのだ。駕籠を呼んできてやろうと思ったが、この辺りは滅多に駕籠が通ることはない。何だか危急感を覚えて、医者のところまで背負って行ってやろうと思った。
 案の定、女はぐったりとして、まるで死人を担いでいるように重かった。漸く「医者」の看板を見つけて、弦太は飛び込んだが、女の息は弱弱しかった。
   「お母さんは、助かるかどうか分からないが、できるだけの手当てをしてやろう」
   「いえ、おっかさんじゃないのです、道に蹲っているのを見つけてお連れしたのです」
   「そうだったか、身なりは商人の奥方のようじゃが、お伴も連れずに、どこのお方だろう」
 弦太は、自分が上総屋の丁稚であることを告げ、使いの帰り道で「遅くなると叱られる」と、帰らせてもらうことにした。

   「どこかへ寄り道していたのやろ」
 弦太は、女将こっ酷く叱られた。どうせ途中の出来事を話しても「言い訳」と、とられて更に叱られるだろうと、口を噤んだ。

 それから十日ほど経ったある日、上総屋に男女が訪ねてきた。女は、商人の奥方、男はその店の番頭であろうか、女を「女将さん」と呼んで労わっていた。女将を乗せて来た駕籠屋を待たせて、上総屋の店に入ってきた。
   「お忙しい刻に、お邪魔を致します」
   「はい、何方様で御座いましょうか」
 偶々、店先に居た上総屋の女将、お豊が応対した。
   「先日、こちらの丁稚さんに、危うく命を落しかねないところを救って頂きました」
   「おや、そうだすか、丁稚は三人おりますが、さて誰ですやろか」
   「十四、五の、体ががっしりとしたお人でした」
   「わかりました、それは弦太ですわ」
 お豊は、近くに居た店の衆を呼び「弦太を呼んできなさい」と、言い付けた。
   「日高屋の女将、雪乃と申します、こちらは番頭の仁助で御座います」
   「そんなことが有りましたか、弦太が何も言わないもので、存じませんでした」
   「実家の母が倒れたとの知らせに、一人で出かけて行った帰り道に、胸の辺りが急に痛みだして路端に蹲っているところを助けて戴いたのです」
   「まあ、ご実家のお母様はどうされましたか?」
   「母ったら、わたくしに会いたいばかりに、仮病を使っていたのですよ」
   「仮病でしたか、それは宜しかったではありませんか」
 女将同士が、そんな話をしているところに、弦太が現れた。
   「あ、おばさん、もう大丈夫なのですか?」
 お豊が「これ、おばさんとは失礼でしょう」と、窘めた。
   「はい、あなたのご親切のお蔭で、これこの通り」
   「それは、宜しゅうございました、案じていたのですよ」
   「有難う御座います、さすがは上総屋さまの丁稚さんです、よく躾が行き届いて、なんとお優しいこと」
 お豊は、鼻高々であった。
   「これは、ほんのお礼のしるし、皆さんで召し上がってくださいませ」
 日高屋の女将は、帰って行った。お礼の包みを開けてみると、丸い形の金鍔だった。
   「まあ、命を助けて貰ったお礼が金鍔かい、日高屋さんのドケチなこと」
 お豊は鼻で嘲笑したが、弦太は腹の中で「お前よりマシだ」と思っていた。


 それから十年の年月が流れた。弦太は、真面目によく働き、店にはなくてはならない存在になっていたが、二十一歳になっても手代の身分であった。
 これからは給金も払うので、店で働いてくれと言う旦那様に、親父が心配なので故郷の美濃国御嶽村へ帰ると断った。やっと自由の身になれた弦太は、投げ込み寺へ行き住職に頼み込み、姉お松の遺骨を掘り起こし、背負い行李に納めて国へ向かった。

 父は、亡くなっていたが、父の遺骨は村人たちが墓地に手厚く葬ってくれていた。その傍に、お松の遺骨を埋葬し、弦太は、はじめて肩の荷を下ろした気がしていた。


 それからの弦太の消息はぷっつりと途絶えた。五年経っても村へ帰って来たことは一度も無く、村人の噂もすっかり消えたころ、近江の国では大店を狙った強盗団が出没していた。
 弦太が奉公していた上総屋も、押し込み強盗に入られ、女将と使用人の男が何人か殺害された。
 不思議なことに、大店でもない「取り上げ婆」の家にも押し込み強盗が入っていた。婆は命こそ取られなかったが、婆がコツコツ貯めていた銭を、床下に隠していた壺ごと盗まれた。
 婆は、落胆のために床に就き、やがて息を引き取った。

 その後、江戸に於いて盗賊団が出没した。やがて盗賊団の全てがお縄になり、市中引き回しのうえ、磔獄門となったが、その後、信濃の善光寺にお参りしている弦太を見かけたという噂が御嶽村に流れた。

 ある日、村の墓地のお菊、弥平、お松の墓に、誰の仕業か、菊の花が供えてあるのを村人が見つけた。
   「弦太が帰って来たのだ」
そんな噂が流れたが、姿を見たものは居なかった。  (終)

猫爺の短編小説「偽和尚宗悦と珍念」 別離編  (原稿用紙18枚)

2015-09-05 | 短編小説
(後編)

 宗悦と珍念は、山里の村落を歩いていた。どこへ行くという宛てはないので、山寺でも見つかれば墓地の草むしりでもして、町で人を騙して付いた垢落としでもして行こうと考えたのだ。
 辺り一面に田畑が広がる農道を歩いていると、ひとりの村人が何やら叫びながら追ってくる。
   「拙僧を追ってくるのかな?」
 二人は立ち止まって、男が追いつくのを待った。
   「どうなすった、拙僧に用かな?」
 男は「ハァハァ」と喘ぎながら、宗悦に頭を下げた。訊けば、村の年寄りが亡くなったので、経を上げて欲しいと言う。
   「この村には、菩提寺はないのか?」
 宗悦は、不思議に思った。ここのような古い村には、先祖代々を弔ってきた菩提寺がある筈である。葬儀を執り行うなら、まず菩提寺の僧に相談をするのが通常である。
   「御座いますが…」
 歳を取った浄土宗の僧が、一人で管理し、供養を行っていたが、七年前に亡くなって荒れ放題になっているという。
   「せめて村人が管理して、ご先祖を供養しなければならないではないか」
 村人を叱るように言い放つ宗悦に、村人は申訳なさそうに頭を下げた。
   「この村は貧しくて、男は農閑期も出稼ぎに行くので、奉納金どころか労働奉仕も出来ません、葬式も満足に出せないのですから…」
   「そうであったか、わかった、ここに町の商人に頂戴した布施がある、この度の葬儀のために一両を観世音菩薩さまがお施しになる、これで亡くなったお年寄りを懇ろに弔って差し上げよう」
 旅の僧に、経を読んでもらおうとして逆に施しを受けて、村人は感謝に堪えない様子であった。
   「葬儀は拙僧が引き受けて進ぜよう、その寺へ案内してくれ」
 村人は荒れ寺に、宗悦達を案内した。山寺の建物はしっかりしていたが、暫くは人が立ち入っていない様子で、建物の中には塵が積もっていた。とりわけ、本堂の小さな木造の観世音菩薩像は、汚れて見る影もなかった。
   「この罰あたりの村人ども、これでは寺かお化け屋敷か見分けが付かんではないか」
 別に怒っているわけでもなかったが、一応観世音菩薩に仕える僧侶らしく、菩薩像に敬意を払っている振りをしたのだ。
   「では、拙僧たちは、この像をお清めして、祭壇の掃除をしておこう、其方は村へ戻って棺桶を買い求め、ご遺体をここへ運ぶ手筈をしなさい、それから、若者を二人寄越して、墓穴を掘らせてくれ」
 村人は安心したかのように、駆け出していった。
   「さあ、観音像を洗おう」
   「和尚様、魂を抜かなくてもよいのですか?」
   「おや、珍念はよく知っているようだな」
   「はい、私が生まれた家の近くの寺で、仏像のお身拭いのときは、仏像から仏様の魂を抜いてからしていました」
   「構わぬ、井戸端へ運んで、藁縄の束子でゴシゴシ洗おう」
   「はい、和尚様」

 観音像は、見違えるように綺麗になった。祭壇も、埃を払い雑巾をかけて、蠟燭に火を灯し線香に火を付けると、ようやく寺らしくなった。
 その頃には、墓穴堀の若者も到着して、墓地では穴を掘る音がしていた。

   「お坊様、墓穴が掘れましてございます」
   「さようか、畑仕事で忙しいであろうにご苦労でした、間もなくご遺体が到着するであろう、そなた達も葬儀に参列してやってくれ」
   「はい、ではそれまで一服させて頂きます」
   「お茶など入れて進ぜようと思ってお湯を沸かしたが、寺には茶葉がないのじゃ、白湯などいかがかな?」
   「はい、喉が渇きましたので、白湯を頂戴します」

 やがて、村長(むらおさ)と何人かの村人と共に、ご遺体が担ぎ込まれて葬儀が始まった。宗悦は、幾宗派かの経が読めるのだが、どれもこれも中途半端でいい加減に誤魔化している。それでも村人たちは気付かず、宗悦に感謝していた。
   「お坊様、立派に葬儀を執り行って頂き、有難うございます」
村長が代表して、宗悦に礼を言った。
   「これはご丁寧なご挨拶、恐れ入ります」
   「ご無理とは存じますが、このようにご立派な和尚様がここのご住職で居てくだされば、私ども村人は安心して仕事に励むことが出来ます」
   「いやいや、拙僧はまだまだ精進が足りない若輩僧でございます」

 旅の途中で足止めをされて、おまけに自腹で葬儀を上げてくれた宗悦を、村人たちは、法然上人の再来かとばかりに思った。宗悦が若き法然ならば、珍念は親鸞聖人の少年時代であろうか。

 村長が、村人を集めて何やら相談をしていたが、やおら宗悦を取り囲み、皆で頭を下げた。
   「御坊様、どうかこの寺にお留まりになってください」
 宗悦の頭の中にまるで無かった訳ではないが、実際に頼まれてみると考えてしまう。こんな貧乏の村では、商売が成り立たない。檀家の数は僅かで、奉納金どころかお布施も貰えない。珍念と旅にあれば、大金が転がり込んでくることもあるのだ。
   「珍念はどう思う?」
   「人を騙すよりも、人に頼られる方がいいと思います」
   「そう思うか、珍念は善人であるのう」
   「和尚様も、根は善人だと思います」
   「こいつ、心にもないことを…」
 珍念は、もし此処に落ち着くことが出来たら、父の遺骨を改葬してここに正式の墓をつくり、生涯弔っていきたいと思うのであった。

   「和尚様、珍念は浄土宗の僧侶になりとうございます」
   「何、本物のか?」
   「大本山の道場で、修行を積んで来とう御座います」
   「止せ、止せ、苦労をして僧侶になっても、稼ぎは少ないぞ」
   「金持ちに成りたいのではありません、人の為に尽くしたいのです」
   「ふーん」
   「和尚様、気のない返事ですね」
   「尻が擽ったいわ」

 それから暫くは、宗悦、珍念とも、何処から見ても僧侶と小坊主らしく、早朝に起きてお勤めをすると、宗悦は粥と味噌汁と野菜の煮物などの朝食の用意を、珍念は本堂の掃除を始める。
 ものの一ヶ月もすると、宗悦は飽き飽きしだし、「旅に出よう」と、珍念を説勧める。暇つぶしになる法要も無ければ、葬式もない。
   「なぁ珍念、二人で江戸へ行かないか、江戸にも浄土宗の大本山があるぞ」
 そこで修行を積めば良いというのであろうが、珍念は父親を埋葬した場所から、あまり遠くには離れたくなかった。
   「和尚様、珍念は京にある大本山の道場で修行を積みたいのです」
   「そうか、珍念と別れるときが来たようだな」
   「せっかく根付こうとしているのに、この村を見捨てるのですか?」
   「別に拙僧が貰った寺でもない、見捨てることにはなるまい」
 宗悦は、珍念を京の大本山まで送って行き、その足で自分は江戸に出ようと思った。
   「珍念、お前が修行を終えたら、この寺に来て住職に成りなさい」
 自分は、金儲けをしながら江戸へ行って、舌先三寸で遊んで暮らしたいというのだ。
   「和尚様は、怠け者ですか? いずれ大きなしくじりをやらかして、島流しになりますよ」
   「おや、言い難いことをズバッと言う小坊主だな」
   「本当のことを言っただけです」
 どうやらこの二人、明日にでもこの寺を離れてそれぞれの道を歩みかねない雰囲気になったが、そこへ村の男が飛び込んで来た。
   「お坊様、助けてやってください、新田の勘助が熱に魘されて死にそうなのです」
   「拙僧は、医者でも祈祷師でもないぞ、それならお医者を呼びなされ」
   「それが、村にはお医者は居なくて、町まで行かなければなりません」
   「町まで行けば良かろう」
   「お医者様が来るまでに、勘助は死んでしまいます」
   「そんなに切羽詰まっているのか?」
   「はい」
   「だが、一介の坊主に何が出来ると思うのだ」
 珍念が、大声で「和尚様、行きましょう」と、叫んだ。何とか、お医者が来るまで持ち堪えさせようというのだ。珍念は、父の看病をしながら、薬どころか水さえも手に入らずに悔しい思いをしたのだ。ここでは、何とか出来るかも知れないと思った。

 勘助の家に来てみると、勘助は悶え苦しみ、額から汗が玉のように噴き出していた。珍念は咄嗟に「お父つぁんと同じだ」と、感じ取った。
   「井戸の水を盥に入れてきてください」
 珍念は、反射的に指図をしていた。冷たい水で手拭を絞ると、勘助の額に乗せてやり、汗を拭ってやった。
   「どなたかの家に、せんぶり茶はありませんか?」
 せんぶり茶は、普通は胃の腑や腸の腑の病に効く薬として用いるのだが、沈静効果や、炎症を抑える効果もある。珍念が病気になれば、父は何かとせんぶりを煎じて飲ました。それを思い出したのだ。

 せんぶりを煎じて冷まし、これを苦心惨憺して勘助にのませると、暫くして静かになった。あれほど暴れていた勘助が、今はスヤスヤと寝息を立てている。

 そこへ、漸く町から医者が到着した。医者は安らかに寝入っている勘助の体温を見たり、脈をとったり、肺の臓の音を聞いていたが、顔を上げて周りの者を見渡した。
   「お手当てをされたのは、どなたじゃな」
   「はい、こちらの小僧さんです」
   「其れは感心じゃ、適格な処置であったぞ」
 熱はやがて下がるだろう。脈にも乱れはない。医者は、珍念を褒めてくれた。
   「容態を訊いて、薬を調合してきたので、これを三日間飲ませてやってくれ、四日目にはすっかり良くなっているだろう」
  医者はそう言うと、帰って行った。薬代と駕籠賃は、またしても宗悦が出さざるを得なかった。
   「ここに居ると、損ばかりする、明日はこの村から出て行こう」
 心に決めた宗悦であった。村長には、果たさなければ成らない用があるからと了解をとり、珍念と共に旅に出た。

   「東海道に出れば一本道ですから、珍念は一人で京へ上ります」
 残った金を分けて貰い、珍念は宗悦と別れて京へ向かった。浄土宗の大本山へ修行に出たのだ。
   「縁が有ったら、いつかまたどこかで会おう」
 江戸へ向かう宗悦と、京へ上る珍念は、手を振って別れた。


 珍念が得度(とくど=出家)してから、五年の歳月が流れた。修行を終えた珍念(瓢吉)は、綜空という僧名(法名)を師から頂いた。綜空と一緒に修了した僧たちは、小坊主として寺院に仕えていた者ばかりなので戻るところがあった。だが、綜空にはそれが無かった。綜空の足は、知らず知らずに宗悦と居た山村の古寺に向いていた。
 もし、未だに僧侶が居なければ、村長に願い出て置いてもらおう。すでに僧侶が居たら、村長に挨拶をして引き返そう。綜空は、そう心に決めて寺の門を潜った。
 何やら、数人の話し声が聞こえる。近寄ってみると、僧衣が見えた。
   「やはり僧侶が居るようだ」
 綜空は、諦めて引き返そうとした。それまでは穏やかな話し声だったが、急に険悪になってきた。暫く立ち止まって話を聞いていると、懐かしい宗悦の声もしている。
 
   「御坊は、偽僧侶のようなので確かめて欲しいと申し出た者が居る」
   「偽僧侶とは何たる侮辱、拙僧は得度したれっきとした僧侶だ」
   「御坊の経を聞いた者が、出鱈目な経であったと申しておる」
   「無礼千万、何処がどう出鱈目だったか、言って貰おう」
 どこかの僧侶であろう、二人の僧侶が宗悦を攻めている。葬儀が執り行われる寸前の家に行き、勝手に経を上げて布施を受け取っているという抗議だった。
   「では、御坊の経を聞かせて貰おう、我々の前で読んで頂こう」
   「お断りする、拙僧を試すなど、許されてなるものか」
 二人の僧は、「してやったり」とばかり、寺から宗悦を追い出しにかかっている。その場に綜空は、飛び込んでいった。
   「和尚様、珍念ただいま修行から戻りました」
   「おお、珍念か、ご苦労であったな」
   「はい、大本山の師匠に、綜空という名を戴きました」
   「綜空か、良い名を付けでいただきましたな」
   「はい、これからは和尚様の弟子として、精進してまいります」
   「そうか、そうか、大きくなりよって頼もしいぞ、綜空」
   「こちらのお二方は、どちらの和尚様でいらっしゃいます?」
   「拙僧のことを偽坊主と仰せられてのう」
   「それはあまりにも無礼な、それで経を読んでみろと仰せられていたのですね」
   「そうなのじゃ」
   「では、弟子の私がお読みしましょう、お二人の和尚様、それで宜しいでしょうか」
 綜空は、御本尊に向かって、若々しい声を張り上げて一語一句はっきりと経を読み始めた。読み終えて綜空が振り返ると、二人の僧の姿は無かった。
   「お二人は、どうされましたか」
   「途中で、引き揚げよったわ」
 宗悦は、そろそろ珍念が戻ってきてはいないか覗きに寺へきたのだが、付けて来た二人の僧侶に捉まったようだ。

 宗悦と、綜空は、村長のところへ行き、戻って来たことを伝えた。
   「お二人揃って戻ってきてくれましたか、これで村は安泰です、有難う御座います」
 村長は、せめてお布施が出来るよう仕事に励むので、どうか末永くお留まりくださいますようにと、手を合わせた。

 綜空は、大坂街道の脇道に埋葬した父の遺骨を持ち帰り、寺の墓地に移葬させて貰い、やがて墓も建立した。
 寺に仕事が無いときは、進んで農家の手伝いに行き、自らも小さいながら畑を持った。
   「若和尚さま、お早うございます」
 村人は折につけ「南無阿弥陀仏」と、念仏を唱えるようになり、徐々にではあるが暮らしが楽になってきた。

   「なぁ、珍念」
   「和尚様、私は綜空です」
   「綜空、そろそろ旅に出ないか?」   (終)


  「偽和尚宗悦と珍念」 前編へ

猫爺の短編小説「偽和尚宗悦と珍念」 門付け編  (原稿用紙22枚)

2015-08-31 | 短編小説
(前編)

 江戸を出て、東海道三条大橋からの延長で、大坂(今の大阪)へ向かう大坂街道に差し掛かった旅の僧、加納宗悦に身窄らしい少年が駆け寄ってきた。少年は八、九歳であろうか、もう何日も碌に食物を口にしていない様子だが、精一杯元気を装っている。
   「お坊さま、頼みがあります」
 見た目よりもしっかりしているようである。
   「何だ、言ってみなさい」
 少年は父親と江戸から出てきたのだが、父親は熱を出して少年が懸命に看病したが、そのまま帰らぬ人になってしまったと語った。
   「それで拙僧に経を上げて欲しいのか?」
   「それもありますが…」
 父親を埋葬したいのだが、少年の力では、深い穴が掘れないのだという。
   「お礼に、おいらを売ってくれてもかまいません」
   「男は売れないだろう」
   「年季奉公でもいい、二両や三両にはなるでしょう」
   「そうか、わかり申した、手伝って進ぜよう」
 父親は死んで二、三日は経っているようであった。旅の途中で野垂れ死にをすれば、そのまま放置されて朽ちるのが常であったが、少年はそれが我慢出来なかったのだ。
   「これ子供、其方の名は?」
   「瓢吉です、瓢箪の瓢だとお父つぁんがいっていました」
「お父つぁんの仕事は何だったのかな?」
   「土建の手伝いで食っていましたが、お父つぁんが大きなしくじりをして、仕事を無くしてしまいました」
   「それで、江戸を捨てて、浪花へ行こうと思ったのか」
   「はい、だが旅先で持って出た金を使い果たしてしまいました」
 その結果、野宿をして草を食み、川魚や貝を食べてここまで来たが、父は無理が祟って病気になり、とうとう死んでしまった。
   「おっかさんはどうした」
   「おいらが生まれる前に死にました」
   「ん? じゃあ、瓢吉を生んだのはだれだ」
   「おっかさんです」
   「死んだおっかさんが、お前を生んだのか?」
   「わかりません」
 本気で話しているのか、適当にあしらわれているのか分からない宗悦であった。
   「お坊様、おいらを売る前に、銭湯に入らせてくれませんか」
 古着屋で着物も買ってもらい、小奇麗にしてから売って欲しいのだ。
   「坊主、それよりも腹が減っているだろう」
   「いいえ、減っていません」
 農家で大根の葉と、塩を少々恵んでもらい、夕べ生で塩を振ってたらふく食ったらしい。
   「飯は食いたくないか?」
   「暫く食っていませんから、慣れちゃって食いたくありません」
   「遠慮するな、腹いっぱい食わせてやるよ、大事な売物であるからな」
   「そうですか、本当は食いたいです」

 その夜は、旅籠で泊まった。旅籠の女中は瓢吉を見て顔をしかめていたが、旅籠の主人は「倅のお古で悪いが…」と言って、瓢吉に合いそうな着物を恵んでくれた。

   「おぉ、中々の男振りではないか」
 風呂から上がって、さっぱりした瓢吉に宗悦が言った。
   「奉公は止めて、拙僧の供をして旅をしないか」
 瓢吉は父から聞いて僧侶が稚児を寵愛した話は知っていた。
   「でも、おいらまだ子供ですから、お役にたつかどうかわかません」
   「大丈夫だ、大いに役に立つと思う」
   「そうですか、お坊様にお任せします」

 旅籠の女中は、一つ部屋に布団を並べて敷いてくれた。旅で疲れていたので、すぐに布団に潜り込んだが、瓢吉は眠れないらしく、震えているようであった。
   「瓢吉、どうした」
 ふいに宗悦が声をだしたので、瓢吉は驚いて「ビクッ」としたのが、暗闇でも宗悦に伝わってきた。
   「瓢吉、お前何か勘違いしていないか」
   「していません、お父つぁんから聞いて、ちゃんと知っています」
   「何を?」
   「稚児とか言うのでしょ」
   「あはは、やはり勘違いしていた」
 加納宗悦、実の名は五郎太というのだが、僧侶の格好はしているが僧侶ではない。いわば偽僧侶である。葬儀を見つけると焼香させて貰い、口から出まかせの説法を説いて、徳を積ませるのを商売にしている。その手先に瓢吉を使おうというのだ。瓢吉は安心したらしく、ぐっすりと眠りに就いた。

 浪花に着くと、宗悦は早速敏感な嗅覚で線香の香りを嗅ぎつけた。
   「瓢吉、お前は今日から珍念だ」
 宗悦は、何事か珍念に指示した。頭の良い珍念は、宗悦の指示を漏らさず頭に叩き込んだ。今まさに葬儀がはじまろうという備前屋と書いた看板が上がる商家の前に立って祭壇を覗き込み、突然泣きだした。店の者が不審に思い、店から出て来た。
   「子供さん、どないしたのだすか?」
   「もしや、もしや、旦那様が…」
   「へえ、うちの旦那様の徳兵衛の葬儀だす」
   「えーっ、やはり旦那様でしたか」
 店の者は、珍念の肩を抱いて、泣く訳を訊いてきた。
   「備前屋徳兵衛様は、おいらの命の恩人です」
 空腹のために町なかをフラフラ歩いていたら、戸が開いたままで誰もいない家があった。こっそり忍び込んで食うものがないか探していたら、奥から出て来た男にとっ捉まってしまった。そこはやくざの家らしく、殴ったり蹴られたり、挙句は手足を縛られ、大川に投げ込んでやると連れ出されたところに徳兵衛旦那様が通りかかり、お金を渡して一緒に謝ってくれたと泣きながら話した。
   「嘘やろ、亡くなったうちの旦那様はケチで、しみったれで通ったお方や」
   「嘘ではありません、本当は慈悲深いお方でした」
 店の奥で聞いていたらしい女将さんが出て来た。
   「番頭さん、うちの旦那がケチでしみったれやと、あんた旦那様が亡くなったとたん、大きな口をたたくやないか」
   「すんまへん、ついこの坊主がええ加減なことを言うもので」
   「何がええ加減や、上面ではケチでしみったれやったかも知れまへんが、根は慈悲深い、優しいお方だしたのや」

 女将は、突然気付いたように珍念に近付くと、やさしく声をかけた。
   「坊、うちの旦那様になにか用があったのか?」
   「はい、ちゃんとお礼を言ってなかったので、お礼をするために探しまわりました。
   「それだけか?」
   「はい、それだけです、ご焼香させて貰ったら引き揚げます」
   「そうか、どうぞ入って焼香してやってください」
 珍念は、前で焼香する人の仕草をしっかり頭に入れ、間違うことなく焼香して涙を流した。
   「有難う御座いました、本当はお元気な旦那様にお礼を言いたかったのですが…」
 頭を下げて悄然と戻って行く珍念を見た参列者たちは、心打たれてすすり泣く者も居た。

 代わってやって来たのは、旅の僧侶だった。
   「おお、なんという気高い魂じゃ、拙僧には見えるが、黄金の後光が射しておる」
 宗悦は、いきなり仏前に進み出ると、御宝号を唱えだした。
   「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛…」
 店の者が、宗悦の傍に寄り恐る恐る尋ねた。
   「葬儀を依頼した、徳提寺の和尚様ですか?」
   「いいや、拙僧は旅の者、多くの徳を積んだ気高い魂に出会って、これも拙僧の徳となろうかと、思わず知らず仏前に手を合わせていた」

   「失礼致した」と、去ろうとする宗悦に、女将が声を掛けた。
   「うちの人の魂が、気高い気高いと仰っていただいた旅のお坊様、うちの人は人前ではケチなシブチンでおましたが、陰ではどのように徳を積んでいたのですやろか?」
   「貧しい人々には、目立たなく手を差し伸べ、寺院、神社には陰ながら金銭を奉納するなど、陰徳を重ねておられました」
   「知りませんでした」
   「その気高いお方をご主人に持ちのあなた様は、どうぞ誇りに思ってくだされ」
   「有難う御座います、どうぞ祭壇にお近づきになり、主人を褒めてやってくださいませ」
   「拙僧は、これから高野山金剛峯寺に参る予定ですが、その前に御主人殿のご陰徳を讃えると共に、ご冥福を祈りましょう」
 宗悦が真言宗の経を読んでいるその間に、女将は奥に入り、暫くして出て来た。
   「よくぞ主人の陰徳の様を教えて戴きました、これは家族からのご奉納金でございます」
   「いやいや、拙僧にこのようなご奉納金を頂戴しても困り果てます」
   「では、金剛峯寺への奉納金として、お納めくださいませ」
   「左様か、金剛峯寺へのご奉納を、拙僧がお断りしては弘法大師さまに無礼となりましょう、この徳は、拙僧がお預かりして、お大師さまの元にお届け致します」
   「ご苦労様に御座います」

 備前屋から離れた待ち合わせ場所で、珍念が待っていた。
   「珍念、お前の働きでこれこの通り、たんまり儲かったぞ」
 宗悦一人では、精々一分か多くても一両というところだった。珍念の芝居が功を奏して、なんと五十両もの金が手に入った。宗悦はホクホク顔である。
 今夜は旅籠で一泊して、浪花でもうひと稼ぎしようと、宗悦と珍念は打ち合わせをして眠りに就いた。

   「おっ、また匂いがしてきたぞ」
 翌朝、旅籠を出て一刻ほど歩いたところで、宗悦の鼻が線香の匂いを捉えた。今度は宗悦が探りに行き、情報を仕入れて来た。
 播磨屋宗太郎は、まだ三十歳そこそこの若い店主。昨夜、付近の商店主と河豚鍋で宴会をしたが、運悪く宗太郎だけが河豚の毒に当たり、急死したそうである。
 今日の午後に葬儀が行われる。その店先へ宗悦と珍念が立った。
   「もしもし、お尋ねしますが、ここは播磨屋宗太郎さんのお店でしょうか?」宗悦が尋ねた。
   「さいだす、宗太郎は当店の店主ですが、夕べ亡くなりました」
 番頭だろうか、初老の男が応対に出てきた。
   「えーっ、お父つぁん、死んだのですか」珍念は、驚いて立ち竦んでしまった。
   「お父つぁんて、この子はどなただす?」
   「宗太郎さんが、外で産ませた子供です」宗悦が答えた。
 この子の母親は、宗太郎旦那の囲い者であったが、この子が生まれたとき、宗太郎や家族のものに迷惑が掛かってはいけないと、赤子を連れて実家へ戻った。この度、この子の母親は流行り病で亡くなり、亡くなる前にこの子に言っていた。
   「お前のお父つぁんは、浪花の播磨屋という店の旦那様だが、私がもしもの時は旦那様にお願いして、奉公先を探して貰いなさい、だが、決して旦那様やお店の方々に迷惑をかけてはいけないよ」
 そう言ってこと切れたのだと言う。
   「うちの旦那は品行方正で、そんな妾を囲うやなんて、お前さんたち、騙りの類ではおまへんのだすか」
   「なんと酷いことを、そんな言葉を旦那様はどんな気持ちで聞いていますやら、きっと泣いておられるでしょう」
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、宗悦は念仏を唱えた。
   「この子は宗吉と言います、宗太郎さんが名付けなさったのです」
 宗吉は、決して播磨屋の家族になりたいとは言っていない。ただ、丁稚として奉公する店を紹介して欲しいだけである。尋ねてきて、やっと実の父に会えると喜んだのに、亡くなっているなんて、おまけに騙り扱いを受けて、なんと可哀想な子供だろう。宗悦は、切々と訴えた。
   「宗吉は、父のような商人に成りたいと言っておるが、拙僧の寺院に連れて行き、僧侶の修行をさせ申す」
 宗悦は、宗吉(珍念)を宗太郎の遺体に手を合わせて拝むように促した。
   「せめて、実の父の死に顔なと、見せてやってほしいが、恐らく家族とは認めてはやれないだろう、焼香だけで我慢させよう」
 宗悦は、葬儀の準備を手伝いに来た近所の衆の前で、これ見よがしに宗吉の肩に手を遣り、「諦めて帰ろう」と、表に出ようとした。
 近所の衆の囁きが聞こえてきた。
   「可愛そうな子供に、なんと冷たい仕打ち」
 その声が、宗太郎の枕元で目を腫らしていた女房に聞こえたらしい。
   「お坊様、お待ちください、宗吉とやら、座敷に上がって、お父さんの顔を見てやっておくれ」
 珍念は宗太郎の死に顔をみて、旅の途中で死んだ父親を思い浮かべて、大粒の涙を流した。それを見て、近所の衆がざわめき、貰い泣きをする者も居た。

   「父に会わせて戴き、有難う御座いました、宗吉生涯の思い出に致します」
 宗悦も合掌して頭を下げ、「さらばです」と、宗吉を連れて出て行こうとすると、女房が止めた。
   「ここへ置いてあげたいのですが、他人目がおます、これは宗太郎の遺産の一部だすが、どうぞこれをお持ちください」
 百両はありそうな包みを差し出した。
   「おいらはお金など要りません」
   「まあ、そう言わずに…」
 宗吉は、宗悦の顔を見上げた。
   「宗吉、これはお前が宗太郎旦那の実の子供だと認めてくれた証だ、嬉しいじゃないか」
   「はい、嬉しいです」
   「もう、二度とここへは顔を出して、奥様たちにご迷惑をかけないと誓って、戴いておいてはどうだろう」
   「はい、和尚様」
   「素直な子だ」
 宗吉(珍念)は、百両はありそうな包みを受け取り、「お父っつぁん、さよなら」と、宗悦に付いて出て言った。

   「珍念、今度は近江の国へ行こうか、いや待てよ、あそこの商人は、筋金入りのドケチだから、引っかからないだろう、伊勢へ行こう」
   「はい、和尚様」


 宗悦と珍念は、伊勢の国、亀山城の城下町に来ていた。二人の胴巻きには、合わせて百五十両もの小判がある。そろそろ、どこか無人の寺にでも住職と小僧に化けて落ち着き、宗悦の口から出まかせの説法で檀家を増やしていこうかと、宗悦は考えだした。
   「珍念は、小僧になるのは嫌か?」
   「いいえ、和尚様の元で、一つ目小僧にでも、三つ目小僧にでもなります」
   「お化け屋敷をやろうというのではない、目は二つで宜しい」
   「はい、和尚様」

 金はあるので、美味しいものを食べたり、見物をしたり、二人は呑気に城下町をぶらついていると、宗悦が線香の匂いを嗅ぎつけた。
   「もう、一稼ぎしょうか」と、宗悦。
   「はい、和尚様」と、従順な伴の者、珍念。
 匂いの元は、陶器の伊賀屋。先ずは沿革から情報を集めた。主人の名は鴻衛門。亡くなったのは女房のおさき。若い番頭と手に手を取って駆け落ち、伊賀屋鴻衛門が番所に届けたために二人はお縄になって「駆け落ち者」の立札の元に生きたまま三日三晩晒された。番頭は処刑、妻は伊賀屋のもとに帰されたが、昨夜、店の衆が寝静まっている隙に首を括って番頭の後を追った。

   「ここで御座いましたか、おさきという女しょうのご遺体は」
 宗悦が店の前に立って、経を唱え始めた。
   「爾時無盡意菩薩即從座起…」
 静かに戸が開けられ、旅の僧侶と告げると、「お入りください」と、珍念共々店内に招き入れた。他人目をさけるように、ひっそりと店先に設えた祭壇に、会葬者はなく僧侶すらも招いていなかった。揺らぐ百匁蠟燭の向こうに寝かされた遺体の胸に置かれた魔除けの白鞘が空しい。
   「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…」
 珍念も、合掌して題目を唱えた。店主は宗悦が何故に当家を訪れたのか気になっている様子である。
   「拙僧は、夕べおさき殿と言われる女しょうの霊にお会い致した」
 おさきは、若い番頭の霊を探し求めていたが、番頭は既に黄泉の国へ旅立った後で、伊賀屋鴻衛門という夫を呪って迷っていた。このままだと、怨霊にも成りかねないので、有難い経を読んで聞かせ、妻を思う夫の心を説いたが、未だに成仏せずにいる。
   「あなたが伊賀屋鴻衛門どので御座ったか」
   「はい、左様で御座います」
   「拙僧はここで経を読み、おさき殿を成仏に導きます、どうか拙僧の存在を無視して、ご用をお続けくだされ、おさき殿の霊が成仏されましたら、拙僧たちは静かにここを去りもうす」

 暫く法華経を読む宗悦の声が響いていたが、やがて静かになり宗悦は店の衆に茶を一杯所望して、飲み干すと店を出て行こうとした。
   「旅のお坊様、有難うございました」主人が姿を見せた。
   「おさき殿は、聞き分けて成仏されましたぞ、ご店主どのはご安心なされますように」
 改めて、宗悦と珍念が出て行こうとすると、主人は「暫くお待ちを」と、紙に包んだお布施を差し出した。

   「何だ、ペッタンコではないか、何とケチなおやじ」
 口には出さなかったが、心の中で宗悦はそう思っていた。

   「三両入っていた、苦労した割には貰いが少なかったわい」
 宗悦は、まだやる積りか、「作戦を練らねばならん」と、呟いていた。 (角付け編・終) 続く


  「偽和尚宗悦と珍念」 後編へ

猫爺の短編小説「神懸りお吟」  (原稿用紙41枚)

2015-08-27 | 短編小説
 江戸の街並みから少々離れた小高い山の中腹に、小さな神社がある。村道から三百段の石段を登ると、ご祭神、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の拝殿がある。
 月に一度は必ずお参りをする敬虔(けいけん)な二人の老人が、お賽銭を上げて鈴緒を振り、二拝二拍手一拝をした。
   「神様、私ども、ここへお参りするのは今日を限りに致します」
 お爺さんは、農具鍛冶屋の惣兵衛、お婆さんはお鹿(ろく)、仲良く歳を重ねてきた夫婦である。最近、村道から拝殿までの三百段の石段を登るのが辛くなってきたのだ。若い頃から、「子宝をお授けください」と、願を掛けてきたが、とうとう叶うことはなかった。
   「神様、子宝は諦めました、今更願が叶っても、この年では恥ずかしくて産やしませんよ」
 だが、神様にはこんなに長生きをさせて頂いたことを感謝している。
   「これからは、お札(ふだ)を大黒柱に張って、朝夕礼拝させていただきます」
 老夫婦は、恨み言は慎んだ積りであるが、ちょっとだけ皮肉を込めた最後の参拝であった。
   「では、ご拝殿とはお別れをします」
 夫婦は、お互いに体を気遣いながら、最後の一礼をして帰っていった。

 石段の中程まで下りたところで、惣兵衛が立ち止まった。
   「はい、婆さん、何か言いましたか?」
   「いいえ、わたしは何も」
   「空耳か、声が聞こえたような気がしましたが…」

 また少し石段を下りると、今度はお鹿が立ち止まった。
   「子供の声が聞こえたような」
   「なっ、聞こえただろう、子供の声かどうかはわからないが」
   「まさか私のお腹の中ではないでしょうね」
 お鹿は、お腹を摩ってみたが、ペッタンコである。
   「嫌ですよ神様、悪戯をなさっては」
 次は、夫婦共に聞こえた。赤ん坊が一人遊びをしているような笑い声である。
   「この辺の藪の中から聞こえたような」
   「分け入ってみようか」
 言うなり、惣兵衛が笹薮に入った。入るなり、惣兵衛は奇声を発した。
   「婆さん、赤子が捨てられていますよ」
 お鹿も、「よっこらしょ」と、笹薮に入ってきた。
   「まぁ、生まれて四、五ヶ月は経っていますよ、こんな可愛い赤子を捨てるなんて」
 赤子は女の子であった。老夫婦が参拝している間に、ここへ寝かせたとみえて腹を空かせているでもなく、機嫌もすこぶる良い。
 お鹿がそっと抱き上げてみると、着ぐるみの中に固いものが入っている。開いてみると、朱鞘の守り刀であつた。どうやら武士の赤子らしいのだが、短刀を手に取って見たが家紋は入っていなかった。ただ一枚の紙片に、達筆な男文字で「お吟」とだけ書かれていた。
 盛んに手足をパタつかせて、「あん、あん」と、一人遊びをしている。お鹿はふと気付いて大声を出した。
   「赤ちゃんのお母さん、近くに居るのでしょ、出ていらっしゃい」
 子供を捨てたものの、気掛かりになって近くに隠れて様子を見ていると思ったのだ。
   「何か、ご事情がお有なのでしょう、私どもの家にいらっしゃいな、何なら赤ちゃんと一緒に我が家でお暮らしなさい」
 何の応えもない。惣兵衛が辺りを探してみると、木の葉にほんの少し血が付いていた。
   「婆さん、赤子は怪我をしていないかい?」
   「いいえ、どこも」
 小枝が折れて、踏み倒されたようなところがあった。
   「婆さん、暫くここで待っていなさい」
 分け入って間なしに、惣兵衛の叫ぶ声が聞こえてきた。
   「もしもし、大丈夫ですか?」
 揺すぶったり、叩いたりしているようである。どうやら赤子の母親が見つかったようだ。
   「お爺さん、赤子の母親が居ましたか?」
 のっそりと、惣兵衛が戻ってきた。
   「ダメだった、息をしておらん」
   「えーっ、亡くなっているのですか、可哀想に…」
 無邪気に笑う赤子を抱き上げて、お鹿は涙を零した。再び石段を登り、社務所に居た神主さんに伝えると、役人のところまで人を走らせてくれ、話し合いの末、赤子は惣兵衛夫妻が引取ることになった。

 階段を登るのも辛いと言っていたお鹿が、それからは子育てに没頭した。重湯(おもゆ)だけでは成長が遅いと、乳飲み児が居る女の存在を聞くと、どこまでも訪ねていき、金を払って乳を飲ませて貰った。
 惣兵衛は、農具鍛冶の仕事に打ち込み、夫婦して子育てに励んだ。その甲斐あってお吟はすくすく健康に育ち、十歳の正月を迎えていた。

  「婆さん、お宮の石段を登れるかな?」
  「登れますとも、お爺さんはどうします、行きますか?」
  「お吟を授かり、こんなに成長をしたお礼参りだ、行くとも」
お吟は、真っ赤な晴れ着を着せて貰って、朝から大はしゃぎであった。お鹿は、山茶花の花と万両の赤い実をいっぱいに付けた花束を抱えて出かけた。

 惣兵衛夫婦は、お吟と出会った十年前よりも、元気になっているようである。その時は、もう二度とこの階段は登れまいと思ったが、今日、お吟と来てみると、何の苦もなく石段を登っている自分たちが不思議でもあった。
   「お吟、拝殿までの石段は端を歩きなさい」
 夫婦の先をピョンピョンと石段の真ん中を登るお吟をお鹿は窘めた。真ん中は神様がお通りになるところだよ…と。
 鈴緒は、お吟が振った。三人揃って神様にお参りをして、老夫婦はお吟との出会いを神様に感謝した。
 帰り道の石段の途中で、持ってきた花束を捧げ、三人揃って手を合わせたが、お吟にはその意味を伝えなかった。
 だが、お吟は合掌しながら涙を流した。夫婦はその涙を見て、お吟が何も可も気付いているような気がした。そして、それは間違いではなかった。
   「お母さんは、どうして死んだのかしら」
 お吟が、そう呟いたからだ。
   「お吟は、何を知っているの?」
   「ここで死んだのは、私のお母さんでしょ」
 お吟は、自分がここに置かれていたことも勘付いていた。
   「事情は謎なの、何も分からないのだよ」
 お鹿はお吟の勘の良さに、この子に隠し立てしても無駄だと感じていた。

 帰り道、若いお侍と擦れ違ったとき、お吟が「あっ」と、声を上げた。お吟の頭の中で、「チリン」と鈴が鳴って、この若いお侍が女に短刀で刺されるのが見えた。擦れ違った若侍の後を追い、お吟は声をかけた。
   「もし、お侍様」
若い侍が、少し驚いたように振り返った。
   「この先へお行きになるのはお止めください」
   「何と、この先へ行くなだと」
   「はい、お侍様がお向かいなる先に、刺客が待ち受けております」
   「拙者に刺客だと、拙者は刺客を差し向けられる覚えはない、無礼で御座ろう」
 惣兵衛は慌ててお吟の傍まで歩み、無礼を謝った。謝ってはみたものの何が何だか分からず、戸惑うばかりであった。
   「刺客は、人違いをしているのかも知れませんが、間違いなくお侍様のお命を狙っております」
   「まだ言うか小娘、無礼討ちに致すぞ」
 惣兵衛は、お吟を平伏させ、自分たちも土下座をして詫びた。
   「普段は、こんなことを口にする娘ではございません、今日は熱でもあるのでしょう、どうかお許しを…」
   「まあ良いわ、今回は許すが、気を付けなさい、武士に迂闊なことを言うと、本当に無礼討ちにされるぞ」
   「有難う御座います、よく言って聞かせます」
 それでも、お吟は侍の後を追った。
   「それでは、小娘の戯言(たわごと)と思召(おぼしめ)して記憶にお留めくださいまし」
 再び侍は振り返った。
   「刺客は、男女の忍びでございます、お侍さまに偽りの姿で近寄り、いきなり短刀を向けます、どうかどうかお気を付けあそばしますように」
 侍は、娘の熱心な言葉に心が動いたが、知らぬ振りをして先を急いだ。

   「お吟、お前どうしたの、大人のような口振りであんな根も葉もないことを他人さまに言ったりして」
   「本当なのです、私の目にあのお侍様が刺されるところが見えたのです」
 そう言った後、お吟は普通の十歳の娘に戻っていた。

 若い侍は、お吟と出会ったところから、約一里ほど行ったところで、女が蹲っているのに出会った。侍はその人柄の良さから、近付いて様子を聞いてやろうとしたが、途中で出会った娘の忠告を思い出した。
 侍は、一間離れたところから、大刀の柄に手をかけて女に声を掛けた。
   「これ女、如何致した」
   「はい、持病の癪で苦しんでおります」
 侍は、蹲る女の右肘の角度から、懐剣を握っているのが分かった。
   「左様か、丁度良かった、拙者は良薬を持ち歩いておる、これをお飲みなさい」
 侍は、柄から右手を外すと腰から印籠を外して女に投げてやり、再び大刀の柄に手を掛けた。
   「有難う御座います」
 言うが早いか、女は懐から短刀の抜き身を出すと、侍に向かって突進してきた。侍は柄を握り油断をしていなかった分、女の行動に対処出来た。「チャリン」と、短刀を跳ね飛ばすと、返す刀で女の胴を斬りつけた。
 透かさず、木陰から男が飛び出してきた。たとえ忍者であろうとも、一対一ではこの若侍の腕の方が優れている。暫くの殺陣(たて)の末、忍者が倒れた。

 若侍の使命は、江戸藩邸をお守りするお留守居役からの書状を、お国元の藩主に届けることであったが、書状の内容などは知らされてはいなかった。
 刺客を差し向けられ、はじめて書状が重要なものだと知り、お役の大切さを身をもって知ったのであった。
   「お留守居役は、書状の重要さをなぜ自分に言っておいてくれなかったのか」
 知っていれば、もっと注意のしようがあったものをと、上司のお留守居役を恨みに思った。それはともかく無事にお役を果たし、江戸の藩邸に戻ることが出来るのは、偏(ひとえ)に途中で会った不思議な娘の忠告のお蔭である。いつの日かきっと探し出して、礼を言おうと心に決める若侍であった。


   「やーい、親なし娘」
 近所に住む女の子たちと遊んでいたお吟は、男子の悪仲間に囃し立てられた。連中はお吟よりも三つ四つ年下のようである。
   「お前ら、お吟と遊ぶと不良になるぞ」
 お吟と遊んでいた女の子は、聞こえて聞こえない振りをしている。
   「お吟はなぁ、狐の子だぞ」
 誰がそんなことを教えたのであろうか、恐らくは悪ガキの両親が噂をしているのだろうとお吟は思った。
   「お吟ちゃんは、尻尾なんか生えていないよ」
 女の子の一人が、悔し紛れに悪ガキ共に反論した。
   「分かるものか、着物を脱いで尻を出してみろや」
 他の悪ガキが騒ぎ立てた。
   「脱げ、脱げ、ケツを出して見せろ」
 お吟も堪忍袋の緒が切れたようだ。
   「ばーか、痴漢、子供の癖にスケベ」
 その時、お吟の頭の中で「チリン」と、鈴が鳴った。
   「そこの子、ちょっと私の前においで」
 呼ばれた男の子は警戒して後退りした。
   「いいからおいで、あんたの家が大変なことになるよ」
 男の子は、仲間の後ろに隠れて、顔だけだしてお吟に言った。
   「おいらの体に悪戯をするのだろ、お前こそスケベだ」
   「あっ、神棚の蠟燭の火が、榊に燃え移った、火事になるよ」
 ガキ共は、お吟の言っていることが分からなかった。
   「早く家に戻って、お父さん、お母さんに知らせなさい」
 お吟が言えば言うほど、男の子は気味悪がって後退りするばかりであった。仕方がないので、お吟が知らせに行こうとするが、どこの誰かが分からない。
   「早く帰りなさい」
 お吟は癇癪を起しそうになって叫んだが、ガキ共はお吟を恐れて「わーっ」と叫びながら逃げていった。
 男の子が逃げてしまっては、お吟にはどうする術もなく、ただベソをかくばかりであった。暫しの時が経って、西の空に黒い煙があがり、風に乗って半鐘の音が聞こえてきた。

   「神様、お吟はもう嫌です、こんな能力が有っても、誰も信じてくれないではありませんか」
 こんな予見の能力は、どうか消し去ってくださいと、お吟は神に祈った。その祈りの最中に、鈴が「チリン」と鳴って、お吟のお祖父惣兵衛が三和土(たたき)でぶっ倒れ、頭を打って血を流すのが見えた。お吟は、大慌てで家に戻った。
   「お祖父さん、お祖父さんは何処ですか」
 惣兵衛は三和土に立っていた。
   「お吟、どうした」
   「お祖父さん、座敷に上がって、横になってください、早く、早く」
 お吟に急かされて、惣兵衛は座敷に上がり、畳の上で横になった。
   「これでいいのかい、おぎ…」
 お吟と言いかけて、惣兵衛は気を失った。お鹿を呼び、その場に布団を敷いて惣兵衛を寝かせると、お吟は医者を呼びに走った。

   「軽いが心の臓の発作じゃよ、畳の上で失神したから良かった、表や三和土で倒れていたら、死んでいたかも知れん」
 医者はそう言って、「薬を調合するから、後で取りに来なさい」と、帰っていった。
   「お爺さんは、運が良かったのう、畳の上で気を失うなんて」
 医者から貰ってきた薬を煎じて飲ませながら、お鹿は神に感謝した。

   「もう、神様ったら意地悪なのだから」
 お吟が、「こんな能力は要らない」と言ったものだから、大切なお祖父さんを使って自分を戒めたのだと思ったのだ。

 ある朝、お吟が掃除をする為に戸を開けたら、家の前に男の子が佇んでいた。家が火事になると教えたあの子だ。
   「何か用なの」
   「うん、お姉さんに謝りに来た」
   「火事のこと?」
   「うん」
   「気の毒だったわねぇ、ご家族の皆さんは、ご無事でした?」
 それを聞いて、男の子は「わーっ」と、泣き出した。
   「ご無事ではなかったのね」
 お吟は、話を訊いてやった。母親が逃げ遅れて、それを助けようと父親が火の中へ飛び込み、両親ともに焼け死んだそうである。
   「まぁ、お可哀想に…」
 お吟は絶句した。涙が堰を切ったように溢れ出て、思わず男の子を抱きしめていた。
   「お姉ちゃん、酷いことを言ってごめんね、せっかく教えてくれたのに」
   「ううん、お姉ちゃんがもっと強く言ってあげたら良かったの、ごめんなさいね」
 男の子は母親の里に、その子の姉は父親の里にと、別れ別れになるのだと言う。目を真っ赤に泣きはらして、寂しそうに帰っていった。あの子は生涯、両親を死なせたのは自分だと、後悔し続けるのだろうと思うと、お吟の胸は締め付けられるような痛みを感じた。

 お吟は思った。自分に「先見」があることを、多くの人に曝け出したら、もっと信じて貰えるかも知れない。
 だが、それは既に神様が用意していたようだ。

   「やはり、そなたであったか」
 お宮参りの帰り道で出会った若侍がお吟の家に訪れた。
   「そなた達が神社にお参りした帰り道のようであったので、須佐之男神社で尋ねて参った」
 この付近で仲の良い祖父母と、十一、二の美しい娘だと尋ねたら、「きっと鍛冶屋の惣兵衛さんのところのお吟ちゃんだろう」と、教えて貰った。なんと、これが的中だったのだと若侍は嬉しそうに話した。
   「その節は、ご無礼致した、お蔭で命拾いを致し、無事使命を果たすことが出来申した」
   「信じてくださったのですね、有難う御座います」
   「いや、礼を言うべきは、拙者の方で御座る」
 若侍は上野国(こうずけのくに)安中藩士、伊吹春之進であると名乗った。
   「私は、鍛冶屋の娘、吟と申します」
   「お吟殿か、良い名だ」

 「実は」と、お家一大事らしき騒動を、侍は年端もいかぬお吟に漏らした。今年は参勤交代の年で、藩主が江戸詰めになると言う。その大名である藩侯の命を狙う族が居ることを他藩の大名の口から留守居役に告げられた。
 留守居役は「嘘かも知れぬ」とは思ったが、藩侯の命に関わることなので、念の為に国表へ使者を送ったのだ。その使者が忍びの者に襲われたとあっては、俄かに信憑性が出てきた。
   「お吟殿、どうか拙者の力になってくださらぬか」
 お吟は、この素直な春之助に好感を持った。
   「はい、私がお役にたつのであれば、何なりと」
   「殿の命を狙う賊は何者で、どれ程の人数なのか、道中のどの辺りで殿が襲われるのか、その目的は何なのかを占って頂きたいのだ、その一つでも分かれば、防ぎ様もあろうかと思うのだが」
   「伊吹様、私は占い師でも祈祷師ありません、ただ少しばかり先見が顕れるだけで御座います」
   「そうか、では拙者に助言してくれたように、腰元に扮して行列に紛れ、襲撃の場所を前もって教えてくださらぬか」
   「はい、それは容易いと申したいところ、私に降臨される神様は気紛れで、確実に予見できる自信がありません」
 そう答えたとき、お吟の頭の中で「チリン」と鈴が鳴った。
   「あっ、伊吹様、お待ちください、今神様の神託が下るようです」
 お吟は、神のお言葉を聞いているらしく、黙って目を閉じて一言も聞き漏らすまいとしているようであった。
   「伊吹様、神様はあなた様のお味方になられました」
 襲撃する賊は、藩侯の叔父で、先代の藩侯に謀反を起こし、その家来ともども追放になった一派で規模は十八人、目的は復讐と、あわよくば世継ぎとなる得る全ての若君を殺害し、自分が藩侯に納まることである。お吟は、神様の神託をしっかりと伊吹に伝えた。
   「襲撃場所は、やはり私がお列に加わりましょう」

   「お吟殿は、拙者が命に代えてもお護り致す」
お吟と春之進は、惣兵衛とお鹿を説得して、上野国安中へ向けて旅立って行った。


 安中城を発つときは、大名駕籠には既に藩侯と伊吹春之進が入れ替わっていた。駕籠の傍には腰元に扮したお吟が、その周りを屈強な護衛の藩士が固めて、厳かに粛々と江戸へ向かった。
 大名行列だからと言って、「下にー、下にー」の掛け声はない。あれは徳川御三家の行列にかぎるものだ。また、庶民も土下座をして見送るのは、大名が乗った駕籠にだけで、行列の先頭から最後まで平伏して見送る必要はなかった。

 とある峠に差し掛かったとき、お吟の頭の中で「チリン」と、鈴の音が聞こえた。お吟は駕籠に駆け寄り、「間もなくです」と、春之進に伝えた。
 春之進は駕籠から出ると、何やら護衛の藩士に告げて、自分はお吟と共に最後列へ下がった。やがて駕籠の周辺が騒がしくなった。

   「春之進、賊は全て倒したぞ、そなた達の手柄だ」
 護衛藩士の一人が、馬上から春之進に伝え、そのまま国元を目指して駈けていった。国元の藩侯に伝えて、馬にて行列を追って頂くためであろう。

 藩侯が到着すると、行列は江戸に到着するまでに列を整え、各自礼服に着替えて、無事に江戸城へ向かった。

   「お吟殿、いずれは藩侯から労いのお言葉をいただくと思うが、拙者からもこの通りお礼を申します」
 春之進は、お吟を送って行く途上、お吟に頭を下げた。この話がどこからどう漏れたのであろうか、「神懸りのお吟」の噂が広がった。

   「お吟、今日も大勢の人がお前の助けを借りにきていますよ、どうします?」
 早朝、お鹿に起された。
   「神様ったら、広げるにも程がありますよ」
 お吟は、眠い目を擦りながら表に出てみた。戸口には五人の人々がお吟を待っていた。

   「お吟ちゃん、夕べ倅が帰って来なかったのです」
   「えっ、それは心配ですね」
 老婆の訴えを、お吟は快く訊いてやった」
   「お婆さん、その子の名前は?」
   「平吉です」
   「歳は?」
   「三十二になります」
   「あのう…」
 どうせ遊郭へでも出掛けたのだろう。
   「お婆さん、もう平吉さんは家に戻っていますよ」
 単なる朝帰りだったりして。

   「おばさん、どうされました?」
   「うちの息子のことで…」
   「また、息子さんのことですか、お歳は幾つ?」
   「はい、二十一です」
   「昨夜、帰らなかったのですか?」
   「いいえ、息子は無断で外泊などしません」
   「あら、そう、それで?」
   「息子のところへ来てくれる嫁を探して欲しくて」
   「あのー、わたし近所のお節介婆さんではありません」
   「では、お吟ちゃんが嫁に来てください」
   「私、オマセですけど、まだ十歳です」
   「熟れるのを待たせます」
   「私は瓜ですか」

   「お次の方は?」
   「拙者でござる」
   「まあ、ご浪人さま」
   「拙者の士官先を頼む」
   「それは、口入れ屋にでも…、お門違です」

   「浪花のお商家に嫁いだ娘がいますが…」
   「遠くに嫁がれたのですね」
   「遠くて様子伺いにも行けません、ちょっと神様に見てきていただけませんか?」
   「神様はお怒りになりますよ、使い走りではないのですから」

   「子供が居なくなりました」
   「何歳のお子様でいか?」
   「はい生まれてまだ三ヶ月でございます」
   「まあ、そんな赤ん坊が連れ去られたのですか、それはご心配でしょう」
   「庭で遊ばせていて、わたしがちょっと厠にたった隙に…」
   「乳飲み子を庭で?」
   「はい、猫の子供です、神隠しにでも遭ったのでしょうか」
   「神様は、猫など隠したり、連れ去ったりはしません」
   「では、何故に…」
  お吟は、「鳶にでも拐われたのでしょう」と、言おうとして止めた。
   「あまりにも可愛いので、ご近所の子供が連れて行ったのでしょう、きっと可愛がられて育てられますよ」
   「七匹のうちの一匹です、それだといいのですが…」

 お吟は機嫌がわるくなった。
   「もう嫌、こんなことやめた、やめた」お吟は大声で叫んだ。
 その時、お吟の頭の中で「チリン、チリン」と、鈴が鳴った。
   「神様、なーに?」
 二度も「チリン」と鳴ったので不思議に思ったのだ。
   「嫌だ、私が癇癪を起したので、驚いて鈴を落としたのですか」


 くだらない相談事ばかりなので、一相談ごとにお金を一両戴くことにした。すると翌朝から入り口に並ぶ人はパタリと止んだ。


 ある朝、まだ薄暗いうちに、戸を叩く者がいた。出るのが少し遅れたところ、声を掛けてきた。
   「頼もう!」
 お鹿が出るのを嫌がったので、お吟が出た。
   「うちは道場でも寺でもはありません」
   「そうか、では頼み申す」
 同じじゃないかと思いつつも、戸を開けてやった。
   「私どもに何かご用ですか?」
 武士ではあるが、何事かを頼みに来た態度ではない。
   「拙者は坂堂左馬之助と申すが、お吟とは、お前であるか?」
   「はい、お吟は私でございます」
   「うむ、我が殿が重篤で御座って、医者が匙を投げよった」
   「申し訳ございません、私は祈祷師では御座いませんので、何もして差しあげられません」
   「そなたは神懸りと聞き及んでおる」
   「神様にお願いをせよと仰いますか?」
   「そうだ、今、殿が亡くなったのでは跡継ぎが居ない、お家断絶は免れないのだ」
   「お気の毒には存じ上げますが、延命の願いであれば、死神様にでもお願いすべきだと存じますが」
   「さようか、そなたの神から死神とやらに伝えては貰えぬか」
 また使い走りかと、神様に申し訳なく思うお吟であった。その時、「チリン」と音が聞こえた。
   「神様、また鈴をお落としになったのですか?」
 意外にもそうではなかった。お吟に「行ってやれ」との神託であった。
   「わかりました、なにかお役に立てることがあるかも知れません、私を殿様のところへ連れて行ってください」

 一介の町娘が、大名の枕元に座るなどと言うことは、まずは無いことであろう。お吟は緊張のあまり固まってしまった。
   「これ、お吟、如何致した、神のお告げを聞いておるのか」
 その直後、「チリン」と音が聞こえて、殿様の容態が見えた。殿様は「毒」を少しずつ飲まされていたようだ。
   「私の言うことを信じてくださいますか?」
 お吟は周りの家来衆の誰にともなく話かけた。答えたのは、お吟を連れて来た坂堂左馬之助であった。
   「お吟、我らは其方を信じているからこそ来て貰ったのだ、何なりと遠慮なく言ってくれ」
   「わかりました、では今まで殿様にお飲み戴いていたお薬を一服頂戴して他はお捨てください」
   「なんと、薬を捨てるのか」
   「はい、以後一切この薬をお飲ませしてはいけません」
   「それは、神様のお告げなのか?」
   「その通りでございます、それから今まで殿様のお脈をとっておられたお医者様に、誰が命令してお薬を調合させたのか尋ねてください」
   「それは、捕らえて吐かせろと言う意味か?」
   「ご髄にご判断くださいませ」
 神託があったので、坂堂左馬之助に近付き、お吟は耳打ちをした。江戸の町に杉田洪庵という名医が居る。今その場所を描くので、この薬を調べて戴き「毒消し」を調合して貰ってくださいと囁いた。
   「分かった、拙者はお吟の護衛なので部下を走らせよう」
   「しーっ、お声が高い」

 十日分の「毒消し」が届いた。「この薬を、きっちりと十日間お殿様にお飲み戴いてください」と、言い残してお吟は屋敷を辞した。十日後に再びお吟を呼びに来るように依頼した。その後のことは神様の指示を待つ積りなのだ。


 十日後、坂堂左馬之助が上機嫌でお吟の元へやって来た。殿がすっかり恢復したと言うのだ。
   「お医者様はどなたの指示であの薬を調合されたのでしょう」
   「それが、自分の判断で殿の病状に良かれと調合したもので、落ち度は自分にあると、神妙に仕置きを待っているのだ」
   「このままでは、犯人は再び別のお医者にやらせることでしょう、さて…」
 神は、謀反人を名指しされている。だが、それが神託であると確信できるのはお吟一人である。お吟がいきなり「謀反人はご家老様です」と言って信じられるものであろうか、仮に信じられたとしても、町娘ごときが謀反という大罪を暴いたところで、当人が「知らぬ」と嘯けば、お吟が陥れたことにもされかねない。
   「神様、お吟はここで手を引くべきではないでしょうか」
 お吟は、「チリン」と、鈴の音を聞いた。
   「お医者様に地獄の有様を見せて、嘘をついたままで死ねば未来永劫地獄の責苦に遭い続けるのだと脅迫するのですか?」
   「チリン」
   「まっ、悪戯好きな神様、あなた様はもしや地獄の鬼ではありませんか?」
   「チリン」
   「違うって、ほんとかしら」
   「チリン」
   「信じる者は救われる、エイメン、ですって? 嘘、嘘、私はてっきり須佐之男命さまか、その末裔の神様とばっかり思っていたのに」
   「チリン」
   「あたりなの、もう嫌」

 坂堂左馬之助には、神様が「お裁きを待つお医者様に、何もかも白状させるそうです」と伝えて帰って貰おうとしたところ、左馬之助は「実は」と、言葉を挟んできた。
   「殿が、是非お吟に会いたいと申されておる」
 お吟に尋ねたいことがあるのだと言う。もうお吟の出る幕ではないと思うのだが、殿さまの仰せでは断ることも出来ない。渋々出掛けることにした。


   「吟で御座います」
   「大儀であった、も少し近こう寄って、顔を見せてくれ」
 顔色も良く、医者に匙を投げられた病人ではない殿さまが布団の上に座っていた。
   「そなたの母の名は何と申す」
   「私は神社石段の傍に置かれており、母は私の傍で亡くなっていたそうで、名は知りません」
   「そうか、ではお吟という名は、誰が付けたのじゃ」
   「朱鞘の守り刀と共に、お吟とのみ書かれた紙片がおくるみに挟んであったそうでございます」
   「何、朱鞘とな、家紋は入っていたのか?」
   「いいえ、入ってはいませんでした」
   「左様か、その紙片は捨ててしまったか?」
   「いいえ、まだ見ぬ大切な父の形見だと思い、肌身離さず持ち歩いて御座います」
   「その懐刀と紙片を、余に見せてはくれまいか」
 お吟は、懐深くに帯同した身分に似合わぬ友禅織の袋に入った懐刀を取り出した。この中に紙片も畳んで納められていた。これを左馬之助に渡すと、左馬之助から家老に、家老が袋を開いて藩侯に手渡された。
 藩侯は顔色を変えて「お紋は死んだのか」と、呟いた。

 十数年前、まだ藩主ではなく若君であった藩侯は、馬術の指南を受けていたが、指南役と共に馬で遠出をした。その際、ある農家に立ち寄り水を所望したが、出てきたのは鄙(ひな)には稀な美しい女であった。女はお紋と言い、若君はお紋に一目惚れをしてしまった。江戸屋敷に連れ帰り正室に迎えようとしたが、お紋の身分があまりにも低かったために、父である先代藩侯や家老の猛反対に遭い、お紋を屋敷外に囲い、密かに逢瀬を重ねた。子供が生まれて五ヶ月が経つたとき、その事実が父の藩侯の知るところとなり、引き離された。其ればかりか、後腐れを絶つために、母子の命が狙われ、お紋は乳飲み子を抱えて身を隠した。
 やがて、隠れ家さえも突き止められて、お紋は山野を逃げ回った末に、せめて子供の命だけでも助けようと、神社の参道脇に隠し、自分はそこで命が尽きたのであった。
藩侯は回想して懺悔し、お紋を救ってやれなかった自分を恥じて悔やんだ。
   「お吟の名は余が付けて紙片に書いてお紋に渡したものだ、この懐刀も余が赤子にとお紋に渡した」
 そののち、藩侯となった彼は、お紋と赤子の行方を捜し続けたが、実家にも戻っておらず、死んだものと諦めたのだと打ち明けた。

   「お吟、そなたは余の実の娘じゃ、余の元へ戻ってくれ」
   「私には、私を育ててくれたお祖父さんとお祖母さんが居ます」
 お吟には、大名の娘になる気は全くなかった。
   「お祖父さんとお祖母さんを大切にして、可哀想なお母さまを祀り、神様と共に生きてまいります」

 お吟は、ちょっぴり好きになった安中藩の伊吹春之進のことが頭に浮かんだが、首を振って浮かんだ面影を振り払った。 (終)

猫爺の短編小説「十年目の仇討ち」   (原稿用紙49枚)

2015-08-17 | 短編小説
 夕暮れ時、椴松喬太郎(とどまつ きょうたろう)と、弟の喬次郎が二人で暮らす庄兵衛長屋の一部屋、喬次郎は戸の前に男が黙って佇む気配を感じた。
   「誰でぇ、何か用か?」
 男は、尚も黙ったまま身動(みじろ)ぎもせず、洟水(はなみず)をすすった。喬次郎は本差(ほんざし=大刀)を掴むと、戸をガラッと開けた。佇んで居たのは、兄の喬太郎だった。
   「なんでぇ、兄貴じゃねぇか、丁度夕餉の支度が出来たところだ、早く入りなよ」
 のそっと入ってきた兄の顔をみて、喬次郎は驚いた。眉間(みけん)から血を流している。
   「済まん、敷居が高くて入れなかった」
   「誰にやられた、やったヤツをどうした」
 眉間を割られるのは、男の沽券(こけん)に関わること、武士の「向こう傷」とは敵に背中を見せずに堂々と戦った勇気の浅傷(あさで)、これとは違うのだ。喬次郎は何が何でも仕返しをしてやろうと熱り立った。
   「それが、赤川組の貸元(かしもと=おやぶん)にやられた」
   「貸元に? 兄貴、何か為出(しで)かしたのか?」
   「代貸の長五郎兄貴の女に手を出したと難癖をつけられた」
   「兄貴そんなことをしたのか、 その女の名は?」
   「お希美だ」
 喬次郎は、また驚いた。 お希美は喬太郎の幼馴染で、将来は夫婦の誓いを交わしており、お希美の両親も許した仲である。
   「横恋慕(よこれんぼ)は、長五郎の方ではないか、そのことを貸元へ言ったのか?」
   「俺の言い分も聞いてくれと言ったが、言い訳は聞きたくないと煙管で眉間を割られた、俺は悔しいよ」
 喬太郎は、ポロポロと涙を零した。
   「兄貴、飯を食っている場合じゃねぇ、今すぐ貸元のところへ仕返しに行こう、事と次第によっては、貸元の命を取ってやろうじゃねぇか」

 兄の喬太郎は十八歳、腕っ節は強く度胸もまずまずなのだが、気長で生来の優しさが邪魔をして気弱に見られる。弟喬次郎は、腕も立ち気風(きっぷ)も度胸も頗る良いのだが、短気である。二人の父親は、陸奥国のとある村役人の五男、椴松大五郎であった。気が荒く、度重(たびかさ)なる喧嘩で人を殺め、末に股旅三昧、やがて無宿者となり、やくざに身を窶した。生前は椴松組の貸元で、小さい一家ではあったが大五郎は侠気(おとこぎ)と、子分たちの面倒見の良さで組を束ねていた。

 十年前、武蔵の国は越ヶ谷(こしがや)に縄張りを持つ椴松組の三下の一人が、赤川組の用心棒で、自称柳生流の免許皆伝だと嘯(うそぶ)く胡散(うさん)臭い浪人の仙崎小四郎に無礼をはたらいたとして斬られた。
 椴松組の子分達が色めき立って、赤川組に殴り込みをかけようというのを大五郎は押し止め、ドスを持たずに一人で赤川組へ話を付けに出かけたが、途中で待ち受けた仙崎小四郎に斬られて死んだ。
 椴松組の縄張りは、赤川組へと吸収され、喬太郎兄弟の母は兄弟を赤川に託して武州入間の実家に戻り、間もなく病で死んだ。残された八歳の喬太郎と、七歳の喬次郎は、赤川組の貸元夫婦が世話をしていた。五年後、兄弟で相談をして独立し、二人きりで長屋暮らしを始めたのであった。
 二人の生活費は、赤川組の貸元が出したのだが、その分、早朝から夕暮れまで赤川組で下働きをさせられていた。
   「貸元は居なさるかい?」
 赤川の女房が居たので尋ねてみた。
   「おや、喬次郎かい、親分に何か用か」
   「へい、ちょっと相談事が」
   「そうかい、生憎(あいにく)だねぇ、親分はお役人の接待に出掛けているよ」
   「へー、お役人の…、行きつけの料亭山月(さんげつ)ですかい?」
   「聞いていないが、多分そうだろうねぇ」
   「そちらへ行ってみる」
   「急ぎの用なのかい、くれぐれもお客様に粗相がないように、偉い方だからね」
   「へい」
 どんな偉い方だか知らないが、やくざが役人の接待なんて、袖の下を使って何かの目溢(めこぼ)しでも頼み込んでいるのではないかと、兄弟は話し合った。料亭の前まで来ると、芸者をあげているらしく、賑やかな三味線と締太鼓の音が聞こえる。兄弟は陰に潜んで、赤川の貸元が帰るのを待った。

 夜が更けて、漸(ようや)く接待に応じた役人が待機していた駕籠で帰っていった。
   「踏み込もうか」
 気長な喬太郎が言うのを、短気な喬次郎が止めた。
   「まあ待て、親分が出てきたら跡をつけるのだ」

 暫くの後、恐らく町駕籠を呼びに行くのであろう店の者が提灯を下げて出てきて闇の中へ消えた。駕籠が到着すると、店の中から賑やかな笑い声が聞こえ、料亭の女将と芸姑衆に送られて貸元が姿を見せた。

 駕籠の傍には、提灯を持った三下が一人付いているだけである。兄弟はこっそりと跡をつけ、人通りのないところで声を掛けた。
   「貸元、喬次郎で御座んす」
 駕籠の簾が捲られて貸元が身を乗り出した。
   「おぅ喬次郎、迎えに来てくれたのか」
   「迎えではない、兄の仇を取りに来やした」
   「何、仇だと」赤川が意外そうに呟いた。
 駕籠舁(かごか)きは、駕籠をその場に下ろすと、そっと離れた。三下は長ドスの柄(つか)に手をかけて、キッと構えた。その三下に喬次郎は声をかけた。
   「兄ぃには危害は加えない、そっちに退いていてくだせぇ」
 喬次郎は本差を抜くと、切っ先を貸元の目の前に突き出した。
   「貸元、よくも罪のねぇ兄貴の眉間を割ってくれた、きっちり落し前を付けさせて貰いますぜ」
   「罪が無いとは、何たる言い草だ、長五郎の女に手を出したではねぇか」
   「お希美は、もともと兄貴の女だ、幼馴染で将来は夫婦と、お希美の両親も許した仲だ、横恋慕したのは長五郎の方だぜ」
   「そんなことは聞いていねぇ、それに長五郎は俺の子分でお前たちの兄貴じゃねぇか、黙って譲るのが弟分だ」
   「何が弟分でぇ、俺達はお前の子分じゃねぇぞ」
   「ここまで誰に育てて貰ったと思っているのだ、いまだに昼飯をバクバク食わせてやっているうえに小遣い銭もやっているのだ、お前たちには有り難いという気持ちがねぇのか」
   「飯を食わしているだと、小遣い銭をやっているだと、そんなものは当たり前でだ、ガキの頃から一日中下働(したばたら)きをさせられ、こき使われているじゃねぇか、俺達兄弟はなぁ、子分たちの褌まで洗わされているのだ」
   「それくらい何だ、そろそろ親分子分の杯をやろうと思っていた矢先だ、それをフイにしても良いのか」
   「笑わせるのじゃねぇ、もともとてめぇの杯など受ける気はねぇ」
   「子供の頃から育てて貰った恩を、何と思っている」
   「恩だと、じゃあ言わせて貰うが、代貸に喧嘩を売らせて、椴松組の代貸を仙崎小四郎に殺(や)らせ、親父を誘(おび)き出して殺し、親父の縄張りをまんまと横取りをしたのはどこの誰でぇ、俺達が何も知らんと思っているのか」
 喬次郎が言い終わったとき、本差が貸元の額を滑り抜けていた。貸元の額は真横に裂け、血が吹き出した。
   「これで終わると思うなよ、仙崎小四郎を見つけ出して、お前の企みによって親父が殺られた証拠を掴み仇を討ってやる、お前も仙崎小四郎もその企みに加担した子分たちも必ずあの世に送ってやる、しっかり覚えておけ」
 三下は腰を抜かし、提灯はその足元で燃えていた。駕籠舁きはどこかへ隠れて様子を窺っているのだろう、兄弟が立ち去るまで姿を見せなかった。

 兄弟はその足で長屋の大家のもとへ行き、旅に出るからと、未払いの家賃を精算し、長屋の部屋を片付けて旅に出た。
   「仙崎は、江戸に居ると兄貴たちが話していたぜ」
 喬太郎は、それを憶えていた。
   「年に二回は、赤川の貸元に金をせびりに来るそうだ、ネタは親父を殺してやったことだろう」
   「役人は、やくざの出入りには踏み込んで調べねぇから、殺しを頼んだヤツも、手を下したヤツも、大手を振って娑婆で泳いていやがる」
 喬次郎は、怒りで拳を固めた。


 兄弟は、陸奥の国に飛んでいた。彼らの伯父に父大五郎の遺骨が引き取られ、先祖代々の墓に葬られた。その墓に参るためにやって来たのだ。
   「大五郎の息子たちか?」
   「はい、喬太郎と喬次郎です」
   「そうか、父の墓参りに来たのだな」
   「はい」
   「よく来たな、ゆっくりして行けるのか?」
 伯父は、懐かしげに兄弟の顔を見た。最初に会ったのは、兄弟が四、五歳の頃であった。どちらも大きく成って、弟大五郎に似てきたなと感慨に耽けた。
   「いえ、すぐに戻ります」喬太郎が答えた。
 もしかしたら、自分たちはお尋ね者になっているかも知れない。長居して役人の伯父に迷惑がかかってはいけないと思ったのだ。
   「そうか、では早速下男に墓を案内させよう」

 初めて見る父の墓である。墓誌(ぼし)には、父椴松大五郎の名が刻まれていた。下男が用意してくれた手桶の水を石碑に掛け、線香の束に火を付けた。兄弟は、すぐ近くに父が居るような気がして、幼い頃の父の面影を思い浮かべていた。
   「親父、さようなら」
 お尋ね者になれば、もう二度とこの墓に参ることは出来ないだろうと思うと、目頭が熱くなった。

 屋敷に戻ると茶を一杯ずつよばれて、伯父に別れを告げた。
   「女房に先立たれて、男ばかりの生活なのだ、お構いも出来ず許してくれ」
 伯父は申し訳なさそうに見送ってくれた。父の仇をとったあとは、凶状持ちとして追われる身になるだろう。ここへは二度と戻らないと心に決めた。

   「お控えなすって」
 兄弟が伯父の屋敷の次に訪れたのは、奥州一の侠客一家、貸元は阿部金五郎のもとである。金五郎は喬太郎兄弟の父椴松大五郎と五分と五分の兄弟杯を交わした、いわゆる義兄弟である。阿部一家は主に運送を生業(なりわい)とし、決して暴力をもって庶民を脅すことはなく、寧ろ「弱い者を守る」ことを旗に挙げていると、よく父が話していた。
   「姓は椴松、名は…」
 門口での喬太郎兄弟と三下の仁義が、奥の貸元に聞こえたらしく、「椴松」という名に反応して飛び出してきた。「もしや十年前に殺られた大五郎の倅か…」と、思ったのだ。
   「おお、やはり大五郎の息子たちか」
   「話は後でゆっくり聞こう、とにかく上がって寛いでくれ、酒と料理を用意させよう」
 と、言って喬太郎たちの顔を繁々と眺めて、「もう、これはいけるのか?」と、金五郎はお猪口の酒を飲み干す格好をした。二人が童顔であっからだ。
   「はい、大丈夫です」
 酒は幼いころから大人たちの飲み残しを飲んでいたので、飲み過ぎても目を廻すことはない。

 その夜、金五郎が座る定位置らしい長火鉢の前に、兄弟は呼ばれた。
   「さあ、話を聞こうか、奥州まで来たのは、親父の墓参りだけではあるまい」
 金五郎の口振りから、どうやら自分たちの噂はここまで流れてきているらしいと喬次郎が感じ取った。
 兄の許嫁に赤川の代貸が手を出したにも関わらず、兄が代貸の女に手を出したとして、兄の言い分を聞かず、貸元は兄の眉間を煙管で割った。この行為に反発をして、兄弟は仕返しをしたことを包み隠さずに告白した。
   「それで、貸元を殺したのか?」
   「いいえ、殺してはいません、額を傷付けただけです、父を殺した浪人者を探し出して赤川の貸元が指図した証拠を聞き出し、改めて父の仇を討つ積りです」
   「そうか、分かった、お前たち兄弟は熱(ほとぼ)りが冷めるまで儂(わし)のところで匿(かくま)ってやろう、その後は、お前たちの心組みにまかせる」

 その後も、赤川一家の追手が椴松兄弟の行方を探している様子はなく、金五郎の子分を武蔵の国越ヶ谷に差し向け、赤川一家の様子を窺わせたが、椴松兄弟に対する仕返しをする動きはなかった。

   「三ヶ月も置いて頂き、有難う御座いました」
 椴松兄弟は、江戸へ出て、仙崎小四郎を見付け出し父の仇を討つのだと、旅支度をした。
   「何のこれしき、礼など言わずともよい、無事仇を討ったら知らせてくだせぇ、陰ながら盃を干して祝いますぜ」
 阿部金五郎は、快く兄弟を送り出した。


 椴松兄弟が江戸で成すべきことは、父を手に掛けた浪人、仙崎小四郎を見つけ出し、それを指示した真犯人いわゆる教唆犯を吐かせたうえ、父の仇を討つことである。それを成功すれば、武蔵国の越ヶ谷の赤川組一家へ殴りこんで、父の仇を討つのだと二人の心に秘めている。

 仙崎は殺し屋である。どうせ評判の悪い一家の用心棒として住み込んでいるのだろうと踏んで、尋ね歩いた。時には一宿一飯の恩義に与り、訳を打ち明けて「仙崎小四郎」の名を出して尋ねた。
 橘一家で一宿一飯の恩義を受けたとき、気のいい子分がこっそり教えてくれた。
   「荒川組は質が悪いので、気を付けて当たりなせぇ」
 と、前置きをして、その男は殺し屋を飼っていると言う荒川一家を教えてくれた。奇しくもその夜、この橘一家に、荒川一家から喧嘩状が届いたようであった。
   「客人、今夜はゆっくりしなすって、明日早くこっそりと発ってくだせぇ」
 貸元自ら、まだ若い椴松兄弟を喧嘩に巻き込むまいと、気を使ってくれた。それを喬次郎は断った。
   「雇われ用心棒の一人は、我らの父を手にかけた仇らしいのです」
   「その用心棒の名は?」
   「仙崎小四郎です」
   「そうか、間違いはない、目の鋭い浪人が、たしか仙崎と名乗っていた」
   「この度の喧嘩も、仙崎が関わっていませんか?」
   「確かに、うちの子分が酒に酔った男に絡まれて、あまりの執拗さに殴ってしまったが、その酔った男に加勢したのが仙崎らしい」
   「酔っぱらいを殴ったお身内、よく斬られませんでしたね」
   「これが、たまたま、逃げ足の早い駿太という男で、仙崎を振りきって逃げ帰ったらしい」
 だが、駿太は橘一家の子分だと顔が知れていた。と、言うよりも、仙崎は駿太を橘組の身内と知っていて酔っぱらいに絡ませたようだ。
 橘組は、喧嘩状の返事を荒川組に持っていかねばならない、仕方がなくその役目を駿太にやらせるのだと言う。この使いは命懸けである。恐らく今度は簡単に逃げ帰れないだろう。
   「ようがす、種を撒いたのはあっしです、あっしが返事を持って行きましょう」
 駿太が覚悟して言うのを聞いた喬次郎は、名乗りを上げた。
   「その役目、俺達に任せてくだせぇ」
   「殺されても良いのか?」
 貸元と駿太は、「まさか」という顔をした。
   「俺に考えがあります、今から間に合うかどうか分かりませんが、早桶を一つ用意してくれませんか」
 早桶とは、俄造りの粗末な棺桶である。喧嘩状や、その返事を持って行く役目の男は、この早桶を担いで行き、殺されたときはこの棺桶に収めて貰うという、いわば「覚悟」の象徴である。
   「客人にその役目を押し付けたとあっては、儂の面目が立たないではないか」
   「俺には、親の仇を討つという使命があります」
   「そうか、客人達はそれで良いのか」
   「へい、棺桶を担いで帰る役目と言う名目で、兄の喬太郎と一緒に参ります」
   「相手は、仙崎一人ではないぞ」
   「分かっておりやす」

 その夜、駿太は桶屋に走った。これまた偶々ではあるが、作り置きが一つ有ったとかで、駿太は棺桶を担いで帰ってきた。
   「これは元来あっしの役目です、客人、それで良いのですか」
 駿太は、心配そうに兄弟の前に棺桶を下ろした。
   「良いか悪いかわかりませんが、折角出会う親の仇、たとえ返り討ちに合おうとも、後悔するものじゃありません」
   「わかった、任そう」

 兄弟は荒川一家の門を潜った。中では灯りを明々と焚いて、明朝の出入りの準備が万端整い、橘一家から喧嘩状の返事を持った使い走りが来るのを待っていたようであった。
   「お控えなすって」
   「ん? 子分ではなく、旅人をよこしやがったな」
   「俺は武蔵の国は越ヶ谷の生まれ、元、椴松組の椴松大五郎の倅、喬太郎と喬次郎で御座んす」
 荒川一家の貸元は憶えていたようである。
   「十年前に殺されて、縄張りを赤川一家に奪われた椴松だな」
   「その通りで御座んす」
   「その椴松の倅が、何故こんなところへ殺されに来た」
   「父大五郎を闇討ちした、仙崎小四郎に仇討ちに来た」
   「そうなのか?」荒川の貸元は仙崎をみた。
 仙崎小四郎はニヤニヤ嘲笑っている。
   「見ればまだ若い二人だが、仙崎先生に歯向かう腕はあるのか」
   「無い」
   「それで棺桶を担いでやって来たのか」
   「そうだ、荒川一家も、ロクなやくざではないと聞き、どうせ仙崎に手を貸すに違いないと思ったからだ」
   「なるほど」荒川はむかついたが、強いて平生を装った。
 喬次郎は、背負った棺桶を下ろすと、襷(たすき)をかけ、頭には鉢巻を巻いた。喬太郎は、一歩後ろに下がり、棺桶にすがって振るえている。仙崎が喬次郎の前に立ちはだかった。
   「お前は勇ましいことを言っているが、そっちの男は振るえておるぞ」
   「あれは兄だ、俺が殺られたら死骸を桶に入れて持ち帰る役だ」
 仙崎は、喬次郎の手に引っ掛かった。兄弟は、どちらも大した腕ではないなと判断させるために兄に腰抜けを演じさせたのだ。仙崎は、荒川一家の子分達に言った。
   「コヤツは俺が殺る、手出しをするな!」
 こう言わしめたのも、喬次郎の思惑どおりである。喬太郎は仙崎の敵として眼中から消えた。喬次郎は、仙崎よりも早く本差を抜いた。仙崎は柳生流の達人とは真っ赤な嘘であろうが、剣は可成りの手練(てだれ)であることは間違い無い。仙崎は武士らしく落ち着いて剣を抜いた。
 尚も、喬太郎は振るえている。本差の柄(つか)が棺桶に当たり、カタカタと音を立てている。
   「何だ、この臆病者、恐ろしいなら向こうへ行っておれ、目障りだ」
 仙崎が喬太郎を罵って切っ先を「向こうへ」と言った方に向けたとき、僅かだが隙が出来た。ここを逃すまいと、喬次郎が切り込んだ。喬次郎の剣の先が仙崎の右腕に食い込んで「あっ」と、仙崎が声を漏らした。その怯んだ仙崎の体に喬太郎の抜身が突進してきて、横腹を貫いた。
 その場に転がった仙崎に馬乗りになった喬次郎は、問い質した。
   「親父を殺ったのは、誰の指図だ」
 荒川一家の者達は、呆気にとられて見ているだけである。
   「赤川の貸元だ」
 仙崎は苦痛に歪んだ顔で答えた。死に直面して、まさか嘘はいうまいと、喬次郎は思った。
   「親父殺しに加担した者の名を言え! 言うのだ!」
   「代貸の…」
 仙崎は、名を言わぬまま出血多量で気を失い、やがて息絶えた。

   「有難う御座いました」
 喬次郎はその場に平伏した。
   「親分とお身内のお陰さまを持ちまして、椴松兄弟、無事に父の仇を討つことが出来ました」
 兄喬太郎も、喬次郎の横へ来て平伏した。二人、そっと顔を上げて見ると、貸元以下一同はただ唖然としているばかりであった。
   「この度の橘組との喧嘩も、この仙崎が仕組んだもので、酔っぱらいに金を渡して絡ませ、橘組の若い衆が怒って手を出したことをネタに、喧嘩を仕組んだものです」
 荒川の貸元も、若い衆も、納得したように思えた。
   「橘一家には、荒川の貸元が、この喧嘩は無かったことにしようと、言っておいでだと伝えます、宜しゅう御座んすか?」
 荒川は、ゆっくり頷いた。ようやく、全ての元凶は、仙崎であったことに気付いたようだ。

 空の棺桶は置いてきた。仙崎の遺体を、出入りの犠牲者として無縁墓地に葬るために使うだろうと、喬次郎が気を利かせたつもりである。

 絡まれた橘一家には、「話は着いた、喧嘩はなしだ」と、伝えた。一同は、兄弟揃って生きて帰ってきたことを不思議に思っているようであった。



 椴松兄弟は、江戸から越ヶ谷の赤川組に向かった。道中、仇討の段取りなどを話し合ったが、こちらは荒川組のようにはいかないだろうという結論になった。
 もと、椴松組の身内も、赤川組の身内も、我ら兄弟の味方をするものは居ない筈だ。いきなり「父の仇」と、赤川の貸元に迫っても、大勢の子分どもに取り押さえられてしまうだろう。まず、仙崎を探し当てた経緯から話し、兄貴たちに訴えてみよう。それで通じなかったら大暴れをするまでだ。
   「兄貴、覚悟は出来ているか?」
   「おうとも、生きていたら、おふくろの墓参りに行こうぜ」
   「それ程遠くもないのに、一度も墓参りに行っていないので、叔父さん怒っているだろうな」
 母親の墓は、赤川一家と同じ武蔵野国のうち、入間村にある。そこには母の弟が先祖代々の茶畑農家を継いでいる。駿河などの静岡茶、京都の宇治茶と並んで入間(いるま)は日本三銘茶のひとつ狭山茶の産地である。
   「それよりも、俺たちはヤクザになっていると思われているだろう」
   「おふくろが、親父のところへ嫁いだとき、怒って縁を切られたと言っていた」
   「それでも遺体は引き取ってくれたのだから、情には熱いのだろう」
   「兄貴も、そう思うか」
   「うん、追い返されるのを覚悟で、行くだけ行ってみようや」


   「喬太郎と喬次郎がけえってきやしたぜ」
 赤川組の三下が駆け込んできた。
   「親分、隠れてくだせぇ」
   「馬鹿、儂が隠れてどうする、まだ仇をとりにきたとは限らねぇ」
 赤川の貸元が落ち着き払って言ったが、半ば覚悟は出来ていた。恐らく、仙崎は自分が指図をしたと兄弟に告げたであろうと思ったからだ。
 赤川の貸元は、兄弟を迎えるため玄関に仁王立ちで待ち、後ろに代貸以下子分が蹲踞の姿勢で控えた。それぞれ長ドスを手にしていたが、貸元が指図してそれぞれの左側に置かせた。
 一歩玄関に入った椴松兄弟は、その物々しさに驚くことなく黙って一礼した。
   「仇を討ってきたのか、仙崎を殺ったのか?」
 貸元は、矢継ぎ早に尋ねた。
   「へい、江戸の荒川一家に用心棒として居候していたのを見付け出し、無事親父の仇を討ちやした」
 喬次郎が落ち着き払って答えた。
   「仙崎は、討たれる前に何と言った?」
   「仙崎に指示したのは、赤川の貸元だとはっきりと言いました」
   「そうか、アイツはそう言ったのか」
 貸元は、目を瞑って、もう一度「アイツめ…」と、呟いた。
   「父の仇を取らせて頂きやす、貸元、覚悟!」
 まず、喬次郎が本差を抜いて貸元に向けた。喬太郎もゆっくりと弟に続いた。後ろに控えた舎弟や子分達が長ドスを掴んで貸元を護ろうとしたが、貸元が鎮めた。
   「わかった、暫く時をくれ」
 貸元は兄弟の刃に背を向けた。
   「為造、儂が亡き後は、お前が一家をまとめてくれ、分かったな」
 貸元は、舎弟の為造に声をかけると、再び兄弟の方に向き、喬太郎に軽く頭を下げた。
   「言い分を聞いてやらずに眉間を傷付けて悪かった、許してくれ」
 喬太郎が付けた貸元の額の傷の方が痛々しかった。
   「それから、あれを持ってきてくれ」
 女房に指図した。暫くして、女房は一貫目以上も有りそうな風呂敷包みを持って出てきた。
   「親父の仇を討ったら、これを持って行ってくれ、お前たちの母親から預かった金と、お前たちが働いてくれた働き賃を貯めておいたものだ」
 女房は、重い包を兄弟の前に置きながら、「本当かねぇ」と、ぽつりと呟いた。
   「きっと、仙崎は嘘をついたのだろう、だって…」
 言いかけた女房の言葉を、貸元は遮った。
   「もう言うな、未練じゃねぇか」
 そう言うと、貸元は三和土に降りて胡座をかいた。
   「喬太郎、喬次郎、達者でな」
 まず、喬次郎が太刀を振り上げた。何故か、喬太郎は後ろを向いて項垂れた。子分たちが、「あっ」と声を漏らして貸元を庇おうとした時、貸元の舎弟で代貸の為造が、貸元と喬次郎の間に割り込んだ。
   「喬次郎、待ってくれ、お前の親父さんを仙崎に殺させたのは、このあっしだ」
 貸元は、本気で驚いている。
   「どうか、あっしの言うことを聞いておくんなせぇ」

 為造が躊躇しながらも、ポツリポツリと十年前の経緯を話し始めた。椴松の貸元と、赤川の貸元が話しているのを為造が聞いてしまったのだ。

   「なぁ椴松、俺には倅が居ねぇ、どうだろう喬次郎を儂の養子にくれないか」
 椴松は、笑って答えた。
   「喬次郎はまだ七歳だぜ、そんな大事な事を親たちだけで決めてしまってはいけない、せめて喬次郎が一人前になるまで待って、本人に決めさせてやってくれないか」
 言われて気付いた赤川は、「それもそうだなぁ」と、その場は納得したようであった。だが、納得出来ない男が居た。為造である。為造は、赤川一家を継ぐのは自分だと思っていたからである。がっかりした為造は、つい仙崎に愚痴を言ってしまったのだ。
 仙崎は「拙者に任せておけ」と、十年前のあの殺しを実行したのであった。為造は「しまった」と仙崎に愚痴を聞いてもらったのを後悔したが、時既に遅かった。仙崎は椴松の貸元を殺害し、赤川の貸元を恐喝しているのであった。
   「拙者は、赤川に頼まれて殺ったのだ」
為造には嘘だと分かっていたが、それを口にすれば自分が殺らせたことにさせられてしまう。為造は悩み抜いたが、結局口を噤んでしまった。

 仙崎は、赤川の貸元を脅迫し、それからは金をせしめるようになっていった。
   「為造、お前が貸元の二代目になったときは、お前から貰うからな」
 仙崎は、赤川一家から、生涯金を搾り取るつもりであると、赤川も為造も、それぞれ今更のように気付いたのであった。

   「喬次郎、貸元は仙崎に嵌(は)められただけで、何の罪もないのだ、悪いのはこの俺だ、この俺を殺っておくんなせぇ」
 為造は、卑怯にも、この事実を隠し通そうとしたことを、貸元に向かって土下座をして謝った。
   「喬太郎、喬次郎、俺が悪かった、始末をつけておくんなせぇ」
 為造は、その場で諸肌を脱いで項垂れた。喬次郎は、ちょっと戸惑いの表情を見せたが、思い切ったように為造の傍らにしゃがみこんだ。
   「為造兄貴、もう分かったよ、兄貴や貸元が親父を殺せと仙崎に頼んだのではないことが」
 喬次郎は、兄を見上げて、「なぁ」と、同意を求めた。喬太郎は、黙って頷いた。

   「では、俺達はこれで…」
 兄弟が立ち去ろうとするのを、貸元が止めた。
   「お前たちが帰るところは此処だぞ、どこへ行こうとしているのだ」
   「それは二人で考えます」
   「待て、椴松のシマを預かっていたが、お前たちは立派に一人前だ、今こそ返してやろう、二人で継いでやってくれないか?」
   「親父は親父の思った道を歩んで死にました、俺達は俺達の思う道を歩みます」
 後継の強制は、父の意ではなかった筈である。「息子たちが一人前になった時に決めさせる」と、思っていたに違いない。
   「継ぎません」
 喬太郎がきっぱりと言った。喬次郎もまた、黙って頷いた。
   「そうか、無理強いはすまい、だが、困ったことがあれば頼って欲しい」
   「有難うございます」
 兄弟が立ち去ろうとしたところ、貸元の女房か声をかけた。
   「忘れ物だよ、これはお前たちの物だ、持って行っておくれ」
 母が預けたと言う金と、兄弟の働いた賃金が入った風呂敷包である。
   「俺達には、貸元から小遣いとして頂いた金が貯まっているので路銀には十分です」
 口にはしなかったが、「元はと言えばあぶく金」兄弟の門出には相応しくないと考えたのだ。
   「行くあてでもあるのか?」
   「あても果てしもない旅鴉でござんす」
   「真面目に訊いているのだ、真面目に答えんか」
   「へい、入間に在るおふくろの墓に参って、後のことは二人で考えます」
   「落ち着く先が見つかったら、必ず知らせるのだぞ」
   「へい」


 亡くなった母の実家は、狭山茶の農家であった。母の弟夫婦が息子一人と三人の娘とともに茶畑に囲まれた藁葺屋根の下で仲良く暮らしている筈である。子供の頃、幾度か母に手を引かれて来た昔のままの懐かしい佇まいが見えてきた。
 母屋に近付くと、「プーン」と、線香の匂いが漂っていた。
   「誰か亡くなったらしい」
 喬太郎が不安げに呟いた。母屋の戸は開いていたので、二人が入ろうとすると、喬太郎たちと同年代の男が出てきて、硬い表情で二人を睨みつけた。その目は真っ赤に泣き腫らして、恨みに燃えていた。
   「俺達は椴松大五郎の倅で喬太郎と、弟の喬次郎と申します」
 男は、父親の亡き姉の息子だと気付き、表情を緩めた。
   「済みません、二本差しなので、てっきり代官の家来だと思いました」
   「あなたは、俺達の従兄弟、耕兵さんですか?」
   「はい、長男の耕兵です」
   「どなたか、お亡くなりに?」
   「はい、上の姉の桔梗です」
   「病ですか?」
 母と実家に戻ったとき、自分たちの面倒を見てくれた優しい従姉の顔を思い浮かべた。
   「いいえ、代官の倅に弄ばれて、首を括ったのです」

 喬太郎と耕兵が話しているとき、喬次郎が表の茶畑に男が潜んでいる気配を感じた。
   「耕兵さん、俺たちは直ぐ引き揚げるが、耕兵さんは『泥棒!』と叫んで俺たちの後を半町ほど追って諦めて戻ってください」
   「喬次郎、どうかしたのか?」
 喬太郎は気付いていないらしい。
   「俺たちは見張られている、代官の倅の取り巻きでしょう」
 それだけで、喬太郎は弟の考えていることを理解した。
   「喬次郎さん、せめて姉に線香でもあげてやってください」
   「そうしたいのですが、出来なくなりました、俺達が来たことは、誰にも喋らないでください」
 兄弟は母屋から飛び出し、全速力で駆け出していった。その後を耕兵が喬次郎に言われた通り「泥棒!」と叫んで後を追った。

 二、三町逃げたところで、寺の石段に腰を下ろし、喬次郎は懐から自分の小銭を出して見せた。
   「チェッ、たったこれだけかい、時化てやんの」
 どうやら、香典を盗んで逃げてきた体(てい)らしい。
   「兄貴、俺達の跡を付けていたヤツが戻っていったぜ」
   「そのようだな」
   「今度は俺達がアイツの跡を付けよう」
 喬太郎は、訳を訊かなかったが、喬次郎の目論見(もくろみ)は百も承知なのだ。周りは茶畑なので、隠れて付けるのは容易だった。
   「アイツが親分らしいな」
   「代官の倅か」
   「そうだろう、何やら指示をしているようだ」
 喬太郎達が見ていると、五人の男たちは町の方へ向かって談笑しながら歩いて行った。途中、野菜籠を背負った若い女に出会った。
 男たちは女を囲み、何やら冷やかしているようであったが、行き成り背中の籠を下ろさせると、暴れる女の自由を奪い、茶畑の奥へ連れ込んだ。その跡を追って、喬太郎たちも茶畑の奥へ入っていった。

   「俺達も、仲間に入れて貰うぜ」
 今まさに、女の着物を脱がそうとしている男たちに喬次郎が声を掛けた。
   「あっ、あの時の泥棒野郎たちだ」
 耕兵のところから喬太郎たちの跡を付けていた男が叫んだ。
   「泥棒野郎、横取りに来やがったな」
   「可愛い女じゃねぇか、おめえ達には勿体ねぇ」
   「煩せぇ、殺っちめぇ」
 代官の倅らしい男が太刀を抜いた。他の四人は、懐からドスを出した。喬次郎が太刀を抜くと、五人は喬次郎を取り囲んだ。
 その間に、喬太郎は女のところへ歩み寄り、囁いた。
   「娘さん、ここは俺達に任せて逃げなさい、俺たちはコイツらを相手に喧嘩をするから、怪我をしないうちに早く」
   「有難うございます」
   「籠を忘れないようにな」
 男たちは、逃げる女に気付いて、跡を追おうとしたが、喬太郎が立ちはだかった。それでも女を追いかけようとした男を、喬太郎は後ろから袈裟懸けに太刀を振り下ろした。斬られた男は「わーっ」と声をあげてその場に転がった。
   「くそっ、殺りやがったな」
 二人の男が、喬次郎に向けたドスを、喬太郎に向けてきた。喬太郎の太刀筋は、決して良いものではない。無茶苦茶流の喧嘩太刀であるが、あっという間に二人は倒されて、折り重なって横たわった。
 その間に、喬次郎は代官の倅と思しき男に尋ねた。
   「お前は代官の倅だな」
   「そうだ、俺に逆らうとどうなるか思い知らせてやる」
 喬次郎は声には出さなかったが、「従姉の仇」と、叫んでいた。暫く鎬を削り合う音が辺りに響いたが、やがて「どすっ」と音がして、代官の倅が倒れた。
   「ま、まってくれ」
 残った一人がその場に腰を抜かして尻餅をついた。恐怖のために全身が震えている。
   「この腰抜け、一思いに首を斬り落としてやる、覚悟しやがれ」
 喬次郎は太刀を中段に構えた。
   「こ、殺さないでくれ」
   「何だ、臆病者メ、張り合いのないヤツだ、今度、女を襲いやがったら、確実に首を刎ねてやる、お前の面は憶えたからな」
 喬次郎は、男を逃がしてやった。これは、四人を殺ったのが従姉桔梗の仇討ちであることを悟られない為である。

  入間(いるま)の耕兵の家では、菩提寺に使いに行っていた次姉の萩女が帰ってきた。着物は土で汚れ、髪が乱れている萩女を見た耕兵は驚いた。 
   「どうしたのだ、何があった」
 耕兵は、姉の萩女に駆け寄って肩を抱いた。
   「代官の息子に襲われた」
 近々、惚れ合った男と祝言を挙げる筈であった長女を弄んで、自害に追いやり、またしても次姉の萩女を襲うなんて、耕兵は拳を握りしめて涙を零した。
   「もう我慢が出来ない、ヤツを殺して俺も死ぬ」

 そのとき、近所に住む者から耕兵の元に、「代官の倅が二人の旅人に殺された」との知らせが入った。耕兵は咄嗟に椴松兄弟が浮かんだ。泥棒と叫んで二人の後を追わせたのも、二人が来たことを誰にも喋るなと言って出て行ったのも、この嫌疑が自分に掛らなくする配慮だったのかも知れないと思い当たった。
  「萩女姉さん、桔梗姉さんのように死んではならん」
 萩女もまた、好いた男が居たので、長女のように操を守れなかったことの詫びに命を絶つことを危惧したのだ。
  「耕兵、私は大丈夫よ、二人の若い旅人さんに助けてもらったの」
  「もしやその一人の眉間(みけん)に傷跡は無かったか?」
  「えぇ、有りました、耕兵の知り合い?」
 耕兵は、黙って手を合わせた。まさしく従姉の椴松兄弟に違いないと確信したからだ。


 その頃、喬太郎、喬次郎の草鞋は、奥州の阿部金五郎のもとを向いていた。兄弟は、金五郎には全てを話す積りである。

   「事情は分かった、向こう一年はここで大人しくしておれ」
 金五郎は、椴松の息子たちが自分を頼ってくれるのが嬉しかった。何があろうとも、この兄弟を匿ってやろうと心に誓うのであった。金五郎の子分たちも、若い二人を可愛がってくれるが、兄弟も決して一家の人々に甘えずに、赤川一家でやっていた下働きをセッセと熟していた。


 かれこれ一年の月日が過ぎたある日、兄弟は金五郎の元に呼ばれた。
   「近々、お前たちのところへ客人がみえる」
 椴松の伯父かもしれぬ。いや、もしかしたら従兄の耕兵だろうか。まさかとは思うが、入間の代官が息子を殺ったヤツの身柄を引き渡せといって来るのかも知れないなどと色々、思いを張り巡らせる兄弟であったが、肝心の一人を忘れていた。

 やって来たのは、赤川一家の貸元であった。金五郎と赤川が談笑している部屋に兄弟が入ってきた。
   「あっ、貸元」
 喬太郎が後退りした。
   「いいから、ここへ座りな」
 金五郎が空の煙管で畳を叩いた。
   「お前たちには、椴松大五郎の血が通っているのだ」
   「へい」
 喬太郎が返事をしたが、金五郎が何を言わんとしているのか分からなかった。
   「喬太郎、親父の縄張(しま)を継いでやれ」

 赤川は、あくまでも椴松の縄張を喬太郎に継がせたいのだと言う。奪い盗ったのではなく、今まで預かって護り通していたのだ。

   「喬次郎は、儂の養子になって赤川一家を継いでくれ」
   「それは、為造兄貴が‥…」
 喬次郎の言葉を赤川は遮った。
   「為造は死んだよ」
   「えっ、死んだ?」
   「無謀にも、酒に酔って暴れる旗本の若様を鎮めようとして斬られて死んだ」
   「それで、その若様は?」
   「相変わらず大手を振って昼間から酒に酔って女を手籠めにし、罪のない町人に斬りつけている」

 どこでどう気が変わったのか、椴松喬太郎と、椴松喬次郎は、赤川に連れられて武蔵の国は越ヶ谷の生まれ故郷へ帰って行った。  (終)


猫爺の短編小説「兄と弟」   (原稿用紙36枚)

2015-07-16 | 短編小説
 浪速は大坂の町なか、町人の子供たちが武士の子息とみられる少年を取り囲んでいる。
   「銭を持っているやろ、全部出せ」
   「持っていません、小遣いなど貰っていないのです」
   「嘘をつけ、お前は侍の子やろ」
   「そうですけど、小遣いなど貰ったことはありません」
   「この嘘つき、裸にして調べてやる」
 ガキ大将の号令で、ガキどもが武士の子を取り巻いた。着物も袴も脱がして探してみたが、銭など持っていない。
   「よし、明日まで待ってやる、親の金をくすねてここへ持ってこい」
   「そんなことは出来ません」
 侍の子は、蚊の鳴くような声で言ったが、ガキ大将に拳で頬を殴られ、その場に倒れてしまった。ガキどもは、「持ってこい」と、口々にガキ大将の口真似をして、倒れた少年の脇腹や腰を蹴って立ち去った。

 少年は起き上がり、掌で頬を抑えて、涙を堪えていたが、やがて大粒の涙を一粒だけ零した。

 彼は、大坂東町奉行所与力、矢野浅右衛門の長男貫十郎十五歳である。本来なら、「俺は武士の子だ、お前らには負けぬ」と、ガキどもに組み付いて行く負けん気があって当然なのだが、生来気が弱くて、父親浅右衛門(あさえもん)から「意気地なし」と罵られ、屋敷内に父が居るときは小さくなっている。

   「兄上、その顔どうしました?」
 弟貫五郎十四歳である。
   「ああ、ちょっと柱にぶつけたのだ」
   「腫れているじゃないですか、冷やしてあげますから、井戸端へ行きましょう」
 兄の貫十郎は、痩せていて色白であるが、貫五郎は浅黒く、兄よりも背は高く、体格も優れている。江戸から父の転属により大坂へ来て二年になるが、今まで喧嘩などしたことはなかった。

 弟は向こう意気が強く、腕っ節もかなり強いようで、喧嘩でやられたのであれば、仇をとるつもりである。
   「兄上、本当は喧嘩をしたのでしょう」
   「しないよ、喧嘩をしても負けるのに決っているから」
   「では、一方的にやられたのですか」
   「うん」
   「やはりそうですか、それで話はついたのですか?」
   「いいや、明日、親の銭を盗んで持ってこいと言われた」
   「恐喝じゃないですか、それで黙って帰ってきたの」
   「うん、俺にはどうしょうもなかった、弱虫だからな」
   「そうか、それで銭はどうするつもりです」
   「盗めっこないよ、明日行って殴られてくるよ」
 貫十郎は、「殺しはしないだろう」と、然程苦にはしていない様子である。

 翌日、弟貫五郎は兄貫十郎が出かけた後をこっそり付けていった。兄を取り囲んだのは、下は十歳ぐいから、上は十七歳位のデカガキどもであった。
   「持って来たか?」
   「無い、親の銭を盗むなど、断じて出来ない」
   「痛い目に遭ってもええのか?」
   「仕方ない」
 ガキ大将が拳を上げた瞬間、貫五郎が体当たりをしてきた。
   「痛ぇ」
 ガキ大将がよろけた。
   「誰や、お前」
 ガキどもは、キョトンとして見守っている。
   「俺は弟だ、東町奉行所与力、矢野浅右衛門の倅だ」
 名を聞いて、ガキどもはお互いの顔を見交わして、後じさりをした。
   「与力さまの倅やって」
   「これはヤバいぞ」
 ガキ大将とガキどもは、「逃げろ」と、叫びながら散り散りに去っていった。

   「兄上、何故に父の名を出さずに、殴られようとしたのですか」
   「貫五(かんご)、弱虫の俺が無闇に父の名を出せば、父が笑いものになりはしないか」
   「兄上は、大樹の陰に寄るのが嫌いなのですか?」
   「うん、嫌いだ」
 貫五郎は、兄の根強さに触れたような気がした。
   「兄上は、弱虫なんかじゃない、兄上を弱虫だ、意気地なしだと罵る父上がいけないのだ」
   「貫五、父上の悪口を言ってはいけない、父は真の武士なのだ」
   「兄上、武術に秀でたものだけが武士ではありません」
   「父は武術と馬術に秀でているからこそ与力という重職を全うされているのだ」
   「それはそうですが…」
   「貫五、お前は父の跡を継いでくれ、父がお前のことを褒めていたぞ、剣道ではきっと道場一の腕前になるだろうと」
   「父の跡目を継ぐのは長男の兄上です」
 貫十郎は、決して僻(ひが)んでいる訳ではない。父に見捨てられていることを嘆いているのでもない。心から弟の貫五郎が跡目を継がなければならないとさえ思っているのだ。
   「貫五、馬にも乗せて貰ったそうじゃないか、凄いぞ」
   「馬に跨(またが)って、少し歩いただけです」
   「父は、筋がいいと誇らしげだった」
   「父上は、俺の武術ばかり褒めるが、兄上の頭脳明晰さにはとんと気付かれないのですね」
   「与力の子に生まれたのだから、仕方がないよ」

 矢野浅右衛門は、その頭脳の良さも弟の貫五郎に求めた。貫五郎を朱子学塾に通わせようとしたのだ。これには、貫五郎は断固反対した。兄上に通わせるべきだと主張したのだ。
   「私は、兄上程も頭が良くない、勉強好きの兄上の才能を認めてやって欲しい」
 貫五郎は、父にそう迫ったが、「貫十郎に使う銭はない」と、頑として譲らなかった。
   「俺に朱子学塾へ通えと仰ったではありませんか」
   「お前は、儂の跡目を継ぐのだから、無理をしてでも幕府が推奨する朱子学塾に通わせたいのだ」
 浅右衛門は、すっかり自分の跡目は貫五郎と決めているようであった。貫十郎もまた、弟貫五郎が朱子学を学ぶことに大賛成した。貫五郎が持ちかえる書物を、自分もこっそりと読みたいと思ったからだ。

 もとより、子供たちの意見に耳を傾ける気など毛頭無い浅右衛門は、妻の意見を訊くまでもなく、貫五郎を朱子学塾に通わせることにした。

   「貫五、有難う、こんなにも次々と書物を借り出して、怪しまれないのか?」
   「俺が勉強する為だと言って許可をとってあるから、何も怪しまれることなぞありません」
   「うん、そうだろうが、書物の内容について質問されたりはしないのか?」
   「されるかも知れませんが、俺の口先で適当に誤魔化しておきます」
   「そうか、せめて私が読んだ書物の内容は、貫五に判り易いように説明するよ」

 貫五郎が思ったように、兄貫十郎は素晴らしい勢いで書物から知識をとり入れていった。塾の師範のように理論ばかりを捏(こ)ねくり回さず、易しい言葉で解るように教えるので、貫五郎は師範から質問を受けても、的確に答えることが出来た。

 ある日の夕刻、貫五郎は父浅右衛門に呼び寄せられた。
   「貫五、今日、塾の師範と出会ってなぁ、流石は矢野殿のご子息だと、お前のことを褒めていたぞ」
 父は、鼻高々だったと言う。
   「兄上のお陰ですよ」と、貫五郎は言おうとしたが、「何故か」と質問されて説明をするのが面倒であったし、兄もまたそれを望まないだろうと思って止めた。

 貫五郎は、そのことを兄に伝えると、貫十郎は笑っていた。
   「私が勉強出来るのも、貫五のお陰だよ」

 仲の良い兄弟で、生まれてこの方、兄弟喧嘩などしたことが無い。兄は弟を立て、弟は兄を庇い、父の偏った弟贔屓(ひいき)を交わして生きてきた。

   「貫五、明日の朝、父とともに奉行所へ行って貰うので、何時もより早く目を覚ますように」
 父、矢野浅右衛門は貫五郎に言った。
   「何事で御座いますか?」
   「事故で方が付いた事件なのだが、お奉行が疑問をお持ちなのだ」
   「それに私が、どう関わるのですか?」
   「わしらの硬い頭ではどうもあてにはならないと、お奉行様が仰せられたのだ」
   「それなら、兄上が適任です」
   「あいつを連れて行っては、わしは恥をかくだけだ」
   「何てことを仰るのですか、今のわたしは兄上の支えが有ってこそのわたしなのです」
   「とにかく、お奉行は貫五郎をご指名なのだ、明日はお前を連れて行く」
 父は、貫五郎が何を言おうと聞く耳は持たぬ頑なさである。

 その夜、貫五郎は兄貫十郎に相談した。
   「貫五、行って来なさい、私がノコノコ出向いたのでは、お奉行はがっかりなさるでしょう」
   「わかりました」
   「貫五の後ろにはこの兄が居ます、困ったことがあれば私に任せなさい」
 兄の力強い言葉に、貫五郎は安心したようであった。


 その日は、お奉行も役宅を何時もより早く出られたようで、矢野浅右衛門父子が奉行所の門を潜ったときは、既に控えの座敷で待っていた。

   「貫五郎、呼び出して済まなかった」
   「いえ、わたしのような子供に、何かお役に立つことができるのか、その方が不安です」
   「実は、住田大社の境内で見つかった死体なのだが、事件か事故か、或いは病死かと調べておるのだが、どうも決め手がなくて弱っておる」
   「検死されたお役人様は何と?」
 外傷は無く、水も飲んでいない。首を括った跡も、何者かに締められた跡もない。毒を飲んだ形跡もないのだという。境内を歩いていて、突然呼吸が止まったようなのだが、倒れた時に頭を打った跡もない。強いて状況を言うならば、境内の玉砂利に静かに横たわり、静かに息が止まって死んだようなのである。
 たとえ屈強な男数人に抑え込まれて、口と鼻を塞がれたとしても、境内の玉砂利は荒らされておらず、あまりにも安らかに死んでいったように思える。
 死んだ男は殆ど酒を嗜まず、人々には優しく、馬鹿が付く程生真面目な男で、寺社の修理や普請の請負、材木などの建築材料を調達、大工、左官などの職人達を束ねるのを生業(なりわい)としていた。

 貫五郎は、奉行所で得た情報をいちいち書き留めて、死んでいた男の住居と名前を訊き「整理して考える時間が欲しい」と申し出て帰宅した。
 奉行は、
   「くれぐれも単独で行動をしないように、聞込み等の行動をとる場合は、同心を付けるので、必ず奉行に申し出るように」と、貫五郎に注意を与えた。

 貫五郎が屋敷に戻ると、兄の貫十郎が待ち受けていた。貫五郎は、聞いてきたことを漏らさず兄に報告した。
   「うーん、これは正しく殺しだぞ」
   「男を恨んでいる人など居ないそうだが…」
   「それは、殺されたのではないという理由にはならない」
   「こともあろうに、何故神社の境内で殺されたのですか?」
   「そこに殺された理由があるようだ」
 貫十郎は、「殺された男の身内に会ってみたい」と、言い出した。とは言え、奉行は貫十郎に同心を付けてくれないだろう。貫五郎を指名したのは、朱子学の塾での成績を耳にしたからである。貫十郎は、弟が塾に行っている間に、被害者の家族に会ってみようと思った。
   「兄上、ぜったいに独りで行動してはいけませんよ」
   「はい、わかっています」

 土建請負、立花屋の看板がかかった間口の広い店の前に、貫十郎が独りで立っていた。戸は閉められ「喪中」と書かれた紙が張られていた。貫十郎は店の前に屈むと両掌を合わせ、お題目を唱えだした。
 やがて店の中から貫十郎と同い年くらいの少年が出てきた。
   「お侍の坊ちゃま、どうなさいました?」
   「済みません、この屋の旦那様がお亡くなりになったと聞きまして、悔やんでいたところです」
   「旦那様をご存知なのですか?」
   「はい、以前わたしがお社の境内で意地悪な子供たちに苛められていたところを、助けて頂きました」
   「そんなことがあったのですか、旦那様はお優しい方でしたから、見て見ぬふりはできなかったのでしょう」
   「それからは、この辺りで旦那様を見かけると、陰から頭を下げておりました」
   「それはご奇特なことで、旦那様は良い徳を積んだとあの世でお喜んでいましょう」
 まだ子供ながら、躾の行き届いたこの少年に貫十郎は好感が持てた。浪速の訛りがないのは、何処か余所の地方の生まれなのだろう。
   「旦那様は、ご病気でお亡くなりだと聞きましたが、まだお若くてお元気なご様子でしたのに…」
 もちろん、貫十郎は会ったことなど無い。
   「病気だなんて、嘘ですよ」
   「えっ、嘘ですか?」
   「大きな声では言えませんが、旦那様は殺されなさったのです」
 もっと話を訊きたかったのだが、店の中から少年を呼ぶ声が聞こえて、慌てて中へ入ろうとしたが、少年は立ち止まった。
   「今日の昼から、わたしは独りでお使いにでかけます、まだお話をしたいことがありますので、お手隙でしたらその折に…」
 少年は、木戸の中へ消えた。

   「あっ、本当に待っていてくれたのですか?」
   「はい、懐かしい旦那様のお話なら、どんなことでも伺いたいので、待っていました」

 二人、仲の良い友達のように、肩を並べて歩いた。同じ年格好なのに、少年は歩きが早くて、貫十郎は遅れがちだった。息も荒くなってきた。
   「ちょっと休みませんか」
   「すみません、何時も急(せ)かされているもので、つい早足になってしまいます」

 貫十郎は、貫五郎が母から塾で必要な書物を買うと言って頂いた二朱(約6300円)を貫五郎が渡してくれたので、茶店で休憩することにした。
   「わたしは東町奉行所与力、矢野浅右衛門の倅、貫十郎と申します」
   「おいらは立花屋の手代、佐吉です」
   「私達、仲の良い友達になれそうですね」
 この貫十郎の言葉には、佐吉の猛烈な反対にあってしまった。
   「友達なんてとんでもありません、お侍のお坊っちゃんと、店の奉公人では身分が違い過ぎます」
   「佐吉さん、古い考えをお持ちですね、子供同士が友達になるのに、身分などチャンチャラ可怪しいですよ、それにわたしはお大名の若様ではないのですから」 
 その後は、佐吉が話し手で、貫十郎は聞き手に回って、いろいろと聞き出すことが出来た。

 あの夜、佐吉は旦那様のお供をして、住田神社の社務所建て替え工事の競(せ)りに出かけた。工事の請負業者が話し合って競り値を相場の五割高に決め、競り落とす業者を順番で決めようと言うのを、立花屋の主人仙左衛門が談合を蹴って相場以下の値段で競り落とした。

 立花屋の近くまで戻ってきた仙左衛門は、何時ものように佐吉を先に店へ帰し、按摩の留市のところへ寄った。
  「最近、歳の所為か肩が凝りましてなぁ」

 その日、夜が更けても旦那様は戻らなかった。
  「佐吉、留市さんのところへ旦那様を迎えに行っておくれ」
 女将に言われて佐吉が按摩の市の元へ走ったが、「とっくにお帰りになりました」とのことだった。

 貫十郎は、得た情報を全て貫五郎に伝えた。殺しのカラクリは恐らく「鍼」だろうと、自分の推理、意見を伝えた。

 常日頃から立花屋仙左衛門の正義面(せいぎづら)を憎んでいた同業者、または複数の同業者、将又(はたまた)全ての同業者が共謀したのかも知れないが、仙左衛門の存在を疎んじた者が、仙左衛門殺しを企んだ。按摩の留市を抱き込み、鍼のツボ「頸中」に鍼を刺させ、気を失った僅かな時間を利用して、濡れた和紙を何枚か重ねて口と鼻を塞いだ。仙左衛門は、苦しむことなく、安らかに眠るように息絶えた。死体は気付かぬように布団に包んで神社の境内の玉砂利に寝かせた。「鍼」のツボ「頸中」は、導眠のツボであるが、深く刺すと一瞬気を失うほどの危険なツボでもある。
 貫五郎が朱子学塾で借りてきた書物に、鍼灸学の書物も有ったので、貫十郎は読んで記憶していたのだ。

   「貫五、同心を付けて貰い、その留市という按摩を追求してほしい」
 留市に鍼を刺させた真犯人を吐かせるのだと、貫十郎は弟を焚き付けた。だが、按摩の留市のまわりを同心が嗅ぎまわると、留市の命が狙われるかも知れないと、貫十郎は付け加えた。
   「わかりました、明日お奉行に全てを話してみます、その折、この推理をしたのは兄上だと打ち明けたいのですが、構いませんか?」
   「それは止めた方がよい」
 貫十郎の寝言などあてには出来ぬと、父上に止められるだろうと言うのだ。父上も頑なだが、兄上も卑屈過ぎると、貫五郎は溜息を一つついた。

 翌日の夕刻、貫五郎は帰宅した。貫十郎は、待ち構えていたようである。
   「どうだった、お奉行は手を打ってくださいましたか?」
   「はい、同心の方に言いつけて、按摩の留市の家を張っています」
   「変装してか?」
   「いいえ、十手を見せびらかせて、同心とその手先がうろうろと…」
   「留市は、大事な証人だぞ、命が狙われたらどうする?」
   「お奉行に、考えがおありのようです」
   「そうか」
 按摩の留市に目を付けられたとなると、真犯人は不安になり、留市の口を塞ぎにかかるだろうと見て、その場を見届けてふん縛ろうという目論見(もくろみ)らしい。
   「大丈夫だろうか」
   「兄上、お奉行に任せておきましょう」
   「そうだなぁ」

 日暮れまでは留市の家を張っていた同心と手下は、日が暮れると引き揚げていった。留市は支度をすると、町へ出て行った。昼は家で客(患者)を待って、夜は笛を吹いて流しの按摩である。
 何人か呼び寄せられ、旅籠や商人の女中に連れられていった。夜も更けた頃、商家の旦那らしい男に「おい」と呼び止められた。
   「留市、こっちや」
   「おや、旦那様でしたか」
 常連の客らしく、留市は素直に声の主の肩に手をかけた。導く人の肩に手をのせて、半歩後ろを歩くことで、道の凹凸や、階段を留市は判断しているようだ。
   「旦那様が自らのお声掛けとはお珍しい」
 いつもなら、旦那のお店なり、水茶屋の座敷に呼ばれるのに、今日は別の場所であった。
   「おや、新しいお妾さんのお屋敷ですか?」
   「余計なことを訊くな、祝儀を弾むから黙って歩きなはれ」
 留市が旦那様と呼んだ男の語気が荒くなったのを、留市は敏感に察知した。
   「旦那様嫌ですぜ、脇腹をブスッなんて」
   「黙って歩けというのがわからへんのか」
   「留市は口が堅いのです、秘密は漏らしませんので、それだけは堪忍してください」
 男は黙りこくってしまったが、それはそれで更に留市は不安に陥った。留市は感覚を研ぎ澄まして辺りの気配を探ったが、「プーン」と漂う壁土と黴の臭いから、やはり市が想像した通りで、人けのない廃屋へ向かっているようだった。
   「旦那様、後生ですから、命を取るのだけは思い留まってくださいな」
   「留市、流石やな、目が見えない分、勘が鋭いやおまへんか」
 留市は、男が懐から匕首を出し、鞘を振り落としたのを男の肩の動きで察知し、男から飛び退き、杖を左右に振った。
   「嫌がるのを無理矢理やらせておいて、お上に目を付けられたからと口封じをするなど、お前は鬼だ、糞っ、ただでは殺されないぞ」
 杖の一撃でも食らわそうと、夢中で振り続けた。
   「鬼っ、鬼っ、畜生め!」
 男が自分の右に回ったと留市が感じたとたん、右腕に鋭い痛みを覚えた。留市は観念して、その場に蹲(うずくま)った。その時、今二人が歩いて来たあたりから声が飛んだ。
   「御用だ!」
 留市を殺そうとした男が驚いた様である。
   「あっ、あれは常陸屋の旦那様です」 
 立花屋の手代の声がした。証人として連れて来られたようだ。
   「常陸屋、観念致せ、もう何もかも露見しておるぞ!」
 留市は、刺殺を逃れた安堵からか、後に来る処刑の恐怖からか、脱力感に襲われ土の上に横たわって大泣きをしている。恐らく、見えぬ目から大粒の涙が溢れているのであろう。


   「兄上、殺しの下手人が捕まったそうです」
 貫五郎は、朱子学塾からの帰りに、奉行所に寄ってきたらしい。
   「何もかも、兄上が仰った通りでした」
 下手人は、単独ではなく、立花屋仙左衛門の同業者の共謀であった。立花屋がこの世からいなくなると、競りなど有って無いようなもので、自分たちの思うように競り値を吊上げて大儲けが出来る。立花屋は、悪徳商人たちの目の上のたん瘤だったようだ。
   「実は、この推理をしたのは、俺ではなく、兄上だったと打ち明けました」
   「父上が、がっかりするぞ」
   「お奉行は納得してくださり、兄上に褒美をやろうと仰いました」
   「飴玉三個であろう」
   「それも俺には魅力ですが、兄上は書物が好物だから書物を借りたいと言いました」
お奉行は、
   「奉行所には、庶民から没収した裏本が多く、碌な書物は無いので、この度の事件に関わった住田大社の御文庫の書物が借りられるように当たってみようと仰いました」
   「これは、奉行のお言葉とも思えません、住田大社の御文庫は、お社の宝物です、それを子供ごときに貸し出す訳がありません」
   「そうなのですか、でもお奉行のお声掛かりでは、何とか成るのではありませんか」


 後日知らされたのだが、住田大社の宮司は見事に断わったようであった。ところが、相手が子供であろうとも、奉行も面目が立たなかったのであろう。なんと、江戸城の御文庫から書物を借りられるようにしてやろうと言ってきたのだ。それも、お城内に立ち入って好きなだけ読んでもいいというのだ。
 江戸城の御文庫は、八代将軍吉宗候のお声掛かりで書物が集められ、充実した日本一の御文庫である。
   「それも無理でしょう、旗本ではない御家人の倅が、お城内に入れる訳がないではありませんか」
 貫十郎は、何と安請け合いをするお奉行だと、腹を抱えて笑った。しかし、一概にお奉行の大法螺(おおぼら)とも言えなかった。貫十郎はお奉行と面談をして、字が綺麗で、博識の貫十郎をいたく気に入られた様子で、江戸城楓山(ふうざん)御文庫書物奉行配下として推薦してくれることになったと言うのである。

 一番驚いたのは、父の矢野浅右衛門であった。
   「貫五郎ではなく、貫十郎なのか」
 浅右衛門は、貫五郎に聞き直した。
   「はい、わたしが朱子学塾で成績上位に居ますのも、兄上のご指導を受けているからでございます」
   「剣術も、馬術も出来ぬ貫十郎が…」
   「今は、武術よりも学問が重んじられる世の中です」
   「儂は、間違っていたのかのぅ」


 貫十郎の江戸城勤めは異例ではあったが本決まりとなり、近々江戸へ旅立つことになった。
   「兄上独りでは心許ないので、俺が江戸まで送って行きます」
   「馬鹿を言え、お前には塾と道場通いがあるではないか」
   「訳を話して、両方の許可を得て、一ヶ月の休みが頂けましたよ」
   「そうか、お前が一緒なら心丈夫だが、心許ない兄で申し訳ないなぁ」
   「いいえ、どう致しまして、浪速へお戻りの時も、お迎えに上がります」
   「貫五、ありがとう、何もかもお前のお陰だよ」
 

  母が選んだ佳日に兄弟は旅立った。生まれてこの方、兄弟だけで旅をしたことがなかったので、旅は二年前に家族で浪速へ来た時とくらべて目新しいことの連続であった。田には蓮華草がびっしり咲き乱れ、蝶が優美な舞を見せてくれた。船で川を渡るのも、人足の背で渡るのも、つい燥(はしゃ)いでしまいそうのなるのを抑えるのがやっとであった。
   「貫五、私達は父に肩車をされた記憶がないな」
   「はい、父の膝に座ることもありませんでした」
   「江戸へ行ったら、私達が育った屋敷を訪ねてみたいものです」
   「知らない方々が住んでおられることでしょう」
   「蝉捕りをしたお社の杜(もり)や、かくれんぼをしたお寺の境内も懐かしいです」
   「兄上は、生き物を殺すのが嫌だと、虫も魚も捕らなかったではないですか」
   「そうだったなぁ、お前が生き物を捕ってきては死なすので、屋敷の裏は小さなお墓だらけだった」
   「兄上は心優しいから、どんなものでも死んだらお墓を作ってやっていました」
 
 貫五郎は、流石は与力の息子である。旅の途中で巾着切りや騙りに遭っても、決して隙を見せなかった。それに反して、貫十郎は隙だらけで、江戸での独りの生活をうまくやっていけるのか貫五郎は心配であった。
 とは言え、貫五郎には貫五郎の生活がある。生涯、兄の面倒をみてやれるものではない。職に就いても、虐めもあれば辛い仕事もあろう。良い友達や、好い恋人が出来ればよいのだがと、貫五郎はまるで親心を持った弟である。

 宿場町に入り、往来の人が目立ってきたあたりで、貫五郎の草鞋の紐を通す「チチ」と呼ばれる輪の部分が切れた。
   「兄上、応急措置をします、ちょっと待って…」
 貫五郎がしゃがみ込んだその時、先を歩いていた貫十郎は立ち止まって振り返った。そこへ貫十郎の後ろを歩いていた旅の女が貫十郎に突き当たった。
   「お兄さん、御免なさいよ」
   「いやいや、わたしが急に止まったのがいけないのです、こちらこそ御免」
 女は、サッサと先へ行ってしまった。
   「兄上、また財布をやられましたね」
 これが、三度目であった。
   「あの女も掏摸なのか?」
   「そうですよ、油断も隙もないでしょう」
   「そうだなぁ」と、言いながら「えへへ」と貫十郎は照れ笑いをした。
 貫五郎は、自分の振り分け荷物を下ろすと、中から紙で折った財布を貫十郎に渡した。
   「これが用意してきた最後の一つです」
 貫十郎は、紙の財布を受け取りながら、貫五郎に言った。
   「私が財布を持つから盗られるのだから、私は持たない方が良いのではないだろうか」
   「いいえ、これは兄上を訓練しているのです、もっと気を付けてくださいよ」
   「そうか」
   「江戸は 生き馬の目を抜く と言われているところです、これから兄上はそこでひとり一年間生きていくのですから、注意力、集中力を研ぎ澄まさねばなりません」
   「それで、訓練なのか? 財布を持っていなくても訓練はでは出来よう」
   「いいえ、盗られて、盗られて、盗られまくって、掏摸というものを体得してください、財布は旅籠で私が幾らでも作ります」
   「財布の中に入れる平らな石が、川原でたくさん見つかれば良いのだが…」
   「無ければ、山の粘土で作ります」
   「貫五、こんなぼんやり兄貴の為に、苦労をかけるなぁ」
   「そのかわり、江戸城でどんなに苦労をしても、負けないでくださいよ」
   「うん、負けない」
   「どんなに辛くても、我武者羅に、そして貪欲に知識を深めてください」
   「一年間だが、書物の修理と整理、目録の新規作成、それから翻訳や解説書の作成など仕事は山積みだそうだ、自己研鑚の時間はとれるのだろうか」
 貫十郎は、そこの御文庫で働きながら書物を読ませてもらうことになったのだ。

   「俺は同じ書物を何度も読まなければ理解できないが、兄上は一度読んだ書物は確実に理解して記憶するではありませんか」
   「うん、そうだなぁ、寝る間も惜しんで読み漁る覚悟だ」

 貫十郎は、江戸へ着くと一先ず書物奉行の屋敷に草鞋を脱いだ。明日から、この奉行の手となり足となり、頭脳となって働くのだ。

   「大坂東町奉行与力、矢野浅右衛門の倅、貫十郎で御座います、どうか宜しくお願い致します」
   「遠路、ご苦労であった、大坂東町奉行とは、長崎で一緒だったのだ」
 その大坂東町奉行の推薦で矢野貫十郎が書物奉行の配下になったのだと言う。
   「今日からそちは、我が屋敷の離れに寝泊まりするがよい」
 朝の登城も、夕の下城も奉行と一緒だそうで、貫十郎は自分の緊張が解れる間がないだろうと思った。
   「書物奉行様、私は弟の貫五郎でございます、どうか兄上を宜しくお願い致します」
 貫五郎は、挨拶を済ませると兄に別れを告げ、大坂へ戻っていった。
   「兄上が大坂へ戻られる日を楽しみにしています」

 だが、貫十郎が大坂へ戻ることはなかった。この後、貫十郎は読書好きの将軍様に気に入られ、将軍様書物御案内役に任命されて旗本と同格となり、更に書物奉行の娘の婿養子となり、後に義父が引退して貫十郎は書物奉行にまで出世した。  (終)


     (これはフィクションであり、時代背景、登場人物等、全て架空であります)   

猫爺の短編小説「朱鷺姫さま」  (原稿用紙33枚)

2015-07-06 | 短編小説
 水戸家の末娘朱鷺(とき)姫は、その容姿「立てば芍薬、座れば牡丹」だが、歩く姿はまるで男である。剣と柔術の腕は関口流免許皆伝の男勝り。家来たちは、「じゃじゃ馬姫」と、噂をしている。因みに、じゃじゃ馬とは、暴れ馬のことである。
 髪を後ろに束ね、武士の旅衣装で搦(から)め手からこっそり城外に出たが、若い藩士が追ってきた。
   「姫様、いけません、お戻りください」
   「なんだ、亮馬(りょうま)か、この事は家老の足達彦三郎に話すではないぞ」
 この若侍、水戸家の家臣能見亮馬は、朱鷺姫が城を抜け出すのを見張るように家老から命じられていたのだ。
   「姫様、この亮馬の命を救うとお思いになって、どうかお戻りください」
   「わたくしが城を抜け出たら、そなたの命がなくなるのか?」
   「左様で御座います、拙者は切腹して詫びねばなりません」
   「それはいい、わたしも見物したいものだが、生憎(あいにく)出かけるところなので、わたくしが戻ってから切腹しなさい、介錯をしてやろう」
   「切腹はお手玉遊びではありませんよ」
   「腹を切ると、痛いであろうな、悶え苦しむことだろう、早く見たいなぁ」
   「そんな、殺生な」
   「亮馬、雁が鳴いて西の空へ飛んで行くぞ、もう秋であるな」
   「そんな呑気なことを言っている場合ではありません……何処でございますか?」
   「あれ、西の空じゃ」
   「西、えっと北はこっちだから、姫、見えません、姫、飛んでいないではありませんか、何処ですか? あれ、姫が居ない」

 亮馬は、「ご注進」と、家老の元へ走った。
   「何? 朱鷺姫が城を抜け出たじゃと、今日あたりはきっと抜け出るであろう、しっかり見張っておれと申し付けたではないか」
   「それが、雁が西の空に…」
   「馬鹿者、何が雁じゃ、お前の父篤馬は、しっかり者であるぞ、お前の祖父篤之進も、叔父の数馬も、頭が良くて…、お前は誰に似たのじゃ」
   「多分、母ではないかと、そんなことより、亮馬は姫を追い、この生命を掛けて姫をお守して参ります」
   「お前ごときに、姫が守れる訳がない、わしは姫の身を案じているのではない、姫が暴れ、大の男を滅多斬りにして、変な評判が立てば、姫に縁談が来なくなるのを心配しておるのじゃ」
   「コケ」
   「そんなところでこけていないで、早く姫を連れ戻せ」
   「と、仰られても、姫はどちらに向かったものやら」
   「それも見ていなかったのか」
   「はい、面目次第もありません」
   「若様に土浦藩の琴音姫との縁談が参っておる、兄上思いの姫は、相手の為人(ひととなり)を調べて若様に相応しい姫かどうかを確かめる積りであろう」
 聞くが早いか、亮馬は押取り刀で駈け出していった。
 
 姫は、やはり土浦を目指していた。剣の腕では姫にはとても敵わない亮馬であったが、足の早さではさすがに男の亮馬が勝る。瞬く間に追いついてしまった。
   「姫さま―、朱鷺姫さまー、お待ちください」
   「亮馬か、何故追ってきた」
   「どうか、お帰りください」
   「ここまで来たのに、帰るものですか、それに亮馬、そなたは馬鹿か」
   「馬鹿とは、あんまりではありませんか」
   「そうでしょうが、わたくしは忍びの旅なのですよ、何のためにこのような男の姿に身を窶していると思うのです」
   「姫のご趣味かと…」
   「馬鹿、水戸の姫だとわからぬようにしているのじゃ、それに大きな声で、朱鷺姫などと名まで出しおって」
   「バレたら、何か不味いことでも…」
   「女の一人旅だと知れれば、煩い男どもが寄ってくるであろうが」
   「それでしたら大丈夫です、私が姫を護衛しましょう」
   「要らぬわ、頼りにならないヘナチョコのお前など」
   「そんな、ヘナチョコなんて…」
 
 帰れと言われながらも、亮馬は朱鷺姫の三尺後ろから付いて歩いた。ものの一町も行かない内に、人相の悪い浪人達に、寺らしき建物の塀に追い込まれて囲まれた。
   「それみなさい、お前が姫などと冗談をいうから、本気にされたではないか」
   「冗談などではありません、姫は水戸の朱鷺姫さまではありませんか」
   「嘘ですよ、わたくしは中間(ちゅうげん)の娘、時江と申します、なんぞわたくしに御用でしょうか?」
 そう言いながら男たちの人数を数えると、十人であった。
   「そうか、それではお屋敷に連れ帰っても、金にはならんな」
   「両親は、お礼の金なぞ出しませんよ、それに屋敷などとんでもない、長屋暮らしです」
 ところが、亮馬が姫の前に両手を広げて立ち塞がった。
   「姫に手出しをすると、拙者が許さぬぞ」
   「やはり水戸家の姫か、お前は何者だ」
   「朱鷺姫様の家臣、能見亮馬だ」
   「何だ、弱そうな家来だな」
   「言ったな、無礼者めが」
 亮馬が剣を抜こうとしたのを、朱鷺姫が止めた。
   「亮馬、邪魔です、私の後ろへまわりなさい」
 亮馬に代わって、朱鷺姫が剣を抜いた。
   「わたしくしが相手をしましょう」
 剣を中段に構えて一歩前に出ようとしたら、亮馬が姫の袖に縋っていた。
   「亮馬、手を離しなさい、剣が振るえないではありませんか」
   「あ、姫様、お気をつけください」
 一人の男が、姫の正面に刀を突き付け、二人の男が姫の左右に近付き、取り押さえようとした。姫は剣の峰を返すと、正面の男が突きつけた剣を叩き落し、右側に迫った男の胴を払い素早く半回転して右の男の胴を払った。男たちは「うっ」と声を漏らし、横腹を抑えて姫から離れた。再び正面を向くと、叩き落とされた刀を拾って立ち直ろうとした男の後ろから肩を叩きつけた。姫は前のめりに倒れた男の背中を踏み越えると、ずらりと並んで刀の柄に手をかけた七人の男に向かって進撃した。姫の後ろには、亮馬がくっ付いている。
   「亮馬、邪魔です、離れなさい」
 離れながら、亮馬は姫を諌めた。
   「姫様、決して殺してはなりませぬぞ」
   「殺しはせぬ、お前は黙って見ておれ」
 姫は、進んで立ち並ぶ敵の中に飛び込むと、目にも留まらぬ早さで男たちを倒していった。
   「姫様、殺してはいませんか?」
 亮馬は、落ちている刀を拾うと、倒れている男たちを、チクチクとつついて回った。
   「うん、大丈夫だ、生きている」
   「お前は、何を心配しているのだ」
   「噂が広がって、姫様への縁談がなくならないかと…」
   「縁談なぞ無くてもよい、亮馬がいるではないか、わたくしは亮馬の妻にして貰います」
 亮馬は驚いた。と、同時に恥ずかしさが込み上げて、両掌で顔を隠した。耳まで真っ赤になっている。
   「そんな…」
 亮馬は壁に駆け寄り、姫との夫婦生活を想像した。
   「わたしは生涯、姫の奴隷になるだろう」
 それでも良かった。身分違いなので考えたこともなかったが、自分は生涯姫をお守りして生きて行こう。そう決心して振り返った。
   「姫、朱鷺姫様、あれっ?」
 そこには、既に姫の姿がなかった。
   「もう、また騙された」

  姫と亮馬は、二泊の後、土浦の城下に入った。どこでどう漏れたのであろうか、武士の群れに囲まれて行き先を問われた。どうやら土浦藩士のようである。
   「わたくしは土浦城に向かっておる」
   「どこから参った、名は何と申す」
 亮馬がしゃしゃり出た。
   「無礼者、こちらにおわすお方を何と心得る」
 姫が遮った。
   「亮馬、止しなさい」
   「いえ、止しません、こちらのお方は、徳川ご三家のひとつ、水戸家のご息女朱鷺姫さまなるぞ」
   「何、やはり朱鷺姫様か、水戸家の姫がたった一人の供の者と、土浦へ来るとは剛気な」
   「それが、来てしまったのだ、姫、印籠を出して見せてやってください」
   「印籠など携えておらぬわ、亮馬はさがっておれ」
 土浦藩士と見られる武士たちの顔色が変わった。
   「水戸の姫を、城へ入れてはならぬ、ここで死んで頂こう」
 武士たちは剣の鞘をはらい、朱鷺姫に向けた。
   「待ちなさい、わたくしは琴音姫のご機嫌伺いに来た者、何故の狼藉か」
 敵は黙したままで、姫を取り巻いた。
   「わたくしの命を取らねばならぬ訳を言いなさい」
   「問答無用!」
   「左様か、では、わたくしも手心は加えぬ、参れ!」
 亮馬が慌てて飛び出してきた。
   「水戸の姫君に刃を向けるとは、何たるうつけ者、土浦藩主にお咎めが下っても構わぬと言うのか」
 姫が亮馬を押しのけて、自分の後ろへ回した。
   「袖に縋ってはならぬぞ、亮馬」
 姫が言い終わらぬうちに飛び込んできた男を、峰を返すことなく右上腕を斬りつけた。
   「ぐわっ」
 男は剣を落として、自らもその場に崩れた。姫の右と左から二人の男が同時に突き入れてきたが、姫が瞬時に飛び退くと、敵同士相打ちとなって倒れた。
   「三人とも傷は浅いから命に別状はない、早く医者に連れて行きなさい」
 姫が叫んだが、傷ついた仲間を気遣う者は居なかった。尚も朱鷺姫に向かってくる男たちを、姫の剣は容赦なく倒したが、その切り傷は決して骨に達することはなかった。ただ、襲った者に目印を付けるべく、膝が崩れた男の髷を切り落としてまわった。

 男たちは、痛手のために走れぬ者を残し、走れるものはサッサと去った。同輩か仲間であろうに、一志に集結した者共ではなく、単なる烏合の衆であることを物語っていた。
 亮馬が、朱鷺姫の命令を受けた訳でもないのに、刺客達の後を追い、暫くして姫の元へ戻った。
   「姫様、ヤツ等は、やはり土浦城へ逃れました」
   「あの男たちは、わたくしを水戸家の子女と知った上で襲って参った」
   「姫様、土浦藩の内部で、只ならぬ事態が起きているようですね」
   「琴音姫の身が案じられる、踏み入ってみよう」

 門前で「水戸の朱鷺姫さまにあらせられる、琴音姫さまのご機嫌伺いに参った」と亮馬が告げると、恐る恐る門が開かれた。
   「琴音姫さまの元へ案内致せ」
 姫と亮馬は、家臣たちの止めるのも構わずに城内へ入った。

   「どうぞこちらへ」と、家臣に案内されて琴音姫の部屋へ通された。
 琴音姫は上座に座り頭を下げて朱鷺姫を迎え入れた。
   「ようこそ、おいでなさいました、当家の長女、琴音でございます」
   「初めてお目にかかります、水戸家の末娘、朱鷺にございます」
 琴音姫は静かに頭を上げて、品の良い笑顔で朱鷺姫と亮馬を労った。
   「遠路、お訪ねくださり、ありがとうございます、さぞお疲れのことでしょう」
   「いえ、旅には慣れておりますゆえ、疲れてはおりませぬ」
 話していて、朱鷺姫は妙な違和感を覚えた。第一に、水戸家といえば徳川御三家のひとつ、その姫を迎え入れても、琴音姫は依然として上座に座したままである。本来であれば、自分は下座に下がり、朱鷺姫を上座に導く筈である。
 第二に、琴音姫の斜め前に家老が控えて、琴音姫に何やら目で指図をしている様子なのである。
   「琴音姫さま、お手紙では兄(水戸の若君)に何やら贈り物がお有りだそうでしたね」
 琴音姫は少し考えているようだったが、「はい」と答えた。琴音姫は返事をしたものの、何やら躊躇っている様子である。だが、意を決したのか、それとも家老の指図なのか、お付きの者を呼び寄せ、「例の物をこれへ」と、命じた。
 お付きの者が持参したのは、金糸で刺繍されたお守と、銀糸で刺繍されたお守の二つであった。
   「まあ美しい、これを姫様がお縫いになったのですか?」
   「はい、この金糸のお守を若君にお渡しください」
   「兄は喜びましょう」
   「お恥ずかしゅうございます」
 朱鷺姫は確信した。この者は琴音姫ではない。琴音姫に成りすました別人であろう。自分は琴音姫と手紙の遣り取りをした覚えはない。兄上への贈り物など、全くの嘘である。もし、琴音姫本人なら、「朱鷺姫さま、ご冗談を…」と、笑い流した筈である。
   「琴音姫さまが、わたくしの姉君になられる日を楽しみにしております」
   「わらわとて同じ思いでございます」
   「では、お殿様にご挨拶をして、帰らせて頂きます」
   「えっ、城へお泊り戴くのではないのですか?」
 琴音姫は、「ほっ」としているようにも見える。

 家老に「藩侯にご挨拶をして帰りたい」と、願い出ると、「帰る」という言葉に安堵したのか、快く取り次いでくれた。
   「お殿様、水戸家の末娘朱鷺にございます」
   「よくみえられた、遠路お運びいただいたのは、どのような御用向きかな?」
   「はい、琴音姫さまに御目通りして仲良くなり、兄のことを宜しくお願いしようと参りました」
   「左様か、それはお優しい、朱鷺姫どのは兄上思いであるのう」
   「いえ、それ程でもありませぬ」
   「琴音が参ったら、よき相談相手になってくだされ」
   「はい、もとよりその積りで御座います」
   「朱鷺姫どの、琴音には行き届かぬことの多かろうと思う、どうかご教示賜るように願い申す」
   「はい、承知致しましたと言いたいところですが、行き届かないのはわたくしの方で御座います」
   「いやいや、朱鷺姫どののお噂は、予々聞いておるぞ」
   「じゃじゃ馬姫だと?」
   「あははは」
 藩侯は、笑って誤魔化した。
   「ところでお殿様、わたくしはこのお城の近くで命を狙われました」
 藩侯は驚いた様子である。自分を襲撃した者達が、藩侯の命を受けての犯行でないことは朱鷺姫も直感した。
   「早速、何者の仕業か調べさせよう」
   「実は、その者たちが逃げ込んだ先は、この土浦のお城でした」
   「何と、我藩士であるか」
   「それは何とも、ただわたくしを襲った者どもは、全て髷を切り落しました」
   「わかった、では髷を失った我家来を探させよう」
 藩侯は、家老を呼び、家来全てを調べるように手配させた。

 半刻ほど後、家老が藩侯の元に戻ってきた。
   「殿、我が藩の者を全て調べましたが、髷を切り落されてはおりませぬ」
   「左様か、ご苦労であった、朱鷺姫どのを襲った者は居ないそうであるぞ」
   「お殿様、つかぬことをお伺いしますが、最近琴音姫様にお会いになったのは何時頃でございますか」
   「毎朝、挨拶に来ておるが、それがどうかしたのか?」
   「琴音姫様に変わったご様子はありませぬか」
   「ない、ただ水戸家に嫁ぐことが決まってからは、屈強な若者を二人付けておいたのだが、今朝は一人で挨拶に参った」
   「姫様には、お変わりがないのですね」
   「少し熱があるとかで、盛んに咳をし、声が掠れておった」
   「お殿様、お城の地下にお牢は有りましょうか?」
   「有るが、暫くは使っておらぬ」
   「そこへわたくしを入れていただけませんか?」
   「姫を牢へ?」
   「左様で御座います」
   「そのようことをして、水戸家にどう申開きをすればよいのじゃ」
   「知れなければ宜しいではありませぬか、それに琴音姫さまの身に危険が迫っている恐れがあるのです」
   「何だ、どのような危険じゃ」
   「お命が危ないので御座います」
   「よく分からぬが、朱鷺姫どのを信じよう」

   「私も姫に付いて牢に入ります」と言う亮馬と共に、家臣に引っ張られて地下牢へ降りていった。
 藩侯は「暫く使っていない」と言ったが、人が出入りしている形跡があった。石段を降りると牢番が控える空間があり、二人の牢番が立ち上がって朱鷺姫と亮馬を家臣から受け取った。牢は向かい合わせに二つあり、一方には髷を切られた男たちが大勢閉じ込められて、もう一方には女が一人入っていた。
 朱鷺姫は、女が閉じ込められた牢の鍵を牢番から受け取ると、自らの手で開けた。朱鷺姫は牢に入ると、牢内の女に話しかけた。
   「わたくしは、水戸家の末娘朱鷺と申します、ご当家の琴音姫さまであらせられますか?」
   「はい、琴音にございます」
   「姫をお助けに参りました、わたくしが姫をお護り致します、どうぞご安心を」
 琴音は事情が飲み込めない様子であったが、朱鷺姫を咄嗟に信用したようである。
   「さあ、取り敢えずここを出ましょう」
 向かいの牢では、髷を切られた男たちが騒いでいる。その品の悪さから、どこかの藩士ではなさそうである。恐らく急遽かき集められた浪人か、破落戸(ごろつき)の類であろう。

 朱鷺姫と亮馬は、琴音姫を藩侯の御前まで付き添った。
   「殿さま、琴音姫をお牢からお出しして参りました」
   「何、牢からじゃと?」
   「はい、閉じ込められておいででした」
   「何時からじゃ」
 琴音が、自分で答えた。
   「水戸家に嫁ぐことが決まった翌日で御座います」
   「毎朝、挨拶に来ておったではないか」
   「わらわは、その為にだけ生かされていたので御座います」
   「挨拶が終われば、また牢へ入れられていたのか?」
   「その通りに御座います」
 朱鷺姫が疑問を投げかけた。
   「わたくしが土浦のお城に訪れたとき、わたくしを迎えてくれた琴音姫が居ましたが、ここにおいでの琴音姫さまではありませんでした」
 藩侯は家来を呼び、「琴音を連れて参れ」と、命じた。暫くして家来は藩侯の御前に現れたが、「どこにもおいでになりません」と、報告しようとして漸くその場に居る琴音姫に気付いた。
   「殿、ご冗談を、姫様はここにおいでではありませんか」
 消えてしまったのは、熱があり声が掠れた姫だ。どうやら、この偽者の姫は忍びであったようだ。だが、地下牢に入れられている男たちは忍びではない。
   「もしや」
 朱鷺姫の脳裏にあることが浮かんだ。今頃、男たちは口封じの為に皆殺しに遭っているのではないだろうか。朱鷺姫は、もう一度藩侯の許しを得て、地下牢に降りてみることにした。

 地下牢に降りるまでもなく、地下から煙が吹き上がってきた。
   「火事だぁ、火事だ、火事だ!」
 牢番の一人が、命からがら煙の中から出てきて、ばったりと倒れたが、煙を吸っている様子はなかった。
   「もう一人の牢番はどうした」朱鷺姫が倒れた牢番に駆け寄った。
   「地下に倒れています、助けてやってください」
 朱鷺姫は手拭いを近くに有った防火用水に浸すと、自分の口を塞ぎ、姿勢を低くして地下に降りていった。煙はモクモクと上がっているが、火は見えない。どこが燃えているのか火元を探したがみつからない。
 牢の前に、もう一人の牢番が倒れている。気を失っているのだと思った朱鷺姫は起こそうと抱えたが、頭から血を流して事切れていた。脳天を鈍器で殴られたようであった。牢の中の男たちはと見ると、毒を盛られたらしく、尽く口から血を流して死んでいた。

 地上では生き延びた牢番が、隠していた油桶を持ち出し、地下牢の入り口に運んでいた。それを朱鷺姫の後を追ってきた亮馬が見つけた。
   「何をしている」
 牢番に声を掛けると、牢番は亮馬を見るなり襲いかかってきた。亮馬は反射的に剣を拔き、無茶苦茶流で剣を左右に振り、無意識に牢番を倒していた。牢番は血が流れた両眼を手で覆い、その場に座り込んだ。
   「姫様、朱鷺姫様、ご無事ですか」
叫んでみたが、返事がない。心配になり亮馬は油桶を城外に運びだすと、牢への階段を駆け下りていったが、途中で煙に噎せ、動けなくなってしまった。
   「姫様、危険です、お戻りください」
 亮馬は懸命に姫に声をかけているのだが、皆目、言葉になっていないのだ。やがて、朱鷺姫は階段を駆け上って亮馬に肩を貸して地上階に辿り着いた。そこには、目と口から血を流した牢番が事切れていた。目を潰されて逃げきれぬと悟った牢番は、隠し持った毒を飲み、自らの口を塞いだのだ。
   「やはりこやつも忍びであったか」と、朱鷺姫は呟いた。

 朱鷺姫は亮馬に訊いてみた。
   「この一連の出来事を、亮馬はどう見る」
   「はい、土浦藩のお家騒動ではないでしょう」
   「わたくしもそう思います」
   「姫様に言い難いのですが…」
   「いいから言ってみなさい」
   「この事件には、水戸家が絡んでいます」
   「水戸家のお家騒動か?」
   「根は、もっと深こうございます」
   「と、言うと」
   「水戸家の若様が、将軍さまの候補に挙がっていることです」
 只今の将軍は、尾張家の出身である。この将軍が病弱であることから、引退も噂されている。次候補には、水戸家の若様と、紀州藩侯の御舎弟が登っている。
 土浦家の事件では、琴音姫を偽者とすり替えようとしていた疑いがある。しかも、すり替えようとしていた女は忍びである。目的は一つ、水戸家の若様を暗殺することである。若様が殺害されて得をするのは、紀州の殿様の御舎弟である。事件の陰で働いていたのは、紀州家の隠密、伊賀の忍びであったに相違ない。
   「亮馬、わたくしが土浦へ来ることをそなたに教えたのは家老の足達彦三郎であろう」
   「はい」
   「何故知っていたのであろうか」
   「それは、ご家老の勘でございましょう」
   「では、それを紀州のどなたに知らせたのか」
   「土浦のご家老に知らせたのでしょう」
   「そうなるなぁ」
   「それを、家老が土浦藩に潜伏した隠密に伝えたに違いない」
 朱鷺姫も亮馬に同意した。
   「琴音姫さまが偽者に入れ代われば、家老が気付かない訳がなかろう、やはり土浦の家老も黒でしょう」
   「姫様、そのようですね」

 再度、藩侯の目通りを許して貰った。
   「我が藩で、何が起きているのじゃ」
 藩侯は、不安の様子である。
   「これは、琴音姫さまを兄上のご正室にお迎えすることを利用して、兄上の元へ刺客を送り込もうとした謀のようでございます」
   「何と大それたことを…、企んだのは何者じゃ」
   「次期将軍さまの座を狙う、どこかの藩でありましょう」
   「それは、どの藩であるか」
   「それは、直ぐに知れましょうが、摘発するのは容易ではありませぬ、何しろ徳川御三家が相手ですから」
   「そうか、おいそれと名指しは出来ぬであろうのう」
   「はい、将軍さまとて、口にはなさらないと思います」
   「わたくし共は、兄上の命をお護りします、お殿様は、琴音姫様が水戸家に輿入れされるまでお護りくださいませ、その後は、水戸家でしっかりと琴音姫さまはお護りいたします」
   「そうか、わかったぞ」
   「一言申し添えますが…」
   「何じゃ、申してくれ」
   「当家のご家老様の動きが、些か腑に落ちませぬ」
   「例えば?」
   「琴音姫様が、偽者と入れ替わっているにも関わらず、気が付かれないご様子でした」
   「そうであった」
   「それから、わたくしが土浦のお城に来ることを察知しておいででした」
   「姫を襲わせたのは、家老の指図なのか?」
   「そうとしか思えません、その者たちを地下牢に隠したのも、牢番が忍びに入れ替わっていたのも、ご家老が関わっていたと考えれば容易いことです」
   「成程」
   「水戸家の家老足達彦三郎も怪しいので、水戸へ戻ったら問い質すつもりでおります」
   「何を得る為の陰謀じゃ?」
   「わたくしの推理では、恐らく企てが成功した暁には、幕閣入りか、大名への取立てでも約束して貰ったのでしょう」
   「恐ろしい企みだ」
   「今後、腹を括って対処して来るでしょう、ひとつ間違えれば、身は切腹、お家は断絶ですから」
   「分かり申した、家老の動きには極力気を付けよう」
   「わたくしも、足達彦三郎を見張ります」
   「朱鷺姫殿、お一人で?」
   「わたくしには、剣道の達人で頭脳明晰な亮馬が付いてくれています」
   「それは頼もしいことじゃ」
   「はい」
   「姫様、嫌味でございますぞ」
 亮馬、満更でもなさそうである。


 来る時、亮馬は姫の三尺後を歩いたが、土浦の城を後にしての帰りは、二人は肩を並べて歩いた。
   「姫、人が振り返って私達を見ていますぞ」
   「仲の良い夫婦だと思われているようですね」
   「夫婦だなんて、恥ずかしい」
   「亮馬の父上が江戸屋敷から戻ったら、亮馬の屋敷で祝言を挙げようぞ」
   「ご冗談を、姫はどこかのお大名に正室として迎えられるお方、亮馬などとてもとても、屋敷は狭いので、父母がもどれば妻の部屋すらありません」
   「いいではないか、亮馬の部屋で一緒に寝泊まりすれば…」
   「姫とひとつ布団で寝るのですか?」
   「それが夫婦というものであろうが」
   「そんな…」
 亮馬、恥ずかしさのあまり、膝を抱えてしゃがみ込んでしまった。亮馬は暫くして気付き、顔を上げると姫は遥か遠く先を歩いていた。
   「また、引っ掛かった、姫様、お待ちを…」
 やっと追いついたところで、姫が振り返った。
   「亮馬、気をつけなさい、そこで蛇が蜷局(とぐろ)を巻いておるぞ」
   「ぎゃーっ、ん? 姫、これは馬糞ではありませんか」
   「そうでしたか」  (終)


   猫爺の短編小説「続・朱鷺姫さま」第一章 陸奥三人旅へ飛ぶ

猫爺の短編小説「進藤祥太郎 後編」  

2015-06-24 | 短編小説
 泣いて縋る夫婦を残して旅立つのは心残りだが、甥とは言え血の繋がった親戚である。きっと二人を仕合せにしてくれるだろうと、六兵衛の家を後にした。
 街道は、薄日が射しているのに、粉雪が舞ってきた。懐には一文の銭も入っていない。今度こそは野垂れ死にをするかも知れないと思ったが、祥太郎はくよくよすることはなかった。懐には父が居る。腰には父の血が付着したお守りがあるのだ。

 町に出ると、今まで贔屓にしてくれた家に挨拶をして回った。中には、行商を止めて旅にでる訳を聞いてくれる人も居た。
   「そうかい、江戸へ行きなさるか」
 これは少ないけれど餞別だよと、紙に包んで渡してくれる人も居た。こんな積りできたのではないと遠慮すると、「気は心」と、祥太郎の懐に入れてくれた。紙包みの中に一朱、二朱と、祥太郎にとっては大金が入っており、それはそれで祥太郎の心を痛めた。

 道中、旅の女が道端に蹲っていた。腹を抑えて、苦しそうにしている。祥太郎は駆け寄り、女に声を掛けた。
   「お姉さん、どうかしましたか?」
   「はい、急に差し込みが来まして…」
   「それはいけません、近くの旅籠まで背負ってお連れしましょう」
   「ありがとうございます」
 背負った途端に、女の手が懐に「さっ」と、差し込まれた。
   「お姉さん、冗談はいけませんや、腹痛は嘘ですね」
 女は祥太郎の背中から離れて、一間おいて立ち祥太郎を睨みつけた。
   「お姉さん、私はあなたを捕らえてつき出そうとは言いません、僅かだが私の懐の銭には心が篭っておりまして、差し上げる訳にはいかないのですよ」
 この銭は、餞別に貰ったもので、この銭でやりくりして江戸まで行かなければならないと説明した。
   「そうかい、済まなかっためねぇ、わかったよ」
   「ありがとう」
   「別に礼を言われる筋合いのものではないけどね」
   「わかってくれて、ありがとうと言う意味だよ」
   「あんた、可愛いね、弟にしたい位だよ」
 掏摸の弟なんて、まっぴら御免だと、心の中で断った。女と別れて暫く行くと、女が後ろを付けてくる。
   「まだ私の懐を狙っているのかい」
   「懐は狙ってはいないよ、ちょっとあんたに惚れちまってね、もう少しあんたの旅姿を留めておきたいと思ったのさ」
 「勝手にしろ」と、その後は振り返りもせずに歩き続けたが、何時の間にか女は姿を消していた。


 何とか野宿をせずに江戸まで着いた。懐の銭は姿を消していたので、寺を見付けて賃金は要らないから寺男に雇ってくれないかと尋ねて歩いた。食と住が満たされれば御の字なのだ。
 もう人も絶えたのであろう山の荒れ寺を見つけたので、せめて一泊本堂の隅を借りようと中に入ると、思いがけず仏前で酒を食らっている僧が居た。
   「誰だ!」
 僧は呂律がまわらない程に酔っていた。
   「旅の者ですが、今夜一晩仏様のお膝元をお借りしようと思いまして」
   「そうか、本堂の隅に茣蓙が置いてあろう、そこで休みなさい」
 僧は、そう言った積りらしいが、これは祥太郎が判断した言葉である。
   「旅の者、腹が減っておろう、ここへ来なさい」
 先程から、祥太郎が嗅いだこともない美味そうな匂いがしていた。
   「檀家の鉄砲撃ちが猪を仕留めたと届けてくれたのだ」
 何と生臭坊主ぶりだと祥太郎は呆れた。酒ばかりではなく、猪の肉を食うなど、仏に仕える者とは思えない。だが、祥太郎も空腹に耐えていたのだ、食欲に負けて僧の元へ躙り寄った。
   「美味かろう、どうせ残せば腐るものだ、遠慮せずに食え」
   「はい、頂きます」
 獨酒は酢に近いもので不味かったが、猪の肉は旨かった。たっぷりよばれて、その夜は茣蓙を重ねてホカホカの寝床で寝た。

 翌朝、住職は昨夜のことを何も覚えて居ず、祥太郎が寝ているのを見付けて、大騒ぎをした。
   「貴様、何者だ?」
   「昨夜、和尚様の許しを得たではありませんか、私は旅の者で越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎と申します」
   「そうであったか、これは失礼申した」
 祥太郎は和尚の前で正座をして、仏前の板の間に両手をついて、改めて頭を下げた。
   「和尚様にお願いがあります、私を寺男としてここに置いてくださいませ」
   「それは出来ぬ、檀家も去って行って、今は片手の指で数えるくらいだ、墓も僅かで墓男に払う銭などはない」
   「賃金など要りません、寝泊まりをさせて頂き、食べ物は私が修行僧に化け、托鉢して手に入れて参ります」
   「経は読めるのか?」
   「写経をさせて頂ければ、直ぐに憶えてみせます」
   「と言うことは、字は書けるのだな」
   「はい、読み書き算盤はお手のものです」
   「寺に算盤は要らんが、字が書けるなら重宝いたそう、寺男ではなく、修行僧として居てもらおう、化ける必要はない」
   「有難う御座います、それから、荒れた建物も私が修理致します」
   「そうか、頼むぞ」

 その日から、祥太郎は建物の荒れた様子を見て回り、紙になにやら書き留めていた。夜は本堂に上げられた蝋燭の灯りで写経をして、和尚が経を読む朝に、懸命にその音を記憶した。三日目には、覚えたての経を読み、托鉢にも出かけた。
 托鉢とは、ただ物乞いをすることではなく、信者に功徳を積ませる修行である。従って托鉢僧は礼を言ってはならないとされている。

 祥太郎も、その知識を授けられ、喜捨を受けても「有難う御座います」とは言わないが、軽く頭を下げて頂戴した。
 また、困っている人をみると、必ず駆け寄って手助けするなど、感謝の意が常に体から滲みでていた。
 これは、修行の身にとっては不謹慎なことなのだが、祥太郎は町の人気者になった。頼まれごとがあると、僧衣を着替えて町に出、その器用さを活かして屋根の修理屋、戸板の修理をしてあげた。
 何のことはない、ここでも「祥ちゃん」と呼ばれて、町の便利屋になっていった。また、板切れや、余った漆喰を頂いて帰り、寺の修理にも力を入れた。
 墓地は、せっせと草を毟り、傾いたり汚れたりした墓石を、まるで真新しいかのように修復してみせた。

 やがて檀家も増え、住職も酒を断ち、生臭坊主から、信頼される和尚として見事に立ち直った。
 それから五年の年月が流れたある日、祥太郎は「一ヶ月ほどお暇が欲しい」と、住職にお願いをした。その頃は寺男も一人雇っていたので、住職は快く承知してくれた。

 祥太郎は、この寺へきた時の旅の衣装に着替えて旅に出た。来た時と違っていたのは、頭が丸坊主になっていたことである。
   「以前に仕えてくれた下男、平助のことが気がかりですので、一度、忍びで国へ帰って参ります」
 そう言い残すと、祥太郎は腰に脇差しを差して旅に出た。

 街道は、桜の花が咲き誇り、花粉の匂いで咽返っていた。もう二人、気になる人達が居た。六兵衛夫婦である。

 あの懐かしい農家は、健在かのように見えた。だが近寄ってみると、屋根には穴が開き、壁は所々崩れ落ち、廃屋と化していた。祥太郎は近燐の農家に立ち寄り、六兵衛夫婦の消息を尋ねたところ、祥太郎が去ってその翌年に妻が亡くなり、六兵衛も妻を追うように畑仕事をしていて、倒れたそうであった。
   「わたしが意地など張らなかったら、二人はもっと長生きが出来ただろうに」
 父が無くなった時でさえ涙を流さなかった祥太郎で有ったが、遂に大粒の涙を落としてしまった。その涙は、今は荒れ放題の六兵衛さんが大切にしていた畑の土に染みこんでいった。

 六兵衛の甥に会って、文句の一つも言ってやろうかと思ったが、夫婦は戻ることはなく、詮無きことと諦めてその場を立ち去った。

 越後高崎藩に戻り、もと下男の平助の住処に来てみた。平助の息子夫婦が出て来て、深々と頭を下げた。
   「その節は父がお世話になりました」
 そう告げると、平助もまた祥太郎と別れて間もなく病の床に着いて、一ヶ月後に亡くなったと伝えられた。
   「そうそう、生前、坊っちゃんが見えたら渡して欲しいと預かったものがあります」
 平助の息子は、奥の部屋から、祥太郎の父が差していた本差を持って出てきた。文助に継いで、この息子が手入れをしていたのであろう綺麗なままの刀剣であった。
   「これは、文助さんにわたしが差し上げたものです」
   「いえ、これは坊っちゃんのお父上の魂が宿っています、あなた様にお返し致しましょう」
 祥太郎は、笠をとって見せた。
   「わたしは、ごらんの通り出家の身です、刀は不要なのです」
   「でも、脇差しは差しておられるではありませんか」
   「これは抜けません、父の形見のお守りなのです」
   「お坊ちゃんにお返しする為に、手入れを欠かさなかったのです」
 息子は、土間に降りて、祥太郎の前に手を着いた。
   「お坊っちゃんは、まだお聞きになっていないのですか?」
   「何でしょう」
   「お父上、進藤綱右衛門様の罪が晴れて、ご上司の罪が暴露され、切腹を賜ったのですよ」
   「そうですか」
 祥太郎は冷めていた。どなたの罪であろうとも、父は生きて帰らないのだ。
   「藩では、祥太郎様を探して、お家再興をお許しになる御積りです、お母様も祥太郎様をお探しでしたよ」
   「それは、お断りしましょう、わたしは生涯今のままで、父上と文助おじさんの霊を弔って生きて参ります」
 祥太郎の心の中には、六兵衛夫婦の名もあったことは言うまでもない。

 祥太郎は、江戸に帰り着いた。住職は、「もしや帰って来ないのではないか」と、不安だったと打ち明けた。
 この寺は、元々は山里村の菩提寺である。さびれて見る陰もなかったが、檀家の人々が寄り集まって徳を積み、再び菩提寺としての格調を取り戻していった。

 ここで、祥太郎は住職から「祥寛」という名を頂き、日々精進するなか、ある日、生まれ故郷の越後の国は高崎藩から使いが祥太郎を捜しに来た。祥太郎が僧侶になっていると聞きつけてきたのだそうである。

 六十石二人扶持で抱え、進藤の家を再興させるので帰国せよと言うものであった。父の時代の約二倍の禄高である。
 祥太郎の母も、「早く祥太郎を見付けて欲しい」と、高崎藩士の父に催促ているという。祥太郎に考える余地はなかった。「父を生きて返して頂かない限りは、きっぱりとお断りします」と、使者を帰した。  (終)

   -「進藤祥太郎 前編」に戻る-

猫爺の短編小説「進藤祥太郎 前編」   (原稿用紙全69枚)

2015-06-24 | 短編小説
 越後高崎藩の下級武士進藤綱右衛門は、早朝、妻の紗綾を呼び一人息子の祥太郎を起こし父の部屋に来るように伝えさせた。
 祥太郎は眠い目を擦りながらも、身嗜(みだしな)みを整えて父の部屋の前で朝の挨拶をした。そっと襖を開けた祥太郎は、ただならぬ父の様子に身を引き締めた。
   「入りなさい」
 死に装束に身支度をした父が、物静かに座っていた。
   「父の近くに来なさい」
 祥太郎は、父のそばに躙(にじ)り寄り、畳に両の手をついて頭を深く下げた。
   「今から父が話すことを、よく聞きなさい」
   「はい、父上」
 祥太郎は十五歳、立派な大人である。狼狽えることなく、ゆっくりと頭を上げて父の目をしっかりと見つめた。
   「父は、今から登城致すが、生きてこの屋敷の敷居を跨ぐことはないであろう」
 勘定方の末端に仕える父の主な仕事は、金銭の出納を記録することである。とは言え、下級であるが故に掃除、茶汲み、使い走りと、下僕扱いの雑用に追われる毎日である。
   「父にどのような罪を着せられて、どのように屈辱を浴びせられようとも、父は潔白である、お前だけは信じて欲しい」
 母は、武士の娘で気位(きぐらい)が高い。恐らく自分を信じてはくれぬ筈である。ただ怒り狂って実家に戻るであろうが、恨んだり憎んだりせずに、そっとしておいてやって欲しい。父は決して自己弁護はせぬ積もりである。黙して立派に切腹してみせる。父の切腹は、決して贖(あがな)うものではない。沈黙の抗議である。祥太郎は、藩を追われ、屋敷を出て行かねばならないだろうが、挫けずに誇りを持って生きて行って欲しい。祥太郎にとって、一番大切なものは、祥太郎の将来である。父の濡れ衣を晴らそうなどと思わず、また、父に濡れ衣を着せた者を見つけ出して仇をとろうなどと考えずに、自分も他人の命も大切にして生きて行きなさい。いつの日か「あの世」とやらで父に会うときは、胸を張ってやって来なさい。
   「わが亡骸は、葬儀も供養も許されないであろう。せめて、川原で荼毘(だび)に付し、灰は川に流して欲しい」
 お前が藩校に通うのも、今日が最後になろう。普段通りに一日を過ごして来なさい。帰ってくれば、父は棺桶の中で、そなたを出迎えよう。父の生涯は、決して無駄なものではなかった。なぜなら、祥太郎という素直で清い心の倅をもうけ、このように立派な大人に育て上げることが出来たのだから…。
   「もう一度お前だけに言わせてくれ、父は潔白である」

 父は、白装束の上に羽織袴を着重ね、大小の刀を腰に差すと、普段と変わりない笑顔を見せて屋敷を出て行った。
   「あなた、行っていらっしゃいませ」
 母は、何も聞いていないのであろう。無感情に夫を送り出すと、さっさと奥へ下がってしまった。
 祥太郎は、ぐっと涙を堪えて父を見送り、「父上、さらばです」と、頭を下げた。

 藩校では、何事もなく一日を終えたが、帰り際に祥太郎が属す高等部の師範に呼び止められた。
   「祥太郎、何が起きても、気を落してはならぬぞ」
 普通なら、祥太郎は「何事で御座います」と、聞き返したであろうが、黙って頭を下げて帰途についた。

 門の外に、二人の中間(ちゅうげん)が祥太郎を待ち受けていた。父の亡骸を運んで来たのであろう。二人は上役から受けてきた口上を、祥太郎に向かって一頻り無感情に告げた。
   「そうか、やはりそうだったか」
 祥太郎は、中間たちに一言の労いの言葉も、お礼の言葉も意識的に告げなかった。二人と別れて屋敷の門を潜ると、狭い庭に大きな棺桶が置かれて、その前で老いた下男が膝を着き、合掌していた。その老いの目から流れ落ちる涙が夕日を受けて、血のように見えた。
   「坊ちゃま、お父さまが、お父上が…」
 その言葉の先を涙が消し去っていた。
   「知っております、今朝、父上とお別れを致しました」
   「おいたわしい旦那様、こんなにもお優しくて清い心の旦那様が、藩の金を横領したなど有り得ないことでございます」
   「平助、ありがとう、父上は潔白です」

 今夜、父上の亡骸を川原にお運びして荼毘に付す、平助、申し訳ないが手伝ってはくれぬかと頼むと、平助は不満顔であった。
   「坊っちゃん、それはいけません、今夜は通夜をなさいませ」と、忠告された。
   「それが出来ないのだ、明朝、私は追放されて、旅に出なければなりません」
   「そうでしたか、お可哀想な坊ちゃま」
 この屋敷の使用人は、平助たった一人である。なんとかこの平助に有り金を全て渡してやりたいと願って屋敷の中を捜し回ったが、たった一文とても見当たらなかった。母の持ち物は全部持ち帰ったらしく、残っているものは、父と祥太郎の物ばかりである。その中で金目のものと言えば、父の脇差し大小二本だけである。その内の脇差は、父が切腹に使ったのだろう、柄にべっとりと血糊が付着していた。
   「平助、屋敷の金は母が持ち帰ったようで一文も残っていない、お前にやれる金目のものと言えばこの大刀と、父の羽織袴と印籠だけだ」
   「箪笥などの家具は、使えるものがあれば、どれでも持って行ってくれ」
 祥太郎は申し訳無さそうに平助に頭を下げた。
   「坊っちゃん、どうぞお気遣いなさらないようにお願いします」
   「今から、私が納屋の薪を荷車に積んで川原に運びます、平助は父上の傍に居てあげてください」
 川原に薪を運び、燃えやすく木組みをすると一旦屋敷に戻り、棺桶と火打ち鉄と火口、油紙、藁、粗朶などの類を荷車に積み、平助を伴って川原に向かった。

 棺桶の蓋を取ると、生臭い血の臭いが溢れ出てきて、完全に切り離された首と躯(むくろ)が見えた。今朝、物静かに語っていた父とは思えない位に小さく棺桶に収まっていた。
   「父上、失礼します」
 あの偉大に思えていた父とは違って、躯は軽くて祥太郎一人の力ですっと引き上げることが出来た。その下に、苦痛に歪んだ形相の父の首があった。
 あの冷静であった父でさえも、この苦痛の形相である。腹に刃(やいば)を突き立てて腹の左から右へ自らの力で切り裂く苦痛、更に介錯の長刀が首に食い込む苦痛、それら相俟った苦痛が、こうまでも形相に顕れるものかと、祥太郎は父を哀れに思った。
 何故なのだろうと祥太郎は考えた。父の躯を抱えても、父の首を抱え持っても、ちっとも恐ろしくはないのだ。むしろ懐かしく、愛おしいのは肉親であるからのようである。

 薪に火が着き、その火の中で父の躯が動いたように見えた。また躯が「ぼすっ」と音を立てると、父が熱がっているように思えた。
   「父上、どうぞ安らかに成仏してください」
 祥太郎は、声に出して炎の中の遺骸に話しかけた。その様子を見て平助は獣のような声で慟哭した。
   「平助、有難う、もうお帰りさい、後は私一人で大丈夫です」
   「せめて朝まで、旦那様を見送らせてください」
   「いえ、今度は私が平助と別れるのが辛くなります」
   「坊っちゃん…」
 平助は絶句した。暫く佇んでいたが、思い切ったように嗚咽しながら腰を屈めて走り去った。

   「父上、私は母よりも誰よりも父上が大好きでした」
 母上の笑顔は、生まれてこのかた見たことはないが、父上はどんな時も祥太郎に笑顔で接してくれた。母に叱られて泣いているときは、そっと寄り添って涙を吸収してくれた。表で遊び仲間に泣かされて帰ると、優しく訳を訊いてくれた。決して子供の喧嘩に口出しはしなかったが、いつも味方で居てくれた。
 三十俵二人扶持の貧しいやりくりの中、母の反対を押し切って寺子屋に通わせてもらった。父が母に反旗を翻したのは、これが最初で、最後であった。剣道は、道場に通わせて貰える余裕はなかったので、あまり強くはない父上が遊び半分で手解きしてくれた。「わしは勘定方なので、剣道は苦手なのだ」と、照れ笑いをしていた父上であったが、字を書かせば、寺子屋の師範も唸るくらいの達人であった。その才能は、祥太郎がしっかり受け継いでいた。

 山の稜線が白みはじめた。木組みも燃え尽きて、父の亡骸は、姿を留めることが出来なくなった。火の傍で父に話しかけて過ごした愛おしくも残酷な今夜は、祥太郎にとって生涯忘れることはないだろう。
   「父上、これからも私を見守ってください」
 父上の燃え殻と思しきあたりの灰を、父上の遺言どおりに川へ全て流そうとしたが、お骨の欠片を一つ、遺言に逆らって木片で拾い上げた。
   「父上、許してください」
 冷めるのを待って懐紙で大切に包むと、そっと懐へ入れた。
   「祥太郎は、今日からこのお骨を父上と見ます」
 川原に木片で穴を堀って、まだ火の着いた炭を放り込み、丁寧に砂をかけて火を消すと、祥太郎は川原から立ち去った。

 父の打裂(ぶっさき)羽織と袴、笠、血のついた脇差を頂戴してきたが、懐には一文の銭もない。とは言え、もう帰るところもないのだ。生まれて初めての長旅で、街道の一里塚だけが頼りの旅である。腹が空けば草を喰(は)み、喉が渇けば小川の水をすすり、日が暮れたら洞があれば上等で、お寺や、お社でもあれば縁の下をお借りするのだが、それも無ければ木の下で眠る。その場合、雨にでも合えばかたなしである。

 空腹を抱え、江戸に向けてトボトボと歩いていると、案の定雨がポツリと来た。幸い農家の屋根が見えたので、軒下でも借りようと走った。
   「すみません、旅のものですが…」
 言い終わらないうちに、怒鳴り声を浴びせられた。
   「このあいだから、畑の野菜を盗んでいるのはお前だな、この泥棒野郎!」
   「いえ、私はこの道を初めて通りました」
   「嘘をつけ、野菜を盗みに来て、雨に遭ったのだろう」
   「私は越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の一子、進藤祥太郎と申します」
   「何、お侍だと、お侍のふりをして逃れようとするのか」
   「いえ、ふりなどしていません」
   「煩い、帰れ、帰れ、帰らぬと役人を呼ぶぞ!」
 農家の住人の凄い剣幕に、祥太郎は仕方なく引き下がった。雨は、次第に本降りになって、雨の中を少し歩いただけで、もう下帯(ふんどし)までぐっしょり濡れてしまった。
 まだ初秋の、それも昼間とは言ども、雨の冷たさは若い祥太郎も骨身に堪える。さらに濡れて歩いていると、空腹が祟ったのか、目眩がしてきた。
 せめて農具を入れる小屋でも借りることが出来ないかとフラフラ歩いていると、再び農家が見つかった。

   「私は越後高崎藩の者ですが、雨に降られて難儀をしています、軒下をお借りできませんか?」
 戸がガラリと開かれて、老婆が顔を覗かせた。
   「はいはい、たくさん降ってきましたなぁ、旅のお方、どうぞお入りください」
 また、怒鳴られるのかと思った祥太郎だったが、その優しい言葉に驚いてしまった。
   「本当に、宜しいのですか?」
   「何をしておいでですか、雨が降り込みます、早く入って戸を閉めてくだされ」
 雨にずぶ濡れになった祥太郎を見て、老婆はさらに言葉を続けた。
   「そんなところに佇って居ると病気になります、丁度お湯が沸いたところです、こっちへ来て体を拭いなされ」
 老婆は盥に湯を入れ、水でうめて手拭いと共に出してくれた。祥太郎が裸になるのを躊躇っていると、老婆は奥の部屋に入っていった。見ては恥ずかしかろうと気を利かせてくれたのだと思っていると、老婆は直ぐに晒を持って出てきた。
   「今、晒を切って差し上げますので、これを巻きなされ」
 だが、縫っていない晒を下帯にする方法を祥太郎は知らない。それを老婆に言うと、笑いながら答えた。
   「私が巻いて差し上げます」
 祥太郎は、顔を真赤にしたとき、表の戸が開いて老人が入ってきた。
   「あぁ、お爺さんお帰り」
   「これ婆さん、若い男を連れ込んで、何をしてなさる」
 別に怒っている風ではない。
   「何をしていると言われても、この婆に何が出来ます」
   「今、若い男の下帯を脱がせておりましたわなぁ」
   「えへへ、お爺さんたら、焼き餅を焼いてなさるのか」
 笑いながら、老婆は状況を話して聞かせた。
   「下帯の巻き方を?」
   「そうです、紐を縫い付けた下帯しか着けたことがないと言いなさるのでな」
   「そうか、婆さん良い目の保養をさせて貰いましたな、五年は寿命が延びよう」
   「まだ目の保養なぞしておりません、これから教えて差し上げるところでしたのに…」
   「わしが邪魔をしたのか?」
 老婆は、「それなら、爺さんが教えてあげなされ、私は夕餉の支度をしますから」と、祥太郎の元を離れた。

   「私は越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎でございます」
   「ほう、お侍さんのご子息が、何故の一人旅を?」
 父は悪事を働いた訳ではない。なにも隠すことはないので、事具(つぶさ)にこの家の主に話して聞かせた。
   「何と酷いことを、だからわしは侍が嫌いなのじゃ」
 言って、祥太郎を侍と気付き、「済まんことを言った」と、詫びた。
   「いえ、私も侍が嫌いになったところです」
   「そうじゃろ、それでこれから何となされるのじゃ」
   「江戸へ行って、仕事を探します」
   「目当てはありますのか」
   「ありませんが、死体を埋葬する寺下男とか、屎尿を回収して肥料として売るような人の嫌がる仕事でも構いません」
   「ほう、若いのに偉いなぁ」

 その夜、祥太郎は三和土に筵を敷いて寝かせてもらった。真夜中、祥太郎は物音に気付き目が冷めた。祥太郎の枕元に、この家の主が出刃包丁を順手に持って立っていた。
   「しまった、起こしてしまったか」
 言うと、爺は祥太郎に馬なりになろうと飛びかかってきたが、若い祥太郎の動きは機敏である。筵を跳ね上げると、「さっ」と入り口の方に逃れた。
   「何故です、何故私を殺そうとするのですか」
   「お前が大切そうに握っている物を奪う為だ」
   「えっ、これはあなた達にとっては、何の価値もない物ですよ」
   「珊瑚の紅玉か、瑠璃の玉であろうが」
   「いいえ、父の遺骨です」
   「嘘をつけ、渡すのが嫌だから、そんなことを言っているのだろう」
   「嘘ではありません、それに私は一文の銭も持っていません」
   「それで、よく旅が出来るものだ」
   「国を追われたから、仕方がないのです」
   「親父が盗み出した公金を持ちだしたのだろう、どこに隠した」
 祥太郎は、がっかりした。農家の住人に怒鳴られた後、なんと親切な人もいるものだと感激した矢先のこれである。遺骨を出して見せたところで、宝を何処かに隠してきたと疑われるだけだろう。諦めて支え棒を外し、外へ飛び出した。飛び出して気付いたのだが、自分は裸で下帯しか着けていない。まだ、生乾きだろうが、打裂や笠を取り戻さねばならない。今飛び出した戸口に立ち、戸をガラリと開いた。
   「旅人さん、これが必要だろう」
 老婆が、祥太郎の荷物を持って立っていた。祥太郎はその荷物を引っ手繰ると、抱えて闇に向かって走った。荷物がズシッと重いので、調べてみると、紐を通した一文銭で百文程度が着物の中へ挟まっていた。どうやら、老婆がいれてくれたらしい。
 たった今、「他人なんて誰も信じられない」と思った祥太郎だったが、自分は「間違っていたかな」と、ほんのりとした物が胸に湧いたのを切欠に、雨が小降りになってきた。

 夜が白んできた。歩こうと思ったが、草鞋の紐が切れた。それでも構わず草鞋を突っかけて歩いていると、草鞋本体が分解してしまった。なにか草鞋の代わりになるものは無いかと辺りを物色していたら、倒れた生木が道端に横たわっていた。この皮を剥がして足に合う寸法に切り取ると、稲を刈り取って間のない田圃から荒縄一本拾ってくると、足にクルクルと巻きつけ、木の皮を足の裏に固定した。
   「よし、歩けるぞ」
 祥太郎は、これからはこれに限ると、自分の名案に陶酔していた。

 この日の祥太郎の腰には、百文ぶら下がっていて、何だか大金持ちになったような気がしている。だが、これで食い物を買うと、あっという間になくなってしまう。勿論、旅籠などには泊まれない。一泊二食付きで、二百文はとられるのだから。
 祥太郎は知っていた。青木昆陽という学者先生が栽培した「甘蕉」が、栽培しやすくて農家の人気対象になっていることである。甘蕉とは薩摩芋のことで、昆陽芋とも呼ばれたとか呼ばれなかったとか。
 それを安く分けて貰うのだ。

   「すみません、傷物でよいので薩摩芋二・三個分けて貰えませんか?」
 畑で野菜を収穫していた老人が振り向いて、黙って祥太郎をジロジロ見ている。
   「お前は何者だ、腰に差した刀の柄に、黒いものが付いている、それは血だろう」
 祥太郎が人を斬ってきたと思っているらしい。
   「これは父上の血で、父上はこの脇差で切腹しました」
   「ふーん、何だか訳ありのようだな、芋がほしいのか?」
   「はい、持ち金が少ないので、町で売っている食べ物は高くて買えません」
   「傷物が良いのか?」
   「はい、なるべく安くお願いします」
   「今、腹が減っているのか?」
   「はい、とても」
   「よし、そこの草叢に竹の皮の包みがあるだろう」
   「はい、あります」
   「それを開いてみなさい、蒸かした芋が入っている」
   「でもこれは、おじさんの弁当ではありませんか?」
   「そうだが、婆さんはいつも余分に入れてくれる」
   「三つあります」
   「一つやるから、そこで食え」
   「本当ですか、では幾ら払えばよろしいのですか?」
   「金はとらん、遠慮せずに食え」
   「有難う御座います」

 甘くて美味しかった。思えば父が薩摩芋を落ち葉で焼いてくれたのは、祥太郎が八歳のときだった。
   「とても美味しいです」
   「そうだろう、うちのは肥やしが効いているから、どこよりも大きくて甘いのだ」
   「本当です、こんな大きな芋は初めて見ました」
   「そうか、もう一つ食うか」
   「それでは、おじさんの分が…」
   「遠慮するな、わしは年寄だから一つあれば十分だ」
 とても親切な人だなぁと思うのだが、何か裏がありそうな気がして、祥太郎は老人に気を許していなかった。
   「食ったか?」
   「はい、頂きました」
   「そうしたら…」
 「そら来た」と祥太郎は思った。懐のものか、それとも腰の銭か。
   「遠くに藁屋根が見えよう、あれがわしの家だ、あの家の裏に肥桶が二つ置いてある、あれをここへ運んでくれ」
   「えーっ、二つ一度に?」
   「安心しろ、わしが担げるように、それぞれ半分しか入っていない」
   「はい、わかりました、行って参ります」
 大きな芋を二本も食った所為か、祥太郎は元気もりもりである。農家を目指して駈け出して行った。

   「おや、どこの坊っちゃんですか?」
 老婆が気付いて、母屋から出てきた。
   「はい、今おじさんに頼まれて、肥桶を運びに来ました」
   「まあまあ、余所のお坊ちゃんに、そんなことを頼んだのですか」
   「はい、お礼に薩摩芋を二本も頂きました」
   「それは、それはご苦労さまです、気をつけて運んでくださいね、転けるとどういうことになるか、わかりますよね」
   「はい、私はクソまみれになります」
 老婆は、その場面を想像したのか、袖で口を隠して吹き出し笑いをした。

   「ご苦労さん、腰が低く落ちて、中々様になっていたぞ」
   「才能はありますか?」
   「あるある、今すぐにでも農家の息子になれる」
 老人は、冗談のつもりで言ったのに、この若者が本気にして喜んでいるのが不思議だった。
   「格好から見れば、お前さんは侍だろう」
   「はい、私は越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎と申します」
   「百姓仕事に興味があるのか?」
   「はい、江戸へ出て、墓守か屎尿処理の仕事がしたいと思っています」
   「へー、それはどうして?」
   「働ければ何でも良いので、人の嫌がる仕事を選びます」
   「ふーん、偉いのか、バカなのかわからんが」
   「どちらも違います」
 祥太郎は、老人が休憩をして、芋を食っている間に、国を追われてきた訳を全て話した。
   「そんな悲惨な事があったのか、それでいつの日か国へ帰って、父の濡れ衣を晴らすのか?」
   「いいえ、晴らしません、父の遺言を守る為です」
   「父上は、無念を晴らすなと…」
   「はい、大切なのは、そんなことより私の将来だとおっしゃいました」
 老人は、今日一日自分の手伝いをしてくれないかと、祥太郎に頼んだ。
   「歳を取ると力仕事が辛くなって、婆さんに手伝わせるのだが、婆さんも体が弱くてなぁ」
   「有難う御座います、食べ物と土間をお借り出来れば、お駄賃は要りません」
   「そうか、では今夜は泊まっていけるのだな」
   「はい、お願いします」
 だが、祥太郎は気を許していなかった。
   「あのう」
   「何だ?」
   「私が懐に入れて大切にしているのは、父のご遺骨で、私はこれを父だと思っています」
   「ほう、親孝行だったらしいな」
   「父のことが大好きでした」
   「だから、どうしろと言うのかね」
   「いえ、何となく話して置きたかっただけです」
   「どこかで宝物だと思われて、盗られそうになったのだろう」
   「はい、実はそうです」
   「安心しなさい、例え宝物でも盗みはしない」
   「それから、父は一文たりとも公金に手をつけたりはしていません」
   「それは、もう聞いた、お前さんが大金を持っているとは思えない」
   「有難う御座います」
   「何の礼だ」
   「いえ、私が話したことを信じて頂いたお礼です」

 その日、収穫の手伝いをして、肥やしについての話も聞かせてもらった。肥やしというものは、便所から組んだ真新しい屎尿は肥料として使えないのだそうである。肥料だと言って畑に小便を掛けるのも、野菜を枯らしてしまうだけだと教えられた。屎尿は肥溜めに入れて一年間寝かせたものが肥料になる。
   「それ、そこに竹で編んだ蓋をかけたところがあるだろ、それが肥溜めだ」
   「では、家の傍から私が担いできたのは?」
   「昨日の残りだ、半分撒いたところで日暮れになったので、畑に置いておくと猪が倒してしまうので家に持ち帰って納屋に入れておいたのだ」
   「本当は一杯入っていたのですね」
   「そうだ、婆さん一人残して老ぼれる訳にはいかんのでな」
   「おじさん、無理をしてはいけませんよ、お子達はどうしたのですか?」
   「わしら夫婦は、とうとう子供に恵まれなかった、神様に見落とされたようだ」
 その日は、日が暮れるまで、老人の手伝いをして、話もいっぱいした。

   「おじいさん、お帰り、ご苦労さまでした」
 老婆はそう言って、まだ祥太郎が居るのに気付いた。
   「おや。お芋二個で、この時刻まで手伝ってもらったのですか?」
   「そうだ、よく働いてくれた、わしは骨休めが出来たというものだ」
   「まあ、お気の毒に、済みませんでしたね」
   「いえ、おじさんに、いろいろ勉強になることを教わりました」
   「お爺さんが教えたのですか、とんだ先生ですこと」
   「なにをぬかすか、これでも昔とった杵柄で、畑のことなら任せておけというものだ」
 今夜はここに泊まってくれるそうだから、なにか美味しいものでも食べさせてやってくれと、老人は妻に頼んだ。
   「と、言われても、たいしたものは無いのですよ」
 老婆も、なんだか浮き浮きしている。久しぶりの若い客なのだろう。

 行水をして、食事も済ませた後、老人は言った。
   「お前さん、侍の子だから字は読めるのだろう」
   「はい、読み書き算盤は出来ます、剣道は無茶苦茶流ですが」
   「そうか、では…」
 老人はそう言って、仏壇の前に進み、抽斗から紙切れを取り出した。
   「これを読んでくれないか」
   「はい」
 祥太郎は紙切れに書いてあるのを読んで、首を傾げた。
   「おじさん、これは借用書ですね」
   「そうだ、他人になけなしの金を貸したのだが、五年経っても返してくれないのだ」
   「債権者 六兵衛殿 金十両 右記の金額を借用するもの也 と、あります」
   「それだけか?」
   「いいえ、債務者 耕太郎 とありますが、その後がいけません」
   「と、言うと?」
   「ある時払いの、催促なし と書いてあります」
   「それはどういうことだ?」
   「お金ができれば返すが、催促をしてはいけないと言うことです、即ち返す意志がないということになりますね」
   「やはりそうか、わしらは字が読めないことを知って、企んだのだな」
   「そのようですね」
   「やはりそうだったのか、悔しいが仕方がない、諦めるか」
 六兵衛は、がっかりと肩を落とした。
   「おじさん、諦めることはありませんよ」
   「打つ手はあるのか?」
   「わたしに任せて頂けますか?」
   「もし、少しでも金が戻れば、お前さんにあげよう」
   「要りませんよ、おじさんの大切なお金なのに」
 とにかく、明日耕太郎のところへ行ってみようと祥太郎は思った。家の場所を訊き、納屋の片隅に積まれた藁の上に、筵を敷いて眠った。

  翌朝、力仕事をした後、耕太郎のところへ行くと言って、六兵衛の手伝いの畑仕事を許して貰った。
   「六兵衛さん家の居候です」
 そう名乗って耕太郎の家の近所で耕太郎のことを訊くと、皆は口をそろえて「どけち」と罵った。鎮守際の行事に、寄付を頼みに行ったが、一文も出さなかったとか、村の菩提寺に雷が落ちて、本堂の一部が焼けたときに、檀家一同が集まって寄付金を出し合って修理をしようと決めたが、寄付どころか檀家の集会にすら出席しなかったなど、愚痴話を聞かされた。

 家の建物はと見ると、百姓家にすれば結構立派で、庭に手入のされた植木が数本立っていた。
   「耕太郎さんはおいでですか?」
 女房らしい女が顔をだした。
   「居ますが、あなたのお名前は?」
   「私は六兵衛さんの家の居候で、越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎と申します」
   「はあ、ちょっとお待を」
 女は、奥へ駆け込み、耕太郎らしき男とボソボソ話をしている。
   「そんなヤツは知らん、放っておけ」と、男の声。
   「何の用か分からないではありませんか、あなた出てくださいよ」
   「面倒臭えなぁ」
   「刀を差したお侍ですよ」
 内緒話をしている積りなのか、まる聞こえである。
   「何だ、何の用だ」
 漸く男が出てきた。
   「六兵衛さんが耕太郎さんに貸した十両のことでお願いに来ました」
   「借用書は持ってきたのか?」
   「はい、ここに持っています」
   「それで?」
   「返してあげて欲しいのです」
   「お前、字が読めるのか?」
   「はい、読めます」
   「それに何と書いてある」
   「ある時払いの、催促なしと」
   「そうだろう、分かっていたら催促に来るな!」
   「催促に来たのではありません、お願いに来たのです」
   「同じではないか」
   「いいえ、私は債務者ではなく、六兵衛さんの代理できたのでもありませんから、催促ではありません」
   「面倒臭い野郎だなぁ、そんなもの最初から返す気はねえよ」
   「そうなのですか、最初から返す気はなかったのですね」
   「そうだ、それに、ある時払いと書いてあるだろう、分かったら帰れ!」
   「それをお代官さまに伝えて、あなたの家に金が無いのかどうかも調べて頂きましょう、私はお代官さまに、詐欺師を捕らえてくださいとお願いに行きます」
   「誰が詐欺師だ、わしは六兵衛から金を借りたのだ」
   「最初から返す気がないのなら、借りたとは言いません、それに六兵衛さんは、あなたに十両を差し上げたとは言っておりません」
   「お前の寝言を、代官さまが取りあげるものか」
   「私は訴えに行くのではありません、お願いに行くのです、詐欺師を捕らえて、島流しにしてくださいと」
   「わしは島流しになるのか?」
   「十両盗めば死罪です、十両盗むのも、詐取するのも同じことです、あなたの場合は、返す気が残っているかもしれません、その場合はお咎めなしになるでしょう」
 祥太郎は、踵を返してこの家出て行こうとしたが、耕太郎は「待て」と、止めた。
   「わかった、十両は返そう」
   「では、借りたことにするのですか?」
   「そうだ、わしは六兵衛から十両借りた」
   「では、何も問題はありません、ただし、借りたのなら、利息が付きます」
   「いくらだ」
   「五年も借りたのですから、利息は二両にもなっているでしょう、元利合計十二両です」
 耕太郎は、女房を呼んで、十二両用意しろと言いつけた。
   「先程も言ったでしょう、私は六兵衛さんの代理で来たのではありません、あなたがその十二両を持って六兵衛さんの家に出向き、借りた礼を言って返しなさい」
 祥太郎はそう言い残すと、さっさと耕太郎の家を出た。

 その夕刻、耕太郎は六兵衛の家に行き、「長いこと借りて済まなかった」と頭を下げて十二両を返した。六兵衛が借用書を返すと、耕太郎は破って捨てた。

   「へえー、お前さんはたいした男だ、何と言って返させたのか知りたいものだ」
 祥太郎は笑っていた。
   「勘定方の倅ですから、お金のことは少し知っています」
   「婆さん、こんな頼りになる息子が居たら、どんなに心丈夫だろうね」
   「そうですね、でも、そろそろ返してあげなければなりませんよ」
   「芋二本で引き止めて、倅を持った夢まで見させてもらった」
   「本当に楽しい夢でしたね」
   「十二両は、祥太郎さんに持って行って貰おう」
   「はい、今夜は腕に縒りをかけて美味しいものを作りましょう、祥太郎さん、この婆を町まで連れて行ってくれませんか?」
   「お金は要りませんと言ったでしょう、それに私の為に無駄遣いをしないでください」
   「何が無駄なものですか、婆さんも嬉しいのですよ」
 六兵衛も、ニコニコ顔であった。祥太郎は、正座をして襟を正し、手を着いて老夫婦に言った。
   「六兵衛さんとおばさんに、お願いがあります」
   「はいはい、何なりと言ってください」
   「私を暫くここに置いて頂けませんか?」
   「えっ、本当か、本当に暫く居てくれるのか?」
 お婆さんは、腰も抜かさんばかりに驚いて、子供のように頬を抓っている。
   「息子代わりにここに置いて、親孝行をさせてください」
 老夫婦は、躍り上がらんばかりに夫婦抱き合って喜んだ。

 翌日から、祥太郎は、身を粉にして働いた。呼び方も、六兵衛さんとかおじさんではなく、祥太郎の懐にいるのは父上で、六兵衛はお父さんである。おばさんと呼んでいたのも、お母さんと呼び替えることにした。

   「今日は、力仕事が無いので、町まで野菜を売りに行ってきます」
   「では、わしが付いて行こう」
   「もう慣れましたので、一人で大丈夫です」
   「そうか、気をつけて行ってきなさい、くれぐれも無理をしなさんなよ」
 町では、そろそろ祥太郎にご贔屓客がついて来た。祥太郎が優しいこと、親切なことが知れて来たからだ。
   「祥ちゃん、また手紙を読んでくださいな」
   「はい、承知しました」
   「祥ちゃん、ちょっとこれを書いて頂戴な」
   「はい、矢立は持っていますので、紙を用意しておいてください」
   「祥ちゃん、これ二束と、これ三個、それからこれも頂戴」
   「はい、三十六文です」
   「あら、算盤が無くても早いのね、間違えていない?」
   「大丈夫です、算盤は頭の中に有ります」
 どんな雑用でも、「嫌だ」とは言わず、快く引き受けてくれるので、町の重宝屋さんである。人気が少しずつ出てきて、野菜を売り残すことは無くなった。

   「こら、そこの花売り」
   「はい、何でしょうか」
 町のゴロツキが若い花売りの女を取り巻いた。
   「お前、誰に断って商いしておる」
   「すみません、初めてなもので、何も知りませんでした」
   「うちの縄張り内で商いをすれば、みかじめ金を払ってもらうことになっているのだ」
   「まだ一本の花も売れていません、どうぞ今回は勘弁してください」
   「懐の巾着を出してみろ」
   「これは帰りに母の薬を買って帰るお金、どうぞお許しください」
   「ならん、払わねば商売を出来ないようにしてやる」
 言うが早いか、ゴロツキどもは商いの花を奪い路上に投げつけた。そればかりか、担いでいた桶まで奪い、叩き壊してしまった。更に、女の顔に平手打ちを入れようとした。
 ゴロツキどもの傍若無人ぶりに、祥太郎はいたたまれず花売りの傍に駆け寄り、花売りの女を庇った。
   「ここは天下の大道でございます、誰にも断りをいれる必要は無いと思います」
   「ここは、わしらの縄張りだ、縄張り内で商いをすれば、みかじめ料を払ってもらうことになるのだ」
   「それは、お上が定めたことでしょうか?」
   「お前、阿呆か、お上が定める訳がないだろう、わしら侠客がお前らを護っている、その見返りを貰っているのだ」
   「侠客? 侠客と言えば、強きを挫き、弱きを助けるのを旨意としているのではなかったのか」
   「その通りよ」
   「では何故弱き女を脅して、金を巻き上げるのか」
   「護って貰えば、礼金を払うのが当然だろう」
   「この人が護って欲しいとお願いしたのか」
   「それは、わしらが縄張り内で目を光らせているから、お前らは安全に商いが出来るのだ」
   「その安全を害しているのは、あなたがたではありませんか、見なさい大切な花と桶をこんな風にしてしまって、可哀想だと思わないのですか」
   「煩い若造め、お前も商いが出来ないようにしてやろうか」
   「出来るものならやってみなさい、わたしも武士の端くれ、黙ってあなた方の好きなようにはさせません」
 腰に脇差しは差しているものの、恐らく血糊が固まり抜けることはないだろう。一対一の組手なら力負けはしない自信があるが、ヤツ等は匕首を抜くだろう。到底勝ち目は無いので、口先で煙に巻くしか手はない。
   「ここで喧嘩をする前に、あなたがたの親分に会わせてください」
   「会ってどうする」
   「文句の一つもぶちまけてやります」
   「そんなことをすれば、お前は簀巻きにして大川へ捨てられ、魚の餌になるのだぞ」
   「魚が喜んで餌にしてくれるなら、それはそれで私としては本望です」
   「粋がるのも、今の内だ、そのうち泣きべそをかいて、命乞いをするのだろう」
   「しませんよ、さっき言ったでしょう、私も武士の端くれだと」

 大道で、ゴロツキ相手に大見得をきっていたら、通り掛かりのやくざ風の旅人が立ち止まって祥太郎に話しかけた。
   「お兄さん、なかなかの度胸じゃありませんか、行商をさせておくにはもってぇねぇぜ」
   「行商を馬鹿にしないでください、これで真っ当に生きているのですから」
   「そうだった、済まねぇ、済まねぇ」
 旅人を見て、ゴロツキどもが急に静かになった。旅人は懐から財布を出して、小判を一枚ゴロツキの一人に渡した。
   「おい、鉄、これを花売りの女に渡してやりな、弁償だってな」
   「へい、兄貴、申し訳ありません」
 兄貴と呼ばれたこの男、花売りの女の元へ行き、踏み躙られた花や壊された桶の片付けを手伝い、優しく声をかけていた。
   「済まなかったなぁ、怖かったろう、このあっしに免じて許してくんな」
 女は泣きべそをかきながら、何度も何度もこの男に頭を下げていたが、さっきゴロツキから受け取った一両を返そうとした。
   「いいのだよ、とっときな」
   「いえ、多すぎます、頂けるなら一朱で十分です」
 祥太郎が口を挟んだ。
   「貰っておきなさい、先程の、脅され料だと思えばいい」
 女は、祥太郎にも頭を下げて立ち去った。

 祥太郎もその場を立ち去ろうとすると、旅人風の男が付けてきた。
   「何か用ですか?」
 立ち止まって振り向きさまに祥太郎が言った。
   「いや、お前さんのような男と、兄弟の杯が交わせたらいいだろうなぁと思って」
   「わたしは堅気の商人です、杯を交わすなんて、きっぱりお断りします」
   「その、はっきり物を言うところが気に入ったのだ」
   「ただ命知らずの馬鹿なだけです、何れは旅人さんのようなお方に斬り殺されるのでしょう」
   「かも知れぬなぁ」
   「では、私はこれで失礼します」
   「まあ、待ってくれ、兄さんは脇差しだけを差しているが、本差しは差さねえ訳を聞かせてくれないか」
   「持っていないからです」
   「持っていたら差すのか?」
   「いえ、商売の邪魔になるから刺しません」
   「脇差しは邪魔にならないのか?」
   「これは、護身用にさしているのではありません、父の形見で神社のお守りのようなものです」
   「その血の跡は?」
   「これは父上が切腹した脇差しです」
   「そのまま鞘に指しておけば、抜けなくなるだろう」
   「既に抜けません、錆びついたようです」
   「わしが手入れをしてやろうか」
   「結構です、血が洗い流されたら、お守りでなくなります」
 この男、ちょっとしつこいので、祥太郎は辟易(へきえき)しているが、お構いなく畳み掛けてくる。今度は、祥太郎から尋ねた。
   「お兄さん、あなたはもしや長五郎さんではないのですか?」
   「どうして」
   「父が旅先で会った山本の長五郎さんというお方が、見知らぬ旅人がゴロツキに殴る蹴るの暴力を受けているところを、自分の命を張って助けたそうです」
   「それがあっしだと?」
   「はい、父はあの人は真の任侠道に生きる人だと感心して、事あるごとに私に話して聞かせるのです」
   「ははは、違う、違う」
 と、言いながらも妙に照れて、祥太郎から離れて行った。
   「ははは、嘘だよ」

 その日も暮れかかり、祥太郎は天秤棒の前後の空の笊を担いで帰ってきた。
   「お父さん、お母さん、ただいまかえりました」
   「ご苦労さんだったねぇ、疲れたろう、お父っつぁんは、まだ畑から帰らないが、おっつけ帰ってくるだろう、先に行水をして寛ぎなされ」
   「いえ、ちょっと見てきます」

六兵衛は、実って垂れた穂をみて周っていた。
   「お父さん、祥太郎ただいま戻りました」
   「ああ、ごくろうさん、疲れたでしょう、家で寛いでいなさらんか」
   「大丈夫です、持って出た野菜は全部売れましたので、お父さんに頼まれていた刻煙草を、少し多い目に買ってきました」
   「そうか、そうか、ありがとう、ありがとう」
   「お父さん、そろそろ稲刈りなのでしょ?」
   「明日から、とりかかろうと思っていたところだ」
   「では、明日から行商は止めて、稲刈りをします」
   「そうか、頼みましたよ、稲刈りはよくやったのか?」
   「初めてです」

 刈ってひろげて日に乾かして、脱穀、籾摺り、玄米に仕上げて俵につめたものを年貢としてお上に納める。
 祥太郎は、六兵衛の教えることを素早く覚えて、六兵衛が体を壊しはしないかと心配するくらいよく働いた。

   「今年は、夢のようだった」
 六兵衛は、祥太郎の働き振りを妻に語った。妻も年を取り、体のあちこち「痛い」と漏らしていたが、今年は祥太郎に労れて、愚痴も言わず元気に家事を熟していた。

 その年も押し迫って、藁打ちをしていた祥太郎の耳に、老夫婦の押し殺した声が聞こえた。
   「お爺さん、祥太郎が居なくなる日のことを考えると辛いですね」
   「そうだなぁ、なるべく考えないようにしようや」
 祥太郎は、立ち上がって、夫婦の元へやって来た。
   「お父さん、お母さん、お二人を置いて祥太郎は何処へも行きません」
 二人は、祥太郎のその言葉が聞きたくて、態と聞こえるように話していたようだ。

 そんな話をした次の日の夕刻、三十路を跨いだばかりと見られる男がやってきた。
   「お前か、年寄に付け入って、家と田畑を盗ろうと企んでいるヤツは、ここの跡継ぎはわしだぞ」
 六兵衛が、甥の銀次郎だと紹介して、「言葉を慎め」と、窘めた。
   「そんなことはしませんよ、仮に譲ると言われても、きっぱりお断りします」
 六兵衛夫婦の胸に、不安が過った。もしや祥太郎が不快に思って、出て行きはしないかと。
   「嘘をつけ、ここに居座ると、お前の顔に書いてある」
   「そう思うのなら、あなたがここへ来て、六兵衛さんたちを安心させてください、わたしは何時でも出て行きます」
 やはり、六兵衛夫婦にとって、最悪の事態になりそうだ。
   「おう、出て行きやがれ、この泥棒猫め」
 後を継ぐ男が現れて、そうまで言われてまで留まる気はない。また、後を継ぐ甥がいることを隠していた六兵衛夫婦に、不満が募った。
   「わかりました、出ていきます、お金は全て置いて行きますが、私が編んだ草鞋を二足頂いて参ります」
 祥太郎は、六兵衛夫婦との約束を破らざるを得なくなったが、それは二人にも否があるのだと自分を擁護した。


   「進藤祥太郎 前編」 (終)  -「進藤祥太郎 後編」に飛ぶ -

猫爺の短編小説「勘助の復讐」  (原稿用紙約30枚)

2015-03-23 | 短編小説
 勘助は江戸の米問屋、加賀屋の三番番頭である。
   「旦那さまに、折り入ってご相談があります」 
 お店の戸締りを済ませ、帳簿をきっちり付け終えた勘助が店主のもとに来て言った。なにやら思い詰めた勘助の固い表情に、主人は勘助の方に向かって座り直し襟を正した。
   「どうしたのじゃ、そんなに神妙な顔をして」
   「明日の朝早く、わたしは旅に立ちたいと存じます
   「旅に、それはまた何故に?」
 突然のことなので、主人は怪訝(けげん)に思った。
   「私はお店のお金を二十両持ち逃げして、奥州街道を北へ陸奥に向けて旅立ちます」
   「どうした、私を驚かそうと芝居でもしているのか?」
   「いいえ、本心です、旦那さまは奉行所に申し出られて、私に追っ手を差し向けるように頼んでください」 
   「馬鹿なことを言うではない。お前が持ち逃げをする男ではないことは、私が一番よく知っています」
   「旦那さま、わたしは処刑を覚悟しています」
   「わかった、聞きましょう、事情を話してみなさい」

 勘助と耕助は一つ違いの兄弟である。幼い頃に神社の境内に捨てられていたのを、この家の夫婦に拾われて育てられた。夫婦は子供に恵まれずに寂しく思っていたので、天からの授かりものと大喜びをして兄弟を実の子のように大切に育てた。
 その二年後に、妻は諦めていた子供を宿した。実の子は女の子で、お園と名付けられ、勘助たちと分け隔てなく兄妹のように慈しまれて育った。
 勘助が十歳になったのを潮時(しおどき)に、夫婦は事実を打ち明けた。勘助は当時三才であったが、拾われたときの状況をしっかり覚えていた。勘助は、「やはりそうであったか」と、思ったが、顔色に出すこともなく、その日からはこの家の奉公人として振る舞った。お園を名前で呼ぶことは止め、「お嬢さま」と呼び、父と母は旦那さま、奥さまと呼び換えた。
 その勘助の変りようを弟の耕助は訝っていたが、深く詮索もせずに自分もまた兄に従った。お園もまた訝ったが、勘助とは実の兄妹でないことを知り、寧ろ喜んでいるようにさえ見えた。
 夫婦は兄弟の変わりように打ち明けたことを後悔したが、「これもけじめだろう」と、その変化を受け入れることにした。 


 勘助は二十二才になり、新米の三番番頭であった。勘助は旦那さまに語った。お嬢さまが兄のように慕ってくれていた自分の事を、今では将来の婿として見るようになってしまったと言うのだ。自分は使用人だから、そのような世間体の悪いことは出来ないと諭したのだが、それが却ってお嬢さまの心に火を点けてしまった。
 自分もまた、お嬢さまの心を不憫に思っているうちに恋心に変わってしまったのだと、目を潤ませながら打ち明けた。お嬢さまには大店、越後屋の次男坊との縁談が持ち上がっている。この上は自分がお嬢さまの前から消えるのが妥当と思うのだが、お嬢さまのお気持ちを傷つけないように消えるには、自分が犯罪者になって処刑されるのが一番だと考えてのこの計画だった。

   「馬鹿げた考えはやめにしなさい。この私が我が子同然に育てたお前を、そんな無実の罪を着せて死なせると思いか」
 お園とても、お前がそんなことに成れば、後を追うか、気がふれるかも知れない。お園に縁談が来ているのは確かである。断るに断れない事情もある。断れば、この店をやっていけないかも知れない。
 
   「お園はどんな事をしても説得するから、お前は生きて上方へでも行って一旗揚げておくれ。 
 旦那は、心のなかで勘助に手を合わせて願った。
   「この二十両は、持ち逃げしたものでは無いことを書状にしたためるから、どうか断らずに持って行ってほしい。このくらいのことしかしてやれない私を、許しておくれ」
 旦那は、白髪が混じる頭を下げた。翌朝早く、勘助は上方を向けて旅立った。

 案の定、それを聞いたおそのは、勘助の後を追うと泣き喚めき、止められると部屋に閉じ籠ってしまった。そんなお園の傷心も知らずに、越後屋では祝言の準備が着々と進められていた。 
   「お兄さんの薄情者!」
 お園は勘助を恨んだ。そんなお園に謝り、励まし、どんな時にもお園の味方をしたのは、勘助の弟耕助であった。 


 勘助は、上方に着いていた。道中、二人の男に絡まれている若い商家の娘と乳母らしい初老の女に出あった。勘助は、喧嘩などしたことは無かったが、米俵を担いでいた所為で腕っ節には自信があったので、難なく男ふたりを追っ払った。
   「お怪我はありませんか?」
 勘助は女に訊いた。娘の方が男たちから逃れようとして足を挫いていた。 
   「むさ苦しい男に背負われるのはお嫌でしょうが、せめて駕籠が見つかるところまでお連れしましょう」
 背中を向けて腰を下ろした。娘は恥ずかしそうに躊躇(ためら)ったが、初老の女が娘に言った。
   「お嬢様、お言葉に甘えましょうよ」
 娘は初老の女に諭されて、恐る恐る肩に手を掛けた。
   「こんな時に限って、駕籠が見つからないものですね」 
 勘助がいった。
   「重いでしょうに、ごめんなさい」
 娘が済まなさそうに言った。 
   「旅人さんは、どちらから…」
 初老の女が勘助に訊いた。
   「江戸です」
   「まあ、それはお疲れでしょうに、申し訳ありません」
   「いえ、力仕事は慣れていますから」
   「お仕事は?」
   「米屋の番頭でした」
   「お止めになりはったのですか?」
   「ええ、まあ、商いの都で勉強したいと思いまして… 」
   「偶然だすなあ、お嬢様のお家も米屋ですねん」

 人通りが目立ってきたところで、駕籠が見つかった。娘を駕籠に乗せて勘助は娘に別れを告げた。
   「それではお達者で…」
 勘助は娘たちを見送って別れようとしたとき、初老の女が勘助の元に走り寄って来た。
   「これから行くあてはおありだすか」
 勘助に訊いた。
   「取り敢えず、旅籠(はたご)を探そうと思います」
   「それでは、ぜひ私共の店においでください、主人もお礼が言いたいと思いますので」
   「よろしいのですか? こんな見ず知らずの男を連れて帰って」
   「旦那様も、きっと喜びはると思います。ねえ、いとはん」
 初老の女は、娘の同意を求めた。 駕籠の中から、嬉しそうに、「はい」と、返事が返ってきた

 娘の店は、浪花屋という米問屋であった。使用人が十数人も居そうな大店で、初老の女の話を聞いて旦那とお家(妻)が揃って店先に出てきた。
   「娘を助けて頂いたうえに、大変ご迷惑をお掛けしましたようで、ありがとうございました」
 夫婦は丁重にお礼をいった。
   「もし、あなた様がお通りにならなかったら、娘たちはどうなっていたことやら」
 夫婦は胸を撫で下した。
   「娘の乳母に聞きましたところ、お米屋さんの番頭はんやそうで、奇遇だすなあ」
   「上方へお商売の勉強に来はったそうで、お江戸のお店の名前はなんと?」
   「はい、加賀屋でございます」
   「あれあれ、これまた奇遇だすなあ、加賀屋さんとはお米の買い付けでご一緒したことがあります」 
 勘助は、懐の書付を出して見せた。
   「加賀屋の旦那さまが持たせて下さったものです」
 浪花屋の旦那さまは、
   「ちょっと、待っておくれやす」
 と、奥の座敷に入り、紙切れを持って出てきた。
   「これは、その時に書いてくれはった加賀屋さんがある町名と略図だす」
 そのうち、江戸へ行くことがありましたら、お店に立ち寄らせてもらいますと、社交辞令のつもりで言ったら、律儀にこの紙片を渡してくれたそうである。
   「同じ字だすなあ、加賀屋さんは良い人だした」
 浪花屋の旦那は、思い出すように目を閉じていった。
   「どうただす、このお店で勉強していきはりませんか?」
 旦那は、勘助の目を見て言った。 
   「あんさんも、加賀屋さんみたいに良い人らしいので、うちは大歓迎だす」
 勘助は、この偶然を夢かと思った。

 暫くはこの家の娘、琴音(ことね)の客人として、やがて勘助の事情をすっかり聞いた浪花屋の旦那は、勘助を最初は手代から店で働いてもらおうと考えた。
   「ぜひお願いします」
 勘助は、深々と頭を下げた。

 
 江戸の米問屋加賀屋の娘お園は、越後屋の次男坊仙太郎と祝言を挙げ、仙太郎は加賀屋の入婿に納まった。染まぬ縁に隠れて涙を流す日々のお園だったが、年月と共に諦めが付いて、加賀屋の跡取りとしての自覚も芽生えていたが、仙太郎は商売など何処吹く風で放蕩に明け暮れた。そのうえ、従来から居る使用人を、一人、二人と難癖をつけては追い出し、親元越後屋の使用人を呼び寄せた。挙句は、越後屋の圧力を持って加賀屋の旦那夫婦を隠居させてボロ家に住まわせ、店の実権を我が物にしてしまった。無理矢理に隠居させられた加賀屋は、落胆のあまりに床に就いてしまった。最後に残った耕助はお園を護るべく、頑なに店に残った。仙太郎や使用人たちの嫌がらせを受ける耕助だったが、今度はお園が陰になり、日向になり耕助を護った。

 それも一年が限界だった。 耕助の些細なしくじりを咎められ、耕助もまたお払い箱になった。泣いて見送るお園に、耕助は言った。
   「兄を頼って上方へ行きます」
 言い残して旅立ったが、途中で気懸りな隠居夫婦に会っていった。
   「お園が来て面倒をみてくれるので、私たちは大丈夫」
 隠居夫婦は笑って言ったが、どこか寂しげであった。


 耕助は、上方の浪花屋の店先に立っていた。
   「勘助兄さんに、弟の耕助が江戸から来たと伝えて下さい」
 丁稚らしき少年に声を掛けた。
   「お待ちください」
 暖簾を潜って奥に入ると、勘助が飛び出して来た。
   「耕助、耕助なのか? あゝ、耕助だ。逢いたかった」
 勘助は、耕助に抱きついた。 
   「旦那さまと奥さまはお達者か? お園さんはどうして居なさる」
 矢継ぎ早に問いかける勘助に、耕助は一部始終を告げた。勘助は泣いた。芯の強い兄の、どこにこんな涙が潜んでいたのかと思う程であった。 

   「初めてお目にかかります、勘助の女房琴音です」
 さらに、旦那さん夫婦が挨拶にでて来た。 
   「浪花屋の主人だす。耕助さんは勘助さんにそっくりだすなあ」
   「あなた、そんな暢気な挨拶を交わしている場合じゃありまへんで」
 お家は、先ほどから耕助が上方へ来たいきさつを聞いていた。そのお家から、旦那もすっかり話を聞いた。 
   「越後屋が汚い商売をすることは噂に聞いて知っとりましたが、お店の乗っ取りまでしているのかいな」 
 浪花屋の旦那さんは、呆れた風であった。 
   「勘助、行っておいなはれ江戸へ」
 お前も浪花屋の跡取りだ。浪花屋の名前を出しても良い。資金は私が出すから、加賀屋を再建して来なさいと、数日間耕助を休ませたのち、旦那さまは勘助にお金を手渡した。
   「これは、とりあえずの路銀だす。勘助から預かっていた二十両と、わたしから八十両を足して百両入っています。加賀屋さんの真似ですが、書付も入れときましたよ」
 あとは、必要に応じて両替屋(今の銀行)に振込みますと、快く送り出してくれた。
   「あなた、わたしは道中足手まといになったらいけないので、後から連れの者達と追いかけます」
 琴音は、遊山の旅のように浮かれていた。初めて見るお江戸の町に、心を捉われているようすだった。


 勘助兄弟は、加賀屋の隠居宅に揃って着いた。父親の看病をしていたお園が、勘助に走り寄ろうとして思い留まった。
   「お園さんは、毎日こうして旦那様の看病に通っていなさるのですか?」
 勘助が訊いた。
   「いえ」
 遅のは、文箱から紙切れを取り出して勘助に見せた。三行半(みくだりはん)の離縁状であった。 
   「糞っ! 仙太郎のヤツめ、どこまで卑劣なのだ」 

 翌日、兄弟が加賀屋のあった場所に行ってみると、看板は越後屋に変わり、厚化粧の女が使用人を叱りつけているところだった。入り婿の分際でお園を追い出して、あの女を女将に据えたのだなと、兄弟は拳を握った。

 加賀屋の暖簾が外され、越後屋の暖簾に掛けかえられた越後屋分店の程近くに、小さな空き店舗が見つかった。勘助兄弟は取り敢えず手付を打って借受け、御上に加賀屋の再建を届け出た。主人は元加賀屋の旦那さま、現ご隠居の加賀屋幸兵衛、後見人として上方の浪花屋左右衛門とした。後見人が大店の浪花屋であり、加賀屋は小さいながらも老舗であったことから、数日後にはもう鑑札が下り、その頃には勘助の妻琴音も遅れて江戸に着いていた。

 まだお店は開業していないが、勘助と耕助は病の店主に代わり同業者へ挨拶のために米問屋の寄合の席に顔を出し、座を見渡したが仙太郎は居なかった。
 勘助は、米を買占め、値段を吊り上げ、庶民には古米を押し付け、暴利を貪る江戸の米問屋のやり口を批判した。
 越後屋朔兵衛は鼻で笑って無視しょうとしたが、店の乗っ取りの手口を突かれたときは、不快感を顕にして言った。
   「若造がなに寝言を言うか、乗っ取りとは、片腹痛いわ、傾きかかった店を、倅が婿入りして立て直したのだ」
 越後屋はそう言って嘯いた。加賀屋の名前では店を存続できないので、信用ある越後屋に名を替えたと言うのが朔兵衛の言い分だった。寄合に参加した者の大凡は大袈裟に頷いていたが、その中で何某かの心ある人は、内心では勘助の言い分に同意していた。 

   「私たちの商いのやり方に不満のある者は、商人組合から外れてもらいましょう」
 あくまでも批判をする勘助に、朔兵衛は口を荒げてそう言った。 
   「そうです、止めて貰いましょう。組合から離れたら、商いは出来なく成るでしょう」
   「若造は引っ込め、番頭如きが来る場所ではない」
   「そうだ、そうだ」
 座がざわついた。そのとき、襖が開いて恰幅の良い初老の男が入ってきた。勘助は驚いて言葉を失った。
   「はい、みなさんお邪魔をします。わては、加賀屋の後見人上方の浪花屋左右衛門でおます」
 勘助の義父だった。浪花屋といえば、暖簾分けをしたお店が、四十を下らない大老舗、誰もがその名を聞き及んでいた。
   「さっき、ここへ来る前に、勘定奉行様に会って来またけど、上方の米相場と、江戸の米相場がえろう(たいへん)かけ離れていることを話したら、驚いてはりましたわ」
 みんな黙り込んでしまった。 
   「勘定奉行の甲斐守さまとお知り合いですか?」と、意地悪げに朔兵衛。
   「いやいや、お知り合いという程のものではありまへんが…」
 浪花屋左右衛門は、甲斐守とは上方で顔見知りになった。
   「上方では、普請奉行をされていましたのやが、その折にちょくちょく進言させてもらいました」
 江戸の米相場にも進言したいことがあるので、上方へ戻る前にもう一度お会いする約束をしてきたのだと浪花屋は言って話を続けた。
   「囲碁の相手をさせられましたが、お奉行さまは強くて、歯が立ちませんでしたわ」
 どうやら、また相手をさせられそうだと、作り笑いをした。

 思い出したように、左右兵衛は勘助と耕助を見た。
   「勘助、それと耕助さん、わては、まだ加賀屋さんに会うてませんのや、これから会いに行くから案内してくれへんか」と促し
   「ほな、みなさんお喧しゅう、勘助、行こうか」 
   「はい、承知しました」
 一同は、唖然としている。ちょっと喋って、さっさと帰る左右兵衛に付いて耕助、勘助は後を追って座をはずした。

 父親と別れて、お伴の手代と琴音お付の乳母と共に琴音は加賀屋の隠居宅へ来ていた。琴音とお園は、何やら話し込みながら門口で二人の帰りと、浪花屋左右兵衛の到着を待っていた。

   「加賀屋さん、昔の約束通り浪花屋が参りましたよ」
 加賀屋幸兵衛は、布団の上に半身起き上がって浪花屋を迎えた。 
   「こんなむさ苦しいところへ、よくお出で下さいました」
   「こないむさ苦しいところへ幸兵衛さんを追い遣ったのは、何処のどいつだす」
 左右兵衛は、胸が痛む思いだった。
   「幸兵衛さんと御寮さん、待っていておくれ、耕助さんとうちの勘助が、頑張りますさかい」
 そして 「なァ」と、二人の肩を叩いて同意を求めた。 
   「懐かしいですね、左右兵衛さん。越前の丸岡藩でお会いしてからもう何年になりましょうか」
   「そうです、藩の余剰米を買い付けて、その年の不作を凌ぎましたな」 
   「そうでした」
 二人は若い頃の苦労話に話を弾ませた。
   「幸兵衛さん、この紙を見とくなはれ。あなたが、わたいに書いてくれはったものだす」
   「あゝ、これは懐かしい、これが役に立ちましたか」
   「立ちましたとも」
 年寄り二人が懐古の情に酔い痴れている間に、勘助は旅籠の手配に出かけた。     
   「わたいも行きます」と、琴音。
 耕助とお園は家に残り、奥の座敷で募る話に涙を流していた。 

 
 左右兵衛と手代が上方に戻り、一ヶ月ほど経った日、加賀屋が店を開いた。米の仕入れを妨害した越後屋だったが、勘定奉行甲斐守の気転で難なくことが運んだ。元加賀屋で働いていた使用人は、既に他の店で働いていた者を除いて呼び寄せられた。主人に復帰した幸兵衛も、生きる張り合いが出来た所為か、ぼちぼちと商いの舵をとっていた。勘助と琴音夫婦も、まだ上方へ戻らず、店の手伝いをしていた。

   「勘助、耕助、ちょっと旦那さんの寝所に来ておくれな」
 二階から降りてきたお内儀が二人に声をかけた。
   「へい、ただいま」
 手を止めて二人はトントンと二階へ上がっていった。
 そこには、旦那さまの前にお園が座っていた。
   「なあ勘助、耕助をお園の婿になって貰おうと思うのだが、どんなものだろう」
   「私は一度嫁いだ出戻りです。そんな耕助に申し訳ないことはできません」
 お園が遮った。 
   「お嬢さん、そんなことはありません。お嬢さんは騙されたのです」と耕助。
   「いやいや、騙されたのは私です、お前たちには悲しい思いをさせました、許しておくれ」
 どうせこんな事になるなら、店を捨ててもお園に無理強いするのではなかったと、幸兵衛は後悔していた。
   「お嬢さま、私はお嬢さまの婿でなくても構いません、使用人としてお傍に置いてください」
 耕助はそれで良いと思っていた。お園をお護りできたらそれで満足だったのだ。
   「耕助は、お園さんのことが好きです、旦那さまが許して下さるのですから、私達夫婦が上方へ戻るまえに、お園さんと耕助の祝言を見とう御座います」
 勘助の本心である。お園さんの気持ちを知りながら、身を引いた自分の不甲斐なさ思いを、耕助に救ってもらいたいのだ。
   「耕助さえよければ…」
 お園が先に折れた。
   「お嬢さんさえよければ…」
 惚れているくせに、気持ちを表せずにいる耕助も折れた。

 二人の祝言の日取りが決まったある日、越後屋の仙太郎が酒に酔い出刃包丁をもって加賀屋の店に怒鳴り込んできた。 
   「お園を出せ! お園はわしの嫁だ!」
 喚き散らしたうえ、店の道具を叩き壊し、止めようとした使用人二人の腕に傷を負わせ、奥から飛び出して来た勘助に取り押さえられた。手代を番所まで走らせ、同心が岡引き連れてすっ飛んで来た。やがて、医者を呼び、傷を負った使用人の手当をして貰った。仙太郎は、同心に引かれて奉行所に連れていかれた。

   「加賀屋さん、この通りです。どうか訴えを取り下げて下さい」
 店先で懇願するのであった。加賀屋の旦那に代わって、勘助が対応した。 
   「加賀屋の旦那さまと相談したのですが、それには一つ条件があります」
   「なんなりと…」
   「加賀屋さんから奪った、もと加賀屋さんの店の権利書を返して下さい」
   「わかった、越後屋の店の者も引き揚げさせましょう」

 もとのお鞘に収まった加賀屋では、お園と耕助の祝言が行われていた。幸兵衛と内儀は、もとの古巣へ戻った嬉しさと、幸せそうなお園の姿を見て泣いていた。

 高砂や この浦船に 帆を上げて 月もろともに 入り潮の 波の淡路の 島影や 近く鳴尾の 沖すぎて はや住之江に 着きにけり

 今や謡の真最中に、飛脚便が届いた。上方の浪花屋からである。そこには、浪花屋左右兵衛の字で、
   「勘助、琴音、はよう帰ってきて、商いに精を出しておくれ。わし、もうあかん、死にそうや」
 上方から江戸まで、男の足でも十五日はかかる。飛脚便は五日もあれば届くが、容態を問い合わせても往復で十日は掛る。これはどうしても帰るしかない
   「こんなん嘘だっせ、ほっといたらええのや、なあ」
 乳母に同意を求める琴音。乳母も笑っていた。
   「それでも、心配です」
 勘助は、やはりすぐに帰ることにした。 
 
 加賀屋幸兵衛、耕助、ほか、店の者全員が揃って勘助夫婦と乳母を見送った。 
   「帰ったら、早速様子を知らせておくれ」
 すっかり元気を取り戻した幸兵衛が言った。
   「私も頑張りますから、お兄さんも…」 耕助。
   「お達者でね」 お内儀。
   「私達も、きっと上方へ行かせてもらいますからね」 とお園。


 やはり、手紙は嘘だった。元気すぎるくらい元気な左右兵衛が二人を迎えた。 
   「千両くらいは送れというのかと思うりましたが、あの百両で間におうたのか?」
 勘助が何も言わなくても、琴音が一部始終をペラペラ喋っていた。左右兵衛は、面白そうに、
   「そうか、それからどうした」
 にこにこしながら飽きることなく聞いていた。

 (勘助の復讐 終)

猫爺の短編小説「二代目の恩返し」 3/3 ご隠居の縁結び

2015-03-18 | 短編小説
 留吉がクビになって半年が過ぎた。ある日、突然留吉が隠居住まいの親旦那を訪ねてきた。

  「ご隠居様、ご無沙汰しておりました、留吉でおます」 
 女中の おさき がパタパタっと縁先へ出てきた。
  「あれまぁ何どす留吉さん、こんなところから…、胸張って表から入っておいでなはらんか」
  「いえいえ、クビになった者が、胸を張れません」
 白根屋の隠居も女中のおさきに少し遅れて顔を出した。
  「ああ、留吉やないか、ええところへ来てくれました」
 留吉の顔を懐かしげに見て、笑顔で迎えてくれた。
  「お店の手代に、勇吉のところまで行ってもらおうかと思っていたところだす」
  「どんな御用です?」
  「勇吉に手紙を届けようと思いまして」
  「それは、ようございました、留吉が持って帰りましょう」
  「ところで、今日は何の用で来ましたのかな」
  「秋も深まりましたので、ご隠居様に叔父(勇吉)が焼いた炭をお届けするようにと言い付かって、馬の背に四俵積んでお持ちしました」
  「ああそうかそうか、それはありがとう、大切に使わせてもらいます」
 隠居は、吉野の方角に向いて「おおきに」と、手を合わせた。
  「勇吉が焼いた炭やと思えば、今年の冬は心も温かくなりそうや」
 そして留吉の方に向きを変えた。
  「遠いところをご苦労でしたな」
 隠居は留吉を労ってから、少し声を落として言った。
  「実は、留吉にお店に戻って貰おうと思うてな」
  「えっ、そんなことをしたら京屋の旦那さんがねじ込んでくるのと違いますか」
  「さあ、そこや」
  「どこです?」
  「探しなはんな、お前と漫才やっている場合やあらへん」
 クビにした留吉を、使用人として戻すことは出来ない。そこでお篠の婿養子として戻って貰おうと考えたのだ。このことは、留吉が吉野に戻って間もなく、お篠と約束したことらしい。お篠は、留吉と別れて初めて留吉に惚れていることに気付いたという。
  「いじらしいやないか、お篠は毎月ここへ来て、『留吉はまだか』とせっついていますのや」 
 しまいには、お篠が独りで留吉のところへ行くと言い出したそうである。
  「それで留吉、お前はお篠のことをどう思っていますのや?」
  「使用人がお店のお嬢さんを好きになったらあかんと、自分に言い聞かせておりました」
  「お篠のことは好きか?」
  「恐れ多いことですけど、好きです」

 商売人にとって師走は大忙しの月である。「年が明けたら」と前置きをして、隠居は言った。
  「勇吉と一緒にお店に来ておくれ、出来たらさくらさんや留吉のご両親もいっしょにな」
  「ご隠居様、留吉には不安があります、こんなわたしが養子に入って良いものでしょうか」
  「わしの目に狂いはありまへん。留吉は若旦那として立派にやっていけます」
  「京屋さんや、旦那様が怒らはると思いますが」
  「留吉、よう考えてみいや。お前さんは何も悪いことをしてないのやで」
  「京屋の別宅に押し入りました」
  「あれは、お篠を助ける為や」
 隠居には、留吉が勘蔵に手出しなどしていないことは番頭から聞いて承知だった。 
  「京屋さんと九兵衛のことは、わしに任せておきなはれ」
 こぶしでポンと胸を叩き、コホンと噎(む)せた。
  「おまはんには、このわしと、お篠と、御寮(ごりょん)が付とります、どんと構えていなはれ」
 九兵衛に意地悪く何を言われても、留吉は留吉の思うように堂々と九兵衛と渡り合って欲しいと願う隠居であった。またも声を潜めて留吉の耳元で言った。
  「ほんまのところは九兵衛やのうて、勇吉に養子になって欲しかったのや」
 一世代飛び越えてしまったが、勇吉の二代目が来てくれて本当に良かったと、隠居は満足げに笑った。
  「年が明けたら、また逢いましょな」
 隠居は留吉を見送った。女中のおさきが、留吉に包みを渡した。
  「途中でお腹が空きやしたら、これを食べておくれやす」 
 急ごしらえの塩むすびだった。 


 数日後、白根屋の隠居は、京屋を訪ねていた。 
  「半年前にクビにした留吉を、白根屋の婿養子にしようと思っていますのや」
  「あいつは、うちの倅を殴った無法者でおます、あの時はあんたがクビにしたというから奉行所に訴えもせずに見逃したのや、それを何ということを…」
 京屋の旦那は、顔を真っ赤にして怒りだした。
  「ちょっと待っておくれやす。奉行所に訴えもせずに見逃したのは、こっちの方でおます」
 あの時の真実は、勘蔵がお篠をかどわかし、勘蔵を育てた女中が住む別宅に連れ込み、落花狼藉を働こうとしたところへ留吉が助けに入ったことを話した。しかも、殴りかかったのは勘蔵の方で、留吉が避(よ)けると勘蔵が自分でひっくりかえって壁に頭をぶつけたのだと説明し、京屋の女中と白根屋の番頭が目撃していたことを付け足した。
 あのとき、奉行所に訴えなかったのは、かどわかしが重い罪であることを考えて、すべて留吉の所為にしてクビにしたのだった。 
  「わしは、京屋さんの暖簾に傷つけないように考えて留吉を悪者にしたのでおます」
  「そんな作り話には騙されまへんで」
  「作り話かどうか京屋さんが自分の耳で町の噂を聞いたらどうだす」
 京屋の旦那も、勘蔵がお店の金を勝手に持ち出していることも、放蕩三昧に明け暮れている噂も聞かない訳ではなかった。ただ、頑なに心を閉じて受け入れようとしなかったのだ。 
  「倅に弱いのは世間の父親の常でおます、そやけど甘えさせてはいけまへん」
 勘蔵の素行が悪いのは、本人の所為ばかりではない。周りの者の腫れ物に触ろうとしない態度にも原因があるのではないかと、つい説教染みたことを口にしてしまった。
  「少し言い過ぎたかな?」
 密かに反省する白根屋の隠居であった。 
  「そやなァ、白根屋さんのいう通りかも知れまへん」
 頑なな京屋が、態度を和らげた瞬間であった。 
  「わしは、これ以上、京屋さんに逆らうような真似はせえしまへん」
 どうか判って欲しい。それが京屋さんの為でも、白根屋の為でもあるのと違うだろうかと訴えて、その心が少しは京屋に伝わったような手応えを隠居は感じていた。


 今朝早くから、白根屋のお店に隠居が来ていた。奥座敷にお篠の父九兵衛を「話がある」と呼びつけて正座をさせ、自分も正座して襟をただし座卓を挟んで向き合った。
  「実は、お篠の婿取りの話だすが…」
  「なんぼ親旦那さんの命令でもあきまへん、お篠の婿は、わたいが選びます」
  「さあ、それや、おまえを信じたいのはやまやまだすけど、おまえはあの京屋の放蕩息子をお篠の婿に押し付けようとしたやないかい」
  「勘蔵さんは、大店のなかぼん(次男)だす、お篠の婿に来てもらえばお店に箔が付くというものと違いますか」
  「おまはん、まだそんなことを言うてますのか、あのぼんは放蕩が過ぎて、とうとう勘当されたというやないか」
  「えっ、本当だすか?」
  「嘘や思うたら、今から京屋さんへ行って確かめてきなはれ」 
 九兵衛は、手を二つ叩いて手代を呼び、
  「御寮(ごりょん)にここへ来てもらうように」と、言い付けた。 

  「京屋の勘蔵さんが、勘当になったのやて?」
  「そうだすがな、今朝も番頭はん達がその噂で持ちきりだした」
  「そんな大事な話を、何でわたいに内緒にしていますのや」
 九兵衛が、拗ねたように言った。
  「あほらし、誰も内緒にしていますかいな、あんたはんが朝から帳簿とにらめっこして、店の者の話を聞いてないだけやおまへんか」
 夫婦喧嘩が始まるまえに、隠居が話を逸らした。
  「京屋の旦那も本心やのうて、勘蔵さんの放蕩ぶりが目に余るので灸を据えたのでっしゃろ」
 隠居は、京屋の気持ちを察していた。
  「勘蔵さんの婿入りの件は、京屋さんも納得づくで白紙に戻したさかいそのつもりでな」
 御寮が話に割り込んだ。
  「あの勘蔵さんをお篠の婿に迎えなくて宜しおましたなぁ、うちは京屋さん程も大店(おおだな)やないさかいに、一年で勘蔵さんに潰されていました」
 御寮は、九兵衛に向かって皮肉を込めて言った。九兵衛は、項垂れて押し黙っていた。
  「ところで九兵衛どん、お前さんがこの御寮と好き合って一緒になりたいと言って来たとき、わしは一言も反対せなんだ」
 それは、当時の店主として番頭の九兵衛を、店を立派に継いでくれると見込んだからであると打ち明けた。留吉も然り、「わしの目に狂いはおまへん」暗に隠居はそう言いたかったのだ。
  「年が開けると、留吉を呼び寄せますが、九兵衛どんは宜しおますな」
  「へえ」
 渋々の返答である。
  「御寮はどうだす」
  「へえ、宜しおます、けど留吉はまだ半人前だす、あくまでも使用人として戻します」
  「そりゃそうだす、九兵衛どん、よく商いの手解きをしてやっておくれ」
  「へえ、分かっておりま」
  「けど、言っておくが、しごきや虐めはあきまへんで、しごきや虐めで人は伸びしまへん」
 
 年が明け、白根屋の隠居は留吉とお篠の縁組話を持ってお店にやってきた。そしてこのさい祝言も挙げてしまおうと呼ばれて勇吉夫婦と留吉が船場のお店(たな)にやってきた。留吉の両親は、幼児の留吉を手離したのに、こんな目出度い時だけに顔を出すなんて気が引けると辞退した。 
  「そうだすか、ではそのうちにわしがご両親に逢いに行きましょう」
 どこまでも穏やかな隠居である。
  「その節は、わたいがお伴します」
 九兵衛は、すっかり我が折れていた。
  「さくらさんは、相変わらず別嬪さんだすなあ」
 隠居は、世辞ではなく本心を言ったのだが、さくらは世辞だと笑った。
  「まあ、そんな妖怪みたいに仰らないでください、もう、こんなにお婆ちゃんになっていますのに」
 座敷に笑いが起こった。

 近江の里で陶芸師の手伝いをしていた留吉の次兄寛太が吉野に戻り、勇吉のところで登り窯を造る手伝いをしながら、普段使いの食器を焼いていることや、手先の器用な勇吉が悪戯半分に作った茶器を、京の有名な茶道家が「面白い」と、高く買ってくれたことなど、勇吉の土産話は夕暮れが迫っても尽きることはなかった。ただ隠居は、お篠が嬉々として留吉の世話をやいているのが少しばかり気がかりだった。 
  「これお篠、留吉を甘やかしたらあきまへんで、尻に敷く位が宜しおます」
 年寄りの懸念であろう。

  「さあ、これからが本腰を入れて、叔父勇吉に変わって恩返しをするぞ」
 留吉の決心を知ってか知らずか、勇吉は無邪気に喋り続けている。


    -終-   (原稿用紙14枚相当 1/3-3/3 合計43枚)

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猫爺の短編小説「二代目の恩返し」  2/3 お篠危機一髪

2015-03-17 | 短編小説

 白根屋は代替わりした。先の旦那様には嫡男が居なかったので、ご隠居の長女と夫婦になっていた一番番頭の九兵衛が、この度家督を継いだのだ。先の旦那様は妻を亡くして独り者だったので、女中のおさきと共に別宅に移り隠居生活をしている。 

   「親旦那さん、おはようございます。留吉でおます」 
   「ああ、留吉か。今朝は何を持ってきてくれたんや」
   「親旦那さんのお好きな鯛の一夜干しが手に入りましたので、御寮(ごりょん)さんが親旦那さんにお持ちして言うて…」
   「ほら(それは)ご馳走やなぁ ご苦労さんやった」
 おさきに命じてお茶とお菓子をもって来させ、
   「ゆっくりして、留吉の叔父勇吉と女房のさくらさんの話などを聞かせておくれ」
  と、懐かしそうにいった。 
   「つい最近、実父(ちち)がお店へご挨拶に来ましたので、その時に尋ねましたら、叔父は元気に炭焼きをしているそうでした。ただ…」
   「おや、ただどうしなさったのじゃ」
   「叔父の面倒をみて下さった、炭焼きのお爺さんが亡くなられたそうでした」
   「そうやったか…、そやけど、勇吉夫婦に看取られて幸せやったやろ」
   「お爺さんは独り身でしたから、村長(むらおさ)の前で炭焼き釜を叔父勇吉に譲ると言い残して亡くなったそうです」
  留吉は続けた。
   「他人の自分が貰う訳にはいかない、せめて買い取りたいと叔父はお爺さんの身内を探しているそうです」
   「えらい律儀や、そこが勇吉の良いところや」
   「あんまり長居しては、旦那様に叱られます」
 留吉は、もう一つお菓子を頬張ると、そそくさと帰り支度をした。
   「これっ、行儀が悪い」
 隠居は、笑って留吉を諫め、
   「今度来るときは、おさきが好きな薯蕷(じょうよ)のおまん(饅頭)を持って来てや」
 そう言って、留吉を見送った。

   
   「留吉、お爺ちゃんはお元気だしたか?」
 店先で、九兵衛の長女お篠が迎えた。
   「はい、今度来る時は、薯蕷のおまん(じょうよのまんじゅう)を持って来るようにと仰いました」
   「へえー、お爺ちゃん、いつから甘党になられたのやろか」
   「多分、おさきさんに食べさせる為ですやろ」
   「もしかしたらお爺さん、おさきさんと一緒になる積もりやないやろな」
   「そら、男と女やもん、分かりませんよ」
 留吉はそう言ってニヤリと笑った。
   「あほっ、三十も歳が違うのに…」
 お篠は少し考えて、もしやと思ったのか
   「えーっ、うっそー、今度行くときは、わたしが確かめに行きますさかい」
と、付け足した。

   「これっ、あんたら店先でなにを騒いでいますのや」
 御寮(九兵衛の妻・お篠の母)がのれんを掻き分けて奥から出てきた。
   「お篠は奥へ下がりなはれ、何のために店先に立っていますのや」と叱り、
   「留吉は、ご苦労さんやったな、お父はんは機嫌よくしていなさったか」
   「はい、お元気過ぎるくらいでした、それで、いとはんが親旦那さんに確かめたいことがお有りやそうで、今度は一緒に行くと仰いました」
   「そら、半時(はんとき=約1時間)もあれば行けるとこやさかい行ってもええけど、お父はんが元気すぎたら、何をお篠が確かめるのや?」
 御寮は首を傾げながら言った。
   「女中のお寅を連れていきなはれや」
 若い男と女だから監視役だなと、留吉の勘がはたらいた。

 その四日後、早朝から京菓子の店に注文しておいた出来たての薯蕷饅頭を受け取り、序に宇治茶の店で玉露を買い求め、お篠と留吉、そしてお寅の三人はお花見気分で親旦那の隠居宅へ向かった。
 こんなに遠くに隠居所を構えたのは、近くだとついお店の商いに口を挟むおそれがあると、親旦那の思慮からである。そのお蔭で、こうして息抜きが出来るというもの。留吉は内心喜んでこそすれ、決して面倒とは思わなかった。お篠と留吉が仲良く話しながら歩いているのを横目に、お寅は少々嫉妬していたかも知れない。 

   「あら、いとはん、おこしやす」
 と、女中のおさきが出迎えた。
   「留吉も、お寅も来ていますのやで」
 二人が遅れて入ってきた。
   「まあまあ、お疲れどしたなぁ、ご苦労さんどす」
 おさきは京都の出身である。声を聞きつけて、親旦那が顔をだした。
   「お爺ちゃんにお話しがあります」
   「なんや? 恐い顔して」
   「おさきさんをお嫁に迎えるって、本気だすか?」
   「なんや、そんなことかいな、それやったら本気もなにも、既に夫婦だす、なあ、おさき」
 親旦那が真顔で言ったので、おさきが吹き出し笑いして手を横に振った。
   「嘘どすえ、そんな噂がたっていますのかいな、ご隠居さんは女中に手を出すようなお方やあらしません」 
   「それよかお篠と留吉、お前たちはどうなんや、えろう仲がええそうやないか」
 意気込んでいたお篠は赤面した。
   「嫌やわぁ、誰がそんな告げ口したんや」
 満更でもなさそうなお篠であるが、返り討ちにあって来た時の気負いを無くしてしまった。留吉は二人の会話を黙って聞いていたが、お寅の冷たい視線を感じて一波乱おこりそうな予感に襲われた。


   「あきまへん、手代の分際でお篠と仲良くするなんて、わしが許しまへん!」
 白根屋の旦那九兵衛が口を荒げて言った。女中のお寅が、暖簾の陰でニタッと笑っている。どうやら、お寅が旦那に言いつけたらしい。
   「何でや、お父はん、うちらなんにも好き合っている訳やない」
   「年頃の娘と若い男や、仲よくしていたら、今に好いた、惚れたと言い出すのに決まっています」
   「なんで、うちが留吉を好きになったらあかんの」
   「留吉は使用人で、しかも手代やないか、お前の婿は老舗京屋の中坊(なかぼん=次男)と決めていますのや」
   「気色悪る。勘蔵さんですやろ、あの人酒癖と女癖が悪いと評判やないか」
   「そんなもん、婿に来て落ち着いたら治まります、おまはん(お前)次第や」
   「お母はんも、同じ意見だすのか?」
 お篠は父親に問い質した。
   「そらそうや、お店(たな)のことを考えたら、田舎もんの手代を養子にしたと世間に知れたら信用にも関わりますさかい、御寮も同じ考えだす」
   「お父はんも使用人やったくせに、それにうちをお店の信用の為にドラ息子と添すつもりだすか」
   「これ、大店のぼんをドラ息子とは、口が過ぎますやろ」
   「ほんとのことやもん」
   「お前の将来の幸せを思う親心や、この罰当たりが」

 その日、留吉は手が離せない仕事があって行けなかったが、番頭と丁稚を連れて近所の坐摩(いかすり)神社に厄除祈願に行ったお篠は、番頭たちが目を離した隙に何者かに連れ去られた。直(ただ)ちに一緒にお伴した丁稚を走らせてお店に知らせたが、旦那と御寮は狼狽するばかりであった。その時、留吉が「様子をみてきます」と、脱兎の如く駆け出していった。 

  「これは、いとはんの後(うしろ)を付けて来た賊が、隙を見てかどわかしたようです」
 番頭から事情を訊いた留吉は推理した。
  「確か、この近くに京屋のぼんを育てた乳母の住まいがあると聞きました」
 番頭に確かめると、
  「それやったら、わてが知っとります、そやけど、まさか…」
  「そのまさかに違いありません、いとはんに言い寄って、ふられた腹いせだす」
 お篠に危険か迫っていると感じた留吉は、番頭をせかして女中の住まいに急いだ。

  「ここだす」
  「では、私は裏へまわります、番頭さんは正面から女中さんに逢って下さい」
 裏へまわると「離れ」があり、そこで物音がしていた。留吉は、後のことを考える余裕はなく、いきなり離れに踏み込んだ。勘蔵がお篠を押し倒して馬乗りになったところだった。
  「 お前はだれや」
  「へい、白根屋の手代でおます」
  「こんなところへ踏み込んで、ただで済むと思うとるのか!」
  「あんさんこそ、こんなことをしてただで済むと思うてはるのですか」
  「何をぬかすか、わてはお篠さんの許嫁同然の者や」
 そこへ女中と番頭が入ってきた。勘蔵が留吉に殴りかかったのを、留吉がひょいと避けると、拳は空を切り勘蔵は半回転して壁に頭をぶつけた。女中が勘蔵に駆け寄る隙に、留吉はお篠を連れて外へ逃れた。残された番頭は、ただただ勘蔵に謝るばかりであった。

  「あゝ、よかった」と、御寮はへたへたっと腰を崩した。 
  「留吉、何があったんや」と、旦那さん。 
 気丈にも、お篠が事情を話した。
  「勘蔵さんに襲われて舌を噛み切って死のうと思うていたところへ、留吉が助けに来てくれたのや」と、ちょっと嘘も交えて一部始終を話すと「舌を噛み切って…」の件(くだり)は嘘と分かっているのか、無視して九兵衛は留吉に言った。
  「留吉、えらいことしてくれたなぁ、もう白根屋は船場でお商売をやっていけないかも知れん」
 老舗京屋の圧力を恐れたのだ。
   「あんさん、お篠はどうなってもええのだすか、お篠よりお店が大事だすか」
 御寮は、寄りかかるお篠を支えて九兵衛を詰(なじ)った。
  「とりあえず留吉、お前はクビだす、明日にでもとっとと田舎へ帰りなはれ」
  「へえ、覚悟は出来ております」
 留吉は鮮明な滑舌でいった。

 翌朝、御寮は留吉を連れて親旦那の隠居宅へ向かった。留吉はお世話になった親旦那さまにご挨拶をして、叔父勇吉のもとへ戻ろうと決心していた。

  「今朝はどうしたことや、御寮と一緒やなんて」 
 隠居が二人を迎えた。御寮から話を聞いた隠居は、
  「そうか、そんなことがあったんかいな」
 こともなげに言った。
  「留吉は手代の分際で、大店のぼんに失礼なことをしたのや。クビは仕方ない」
  「へえ、弁(わきま)えております」
  「ほんなら、今からわしが京屋さんのところへ謝りに行きますさかい、留吉はこの足で吉野へ帰りなはれ。荷物は後で送り届けさせます」
 おさきに半切り紙と文箱を持って来させて、勇吉宛てに留吉をクビにした事情をこまごまと認(したた)め、懸け紙に包んで留吉に渡した。

  「京屋さん、わしのところの手代が、とんでもないことを仕出かして申し訳のないことでおました」
 白根屋の親旦那は、土間に平伏(ひれふ)して謝罪した。 
  「手代に殴られたいうて、倅(せがれ)が大きなたんこぶを作って帰ってきましたんやで」
 京屋の旦那は怒りが冷めやらないらしく、唾(つば)を飛ばしてまくし立てた。
  「手代はクビにしたのやろな」
  「へえ、勿論でおます。今朝、田舎へ帰しました」
  「そうか、それで倅の怒りも少しは治まりますやろ」
  「それで、ひとつ京屋さんにお願いがおます」
 白根屋の親旦那は、妙に落ち着いて頭を下げた。
  「何やいな、この上お願いかいな」
  「勘蔵さんと、お篠の縁談を、婿の久兵衛が持ってきておりましたようで…」
  「はい、聞いとります」
  「こんな失態を仕出かした白根屋でおます、あの話はご辞退させてもらいます」
  「そうか、そらそうやな、わしかて気が悪い、分かりました白紙に戻しましょ」

 白根屋の旦那九兵衛は、
  「流石は親旦那様や、まるく収めてくれはった」と、胸を撫で下ろした。
 お篠は、むくれている。
  「留吉は悪くないのに、なんでクビにしたんや」
 暫くは荒れていたが、やがて忘れてしまったのか、留吉のことは何も言わなくなった。留吉も叔父勇吉の炭焼き小屋で、理不尽にお店をクビになったことを恨む様子でもなく、大人しく炭焼きの手伝いをして半年が過ぎた。

   -続く-  (原稿用紙16枚)

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猫爺の短編小説「「二代目の恩返し」」 1/3 霧島太夫

2015-03-16 | 短編小説
 大和の国吉野生まれの勇吉は、大坂船場の呉服問屋「白根屋」の手代である。農家の次男であったため、十歳の時に丁稚奉公に上がった。他の丁稚よりも少し早く十六歳で平手代になれたのは、頭がよくて男振りが良く、独学で既に読み、書き、算盤を習得していたからである。そのうえ、真面目で客受けも良く、店主の信頼が厚かった。 
 こうなると、番頭や他の手代に妬まれて虐めを受けそうに思われるが、人が嫌がる仕事を進んで引き受けるので、結構好かれて可愛がられていたようである。

 ある日、番頭達に連れられて勇吉は初めて遊郭へ行った。これが勇吉の運命を狂わせてしまったのである。たまたま遊女の霧島太夫が、お大尽(だいじん)の出迎えの為に姿を現したところに出くわし、その太夫の天女と見紛(みまが)うばかりの美しさに、身も心も奪われてしまったのだ。
 太夫とは、花のお江戸吉原では花魁(おいらん)と呼ばれる位の高い遊女で、客はお大尽か大名しかとらず、気が向かないとお大尽や大名さえも座敷に通さなかった。白根屋の番頭の言うには「勇吉のような若造が十両持っていっても、逢ってさえもくれない」そうである。

 高嶺の花とは、このことだろうと勇吉は思った。手の届かない世界の女だと、自分に言い聞かせるのだが、言い聞かせても、美しい霧島太夫の姿が瞼に浮かび、次第に仕事が手に着かなくなっていった。これが、世に言う「恋」というものなのか。恋とは、こんなにも狂おしく切ないものなのかと、生きていることすら煩わしくなる十六歳の勇吉であった。

  「だんさん(旦那さん)、昼に掛取りに行った勇吉がまだ帰って来ません」
 一番番頭(いちばんばんとう)が舌打ちを一つして店主に告げた。
  「手代に見に行かせましたのやが、先様のお店(たな)はとっくに出たそうでおます」
  「もう、暮れの刻というのに、どないしたのやろなぁ」
 大金を持っているので、強盗(がんどう)に襲われでもしていなければ良いがと、店主は気が気ではなかった。勇吉は翌朝になっても帰ってこなかった。
 
  「誰ぞ、付けてやればよかったが、勇吉はしっかり者なのでつい一人で行かせてしまった」
 殺されて淀川へでも投げ込まれたのではないだろうかと心配が募り、とりあえず行方知れずと奉行所へ届けることにした。

 その頃、勇吉は郭を出て朝焼けの町なかを自分の犯した罪に恐れ戦きながらさまよい歩いていた。大恩あるお店に背いて、大それたことをしてしまった。勇吉は、十両の大金に手を付けてしまったのだ。しかし、後悔はしていなかった。霧島太夫が、こんな若造に情けをかけてくれたのだ。もう、死んでも構わない。「十両盗めば首が飛ぶ」と御定書にある時代だ。その十両をお店に無断で使ってしまったのだから、当然死罪(斬首)である。勇吉は、自分でも意外に思う程さばさばした気持ちで、意を決し自訴するために奉行所に向かった。

  「白根屋、そちが受けた損害は如何ほどじゃ。ありていに申してみよ」
 お白洲に平伏す白根屋に向かって、お奉行は大仰に言った。 
  「はい、九両でござります」
  「左様か、これ勇吉それに相違ないか?」
 勇吉は驚いて旦那様に視線を向けた。旦那様は勇吉の視線を受け止め、「十両とは言うな」とばかりに首を小さく振った。これは旦那様の気転で、勇吉が「いいえ、十両です」と言ってしまえば死罪になるからだと勇吉は悟った。

 勇吉は奉行のお裁きを聞きながら、旦那様の温情に涙した。お裁きは五年の遠島(島流し)であった。御上(おかみ)の縄目を頂戴して、振り返り振り返り引き立てられて行く勇吉に、
  「五年経てばご赦免になるのやさかい頑張るのやで」
 旦那様はそう呟いていた。

 島での勇吉は、模範囚であった。その所為もあってか、四年半でご赦免になり娑婆に戻ってきた。真っ先に白根屋のお店に立ち寄った勇吉は、土下座をして罪を詫び、「何年かかっても、必ずお返し致します」と、旦那様に誓った。
  「お店に戻らないか?」
 旦那は勇吉に情けをかけた。
  「腕に入れ墨がある身で、お店には戻れません」
 勇吉はきっぱりと辞退した。
  「故郷の山に戻って炭焼きで生きてゆきます」
 そう言い残して、勇吉は去って行った。
 昔、故郷吉野の山奥で独り炭焼きをしていた爺さんを思い出し、頼ってみようと考えたのだ。

 勇吉は、その足で郭(くるわ)に向かった。霧島太夫に逢うことは出来ないが、せめて隆盛(りゅうせい)を極めているだろう太夫の噂を聞いて帰りたいと思ったのだ。寂しい生涯の思い出にしようと…。 

 ところが意に反して、霧島太夫の憐れな噂を聞かされたのであった。太夫は不治の病の労咳(ろうがい)に倒れ、郭を追い出されて置屋からの食事の差し入れを頼りに、独りさびしく長屋暮らしをしているようであった。 

 勇吉は、置屋で教えられた太夫の住まいに行った。
  「太夫、霧島太夫はおいでになりますか?」
 暫く声をかけ続けると、か細い声で返事があった。
  「わっちを霧島太夫と呼ぶのは、どなたでありんすかいなぁ」
 障子戸を開けると、薄暗い部屋で独り寝ていた太夫が、上半身を起して言った。
  「太夫は覚えていないでしょうが、たった一度だけ太夫のお座敷に上がった若造です」
  「ああ、思い出したでありんす。お店の金子(きんす)を使い込んで遠島になった白根屋の手代さんでおしたな」
 太夫は、顔立ちのよい澄んだ目の少年を忘れてはいなかった。
  「そうです。勇吉と申します、覚えていて下さって嬉しいです」

 太夫時代の霧島とは打って変って、痩せこけて落ちぶれ果てた霧島がここにあった。勇吉の目から涙が溢れ、思わず霧島の手を握り締めていた。太夫は慌てて勇吉の手を振り払った。
  「わっちに触れてはいけんせん」
 自分の病はうつる恐れがあるためと、気遣ったのだ。
  「太夫にお願いがあります」
 自分の里へ一緒に行って貰いたいと思ったのだ。
  「わっちは、この通り先の知れた病人でありんす」
 この長屋で独り死んでゆくのは寂しいかぎりではあるが、遠くまで歩いて行ける体力も気力も無かった。
  「私が背負って連れていきます」
 お座敷に通された時とは違って、島で力仕事をしていた所為で、勇吉はもう二十才の頑強な男である。 
  「それに、私の里には、太夫の病によく効く温泉があります」
 勇吉は、畳におでこを擦り付けて頼んだが、太夫は頑なに辞退した。
  「こんなわっちでよいのなら」
 と、太夫が漸く折れたのは、勇吉が半日もねばった後であった。

 山でも勇吉はよく働いた。炭焼きの爺には、重いものを持たせてなるかと労り尽くした。町へ炭を売りに行くのは勇吉一人の仕事になった。そのうち馬を手に入れ、売り上げが伸びていった。霧島の食事や身の回りのこともこまごまと世話をした。ほとんど毎日、温泉に連れて行くことも忘れなかった。霧島の病、労咳とは肺結核のことである。硫黄温泉は、現在のサルファ剤に繋がるものがあるのかも知れない。霧島は見る見る元気をとりもどし、喀血することはなくなっていた。

 ある日、勇吉は霧島に平伏して言った。 
  「太夫、どうか私の妻になって下さい」
 霧島も、もう辞退する理由はなく、炭焼きの爺を招いて、ささやかに祝言を挙げた。妻から太夫と呼ぶことを禁じられた勇吉は、太夫の本名である「さくら」と呼ばされた。花魁言葉に隠して方言は出さかったが、さくらは薩摩の出身であった。怒ると時折出る鹿児島訛りが、勇吉の耳には新鮮で心地よく響いた。
 炭焼きの爺が羨むほど夫婦は仲睦まじかったが、勇吉夫婦は子供に恵まれなかった。折しも、勇吉の兄が来て、男の子をひとり引き取って育ててくれないかと頼まれた。兄の三男「留吉」は、三歳である。誰よりも、妻のさくらが喜んだ。自分には子供が産めないと諦めていたので、思いがけず子育てができるのが嬉しかったのだ。
 農家の次男、三男は、いずれ生家を出る運命にある。留吉は早すぎるが、それも彼の運命であろう。不憫と思う分、大切に育ててやろうと決意する勇吉であった。


  「留吉は、独りで参ります」
 まだ十歳の、幼さが残る留吉であったが、白根屋の旦那様に望まれてお店に奉公することになった。思い返せば、勇吉が奉公に出たのがやはり十歳であった。勇吉もまた、独りで浪速の白根屋まで歩いて行った。 

  「留吉、よく来ましたな」
 旦那は、笑顔で迎えてくれた。
  「旦那様のお言葉に甘えて、ご厄介になりに参りました」
 キビキビとした態度で挨拶をする留吉に、勇吉が奉公に来た時のことが旦那様の脳裏に懐かしく蘇るのであった。 
  「勇吉は付いてきてくれなかったのか?」
  「わたしが断りました」
 この頃には、勇吉もお店に与えた損害を償い終え、高かった敷居も少しは低くなっていた。
  「一生懸命働いて、叔父の分も恩返しできるように頑張ります」

 留吉は、望まれて後に女系家族であった白根家の孫娘の婿養子に入り、やがてお店を継ぐことになるのだが、この時点ではだれも想像だにしなかった。

 やはり叔父勇吉と同じく十六歳で平手代になっていた留吉に、旦那様は掛取りを任せた。しかし、丁稚一人付けることを忘れなかった。 
  「もし何かあったら、飛んで帰ってきて知らせるのやで」
 丁稚にはそう言い聞かせてあった。 
  「留吉、変なところへ行ったら承知しませんよ」
 留吉と同い年の孫娘お篠も、出かける留吉の背越しに声を掛けた。

   -続く-  (原稿用紙13枚)

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