夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

戦争が戦争を生むのは分かっている。でも

2009年05月04日 | 社会問題
 後藤田正晴さんの「戦争は双方にとって破滅の結果しかもたらさない」との信念をきのうの東京新聞のコラムが採り上げている。そして、核武装論まで飛び出す最近の防衛論議を後藤田さんが聞いたら、烈火の如く怒るに違いない、と言う。
 言っている事はよく分かる。戦争が何物をも生み出さない事、悪循環で果てしが無い事は、誰もが見て知っている。世界中で戦争をしているんだから、ニュースを見ていれば分かる。
 それなのに、何で戦争なんかしているんだ? 戦争をせずにはいられないからだ。人間性がそれほど下劣だからだ。これはいたちごっこ。相手が下劣だから、こちらだけが上等であっても意味が無い。その相手は、自分こそ上等で、相手が下劣だと思っている。お互いを認め合い、信頼し合わない限り、平等の世の中なんか出来はしない。まずは自分を無にする事から始めなければどうにもならない。自分が上等なら、相手が無になっているのを認める事が出来る。だから自分もまた無になれる。
 そんな事、今更、ここで言う事も無い。誰だって知っている。だが、知っていて実行出来ない。それが現在の人間なのである。

 いつも淡々としている良寛さんを、ある船頭が疑った。あれは仮の姿に違いないと。そこで、良寛さんが船に乗った時、わざと船を揺すって良寛さんを川の中に落とした。さぞかし慌てると思いきや、良寛さんは助けも求めず、悠々と流れに任せて流れて行くではないか。
 今度は船頭が慌てる番だ。大急ぎで良寛さんを救い上げた。すると良寛さんは「助けて下さって有り難う」とお礼を言って何も無かったようの顔をしている。何事もみ仏の心のままに、が良寛さんの信条だった。船頭が心を入れ替えたのは言うまでも無い。

 地球上の誰もが良寛さんのようであったら、後藤田氏の言う事は正しい。そうあるべきだ、と思っても、そうではないのが現実である。理想を求めて軍備を縮小するのは正当な行き方であろう。しかしそれにはどの国も同一歩調を取って、同じような理想を追求するのだ、との前提が必要だ。それは一体どうしたら実現出来るのか。自分の国が率先してそれをやろう、と言うのも一つの方法ではある。しかしそのせいで、他国の侵略を受けたりしては元も子も無いではないか。
 個人レベルでの話なら、それはそれで、ああ馬鹿を見た、で済む。しかし国のレベルになったら、そんな事は言っていられない。多くの国民が犠牲なってしまう。
 日本の軍事力を侮り、平和論者が多数を占めているのを良い事に、北朝鮮が多くの日本人を拉致して恥じない。そうした事実を眼前に突きつけられていてもまだ、我々日本人のいわゆる良識派の人々は気付かない。あんた一人が犠牲になるのは構わない。だが、多くの日本人が犠牲になるのは許せない。多分、自分がその犠牲者じゃないから、能天気なんだろうね。

 人間はこの何千年もの間、少しも進歩していない。ギリシアとトロイのいわゆるトロイ戦争は何と10年も続いたのである。それと同じ事をアメリカはベトナムでやった。そして今もなお、世界の様々な地域で戦争をしている。
 コンピューターを駆使し、車を乗り回していたって、その実、人間性の愚かさは昔からちっとも変わっていない。
 コラムには後藤田氏の言葉が「強烈な一言」として引用されている。
 「武力で他民族をいつまでも支配できたためしがありますか」
 確かに「いつまでも」は無い。けれども取っ替え引っ替え支配できたためしはある。そして、「いつまでも」は無いとしても、侵略された民族は一体「いつまで」辛抱すれば良いと言うのか。更には、その辛抱が終わったと思ったら、今度はまた別の辛抱が始まる危険性はある。

 美しい言葉、正しい言葉を大切に思うのはいい。しかしその美しさ、正しさがちゃんと実現出来てこそ、その言葉は意味を持つ。正しい言葉を大切にしよう、と言うのなら、今この瞬間からあなたはそれを始めるべきだ。戦争放棄なら、今からあなたは他の誰とも争わない不退転の覚悟をすべきである。たとえ相手が理不尽であっても、正当なる手続きでそれを解決すべく努力をし、決して品の無い言い争いなどをしてはならない。こちらの無私の真心を相手に分からせる事で多分、相手も無私となり、理不尽を撤回するのだろうから。物事はすべて一人一人から始まる。
 こうした私の考え方は無謀だろうか。とんでもない言いがかりだろうか。