夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

雪かきで、住んでいる人の心が分かる

2012年01月25日 | 暮らし
 おとといの雪は東京でも積もった。昨日の夕方にはほとんどの所で雪は残っていなかったが、今朝になっても、まだ残っている所には残っていた。今朝、私の自転車の前に、後ろに女の子を乗せた若い母親が走っていた。そこは一車線の車道で、タイヤの跡だけを残して、所々に盛大に雪が残っている。そこは雪かきをした訳ではないから、タイヤの跡も踏み固められているだけで、凍っていて危ない。そして母親の自転車が転倒した。私は急ブレーキを掛けたので、危うく転んでしまう所だった。私は後ろに重い荷物を積んでいたから、簡単にひっくり返ってしまう。

 ほとんどの家や店が自分の所の前の雪かきをしている。しかしその雪かきの仕方が問題だ。間口の狭い家は雪かきもそう大変ではないだろうが、間口の広い家が大変らしい。そこで、出入り口の前だけの雪かきをして、後はほったらかしにしている家が多い。
 それは商店でも大きなマンションでも同じである。大変なのは分かるが、特に商店なら、大事な客も通るのである。マンションなら管理人が居るだろう。そして、私が問題だと思っているのは、そうした家が道の南側に建っていれば、北側の道路は日陰になって、なかなか雪が溶けない。日陰を作り出しているのは自分達なのだから、日陰になっている部分の雪かきをして当然だと思う。すぐ前に道路があって、彼等は十分便利な思いをしているはずなのである。

 昨年の大雪の時だったが、交差点の角にある大手コンビニが自分の店の前の雪かきを全くしていなかった。そこは学童の通学路にもなっている。大きな変則交差点で、交差点の中が広いので、そのコンビニの前に平気で買い物客が駐車してしまう。横断歩道を渡るのに、視界が遮られて危なくてしょうがない。そこで、私は警察署にお願いをした。そうしたら、駐停車禁止(当たり前なのだが)の看板を出してくれて、「警視庁」の名前入りのコーンも提供してくれた。だから私達は、通学の時だけ、そのコーンを出して車が駐車するのを規制している。
 そのコンビニはそうした迷惑な車での買い物客も対象にしているのだから、当然に店の前の雪かきをすべきなのだ。
 あまりにも自分の事しか考えていない店なので、私はその店で絶対に買い物はしない。チェーン店だから、多分、そうした方針は他の店でも共通しているのだろうと思って、そのコンビニの他の店も絶対に利用していない。

 家の前に道路があって、迷惑もするだろうが、便利さもあるはずなのだから、大変だろうが、自分の家の前は自分で雪かきをすべきではないか、と思う。老人だけだったりして手が足りない家もあるのだろうが、そこは日頃からのご近所のお付き合いがある。そうしたお付き合いがきちんと出来ていれば、隣の家が手を貸してくれるはずである。
 雪かきの仕方で、住人の心が分かってしまう、と私は思っている。だから私ならみっともなくて、ほったらかしになどして置かない。たとえ面倒だなあ、が本心でも、そうした本心は見せないようにする。

物は大切に使いたい

2012年01月22日 | 暮らし
 デジタル対応をしていなかったので、私の仕事場と息子の部屋のテレビは見られなくなった。居間のテレビは見られるからあまり不都合は感じていなかった。仕事をしながらテレビを見ると、どちらかがお留守になってしまう。それにそれほど見たい番組も無い。
 ある量販店で前からデジタルチューナーを売っているのは知っていた。でもどうせならデジタルテレビに買い替えたいとも思っていた。それで買わなかった。けれども息子がデジタルテレビを買って、アナログテレビを捨てる事になった。それで私がそれを貰い受けた。何しろ、私のテレビは1986年製だったのだ。息子が「うちは骨董屋か」と言うくらい、私は古い製品を使い続けているのである。ほとんど使ってはいないが、ソニー製のβのビデオデッキも健在である。オープンリールのデッキも健在である。

 私としては新しいと言えるアナログテレビが来たのを機会にデジタルチューナーを買った。ビデオクリーナーをほんのわずかに大きくしたくらいの大きさでデジタルのBS放送も見られる。画面が小さい事もあるのだろうが、画質に不満は無い。
 ただ、アナログチューナーしか内蔵していないDVDの録画機の接続が出来ていないので、それが宿題になっている。
 8000円ちょっとでデジタルテレビが見られるのだから、物は使いようである。昔はもっと物を大切にしていたはずである。

人の心は簡単に分かってしまう

2012年01月14日 | 暮らし
 とても詰まらない話をする。私は仕事が無くて、仕方なく夜間の掃除の仕事をしている。霞ヶ関にあるビルの一流会社を担当している。その会社では毎年仕事始めの4日に社員全員に樽酒が振る舞われる。こもかぶりの大きな樽が二つ。お祝いだから、たくさんは飲まない。それでたっぷりと残った樽が二つとも我々に「お下げ渡し」になる。それを20名のスタッフで頂く。現場監督の女性がペットボトルに詰めて5日に我々にくれる。

 ところが、今年は私が出勤すると、ほんのわずか前に監督の女性は帰ってしまっていて、私はその酒をもらえなかった。楽しみにしているだけに本心がっかりした。多分、新年会などがあって急いで帰ってのだろうが、その時間帯に出勤するのは私一人しか居ないのだから、机の上に、私宛のメッセージを付けてボトルを置いておけば、それで用が足りる。そして彼女の机の下を見ると、そこには大きなペットボトルに入った樽酒が置いてある。色で、それが樽酒だと分かる。私は能天気に、そうか、これは私用なのだな、などと考えていた。それに、その会社の担当は、私なのである。

 そして翌日、やはり彼女は先に帰ってしまっている。いつもは私の顔を見て、あなたが来たから帰るとするか、と言って帰るのに、二日間も早帰りである。そして机の下を見ると、何と、ペットボトルは消えていた。
 そうか、私にはくれないつもりなんだな、と思って、不愉快になった。何しろ7、8、9と三日連休なのである。くれるつもりなら、6日にくれるはずである。本当に我ながら卑しいと思うのだが、例年の事でもあり、楽しみにしているのだから、それを無視されては不愉快になる。勤労意欲にもかかわる。

 そして三日間の休みで、私の不快感は消えた。10日、妻は、案外、今日くれたりして、と言うが、私は否定した。そんな誠意の無いような事をする訳が無いと。誠意があれば、本当に5日とか6日にくれているはずである。ところが出勤すると、はい、これ樽酒、と言ってくれたのである。そうか、くれないつもりではなかったのだ、と思い直したが、彼女の言葉はただそれだけである。遅くなったけど、の一言も無い。それにそのペットボトルは5日の私が見た彼女の机の下のボトルよりも遥かに小さいのである。

 本当に下手なやり方だなあ、とつくづくと思ってしまった。
 私なら、先に言ったように、書き置きをしてボトルを置いて帰る。ほかの人よりも五日も遅れて手渡すような事はしない。遅くなったのなら、その理由も言う。そうでなければ気持は伝わらないと思う。それに、大きなボトルを見せて置いて(本人は見せたつもりは無いのだろうが)、小さなボトルを渡すようなへまもしない。

 正直なのかも知れない。私は彼女が口で言うほどには重く見られてはいないのだろう。単に真面目で重宝な人間だと思っているのだろう。それでも、口で言っている事に合わせる努力をするのが普通である。しかも現場監督なのである。所詮は、働かせる立場と働かせてもらっている立場の違いだろう。そして、それを「働いてもらっている」立場と「働かせてもらっている」立場にするのが、上に立つ者の役目だろう。ただ、私は清掃の仕事を「働かせてもらっている」とは微塵も考えていない。罰当たりかも知れないが、仕方なくやっているに過ぎない。でも、ずるいから、そんな本心は絶対に見せない。信用出来る仲間の一人とは、そうした事を話し合ってはいるけれど。

 こんな浅ましい話をしているのは、ひとえに本心は無防備に出てしまうのだ、と思うからである。そして自分が無防備だとは露ほども思っていない人が居る。私ももしかして、そうした無防備状態になっている場合があるのかも知れない。十分、気を付けなければいけない。自分が駄目な人間だと分かってしまうのは仕方が無いが、それが場合によっては相手を傷つけている事に気付くべきだと思う。
 

ブログが書けない言い訳

2012年01月11日 | 暮らし
 12月に総仕上げをした万葉論をきちんと本の形にして、今週中に出版社に持ち込むつもりだった。駄目元である。ところが、ページ番号を通して形を整えている時に、どうしても読み返す。そこで、もっと筋の通り易い、分かり易い説明が出来る事を発見してしまう。そこで書き直しをする。そうなると、参考にしている日本書紀の記述にまで遡る必要も出て来る。だから大仕事になってしまう。

 そんな訳で特に今週はその作業で忙殺されていて、新聞もろくに読んでいない。日記で終わっては駄目だろうから、なかなかブログが書けない。ずっと前のブログに最近寄せられた「王道」について、どうも私の趣旨が分かって頂けていないようなので、その反論はともかくも、「王道」について考えを述べたいのだが、それもまた大変な事になるので(途中までやって、大変だ、と分かってそのままになっている)、なかなか出来ない。
 つまり、私はあまり仕事が速くはない。

 良いお酒を少しだけ飲もう、と言うのは続いている。息子の買ってくれた大吟醸の「獺祭」は飲み終わってしまったので、今度は「九平次」と言う酒にした。これは二年ほど前に、店で勧められて買ったのが始まりで、当時はいつ行ってもあったが、今回行ってみて、残っていたのは1万5000円の高価な物と、私の買った3600円の物の二種、しかも後者はわずか1本しか残っていなかった。人気銘柄になっているのである。
 最近はずっと手元不如意でそうした銘酒とは縁が無かった。久しぶりに夫婦共に喜んでいる。買ってもらった酒の三分の一ほどの値段だが、旨さは当然だが三分の一などではない。少々辛口だが、旨さはほんのちょっとだけ落ちる、と言った具合である。だから「獺祭」の大吟醸を三日に一度飲むのと、この「九平次」を毎日飲むのと、どちらを取るか、と言われれば、文句無しに「九平次」を取る。酒も料理もそんな物だろうと思う。だから、普段と晴れとがある。それで暮らしのメリハリもつく。毎日が晴れだと結局は詰まらない人生になるのだろうと思う。

名酒・獺祭が品切れになった

2012年01月07日 | 暮らし
 獺祭の醸造元である旭酒造の社長がテレビに出て、絶対に水道水とは見抜けないと豪語していた浄水器の水を素晴らしい味覚で見破った。この事は先日このブログでも書いた。そして私はこの正月は自分のお金で獺祭を買おうと考えた。いつも、息子が買ってくれるのである。
 そして私は非常に漫然と構えていた。しかし息子はあのテレビを見て、これはまずい、とすぐに思ったと言う。テレビの影響力である。品切れを恐れたのである。案の定、インターネットで探しても純米大吟醸はどこも売り切れになっていたと言う。一升1万500円もする日本酒がである。
 やっとの事で静岡県の酒屋から取り寄せる事が出来た。それが大晦日に届いた。文句無しに旨い。前に買ってくれたのは、これほど高価な獺祭ではなかったらしいが、それとても、非常に旨かった。比べられる訳も無いし、このくらいの酒になると、比較してもあまり意味が無さそうだ。ほんのわずかの旨さの違いが果たして、本当に分かるか、である。

 普段、安い純米酒を飲んでいるから、ことさらに旨く感じられる。そして、盃に一杯か二敗で満足してしまう。それ以上に飲みたいとは思わないのである。それほどにその旨みは絶対的である。それに対して、普段の酒は、どんどん飲めてしまう。純米で変な癖がないからでもあるが、はっきり言えば、そんなに旨くはないからである。
 お陰で、あまり酒を飲み過ぎずに正月を過ごせた。これは体にも良い。
 そうだ、これからはもう少し上等な酒にして、せいぜい、盃三杯くらいで満足出来る酒にしよう、と考えている。旨くて体にも懐にも良いのだから、言う事が無い。
 幸いにして、住んでいる所からそんなに遠くない、自転車で行ける所に各地の銘酒、普通の店では置いていない銘酒が買える店がある。酒蔵が冷蔵庫になっていて、そこにずらりと銘酒が並んでいる。たいていの酒が四段階から五段階くらいのレベルがあって、懐と相談出来る。安い酒であっても、ざらにある酒とはやはりひと味違う。

 先日、「衣食足って礼節を知る」が、あまりの贅沢さに死語になっていると書いたばかりだが、旨い酒は贅沢ではない。少しで満足出来るのだから、かえって安上がりになると言える。金の贅沢ではなく、心の贅沢と言って良いと思っている。

圧力鍋を焦がしてしまった

2012年01月04日 | 暮らし
 早いもので、もう正月の三が日が終わってしまった。何となく物足りない気もするが、あまりのんびりしていると、仕事を始めるのが辛くなる。そうは言っても、私はこの三日間、ずっと自分の原稿の仕上げをしていた。私の「のんびり」とは、外に行ってせかせかと動き回わらない事を指している。
 大晦日から元旦に掛けて、私は大失敗をしてしまった。圧力鍋を徹底的に焦げ付かせてしまったのである。圧力鍋を使うのは初めてだった。それなのに、最初から焼豚を作ろうとしたのである。ずっと付きっきりで蒸気の出具合と音を観察し、火を弱めるタイミングを計っていた。それなのに、蒸気は出っぱなしだし、音もし続けている。そうしたら、濃い肉汁が出て来てしまった。同時に焦げ臭くなった。
 あわてて火を止めて、圧力が下がるのを待って、恐る恐る蓋を開けると、見事に底から蓋に掛かる部分まで全部が完全に焦げ付いていた。幸いに肉は旨く煮上がっていたが、鍋の始末が大変だ。

 どんなにこすっても焦げが落ちない。インターネットで重曹と酢を入れて煮立てると良い、と教わり、やってみた。薄い焦げ付きはそれで自然にはがれる。ところが、本当に徹底的に焦げ付いているから、特に底の部分がまるで落ちない。元日も二日目も、そして三日目も暇を見ては焦げ落としに夢中になったのだが、やはり取り切れない。
 指の爪を使うと、焦げ付きの厚さまで微妙に分かるし、鍋を傷つけずに焦げを落とせるのだが、爪がそんなには持たない。そこで小さなナイフの刃を爪代わりにして少しずつ丁寧にこそげ落とすのだが、まだまだ落ちない部分がたくさんある。
 いっそ、捨ててしまおうかと思ったが、一回使っただけなので、悔しい。何とか元通りにしたい。それはもう執念になってしまっている。しつこい焦げ付きだなあ、と歎息を漏らすと、すかさず妻が、あんたと同じじゃない、と混ぜっ返す。少しはこっちの身にもなってくれよ、と言いたいが、元はと言えば、私の不注意である。

 文句を付ける訳ではないが、この圧力鍋に付いている説明書は、初めて使う人の立場は考えていない。圧力鍋を使える人を対象にして、自社製品の使い方の説明をしている。それは当然と言えば言える。使い方を知らずに新しい道具を使い始める人は居ないのだろう。しかしどんな道具でも最初は初めてのはずである。
 初めてパソコンを使って、パソコンを壊してしまった、との話は聞かない。使い方が分からずに立ち往生してしまうのがせいぜいだろう。ところが、圧力鍋は使い方を間違えると致命的になる。と私は思っている。普通の鍋や釜、やかんなどは、空焚きしなければ無事に使えるだろう。電気釜や電気ポットにしても同じだろう。しかし圧力鍋はどうもそうではないらしい。使い方を初心者に伝えるのも説明書の役目だと思う。

明けましておめでとうございます

2012年01月02日 | 暮らし
 今年が良い年でありますように、との願いは誰もが例年より遥かに強いと思う。天災はどうにもならないが、人災は我々の知恵と努力で防げるはずだ。しかしどうも日本の指導者層には知恵も努力も望むのが無理らしい。我々に残された希望は、せいぜいが初詣で引くおみくじの吉くらいしか無いのか。
 そのおみくじだが、東京の浅草寺は凶の割合が多いと、東京新聞が特集を組んで、朝のフジテレビがそれを取り上げていた。しかし、浅草寺の話では、そうした割合は昔からの伝統を守っているのだそうだ。だから、凶を少なくして吉を多くしている社寺は参詣者に媚を売っている事になる。多分、吉の多い方が、お賽銭も増えるし、お守りを買う人も多くなるに違いない。社寺ではお守りは売り買いではなく、授受だと言うが。
 吉と凶の割合は秘密だとか言っている社寺が多い所を見ると、授受よりは売り買いの気持の方が強いと思えてしまう。

 庶民の楽しみの一つなのだから、目くじらを立てる事も無いが、吉だからと言って安心し過ぎては何にもならない。凶の方が、自戒となって良いのかも知れない。そしておみくじには裏に大切な事が書かれているから、境内の木の枝などにすぐに結ぶのではなく、家に持ち帰ってじっくりと読む事が大事なのだと言う。
 かく言う私も占いには弱い。私が今、一番気にしている占いは、山本令菜と言う占い師の「0学占い」。生まれた年月日によって、運命を支配する月、火、水、木、金、土の六つの星が決まる。そしてそれぞれに0地点から始まって、精算期、開拓期、充実期、背信期など、12進法で巡る運勢がある。つまり、運勢は12年間で一巡する。

 おととしの私は、踏んだり蹴ったりの一年である「0地点」だった。本当に文字通り、踏んだり蹴ったりだった。そして去年は、物事が終結を迎え易い「精算期」だった。それで今年はと言うと、新しい運命が始まる「開拓期」なのである。
 だから、安易と言われようが何と言われようが、何となく力を得たような気になっている。これからの5年間は占い通りなら、上昇運なのである。
 しかし、心の底では、この占いが当たらない事も知っている。何しろ、占いでは5年前の私は「経済期」で、経済的にも精神的にも恵まれた運勢で、お金がガバガバ、のはずだったのである。4年前は充実期で、努力が実る運勢だった。
 このどちらも私には大外れだったのだ。だから、今年の開拓期、来年の生長期、など当てにはならないのだが、そこは弱い人間なので、溺れる者は藁をも掴む、の心境なのである。

 ただ、暗い気持でこれからに立ち向かうのと、明るい気持で立ち向かうのとでは、結果は大いに違うはずだ。だから、私は今年の開拓期を精一杯頑張って生きて行こうと思っている。

テレビ番組「和風総本家」のおかしなクイズ

2011年12月30日 | 暮らし
 テレビ東京の番組の「和風総本家」を私は大好きで、「なんでも鑑定団」同様、欠かさずに見る事にしている。ただ、仕事の都合上、始まりからの3分の1くらいは見られないが。
 昨日は「お正月大みそかのい過ごし方」だった。その中で、かなり経過した頃のクイズで「初夢はいつ見るのか」との問題が出された。答の選択肢は二つ。「大晦日の夜から元旦に掛けて」と「元日の夜から二日に掛けて」。
 だが、これは馬鹿馬鹿しい問題なのである。と言うのは、番組のもっとずっと前に、大晦日は除夜の鐘を聞いて、それから初詣をしたりして、一晩中寝ずに元旦を迎えるのが正しい過ごし方だ、と説明しているのである。
 寝ないのだから、夢を見られる訳が無い。馬鹿馬鹿しいし、眠くなったので、消してしまったが、惜しい事をしたもんだ、と思っている。なぜなら、この解答次第で、解答者の頭の善し悪しが分かるからだ。
 ただ、これは生番組ではないだろうから、話の順序が変えられている可能性もあるから、番組通りに見ていては出演者には気の毒な場合もあるだろう。しかし、それは番組制作者にとっては当然に分かり切っている事であって、いずれにしても、番組の底の浅さが露呈してしまう。
 こうした展開を見せられると、本当にこの番組を信じて良いのか、と疑ってしまう。

野田総理のおかしな発言
 野田首相は29日の民主党税制調査会と社会保障と税の一体改革調査会の合同総会で、次のように言った。定数と公務員給与削減の通常国会での対応についてである。

 「われわれがボールを投げないといけない。民主党が政治改革家の集団であることを国民に示そう」

 今更何を言うか、とちゃんちゃらおかしい。民主党内に限っては、「民主党が政治改革家の集団である」は通用するのかも知れないが、世間はとうの昔に見限っている。世間は「民主党は政治改革はしない集団である」と思っている。信用ならない政党であるからこそ、大量の離党議員が出ているのである。
 この離党問題について、佐藤優氏が本質を突いた発言をしている。離党者の中に渡辺浩一郎衆議院議員が含まれている事を問題視している。渡辺議員は野田民主党代表(首相)からのプーチン「統一ロシア」党首(首相)に宛てた親書を携えてモスクワを訪れたからである。
 佐藤氏は言う。「外交の世界で、親書を携行するのは、首脳がほんとうに信頼する人であるというのが常識である」。最側近ですら離れてしまうようなら、権力中枢に分裂が起きている、とロシアは考えるに違いない、と彼は思っている。選挙区の事情で、小沢一郎氏に近い人達が離党したのだろう、は通じないと考えている。
 常識では考えられない事が通用しているのが、この我々の日本なのである。

季節感を大切にするなら、年賀状は元旦に書くのが筋だ

2011年12月28日 | 暮らし
 白と青を基調にした電飾のクリスマスツリーの飾りがとてもきれいだったビルがある。中央には本物のツリーがあって、そこに飾り付けがされ、上から左右に光が流れる。その更に左右には小さなツリーが、こちらは飾り物だが、真っ白で、これまた美しい。そして下には垣根のようになった白い飾りがあって、全体をまとめている。
 26日に見たら、ツリーはきれいさっぱりと無くなっていた。たが、下の垣根だけは残っている。
 なるほど、と思う。クリスマスは終わったのだ。でも、クリスマスツリーをかたどった年末年始の飾りであっても良いではないか、とも思う。何しろ、下側の部分だけは残してあるのだから。

 これは季節感を生かした風物の一つだろう。そして、その季節感だが、私には年末に一番嫌な仕事がある。年賀状を年内に書いて出す事である。年内に「明けましておめでとう」に違和感がある。
 今年も年賀はがきは早々に買って、文面も印刷してある。仕事用と家庭用に分けて、色々と案も練った。でも、宛名を書く気になれない。私は宛名まで印刷する気にはなれない。それではあまりにも事務的過ぎると思う。それで一日延ばしにしている。早く書かなくては元日には届かない事は分かっているのだが、その、元日に届く、と言う事にも疑問がある。

 確かに元旦に年賀状が来ているのは嬉しい事だ。でも、それは年内に、しかも12月25日までに出しているからだと分かっている。結果的にはそれで万事うまく納まっているとは思えるのだが、そんなにしてまで、元旦に年賀状が届いている必要があるのだろうか、と思ってしまう。
 文面は考えていても、多くの場合に、表も裏も印刷と言う事務的な仕事で終始している事に納得出来ないのである。まあ、単に自分が億劫な事への良い訳に過ぎないのだとは思うが、本当に気が進まないのだ。

 毎日、何が起こるか分からない。私の知人は今日までの仕事なのだが、今日はお休みである。なぜなら、肉親の姉上が亡くなったのだ。で、年賀状を投函していたら、喪中の年賀状になってしまう。仕方の無い事ではあるが、やはり納得が行かない。

 その喪中だが、死者を出した人が喪に服するのは分かる。それは多分、死の穢れを身内だけに留めて置こう、との気持から生まれた風習だろうと思う。けれども、他人は別である。他人は新しい年を祝って何の支障も無い。その気持が喪に服している人に届く事が、いけない事になるのだろうか。周囲の明るい気持で喪も十分に緩和されるのではないか。
 だから、年内に、相手が年賀状を書く前に、喪中のため、新年の挨拶を遠慮する、との通知をしなければならない事に、これまた違和感がある。これには二つの意味があると思う。一つは、自分が年賀の気持を受け取りたくない。もう一つは、相手に喪中の自分に年賀の気持を現してしまう無礼をさせない。
 どちらも私には筋が通らない話だと思う。

 さてと、そろそろ年賀状の宛名でも書くとするか。

さすが日本酒「獺祭(だっさい)」の社長は違う

2011年12月19日 | 暮らし
 昨日の日曜日、たまたま見たフジテレビの「ほこ×たて」は面白かったが、水道水に挑戦した日本酒メーカーの社長の味覚と臭覚には心底感嘆した。
 「絶対に水道水とバレない究極の浄水器」を三菱レーヨン(だったと思う)が作り出した。その水道の浄化水と4カ所の自然の水とのブラインドテストである。5本の水が並んでいて、その内の1本が水道の浄化水である。
 名酒と誉れ高い「獺祭(だっさい)」を作っている酒造会社(名前は忘れた)の社長が、酒造り30年の感覚を生かして、それを見分けられるか、と言う真剣勝負である。

 みんな、固唾を飲んで見守ったはずである。そして社長は見事に見分けた。味はほとんど変わらないが、1本だけ、かすかに匂いが違うと言うのである。匂いと言ったって、本当にかすかな、それこそ、達人にしか分からない匂いなのだろう。それに自然の水だって、4カ所の別々の所から汲み上げた水だから、味も匂いも微妙に違うはずなのだ。それなのに、その中から水道の浄化水を見分ける事が出来たのである。
 「絶対に水道水とバレない究極の浄水器」の完敗だった。多分、水道の浄化水には他の自然の水とは違う、何かが残っているのだろう。

 さすが、と私達家族は拍手喝采した。と言うのは、「獺祭」は私達の大好きな日本酒だからである。と言っても、高いからほんのたまにしか飲めない。それも息子が、私の誕生日とか、正月とかに買ってくれるのを、大事に大事に飲むくらいである。
 そうか、こうした熟練の達人が居るからこそ、「獺祭」は本当に旨い酒なのだ、と合点が行く。因みに「獺祭」の「獺」とはあの動物の「かわうそ」の事である。『大辞泉』によれば、「獺祭」とは「かわうそが自分のとった魚を並べること。人が物を供えて先祖を祭るのに似ているところからいう」とある。
 今度の正月用に、自分で「獺祭」を買って来よう。 ぴんからきりまであるようだから、息子の買ってくれるのに負けたくないなあ、などと意地を張ってはいるのだが。