千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

(十六歳の創作)  微風

2011年08月08日 | 日記

  一

 丘の赤い屋根の上から、やっと太陽が顔をだした。
 洗いざらした洗濯物が太陽に反射してキラキラ光っている。太陽の出現にこおどりしているようだ。
 三軒長屋の一隅から、秋刀魚を焼くにおいがあたりにたちこめて―
 時計はもう十一時二十分をさしている。
 太陽を受け入れた長屋は明るく一変した。思いなしか、急に人々の心も晴れ晴れとしたようだ。
 瓦を積んだ屋根の下では、何家族かが生活を営んでいる。
 丘の上のお屋敷町と、丘下のこの三軒長屋と―
 その屋根の下で生活を営んでいる事には違いはない。たとえ一方が自家用車を乗り回していようとも。
 丘下の人々は、絶えず劣等感にさい悩まされてきている。

 野村里子とその家族も、この三軒長屋の一隅に住んでいる。
四畳半二つと、粗末な台所、及び便所、全てが黒ずんでいる。
 だが里子は一日としてコップに花をさす事を忘れない。小さなすみれやタンポポの花でしかないのだが―
 里子は高校生になったばかり。人生に希望を持って生きようとしている頃だ。彼女の周りが全て美しいものに見える。この小さな我が家だって、見方によれば美しく見えるものだ。
 里子が、あこがれの高校生活に入ったばかりだからかも知れない。
 父はタクシーの運転手だが、小さな会社で月給も少ない。母は編み物の内職で手も離せない。二人で働いても、家計は火の車だった。わんぱく盛りの弟新吾がいる。
 高校へ出してもらえるなんて思いもかけなかった。ただ、遠くからあこがれていたにすぎなかった。
 父母から高校へ出してくれると聞かされた時、どんなにうれしかったか。父母は満足な教育を受けなかったため、いくたびとなく周囲から圧迫を受けたという。子供にはそういう思いはさせまいという親心だったし、里子の成績がよかったという理由もあった。
 高校に入って一ヶ月―
 里子は父母に感謝せずにはいられない。たとえ身なりは貧しくとも、理解ある父母だった。
 父の名は野村一郎、母はフサエ。
 丘の上の人々に、劣等感を感じる時があっても、里子の生活は健全で明るい。花のような少女とは里子の事かも知れない。

 二

 夕食の献立についても里子はひとしきり頭をひねってしまう。ついつい、フサエの助言を求めてしまうのだが、この頃は忙しい母を考えさせまいと決めた。
 食費にかける負担を少なくするため、朝は納豆、漬物、味噌汁と決めている。安くなった頃合いを見て揚げ物を買ったり、大きな大根一本買うだけで、いろいろ工夫することも覚えた。
 三軒長屋の左手の石段を登って、坂道を下る。すぐ近くが商店街だ。従って坂道を上ると屋敷町である。
父は今頃、どの辺りを走っているのだろうか。父の一日はめちゃくちゃで統一していない。時には夜明けの四時に帰ってきてお昼頃まで寝ている。
 新吾は近所の子供と、家主さんの家にテレビを観に行った。家主さんは稀にみる親切者で、ここの貧乏人たちにテレビを観にくるように勧める。つまり、長屋の人達と平等でいたいのかも知れない。

 八時になって、母の用で商店街のみちのや洋品店へ出かけた。みちのやは、母の編み物を世話してくれている。  注文のカーディガンを二着届けるのだ。坂道に上がった時、下の方からの車のヘッドライトがまぶしく、あやうく包みを落とすところだった。道の脇には小川も流れていたから、川に落としたら一大事だった。
 自動車は里子の横を通りすぎた。外灯のあかりの中で、里子をみつめる少女の目とあった。その横に父親らしき 紳士が運転をしていた。美しい少女。丘の上の屋敷町に住んでいるのだろうか。包みを落としそうになったことも忘れるくらい親近感のある少女だった。
 みちのやからの帰路、誰かが後をつけているような気がして、おそるおそる後ろを振り返った。そして、あっと目を見張った。思いがけない人だった。
 吉川博一だった。二年以上も博一を見ていなかった。いつのまにか背が高くなって、髪も伸びていた。
 博一と目が合うと、あわてて里子は前を向き直った。
 博一さんだったなんて、博一さん、いつこっちに帰って来たんだろう。里子はいつのまにか足早になった。
「おい、君、野村君じゃないのか?」
 博一の声が追った。
 里子はうしろを振り向いた。街灯の影になって、博一の整った顔が美しく描かれていた。里子はにこっと笑った。
「あ、やっぱり。さっきからそうじゃないかと思ったんだ」
 博一の表情もほぐれていた。
「お久しぶりね。でも吉川さんがこんなところにいるなんて意外だわ」
「意外?」
「そうよ。だって、ちっとも知らなかったのよ。いつこっちに帰ったの?」
「一ヶ月前さ。また元の家からM高校に通っている」
「そう、二年前の吉川さんじゃないみたい。坊主頭の委員長の・・・」
 里子はしげしげと博一をながめる。
「野村君だって背が低かったのにこんなに伸びてさ」
「あら、いやだ。その事? あたし、そういえばおチビさんだったわね。今は160よ」
「へ~え、伸びたもんだね」
「自分だってすごいじゃないの。170以上はあるでしょう?」
「野村君、今は?」
「あたし?あなたと同じ高校生。名もなく貧しき高校生だけど」
「あとのほうは余計だよ」
 いつのまにか、長屋に下りる石段のあたりに来ていた。二人はつっ立ったまま話しを続けた。
「そう、またお父様がこちらの会社になったのね」
「そう、しかし野村君、伸びたな」
「あら、また?」
「だって、君と僕が委員やっていたときからかわれたじゃないか。ノッポとチビの組み合わせ抜群だよ、せいぜい仲良くやれってさ」
「いやだ、そんなこと覚えていたの」
「でもさ、この町を離れて二年以上も経っているのに全然変わっていないだろう?だからまだ中一の時みたいだ」
 博一は苦笑した。中学一年の時もしっかり者だったが、堂々として大人っぽく見えた。
「じゃ、おそくなるから。書店の帰りなんだ」
「あたしも用足しよ。さよなら」
「さよなら。また会おう」
「ええ」
 博一は丘の上に歩いて行った。

 里子はまだ夢の中にいるみたいだった。博一は工業会社の技師の父を持ち、中学一年の冬、大阪へ転任の父と一緒にこの町を離れた。
 クラスきっての秀才で、同じく成績の良い里子と委員を務めていた。
 屋敷町の息子と、丘下の三軒長屋の娘―
 男の博一はそんなことには無頓着だった。だが女の里子は少なからずコンプレックスを持っていた。二人は十ヶ月、けんかもしないで役目を務めた。二人でガリ版刷りをしたり、博一は時には冗談も飛ばした。
 里子は博一が好きだった。愛情などとは呼べない幼いものだったが、長屋の住人だという劣等感も、博一への気持ちがそうさせるのだと、自分の内面を表に出すことはなかった。
 明朗でユーモアのあるバンビのような少女里子は、いつもクラスの人気者だった。三軒長屋を馬鹿にする者はいない。

 二月になって博一は大阪へ引っ越して行った。
 博一が去って、一時はぬぐいきれないさみしさがあったが、それでも明るく過ごした。
 一年、二年と過ぎて、おチビだった里子は身長が伸びた。

 「ただいま」
「お帰りなさい」
 奥の四畳半でフサエが答える。
 編み機がギーギー音を立てている。
 棚の上の時計を見上げるともう九時を回っていた。新吾がそしらぬふりをして、寝そべってマンガを読んでいた。
 この弟ときたらテレビとマンガしかない。
 ガサゴソと音がした。
「新ちゃん、何をかくしているの?」
「へへへへへ」
 起きあがった新吾は変な笑い方をして、新聞包みを差し出した。
「それ、お隣さんからのおすそわけ」フサエの声がした。
「新ちゃん、もう食べているの」
「へへへ、お姉ちゃんの好きなさつまいも、残しておいたぜ」
「もう~っ」
 里子は新吾のおしりをピシャッとたたいた。
「なんだ、この野郎」
 新吾がむきになったふりをして、二人で取っ組み合いのまねごとをはじめた。
 いつものことだ。
 すぐ終わる。
「お母さん、さっき吉川さんに会ったわ」
「吉川って誰だい?」
「中一のとき大阪に行った子」
 フサエは手を休めて、我が子を見上げた。
 いつのまにか娘らしくなってきた里子に満足を覚えた。

                    (つづく)

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