2006年6月4日 釜土達雄牧師
◆教会の3大祭
本日は、ペンテコステである。教会の誕生を祝う。教会には、3つの大きなお祭りがある。ひとつはクリスマス。私たちのイエスキリストの誕生を祝う日である。これは多くの人に知られており、祝われている。もうひとつ、イエスキリストが十字架につけられて3日目に復活したことを祝うイースターである。クリスマスほど有名ではないが、ペンテコステほど知られていないわけではない。旧約聖書の時代には、世界が7日間でできたというあの創世記の物語を土台として、土曜日がお休みの日であった。イエスキリストが十字架につけられたのは金曜日であり、復活したのは日曜日の朝である。安息日で、礼拝をしていたのは土曜日であった。このイエスキリストの復活をきっかけに礼拝のときが土曜日から日曜日に変わった。日曜日がお休みだという日本のカレンダーの基本になっている。お休みだと言っているが、教会で礼拝を守るためにお休みであることを知識として知っておく必要がある。それは、イースターという教会のお祭りと深く関わりがある。
まったく知られていないのがペンテコステである。教会の中だけで知られている。クリスマスは、教会の外の人たちまで、大いに祝ってくれる。イースターは、世界のカレンダーにも影響を与えた大きな出来事であった。しかし、ペンテコステはほとんど知られていない。
このまま聖書を読み進めて、使徒言行録2:1~を開いてみたい。
これが、教会の誕生のとき、聖霊降臨の出来事である。このペンテコステを祝っている。クリスマス、イースターにならぶ、教会の大きなお祝いのときなのである。教会はキリストの体だといわれてきた。教会は建物ではなく、私たち一人ひとりのことを指している。建物が大切なのではなく、建物によって囲まれた空間が大事なのである。この空間の中に教会がある。そして、その教会の中で、神に礼拝をし、祈りをささげる。ともに、神様を礼拝し、祈りをささげる場所、それがキリストの体そのものである。人間がつくりあげられているものであるから、そこには、様々な問題も起こり、行き違いも起こる。教会の中心が何か、何を大切にすべきか。
今日の私たちのテキストは、バプテスマのヨハネが殺される場面である。ここから、教会が何を大切にすべきかについて聞きたい。今日のテキストは長いので、ひとつの箇所にだけ注目していきたい。さらに、イエス様が十字架につけられる場面の聖書を引用して、御言葉に耳を傾けたい。
◆客の手前、ヨハネを殺すヘロデ
イエスキリストが有名になってくると、イエス様について、こういう人がいた。「彼はエリヤだ」「昔の預言者のような預言者だ」ところが、ヘロデは「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」今日の聖書の箇所の最初には、すでにヨハネは死んでいる。そのあと、マルコは、ヨハネが殺されたいきさつを記している。
このバプテスマのヨハネから洗礼を受けたのがイエス様であった。イエス様が有名になってきたときに、ヘロデは、イエス様がヨハネの生まれ変わりだと思っていた。
ヘロデの心情を考えてみてほしい。あなたは、道徳的に間違っているとヨハネに指摘されていた。しかし、ヘロディアはヨハネを殺そうと思っていたができないでいた。それは、ここに注目していただきたい。20節「ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人手あることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」
とても面白いポイントである。そこに良い機会が訪れたというのが、21節である。
自分の誕生日の宴会で、ヘロディアの娘が踊った。自分の娘である。夫婦の間で言っていても、言うことを聞いてくれなかったお父さん。みんなの目の前で、自分の娘の踊りに感心して、この国の半分でもやろうと言った。国の半分よりも、はるかに小さいものである。
みなさんに注目していただきたい1節とは、26節である。この言葉を心に留めていただきたい。「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。」
この首を持ってどうするのか。殺してほしかったのである。母親はそれに成功する。注目すべき聖句を深く味わっておきたい。
◆群集を満足させるピラト
さて、もう一つの箇所、マルコ15章6節以下を見てみたい。ピラトの元に、イエス様が連れてこられたところである。総督のもとで裁判にかけられる。総督の名はピラトである。ピラトは、イエスに罪がないことをはっきりと分かっていた。祭りのときに囚人を解放する制度を利用して、イエスを釈放しようとした。ピラトは群集に向かって「いったいどんな悪事を働いたというのか。」イエスキリストが罪を犯したからではない。人々のねたみのためであった。はっきりとここに記されている。冤罪であることを知っていたが、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。大事な言葉はここにある。15節「群集を満足させようと思って、バラバを釈放した」
判決を下したピラトは、何ゆえにイエスを十字架につける決断をするのか。自らの両親、正義感、義のためにはイエスは無罪であると知っていた。しかし、群集は叫んでいた。このままでは、この民衆によって、この地域は暴動になる可能性があった。ピラトは支配者であった。民衆の暴動を兵力で抑えることはたやすいことではない。一人の命は、多くの人々の暴動よりは軽い。自らの良心を捨ててでも、群集を満足させるために、イエスごとき殺してしまえ。そこに、イエスの十字架の真理がある。神の前で、神の御心に耳を傾けるよりも、群集の声に耳を傾けたときに、イエスキリストの十字架が決まったのである。
◆神の御言葉に聞く教会
ヘロデはヨハネが聖なる正しい人であることを知っていた。彼は調子に乗って、自分の娘に何でも聞いてやろうといってしまう。人々の目があった。人々は彼がどうするかを見ていた。少女は願う。「洗礼者ヨハネの首を」と。
王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。何が正しいかということではなく、客の手前、ヨハネの首をはねる決断をする。
ヘロデは客の手前、ヨハネの首をはねた。ピラトは、群集を満足させるために、イエスを十字架につけた。
神の御前で神に聞くことなく、人々がどう思っているか、どう思われるか、ここをどう納めるかということを考えていくときに、一人の人の命が奪われていった。私たちは、この厳然たる事実を知っていなければいけない。人々が、尊敬したヨハネの命は、客の手前、約束を守ったヘロデによって奪われた。私たちも同じことをしかねない。本当は正しいと思うことをできないときがある。
この場の雰囲気を大切にしたいがために、この子の悪口を言ってしまうときがある。その地域、職場、学校の中で、自分の友達関係を大切にするため、一人の人の評判などどうでもいいと思ってしまうときがある。そんなとき、この物語を思い起こしていただきたい。そうやって、主は十字架につけられていった。
群集の声に耳を傾けるものではない。客の手前、正義を曲げるような群れではない。この教会に連なる人々に主が望んでおられるのは、神様の前で正しい人間としていきなさいという命令そのものである。
だれも見ていなくても、お父さんが見ていなくても、先生が見ていなくても、神様の前でよい子でいられるかどうか。神様が、それは正しいと思うよ、といってくださるなら、その心に沿わせて行きなさい。神の言葉に耳を傾けるのか、群集の言葉に耳を傾けるのか。
神の言葉に耳を傾けていく群れでありたい。それが、たとえ茨の道であっても、私たちにはそれが求められている。
◆教会の3大祭
本日は、ペンテコステである。教会の誕生を祝う。教会には、3つの大きなお祭りがある。ひとつはクリスマス。私たちのイエスキリストの誕生を祝う日である。これは多くの人に知られており、祝われている。もうひとつ、イエスキリストが十字架につけられて3日目に復活したことを祝うイースターである。クリスマスほど有名ではないが、ペンテコステほど知られていないわけではない。旧約聖書の時代には、世界が7日間でできたというあの創世記の物語を土台として、土曜日がお休みの日であった。イエスキリストが十字架につけられたのは金曜日であり、復活したのは日曜日の朝である。安息日で、礼拝をしていたのは土曜日であった。このイエスキリストの復活をきっかけに礼拝のときが土曜日から日曜日に変わった。日曜日がお休みだという日本のカレンダーの基本になっている。お休みだと言っているが、教会で礼拝を守るためにお休みであることを知識として知っておく必要がある。それは、イースターという教会のお祭りと深く関わりがある。
まったく知られていないのがペンテコステである。教会の中だけで知られている。クリスマスは、教会の外の人たちまで、大いに祝ってくれる。イースターは、世界のカレンダーにも影響を与えた大きな出来事であった。しかし、ペンテコステはほとんど知られていない。
このまま聖書を読み進めて、使徒言行録2:1~を開いてみたい。
これが、教会の誕生のとき、聖霊降臨の出来事である。このペンテコステを祝っている。クリスマス、イースターにならぶ、教会の大きなお祝いのときなのである。教会はキリストの体だといわれてきた。教会は建物ではなく、私たち一人ひとりのことを指している。建物が大切なのではなく、建物によって囲まれた空間が大事なのである。この空間の中に教会がある。そして、その教会の中で、神に礼拝をし、祈りをささげる。ともに、神様を礼拝し、祈りをささげる場所、それがキリストの体そのものである。人間がつくりあげられているものであるから、そこには、様々な問題も起こり、行き違いも起こる。教会の中心が何か、何を大切にすべきか。
今日の私たちのテキストは、バプテスマのヨハネが殺される場面である。ここから、教会が何を大切にすべきかについて聞きたい。今日のテキストは長いので、ひとつの箇所にだけ注目していきたい。さらに、イエス様が十字架につけられる場面の聖書を引用して、御言葉に耳を傾けたい。
◆客の手前、ヨハネを殺すヘロデ
イエスキリストが有名になってくると、イエス様について、こういう人がいた。「彼はエリヤだ」「昔の預言者のような預言者だ」ところが、ヘロデは「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」今日の聖書の箇所の最初には、すでにヨハネは死んでいる。そのあと、マルコは、ヨハネが殺されたいきさつを記している。
このバプテスマのヨハネから洗礼を受けたのがイエス様であった。イエス様が有名になってきたときに、ヘロデは、イエス様がヨハネの生まれ変わりだと思っていた。
ヘロデの心情を考えてみてほしい。あなたは、道徳的に間違っているとヨハネに指摘されていた。しかし、ヘロディアはヨハネを殺そうと思っていたができないでいた。それは、ここに注目していただきたい。20節「ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人手あることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」
とても面白いポイントである。そこに良い機会が訪れたというのが、21節である。
自分の誕生日の宴会で、ヘロディアの娘が踊った。自分の娘である。夫婦の間で言っていても、言うことを聞いてくれなかったお父さん。みんなの目の前で、自分の娘の踊りに感心して、この国の半分でもやろうと言った。国の半分よりも、はるかに小さいものである。
みなさんに注目していただきたい1節とは、26節である。この言葉を心に留めていただきたい。「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。」
この首を持ってどうするのか。殺してほしかったのである。母親はそれに成功する。注目すべき聖句を深く味わっておきたい。
◆群集を満足させるピラト
さて、もう一つの箇所、マルコ15章6節以下を見てみたい。ピラトの元に、イエス様が連れてこられたところである。総督のもとで裁判にかけられる。総督の名はピラトである。ピラトは、イエスに罪がないことをはっきりと分かっていた。祭りのときに囚人を解放する制度を利用して、イエスを釈放しようとした。ピラトは群集に向かって「いったいどんな悪事を働いたというのか。」イエスキリストが罪を犯したからではない。人々のねたみのためであった。はっきりとここに記されている。冤罪であることを知っていたが、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。大事な言葉はここにある。15節「群集を満足させようと思って、バラバを釈放した」
判決を下したピラトは、何ゆえにイエスを十字架につける決断をするのか。自らの両親、正義感、義のためにはイエスは無罪であると知っていた。しかし、群集は叫んでいた。このままでは、この民衆によって、この地域は暴動になる可能性があった。ピラトは支配者であった。民衆の暴動を兵力で抑えることはたやすいことではない。一人の命は、多くの人々の暴動よりは軽い。自らの良心を捨ててでも、群集を満足させるために、イエスごとき殺してしまえ。そこに、イエスの十字架の真理がある。神の前で、神の御心に耳を傾けるよりも、群集の声に耳を傾けたときに、イエスキリストの十字架が決まったのである。
◆神の御言葉に聞く教会
ヘロデはヨハネが聖なる正しい人であることを知っていた。彼は調子に乗って、自分の娘に何でも聞いてやろうといってしまう。人々の目があった。人々は彼がどうするかを見ていた。少女は願う。「洗礼者ヨハネの首を」と。
王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。何が正しいかということではなく、客の手前、ヨハネの首をはねる決断をする。
ヘロデは客の手前、ヨハネの首をはねた。ピラトは、群集を満足させるために、イエスを十字架につけた。
神の御前で神に聞くことなく、人々がどう思っているか、どう思われるか、ここをどう納めるかということを考えていくときに、一人の人の命が奪われていった。私たちは、この厳然たる事実を知っていなければいけない。人々が、尊敬したヨハネの命は、客の手前、約束を守ったヘロデによって奪われた。私たちも同じことをしかねない。本当は正しいと思うことをできないときがある。
この場の雰囲気を大切にしたいがために、この子の悪口を言ってしまうときがある。その地域、職場、学校の中で、自分の友達関係を大切にするため、一人の人の評判などどうでもいいと思ってしまうときがある。そんなとき、この物語を思い起こしていただきたい。そうやって、主は十字架につけられていった。
群集の声に耳を傾けるものではない。客の手前、正義を曲げるような群れではない。この教会に連なる人々に主が望んでおられるのは、神様の前で正しい人間としていきなさいという命令そのものである。
だれも見ていなくても、お父さんが見ていなくても、先生が見ていなくても、神様の前でよい子でいられるかどうか。神様が、それは正しいと思うよ、といってくださるなら、その心に沿わせて行きなさい。神の言葉に耳を傾けるのか、群集の言葉に耳を傾けるのか。
神の言葉に耳を傾けていく群れでありたい。それが、たとえ茨の道であっても、私たちにはそれが求められている。
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