◆永遠の命を与える旅の始まり
一連の物語の前半である。旅に出ようとされたイエス様のところに、その人が走り寄ってきた。先週も、私たちは、このたびがどんな旅であったかに耳を傾けた。緊迫感のある旅であった。十字架へ向かう旅である。
イエス様は、死と復活を予告されていた。弟子たちは、その言葉の意味が分からなかったが、緊迫感のある旅となっていた。このあと、十字架に向かう最後の1週間に入る。マルコの目的は、最後の1週間をきちんと描くことであった。イエスは先頭に立って進み、この11章以下の最後の1週間になだれ込んでいく。
イエス様の生涯は、最後の一週間、そしてそのピークである十字架に向かうためにあった。クリスマスがあったのは、この十字架に向かうためである。神様の目的は、主が十字架につけられることであった。イエスキリストの生涯は、十字架に向かう旅であった。その直前の出来事である。イエス様は、自分が十字架につけられることをあからさまに語っていた。
しかし、弟子たちは理解できなかった。神様から愛されている神様の子が、神様から見捨てられて、十字架につけられるということは、常識的には考えられない。しかし、神様はイエス様を、十字架に向かわせるためにこの世に生まれさせた。そして、その目的は達成される直前まできた。
その旅のはじめに、問うたのである。主イエスキリストは、何ゆえに十字架に向かって歩むのか。それは、永遠の命を信じるものたちに与えるためであった。主イエスの生涯の目的を、まさに、この若者は、旅の初めに聞いたのである。これほど、見事な問いはなく、この場所にふさわしい問いはなかったはずである。最後、十字架に向かっていく旅のはじめに、問うたのである。
マルコは、たくさんあった質問のなかから、この問いをピックアップして、この場所に記した。物語を書くときには、ストーリーが出てきて、ポイントが出てきて、リズミカルに動くと言うことが大切である。いよいよエルサレムに向かう、最後の旅のスタートである。マルコは、いろんなことを考えて、この物語を挿入したのだろう。神の配材というべきか、この話こそ、ここにふさわしいと思っている。マルコがそう思って、この話を入れたんだろうな、と思って読むべきである。
◆イエス様の性格
今日の話は噛み合っていない。イエス様と、その周りの人々の会話は、よく「とんちんかん」になる。分かっている人と、分からない人がいる。今日のスタートもおかしい。永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいかという問いである。まさに、その物語がここに入っているのには意味がある。永遠の命を与えるために、イエス様は十字架に歩まれた。にも、関わらず、この問いに対する答えをこうされた。
「なぜ、私を『善い』と言うのか。」
こういうところが、イエス様のイエス様たるゆえんである。イエス様は、私たちを包んでくださるお優しい方だと思っていたら、神の国に入って躓くだろう。何と冷たい言い方だろう。これが私たちの主イエスである。知っておくべきことは、本当に、冷たく意地悪でおっしゃったのか、それとも他に意図があるのかということである。
イエス様は、なぜ子供たちを祝福するために憤られたのか。単に短気な人ではない。そういう人なのよ、と思っていてはいけない。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
「先生、そういうことはみな、子供のときから守ってきました」
この質問をした人は、律法を知っていた。忠実にそれを守ってきた。この男に対するイエス様の態度が、一変したのはこの後である。イエス様は彼をじっと見つめ、慈しんで言われた。“慈しんで”言われたのである。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」
◆彼の不安と迷い
ここで、イエス様がおっしゃっているのは、こういうことである。「あなたは、答えを知っているはずなのに、なぜ私に問いに来たのか。イスラエルの中で、律法を守っていれば、永遠の命を受け継ぐことを知っているはずだ。それなのに、何を私のところに聞きにきたのか。」そういう問いをされたのである。イスラエルのなかで、永遠の命を受け継ぐには、どうすればよいかを律法によって、聖書によって、長老たちによって聞かされているはずである。なぜ、それ以上に聞くのか。不満なのか、心配なのか、間違っていると思うのか。他の人たちは、律法をきちんと守らなければならないと聞いて、それをきちんと守っている。
それまで、律法を守ってきたにも関わらず、彼は不安であった。確信が持てなかった。本当に永遠の命を受け継ぐことができるかどうか、不安であった。だから、イエス様に問うた。ひとつは、永遠の命を受け継ぐことができるかどうか、確信が持てなかった。もうひとつ、永遠の命を受け継いだからといって、どうなるのかという迷いがあった。
当時、永遠の命を受け継ぐというのは、自分が死ぬということだったのである。これは、ザカリヤのところで話をした。子供がいなかったザカリヤは、神殿の中でイスラエルの救いを祈らなければいけなかった。人の復活はないということが、当時の常識であった。永遠の命を受け継ぐということは、自分の命がわが子の中に入っていて、代々、受け継がれること。神の国に、自分の子孫が生きることが、自分の永遠の命という意味であった。だから、子供がいないということは、永遠の命に預かれないということ、救いの中に入れられないということであった。
私たちは違う。イエス様の十字架と復活を信じているので、私たち自身が復活することを知っている。しかし、彼は違った。永遠の命を受け継ぐには、どうすればよいのでしょうか。この問いは、いま彼の置かれている状況の限界であった。
◆天に富を積む
このあと、再来週に23節以下を取り扱う。イエス様が、あのらくだの話をする。金持ちが神の国に入る話をしている。永遠の命を受け継いで、自分が死ぬ話ではない。金持ちが、神の国に入る話をしている。これは、再来週聞くべき、大どんでん返しである。
いずれにしても、金持ちの彼は、問うた。イエス様は、いったん皮肉を言ったが、彼をじっと見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」
イエス様は、天に富を積む話をされた。すると、その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
「天に宝を積む」この言葉は、不思議な言葉である。なんとなく分からないし、どういう意味を持っているのだろうと思う。神の国に行って、富を持っていてどうするか、と思う。それを使って良い暮らしができるわけでもない。しかし、イエス様はこの言葉が大好きである。彼は、イエス様から、こうしなさいといわれて、悲しみながら立ち去った。「それはできない」と思ったからである。だから、彼は去っていった。「あなたに欠けているものが一つある」
しかも、この言葉はなんと不思議な言葉であろうか。「天に富を積むことになる」と言ったが、永遠の命を確実に受け継ぐことができるようになるとは語られなかったのである。この言葉のどこに気を落としたのか。彼の問いに対する答えでなかったからだろうか。天に富を積むつもりになれなかったからか。ただ、一つだけ、彼がイエス様の前に立っていたときの態度が分かる。彼は、自分の生活を変えるつもりはなかったということである。自分の生活のすべてをうち捨てるつもりで聞いたわけでなかった。アドバイスは求めるが、その通りにするかどうかは、彼が決めるつもりであった。
もし、本当に永遠の命を受け継ぐためにすべきことを知りたかったならば、「先生、そうすれば、確実に永遠の命を受け継ぐことになりますか。」イエス様が、そうだ、と言われれば、彼はそうしただろう。しかし、彼はそうは問わなかった。そこまでするつもりはなかったからである。自分の人生のすべてを賭けるつもりはなかったからである。この人は、なんと言うのだろうか。そうか、大丈夫、それならば永遠の命を受け継ぐことができるよ、という言葉をきっと期待していた。「あなたに欠けているものが一つある」という言葉は、期待していなかった。イエス様が慈しんで言われた言葉を、彼は、慈しみだとは思わなかった。
◆イエス様に従い、十字架を見る
私たちは、イエス様が、実はここでも不思議なことを言っておられることを見ておかなければいけない。欠けているものが一つと言っているのに、イエス様は2つのことをおっしゃっている。持っている物を売り払うだけでなく、「それから、わたしに従いなさい」と言っている。持ち物を売り払うことではなく、こちらの方が重要だということを、私たちが後から知ることができる。
彼が、このままイエス様に従って行って、見ることになるのは何だろうか。イエス様は、おっしゃった。「それから、わたしに従いなさい」このたびは、永遠の命を与える旅であった。そのために、主は十字架に向かって、最後の旅を始められる。あなたご自身が、神の国に入れられるという約束、赦しの契約であった。彼の問いの奥底にあるすべての事柄を含めて、どうすればあなたが永遠の命を受け継ぐことができるか、しっかり、その眼で見ることになる。
しかし、彼は悲しみながら立ち去った。イエス様に従うつもりがなかったからである。今の生活を捨てて、主に従うものとして地上を生きるかどうか。しかし、彼は主に従う生き方ではなく、自分の生き方を選んだ。そこに永遠の命を受け継ぐ道はない。
(2007年2月18日 釜土 達雄牧師)
一連の物語の前半である。旅に出ようとされたイエス様のところに、その人が走り寄ってきた。先週も、私たちは、このたびがどんな旅であったかに耳を傾けた。緊迫感のある旅であった。十字架へ向かう旅である。
イエス様は、死と復活を予告されていた。弟子たちは、その言葉の意味が分からなかったが、緊迫感のある旅となっていた。このあと、十字架に向かう最後の1週間に入る。マルコの目的は、最後の1週間をきちんと描くことであった。イエスは先頭に立って進み、この11章以下の最後の1週間になだれ込んでいく。
イエス様の生涯は、最後の一週間、そしてそのピークである十字架に向かうためにあった。クリスマスがあったのは、この十字架に向かうためである。神様の目的は、主が十字架につけられることであった。イエスキリストの生涯は、十字架に向かう旅であった。その直前の出来事である。イエス様は、自分が十字架につけられることをあからさまに語っていた。
しかし、弟子たちは理解できなかった。神様から愛されている神様の子が、神様から見捨てられて、十字架につけられるということは、常識的には考えられない。しかし、神様はイエス様を、十字架に向かわせるためにこの世に生まれさせた。そして、その目的は達成される直前まできた。
その旅のはじめに、問うたのである。主イエスキリストは、何ゆえに十字架に向かって歩むのか。それは、永遠の命を信じるものたちに与えるためであった。主イエスの生涯の目的を、まさに、この若者は、旅の初めに聞いたのである。これほど、見事な問いはなく、この場所にふさわしい問いはなかったはずである。最後、十字架に向かっていく旅のはじめに、問うたのである。
マルコは、たくさんあった質問のなかから、この問いをピックアップして、この場所に記した。物語を書くときには、ストーリーが出てきて、ポイントが出てきて、リズミカルに動くと言うことが大切である。いよいよエルサレムに向かう、最後の旅のスタートである。マルコは、いろんなことを考えて、この物語を挿入したのだろう。神の配材というべきか、この話こそ、ここにふさわしいと思っている。マルコがそう思って、この話を入れたんだろうな、と思って読むべきである。
◆イエス様の性格
今日の話は噛み合っていない。イエス様と、その周りの人々の会話は、よく「とんちんかん」になる。分かっている人と、分からない人がいる。今日のスタートもおかしい。永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいかという問いである。まさに、その物語がここに入っているのには意味がある。永遠の命を与えるために、イエス様は十字架に歩まれた。にも、関わらず、この問いに対する答えをこうされた。
「なぜ、私を『善い』と言うのか。」
こういうところが、イエス様のイエス様たるゆえんである。イエス様は、私たちを包んでくださるお優しい方だと思っていたら、神の国に入って躓くだろう。何と冷たい言い方だろう。これが私たちの主イエスである。知っておくべきことは、本当に、冷たく意地悪でおっしゃったのか、それとも他に意図があるのかということである。
イエス様は、なぜ子供たちを祝福するために憤られたのか。単に短気な人ではない。そういう人なのよ、と思っていてはいけない。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
「先生、そういうことはみな、子供のときから守ってきました」
この質問をした人は、律法を知っていた。忠実にそれを守ってきた。この男に対するイエス様の態度が、一変したのはこの後である。イエス様は彼をじっと見つめ、慈しんで言われた。“慈しんで”言われたのである。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」
◆彼の不安と迷い
ここで、イエス様がおっしゃっているのは、こういうことである。「あなたは、答えを知っているはずなのに、なぜ私に問いに来たのか。イスラエルの中で、律法を守っていれば、永遠の命を受け継ぐことを知っているはずだ。それなのに、何を私のところに聞きにきたのか。」そういう問いをされたのである。イスラエルのなかで、永遠の命を受け継ぐには、どうすればよいかを律法によって、聖書によって、長老たちによって聞かされているはずである。なぜ、それ以上に聞くのか。不満なのか、心配なのか、間違っていると思うのか。他の人たちは、律法をきちんと守らなければならないと聞いて、それをきちんと守っている。
それまで、律法を守ってきたにも関わらず、彼は不安であった。確信が持てなかった。本当に永遠の命を受け継ぐことができるかどうか、不安であった。だから、イエス様に問うた。ひとつは、永遠の命を受け継ぐことができるかどうか、確信が持てなかった。もうひとつ、永遠の命を受け継いだからといって、どうなるのかという迷いがあった。
当時、永遠の命を受け継ぐというのは、自分が死ぬということだったのである。これは、ザカリヤのところで話をした。子供がいなかったザカリヤは、神殿の中でイスラエルの救いを祈らなければいけなかった。人の復活はないということが、当時の常識であった。永遠の命を受け継ぐということは、自分の命がわが子の中に入っていて、代々、受け継がれること。神の国に、自分の子孫が生きることが、自分の永遠の命という意味であった。だから、子供がいないということは、永遠の命に預かれないということ、救いの中に入れられないということであった。
私たちは違う。イエス様の十字架と復活を信じているので、私たち自身が復活することを知っている。しかし、彼は違った。永遠の命を受け継ぐには、どうすればよいのでしょうか。この問いは、いま彼の置かれている状況の限界であった。
◆天に富を積む
このあと、再来週に23節以下を取り扱う。イエス様が、あのらくだの話をする。金持ちが神の国に入る話をしている。永遠の命を受け継いで、自分が死ぬ話ではない。金持ちが、神の国に入る話をしている。これは、再来週聞くべき、大どんでん返しである。
いずれにしても、金持ちの彼は、問うた。イエス様は、いったん皮肉を言ったが、彼をじっと見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」
イエス様は、天に富を積む話をされた。すると、その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
「天に宝を積む」この言葉は、不思議な言葉である。なんとなく分からないし、どういう意味を持っているのだろうと思う。神の国に行って、富を持っていてどうするか、と思う。それを使って良い暮らしができるわけでもない。しかし、イエス様はこの言葉が大好きである。彼は、イエス様から、こうしなさいといわれて、悲しみながら立ち去った。「それはできない」と思ったからである。だから、彼は去っていった。「あなたに欠けているものが一つある」
しかも、この言葉はなんと不思議な言葉であろうか。「天に富を積むことになる」と言ったが、永遠の命を確実に受け継ぐことができるようになるとは語られなかったのである。この言葉のどこに気を落としたのか。彼の問いに対する答えでなかったからだろうか。天に富を積むつもりになれなかったからか。ただ、一つだけ、彼がイエス様の前に立っていたときの態度が分かる。彼は、自分の生活を変えるつもりはなかったということである。自分の生活のすべてをうち捨てるつもりで聞いたわけでなかった。アドバイスは求めるが、その通りにするかどうかは、彼が決めるつもりであった。
もし、本当に永遠の命を受け継ぐためにすべきことを知りたかったならば、「先生、そうすれば、確実に永遠の命を受け継ぐことになりますか。」イエス様が、そうだ、と言われれば、彼はそうしただろう。しかし、彼はそうは問わなかった。そこまでするつもりはなかったからである。自分の人生のすべてを賭けるつもりはなかったからである。この人は、なんと言うのだろうか。そうか、大丈夫、それならば永遠の命を受け継ぐことができるよ、という言葉をきっと期待していた。「あなたに欠けているものが一つある」という言葉は、期待していなかった。イエス様が慈しんで言われた言葉を、彼は、慈しみだとは思わなかった。
◆イエス様に従い、十字架を見る
私たちは、イエス様が、実はここでも不思議なことを言っておられることを見ておかなければいけない。欠けているものが一つと言っているのに、イエス様は2つのことをおっしゃっている。持っている物を売り払うだけでなく、「それから、わたしに従いなさい」と言っている。持ち物を売り払うことではなく、こちらの方が重要だということを、私たちが後から知ることができる。
彼が、このままイエス様に従って行って、見ることになるのは何だろうか。イエス様は、おっしゃった。「それから、わたしに従いなさい」このたびは、永遠の命を与える旅であった。そのために、主は十字架に向かって、最後の旅を始められる。あなたご自身が、神の国に入れられるという約束、赦しの契約であった。彼の問いの奥底にあるすべての事柄を含めて、どうすればあなたが永遠の命を受け継ぐことができるか、しっかり、その眼で見ることになる。
しかし、彼は悲しみながら立ち去った。イエス様に従うつもりがなかったからである。今の生活を捨てて、主に従うものとして地上を生きるかどうか。しかし、彼は主に従う生き方ではなく、自分の生き方を選んだ。そこに永遠の命を受け継ぐ道はない。
(2007年2月18日 釜土 達雄牧師)