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七尾教会礼拝説教

日本基督教団七尾教会で取り次がれた礼拝説教のブログです。

ルカによる福音書について

2017-07-30 18:32:14 | 主日礼拝
ずいぶん、このブログの更新をしていないかったので、すっかり広告が表示されておりました。
七尾教会の説教は、2017年7月現在、ルカによる福音書から、使徒言行録に入り、それももう終わろうとしております。
次はローマの信徒への手紙の予定。

こちらのブログでは、ルカによる福音書の最初の方で更新が止まっていましたが
その間に、いろんなウェブサービスも充実してきまして、noteに
記事をまとめてみました。ルカによる福音書でマガジンが作れたりするみたい。

https://note.mu/naminanao/m/mb06bc59f53b8

とりあえず、本日、ルカ第1章の9週分をアップしました。

主があなたと共におられる(ルカによる福音書 1章26節~38節2)

2011-11-13 11:54:14 | 主日礼拝
 先週に引き続き、これが今週私達に与えられたテキストである。天使ガブリエルが遣わされた。神の右側に座るとされていた天使の中のトップ、ガブリエルが、「おめでとう、恵まれた方」と語りかける。名実ともに、主がマリアと共にいてくれた。そのことを信じることができなかったマリアは天使の言葉のほとんどを聞いていない。その言葉をさえぎりながら、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言う。それをガブリエルは「神にできないことは何一つない」と一喝する。それで、マリアは「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と語った。これがマリアの素朴な信仰であった。
 エリザベトは、このようなマリアについて、こう語っている。主がおっしゃったことについて、
 神の全能を単純素朴に信じる信仰。それが、マリアの信仰であった。マリアがイエスを育てていくときに、実は、そんな単純な人生を歩んでいたわけではないということを確認した。悩みながら、このイエスを育てていった。貧しさの中で育てていった。そして、最後に十字架上で息子が殺されていくところを目にしなければならなかった。それが、マリアの人生であった。

 マルコ3:31~34

 イエスの母と兄弟たちが、やってきた。なぜか。その理由は、20節に書かれている。
 マルコ3:20~21

 「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。イエス様を取り押さえに来たのである。あの天使ガブリエルから話を聞いていたマリア。エルサレムの神殿に行ったときに、何人もの預言者に、この子はこうなる、と聞かされていたマリアである。神の子として生まれたと知っていて、クリスマスの夜には、天使たちの賛美の歌声を聞いていたマリア。いよいよ、イエス様が公の生涯を歩み始められたときに、捕まえに来たのである。祭司の家柄に生まれたわけではないのに、いったい、何を言い出したのか、と取り押さえに来たのである。家の仕事をするのが長男の仕事だろう。何をしているのか、と。
 イエス様の言葉は冷たい。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答えている。親子喧嘩というのは、高校生くらいまでにしておいてほしい。30歳にもなって、こんなに冷たいことは言わないほうがよい。これが、イエスの母マリアである。マリアの信仰深さが一生続いていたと考えなくて良い。信仰とは、迷うものである。神の言葉を聞いて、迷い続けていくのである。あの男は気が変になっていると言われて取り押さえてきたのは、母だからである。心配だったのである。しかし、その心配がホンモノになる。3年後のことである。人々に捕まえられて殺されていくのを目の前で見なければいけない母の苦しみとはいかばかりか、と思う。聞いていて、予感したからこそ、神の言葉よりも、我が子のことが心配だったから取り押さえにきたのである。この子に関する預言が本当になるかもしれない。母心である。自らの人生をしっかりと歩みだしたそのときに、イエス様を愛するマリアは、取り押さえにきたのである。その道に行ったら、死んでしまう。そのマリアの愛に対して、イエス様は拒絶されたのである。「私の母、わたしの兄弟とはだれか」
マリアの人生は、本当に味わっていただきたい。何もできないまま、イエス様の後をとぼとぼとついていって、十字架の元に立って、我が子が死んでいくのを見続けていたのである。十字架を見続けていたところに、マリアの信仰がある。天使ガブリエルを通じて言われた言葉がこれである。「おめでとう恵まれた方。主があなたと共におられる」
 イエスの死を最後まで見届けることをわかっていた神と天使が、マリアに向かって語りかけたのが、この言葉である。恵まれているというのは、こういうことを言うのである。主があなたと共におられる、とは、こういうことを言うのである。苦しみや悲しみの只中から逃れることを言うのではない。苦しみの中で受け入れなければならないという現実が、「主がともにおられる」ということの意味である。主が共におられるというのは、この地上を悩みもなく、苦しみもなく、生きていくということではない。その道に行ってはいけないと思いながら、主が裁判につけられているときに、そこにいて、十字架上で息を引きと取られるときに、それを見続ける。
 そのすべてを見届けたがゆえに、復活の主とも出会うことが許されたのである。これが、マリアの生涯である。そして、全能の父なる神が、神子イエスキリストの生涯を十字架で終わるのではなく、復活によって、神にできないことは何一つないという言葉を聞くことになるのである。マリアの生涯に、自分の人生を重ねていないと、家内安全、商売繁盛でないと、神様が共にいないと感じてしまう。神の民に、最も大きな苦しみを与えている。神様から祝福を受けていないもののほうが、神様と共に歩まない民だったのである。どこの馬の骨だか分からないマリアをイエスの母にするのだから。なぜ、マリアが母だったのか、どこにも書かれていない。

 ルカ1:26~

 マリアは、どこの馬の骨だか分からない。しかし、ヨセフについては、書かれている。ダビデ家のヨセフと書かれている。王家の末裔である。そのヨセフが大工をしていた。しかも、猛烈に貧乏だった。イスラエルの統一王国のダビデ。その末裔がここにいたのである。それがヨセフである。歳をとるまで結婚もできないほどの貧しさであった。自分たちは、ダビデ家である。ダビデの子孫から永遠の王者が出ると言われていたからである。たくさん書かれているが、ここだけ見ておきたい。

 イザヤ11:1~10

 これが、キリスト預言である。誰のところから救い主が生まれるか、ずっと知っていた。エッサイの株から。すなわちダビデの家系から救い主が生まれる。招詞で使われている箇所。
 イザヤ42:8~9
 イザヤ46:3~4
 イザヤ53:1~12

 主イエスキリスト誕生の600年も前の預言である。マリアもヨセフも知っていた。この自分たちの家系の中から救い主が生まれることを信じて疑わなかった。彼らが何故に、イスラエルの中にあって、この家に生まれたのか、知っていたのである。
もう一つ、見ておかなければいけない箇所がある。約束の地に、モーセは入ることができなかった。これは、約束の地カナンに入れられる人々がいつも夢見ていた言葉である。

 ヨシュア記1:1~9

 神様の言葉である。ヌンの子ヨシュアに言われた。「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」ガブリエルは、「主があなたと共にいる」と言った。マリアは何を言っているのか、思い巡らせていた。
ギリシャ語のイエスは、ヒブル語ではヨシュアである。マリアが何を聞いていたのかを聞いていなければならない。自分が嫁ぐ、ダビデ家がどんな家であるのか。多くの親が、自分の子どもにイエスと名付けた。それは、あのヨシュアが憧れだったからである。しかし、マリアは自分の子どもの名前を自分でつけることを許されなかった。神から命じられたのである。この子をイエスと名付けなさい、と。

 マリアに連なる大事なこと。私たちは、このマリアの人生が、マリアだけの事柄として見るのではなく、私達と深く結びついていることを知っていなければいけない。

 マルコ3:31~35
 見なさい。ここに私の母、わたしの兄弟がいる。神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。

 ルカ11:27~28
 むしろ、幸いなのは神の言葉を危機、それを守る人である。

 マリアは、イエス様の母であった。苦しみながら母であった。自分が生んだ子だということから、神の言葉を聞き、それを受け入れ、それを守る者へと変わっていった。それが、母マリアの生涯だったのである。わが子が十字架につけられて殺されていく。このイエスを宿した胎ではなく、幸いなのは、私達一人ひとりであると語られたことは忘れてはならない。それを人生をかけて会得していったのがマリアなのである。押し出されていって、忠実に生きる中で、それぞれの場所で役割を果たしていく。主が共にいてくださるとは、こういうことである。
マリアの信仰への招き。私達もその信仰を生きる幸いの中にあるのである。
(2011年11月13日 釜土達雄牧師)

主があなたと共におられる(ルカによる福音書 1章26節~38節)

2011-11-06 11:52:26 | 主日礼拝
 クリスマスのたびごとに、読み継がれている聖書の箇所である。マリアの信仰として、この一言はとても有名である。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」今日は、この言葉に目を留めるよりも、神様が大いなるご計画の中で、この出来事を備えておられたことを見ていきたい。
 ガブリエルが遣わされたのは、大切なメッセージを伝えるためであった。天使ガブリエルがこの言葉を伝えるためにマリアの元に来た。独裁的な世界をつくっておられるのではなく、神の会議を持っていると考えられていた。神様がいて、天使が十二人いる。そこに集いながら、相談しつつ事柄を決していると考えられていた。この真中に立っておられるのは神様。その右に立っているのがガブリエルである。左に座っているのは、天使サタンである。神様に対立する者として描かれることも多いが、サタンは天使の一人である。神様がすべてのものをつくり、支配しておられるのだから、神様の支配のないところで神と対立することはあり得ない。左に座っているのはサタン。右に座っているのはガブリエルである。神様の命令をもっとも忠実に行う、神の右の手、ガブリエルである。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」これほど明確なことはなかった。この乙女マリアのお腹の中にイエスがいたからである。主が共におられるということを最も具体的に体感できたのは、彼女である。私達が「主が共におられる」ということを言っても、その身体の中にいるわけでもなく、一緒に食事をしたわけでもない。しかし、マリアは、確実に主と共にいた。主と共にいるということを具体的に体験、経験してきた。それは、多くの方々が、あこがれた出来事でもあった。
 神様が人々の歴史に介入してきたところを思い起こしてみたい。
 
 創世記12:1~3

 神様がアブラハムの前に現れて、歴史に介入してきたのは、こういう目的があった。「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」
アブラハムを祝福するのは、地上の支族はすべて、アブラハムによって祝福に入るからであった。つまり、主があなたと共にいてくださるようになるためであった。それこそ、神様の願いであり、目的であった。神様がずっと歴史の中で約束してきた出来事だったのである。マリアにとって大いなる喜びとなるべき出来事であった。しかし、マリアはそんなことは考えていなかった。主があなたと共におられる、と言っても、神様が壮大なスケールでご計画をなさっているとは思わない。

 聖書の知識なので、あまりそういうことにこだわる必要はないが、このときにイエスの父はだいたい40歳くらいであったと考えられている。マリアの年齢は、成人を迎えるのが12歳であり、その後すぐに婚約をするのが通例であった。13歳か14歳だと考えられる。この年齢差は当時としては、珍しいものではなかった。婚約期間が2~3年ほどあり、子どもを産むのが15~6歳くらい。あなたの親類エリザベトと書いてあるように、マリアの叔母さんであった。マリアが生まれたときに祝福を与えたのは、エリザベトの夫であると考えられている。つまりマリアは、比較的ちゃんと聖書の知識を得る立場にあった女の子であると考えて良い。それにもかかわらず、「この挨拶は何のことか」と考えこむのである。

 自分が子どもを持つということに意識が囚われていて、神様のご計画には目は留められていない。これはいたし方のないことである。ところがガブリエルは、そのように理解をしているかどうかは関係なく、話を進める。
 マリアは何を言われていたのかよくわかっていない。にもかかわらず、ルカによる福音書に書かれているのである。忠実に調べて、取材をして書いたルカに書かれている。つまり、マリアは覚えていたのである。そのとき、何を言われていたのか意味が分からなかったが、言われていた中身は覚えていたのである。
 すなわち、私たちの主、イエスキリストがどのような方として、私たちの前に立つかということを、よくよく覚えていたのである。覚えていたからこそ、このことをあちこちで語ることができたのである。同じ話は、別のところにもある。このあと、シメオンという人が出てくる。ヨセフとマリアが、イエス様を神殿に連れて行く。

 ルカ2:28~38

 これらのことをすべて、マリアは見ていて、覚えているのである。ところが、そのマリアが、イエス様が公の生涯を歩み始めるようになると、このようになる。

 ルカ8:19~21 マルコ3:31~35

 冷たい関係になっている。断絶しているように見える。マリアは、イエス様が公の生涯を歩み始めたときに、その親族と共に、イエス様がおかしくなったと思ってしまったのである。家族を捨てて、御言葉を人々に語り始めたときに、なぜ家の仕事を手伝わないのかと思ってしまったのである。聞くべき預言は聞いていた。主が共におられることも知っていた。しかし、マリアはいつしか、イエス様のやっていることが分からなくなってしまった。そして、兄弟たちと共に、イエスを家に連れ戻すことに全力を注ぐ。そのマリアは、主の十字架まで共にいることになる。

ヨハネ19:25~27

 マリアは祝福を受ける。しかし、悩みと苦しみを受けることになる。この子をお腹に抱いたときには、想像もしなかったような人生が待っていく。人気を博した自分の息子の生涯の終わりを見たのは十字架だったのである。それが、マリアの人生であった。その生涯をかけて主と共に生きることになる。主があなたと共におられる、と言われて、確かに主と共に人生を生きることになる。お宮参りに行き、不吉な話ばかりである。それをマリアはしっかりと受け止めながら、記憶にとどめていた。ところが、30歳になったときに、公の生涯を歩み始める。家族を放置していくイエス。そのようなときに、自分の生んだ子供たちと共に、兄イエスを連れ戻しにいくが、追い返されるのである。それにもかかわらず、そのイエスと共に連れ立って行ったのである。エルサレムに入っていく。そして、急に捕まるのである。一人ぼっちになっている我が子を見る。わが子に十字架刑が告げられるのを見る。鞭打たれるのを見るのである。彼女は逃げなかった。十字架を背負っていくイエスについて行ったのである。
 イエス様がお腹に来たときに、自分の人生を振り返りながら、あの時に言われたことを思い出して語っているのである。主の祝福が、歴史の預言の中で、自分に与えられている。歴史の中で語っていた祝福を実体験できたのである。主が共におられるというのは、この地上を平和に生きていくこととは、違う。主が共におられるというのは、平穏に生きていくということとは違うのである。恐れることはない。あなたは、神から恵みをいただいた、という言葉に象徴される。ひとりぼっちだと思う、なんでこんな目に合わなければいけないのか、と思う時がある。そんなときに、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた、と言われた言葉を思い起こす。「おめでとう、主が、あなたと共におられるからだ」そう言われたマリアは、苦しみ、悲しみ、困難、疑いの生涯。それこそ、マリアが生涯を通して体感してきたことだった。
 主が共にいてくださったからである。疑うマリアに対して、神にできないことは何一つない。と言われて「わたしは主のはしためです。」という、神の全能を信じる。
 この地上が安泰でないことは知っている。幸せなことばかりでないことは知っている。なんで?と思うことはよくある。けれど、すべてのことを知り、支配しているのは神様である。その神様が私と共にいるということを、すべてのことを委ねて、任せてみよう。神様、きっと何とかしてくださる。
 富来伝道所にいた神崎のおじいちゃんが、漁に行く時に、「神様、今日も頼んまっさ」と言って出かけていった。素朴な信仰とは、そんなものである。天使ガブリエルが、マリアの前に立っていたのは、マリアがそのような素朴な信仰で人生を歩んでいたからである。私たちに至るまでの救いをつくったのである。このマリアの信仰を私たちの信仰としたい。
(2011年11月6日 釜土達雄牧師)

何によって知ることができるか(ルカによる福音書 1章18節~25節)

2011-10-30 12:02:48 | 主日礼拝
 医者ルカが、テオフィロという人に宛てて、報告書としてまとめている。ローマの高官に宛てた報告書である。自分の思いや感情によるのではなく、順序正しく書いている。ルカの特徴は、正確さである。自分の思いを殺してでも客観的、冷静な報告書をまとめることであった。これが、ルカのスタンスであった。医者である。イエス様は、多くの癒しの奇跡を行なっている。医者ルカは、そのときの客観的な当時の医学の知識を持って描いている。
 祭司の話から始めている。マリアを祝福したという伝承のある人である。奥さんは、マリアの親戚であった。イエス様とこのヨハネはいとこ同士なので、とても関係が深い。アロンの家柄とは、モーセの兄、アロンの家系ということである。神の国、イスラエルに入れられる「非の打ち所のない」正しい人であった。にも関わらず、彼らには子どもがなった。当時、子どもが神の国に生きることによって、その祖先も神の国に入れられると考えられていた。それによって、救いは完成される。復活という発想もなかった。自分の子孫の中に、自分の魂が宿り、自分の子孫がそこに入るときに、先祖として神の国に入れられることが、神の国に入れられるということであると信じられていた。
 ところが、エリザベトは不妊の女であったので、二人には子どもがなかったのである。こののち、イスラエルに救いをもたらしてくださいと祈る務めを祭司として行う。ザカリヤとエリザベトはその神の国にはいることができない、と理解されていた。非の打ち所がなく、律法を守っていたが、神の目から見ると、神の国に入れられないものであると思われていたのである。イスラエルの代表として、救いを祈っていながら、自分たち自身は、その救いに入れられない。その心中は察するに余りある。
 物語としては、赤ちゃんが与えられてよかったということになるが、この喜びは、二人にとっては、イスラエルの救いに入れられたということを示しているのである。この物語が、福音書のスタートになっていることはおどろくべきことである。

 天使が出てくる。ガブリエルである。当時の人々がよく心に留めていた預言を観ておきたい。新約聖書の直前の書である。

 マラキ3章19~24節

 エリヤ預言である。救い主が来る前にエリアが来る。義の太陽とは、救い主である。ローマ帝国の太陽神、ミトラス神の誕生日は、12月25日である。その誕生を祝う日に、キリスト者たちが私たちの救い主、義の太陽である、エリアの後に生まれた救い主の誕生を祝ったのが、クリスマスの始めである。

 ザカリヤは、マラキ書の預言が実現するように祈っていた。イスラエルの国を代表して祈っていたのは、あのマラキ書の預言が実現することである。あなたが、いま至聖所で祈っているその祈りが、まさにいま完成する。そのために、エリアが地上に送られる。それがヨハネという名で登場するのである。感動する場面なのである。そういうときに、ザカリヤが言ったのがこのセリフなのである。
「何によってわたしはそれを知ることができるのでしょうか。」
 人間とは面白いものである。ずっと祈っているのである。祈っていて、その祈りを叶えてくださることがある。そのときに、「神様ありがとう」ではなく、「なんで?」と思う。隣接地が買えるようになるように祈ってきたではないか。ずっと会堂が新しくなるようにと祈っていたが、能登半島地震でいよいよその祈りが叶えられるときに、この会堂が好きなので壊さないでほしい、と。自分の願いが叶おうとするときに、ずっと祈ってきたはずなのに、「なんで」と思う。まさか、そうなったときに、ええ?と思う。
また、ザカリヤは、イスラエルの救いの前に、自分の救いの事のほうが先に口に出る。弱さではない。正直なのである。これが、人間である。救い主の到来を祈っている。でも、自分が神の国に入れられることのほうが大事なのである。そのことを言った途端に、天使はトンチンカンなことを言う。
ルカ1:19~20

 天使ガブリエルが、ザカリヤに告げたこと。「口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。」これは、なぜか。ザカリヤの心の中にどんな心の動きがあったのだろうか。そして、ガブリエルがそのことを見ぬいたのは何か。時が来れば、実現する私の言葉を信じなかったからである、と書かれている。ザカリヤは何に抵抗していたのか。
 それは、神様がこの歴史の中に介入してこられるということである。神様を礼拝することはできる。ともに祈りを合わせている。しかし、神様が歴史の中に入ってきて、働かれることは、なかなか受け入れられない。神様の方が、あなたのところに来られた。アブラハムのところに、ヤコブのところに、神様が降りてくる。モーセのところに降りてきて、奴隷を開放しろとおっしゃった。サムエルに直接語りかけられた。
 神様が歴史に介入してこられたのが、聖書の歴史である。エリヤを地上に送ると言われたのである。最初にそのことを聞くことになったザカリヤは、「何によって知ることができるか」と言ったのである。神の言葉に対する保証を求めたのである。神様の言葉だけでは納得できないから、証拠を示せと言ったのである。それが、罪だと知っておかねばならない。信仰は、仰いでその言葉を信じるから、信仰なのである。証拠を求めたり担保を求めたりするものではない。
神の言葉を信じなかったからである。天使ガブリエルの言葉を信じることができなかったからである。同じことが、来週も出てくる。マリアである。「お言葉通り、この身になりますように」これが、マリアの信仰である。神様の心に耳を傾けるとは、そのようなことである。あちこちで結婚式をするが、それまでの間、どれだけプレゼントをして、それが証拠になるわけではない。プレゼントはプレゼントである。証拠ができるわけではない。言葉が一番大事なのである。あの言葉がすべてなのである。心を表すのは、言葉だから。神様は言葉と心をひとつにして、行いをもって保証してくださる。証拠があるとするなら、神様がいままでなして下さった歴史である。私たちは知っていなければいけない。本当の喜ばしい伝えが、このガブリエルによって、ザカリヤに伝えた。それをそのまま感謝して、本当の救い主がいつ到来するのか、わくわくしながら待つこと。それが、一番大事である。神様の言葉をそのままに受け入れて、その御言葉通りになるようにと願うこと。
神様はいつでも、必要なときに歴史の中に介入してくださる。
(2011年10月30日 釜土達雄牧師)

あなたの願いは聞き入れられた(ルカによる福音書 1章5節~17節)

2011-10-23 11:53:45 | 主日礼拝
 先週からルカによる福音書の連続講解がはじまった。先週は、1~4節でテオフィロへのあいさつ文から御言葉に聞いた。テオフィロという人が、主の福音に出会い、その教えが確実なものであることをよく分かっていただきたいために、最初から順序正しく報告する、と言われている。自分の思いが高まって人に伝えるので、ある部分が誇張されたり、削除されたりする。冷静に客観的に、何人もの人から取材をして、順序正しく書き連ねることを目指している。ルカが医者であることを知っている。聖路加病院が、このルカに基づいていることを知っている。人から聞いたことをなんとなく書いたのではない。自分の思ったことを誇張してしまうタイプに人だったとも考え無くて良い。このルカによる福音書を読むときは、冷静に、客観的に、複数の人が見聞きしたものについて書いてあると理解していってよい。そのルカが、福音の最初として記したのが、この箇所である。公の生涯30歳からではなく、系図を書き連ねるのではなく、福音のはじめは、人々が目にして耳にした福音のスタートとしてふさわしいと考えたのが、この物語なのである。他の物語も重要だが、どの物語をスタートにしたのかを興味を持って味わったらよい。だれが、考えてもイエス様から始まるべきでないかという人がいるかも知れない。しかし、今日の1章17節に書かれている。
 彼はエリヤの礼と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。
 それが、バプテスマのヨハネの役割であった。だから、イエス様の話の前に、バプテスマのヨハネの話からはじめなければならない。そこで、ヨハネの誕生物語がここに入れられた。福音書の最初を飾るに相応しいと思って、ここに入れている。今日は、そのことをしっかりと味わっていきたい。

 ルカ1:5

 ヘロデ大王である。イエス様が生まれたときに、ユダヤの王だった人である。イエス様の誕生。エルサレムの神殿は、このヘロデが建築したものである。ソロモンの時代にはもっと低かった。ヘロデの時代に、あんなに立派にした。ローマ帝国の中にありながら、知恵をつくして、独立国家のようかのようにふるまっていた、王である。傑出した才能の持ち主であった。そういう王として評価してよい。属国の中にありながら、独立的にふるまえるようにした。しかし、多くの人はこの王のことを嫌いである。3人の博士が去った後にイスラエルの二歳以下の男の子を全部殺したのは、彼である。

 問題は、ザカリアという人である。その妻エリザベトは、アロン家の娘の一人とある。モーセの神様から聞いた言葉を民衆に語ったのは、アロンである。モーセの兄である。簡単に言えば、エリート中のエリートである。二人とも日のうちどころがなく、エリザベトは不妊の女であり、歳をとっていた。

ルカ1:8~9

 主の聖所に入って香を焚くのは、特別な職であった。一生に一度も、この香を焚く役目が回らずに死んでいくものもいく。奥の至聖所である。そこにあるのは、モリヤの山の岩である。そこで、神様のために香を焚く。ザカリアには、その役割が回ってきたのである。
皆が外で祈っていた。いまは自由祈祷なので、何を祈っても構わない。ご存知のように、カトリックの方々は式文祈祷である。教会へ行ってお祈りする。プロテスタント教会は、教会に行かなくてもお祈りができるので、教会には鍵がかかる。この時代には、神様に対して祈るとは、基本的なお祈りのパターンがあった。それを逸脱するのは、特別なことであった。外で祈っているというのは、イスラエルの救いであった。救い主が来ること。そして、イスラエルが救われて、神の国として立つこと。祭司たちの指導のもと、間違えたことを祈らないように、訓練されていた。詩篇が朗読されていた。ザカリアは至聖所で香を炊き、民衆は祈っている。そこで、主の天使が現れ、香壇の右に立ったのである。

ルカ1:12~16

 ザカリアの願いとは何だったのであろうか。外で祈っている人たち、祭司たち。イスラエルが救われることであった。主の前に立ち、独立を果たして、救い主がやってきて、自分たちを開放してくれることを祈っていた。
 ザカリアが祈っているのは、イスラエルの救いである。神の民として生きることができるようになることである。ローマのカエサルを神とすることなく、税金もローマに吸い取られること無く、イスラエルが国として独立することであった。しかし、天使が言ったのは、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。」
 ザカリアが個人的な願いをしていたのであろうか。ありえない。しかし、天使は「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。」と言ったのである。個人的な話ではない。ここが、この物語の肝である。
 しかも、こうかかれている。「エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子どもがなく」当時は、こう考えられていた。神の前に正しい人に、子どもが与えられないはずがない。救いは、その父母が死んだあと、子によって受け継がれる。子どもを通して救われると救われると信じられていたのである。子どもがいないと救いに入れられない。子どもに恵まれているということは、正しい人生を生きてきて、祝福に入れられている証である。
彼らは救いから漏れた二人だったのである。神の神殿に入って祈らなければいけないイスラエルの救いの中に、入れられていなかった。二人のふるまいは非の打ち所がなかったが、子どもがいないことで、まわりからは、実際のところは何かあるのではないか、と見られていたのである。
エリサベトの言う恥とは、子どもが与えられなかった恥ではなく、救いに入れられないという何らの事情があると人々から思われていた恥だったのである。

 ザカリアは、香を焚く役割を老人になってから与えられた。くじびきとは、主の選びということである。自らが主によって、拒絶されている救いについて、民衆を代表して祈るというザカリアの心情はいかばかりであったか。これが、ルカによる福音書の最初の物語なのである。イスラエルを救ってください、と祈り続けていたザカリアに、あなたもその救いの中に入れられることになったのだ、と言われたのである。あなたも、神の国の中に入れられる存在になるのだ。それが、「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」というメッセージなのである。神様から拒絶されると思っていたザカリアが、神の救いに入れられるという体感できるメッセージは、子どもが生まれるということだったのである。
 私たちは、いまはそう思っていない。
 この福音のすばらしいことは、彼らの知っている知識の中に入ってくださっていることである。こうしなければ救われないと思っている。その人の心の中にまで飛び込んできて、天使ガブリエルが、あなたの願いは聞き入れられたと言っているのである。最後は救ってあげるから安心しろ、と言ったのではない。あなたは、あなたの知っている知識にしたがって、子どもを与えることを決心されたよ、と言っている。これが、聖書の福音である。いろんな仕方によって神様と出会う。病気が癒されて、知的な欲求によって、なんとなく体感して。いろんな仕方がある。神様は、その心にしたがって、ちゃんと福音をくださる。そのときに、怖がらずに神の言葉に耳を傾けることである。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた、と言っている。
 そこで、ザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」と。だから、口が聞けなくなったのである。神様に向かって疑わない。神様に向かって心を開く。それだけである。ちゃんと神様の話を聞こうと思わなければいけない。耳を傾けないと。ちゃんと耳を傾けたところに、本当の喜びが与えられた。
そのことに信頼しよう。
(2011年10月23日 釜土達雄牧師)

よく分かっていただきたい(ルカによる福音書 1章1節~4節)

2011-10-16 11:50:02 | 主日礼拝
 本日からルカによる福音書の連続講解がはじまる。神様が主導権を持っておられる。神様の方が歴史の中に介入してこられて、神様の思いを語られる。これが、聖書の信仰である。ある詩人が、富士山に登るには、あちこちから登る路があるが、頂上はひとつ。いろんな信仰はあるが、神への信仰とは、どの路を通っても、ひとつの神へと至る。多くの日本人は、なるほど、と言ってきた。富士山だと思って歩いて行ったら白山だったらどうするか、と言った。人が神を求めるという点では同じである。土の道をとおっても、神に至る路は同じだと語るのではなく、神様の方が地上に降りてこられて、私はここにいる、とおっしゃる。神様の方が私たちに向かって語りかけてこられる。それが、旧約聖書であった。歴史的であり、具体的である。実際に、その場所にある。ベツレヘムの町は今でも存在している。いまから2000年も前のことではあるが、小さな村があり、この場所であろうと言われている。現実に、そこに教会が立っている。
 福音書は4つある。マタイ・マルコ・るか・ヨハネである。最初に書かれたのはマルコによる福音書である。それを土台にして、マタイは、ユダヤ人のための福音書を書いた。マルコによる福音書を土台にして、ローマのテオピロに対して書いた福音書がある。著者は、お医者さんであった。それが、ルカによる福音書である。自分たちのグループの中だけにある伝承だけで書かれたのがヨハネによる福音書である。それぞれの視点がある。それらが、どういう視点であったか。ルカによる福音書は、ひとつの目標を持って書かれている。それが、本日の箇所である。

ルカによる福音書 1:3~4

 ルカという人の福音書の書き方は、自らの思いや願いとは距離がある。すべてのことをはじめから詳しく調べるという点にある。旧約聖書の言葉をたくさん引用して、彼らを説得しようとしているのが、マタイによる福音書である。私がどう思うかではなく、その事柄が正しいことなのか、どういう流れの中で起こったのか、詳しく聞いて調べて、この地域のことについてご存じないテオフィロ様に、順序正しく書いて、報告書として献呈したものである。そうであるがゆえに、ルカによる福音書を書いたルカが、テオフィロに向けて書いた報告書は、もうひとつある。

使徒言行録 1:1~2
 
 こうやって、第二巻がはじまる。ルカは、福音書を書いたあと、第二巻を書いている。それが、使徒言行録である。調査報告書だということを知って読んだ方がよい。なるべく客観的に書いているということを知った方がよい。これと、全く対角線上にあるのがヨハネによる福音書である。私は、こう思う。こうである。あなたが何を言おうとも。ルカによる福音書は、事実に忠実に語るので、結論がわかりにくいという特徴もある。
 順番を記録するためではなかった。それが、1~2節そして、4節に書かれている。

 わたしたちの間で実現した事柄について、多くの人が書こうとしているが、私は時系列に並べて報告したい、と言っている。その理由は、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい」からである。

 つまり、このテオフィロはキリスト者だということである。あるいは、求道者かもしれない。お受けになった教えについて、あの使徒たちが言っていることが、間違いなくそうであるということを調査している。ここで大切になるのが、お受けになった教えとは何か、ということである。私たちの間で実現した事柄とは何か、ということである。その内容をよくわかってほしいから、ルカによる福音書を書いている。だから、大事なのは「お受けになった教え」であり「実現した事柄」である。私達が読んでいくのは、私たちの間で実現し、お受けになった教えについて、である。
 このお受けになった教えについて、使徒言行録(第二巻)になると、これらをまとめて書いているところがある。それは、ペテロの説教である。ペンテコステのあと、ペテロが人々に向かって語っている説教がある。

 使徒言行録 2:22~24

 これが、私達の間で実現した事柄である。これが、伝えた事柄であり、お受けになった教えである。私たちの主イエスキリストの十字架と復活である。

 使徒言行録 2:36~38

 これが、メッセージである。ルカが書こうとしたその中身すべてである。十字架と復活、そして永遠の命への招き。それが、神様のご計画である。主イエスキリストが地上に送られ、地上を歩き、十字架につけられて、復活し、ペンテコステによって聖霊が送られて教会ができた。
 命のことについて聞くときは、注意して聞かなければいけない。死んで、天国に行くのか地獄に行くのか。永遠の命の話。教会が語り続けているので、なんとなく知っている。死んだ時に裁きがあることも。聖書が語っているのは、その生命の問題である。永遠の命の問題である。忘れてはならない。聖書が語っているのは、永遠の命のことである。十字架についたイエスが、死んだ後、生き返られたということである。教会が語っているのは、こういうことである。この地上を受けているときに、すべてのことが死によって終わることを知っている。死が、どれほどのことであるかを知っている。どんなに大きな会社をつくっても、ちゃんと後継者がいなければ、その努力は無駄になることを知っている。どんなに大事にしてきた田んぼや畑があっても、それを受け継ぐ人がいなければ、使い物にならなくなる。自分がどんなに愛しているものだといって、自分の生涯をかけたものだと思っても、自分が死んだ後に、それを継承してくれるものがいなければ、虚しいものとなる。
 病院では、最後に死んでいく。最後は集中治療室に入り、最後に家族が立ち会えることが少なくなっている。命を助けるために、全力をつくすので、それは敗北である。

 先日、NHKのテレビを見ていたら、日野原先生の特集をしていた。どうせ、人は死ぬのだから、こういうのをつけていなくてもよい、と言って酸素マスクを取ったりしていた。日野原先生は、多摩川平安教会の教会員である。一度、伝道集会で行ったことがあるが、聖歌隊の中に、日野原。聖路加とは、セント・ルカである。このルカによる福音書を書いたルカのことである。あのルカがお医者だったから、聖路加病院とつけたのである。死について、とてもおおらかに語られるのは、永遠の命を信じているからである。死によってすべてが終わるのではない、ということを知っていなければ。16歳の少女の担当医になって、延命治療を施したことを後悔して、死がすべての敗北だと思っているなら、生きる喜びを語るのは、至難の業である。しかし、私たちの命をつくってくださったのは、神様である。人生をお与えになったのは、神である。あの家族のもとに生まれさせてくださったのは、神様である。死んでしまえば終わりになる人生ではない。愛するすべてのものを失ってしまうことはあり得ない。だから、ルカは一生懸命語った。あなたの命には希望がある。いままでは実現していなかったが、私たちの間で実現したことについて、報告したいと。お受けになった教えが、確実であるということを知ってほしい。永遠の命というものに、神様が約束を与えて下さった。それについて、今から書きますから、よく読んでください、と。
 ルカは物語として書いた。パウロは、これをもっとストレートに書いている。自己体験として、書いている。
 コリントの信徒への手紙1 15:1~11
 もういちど、3節以降を読む。「最も大切なこととして、わたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファ(ペテロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。」
これが、実現したことである。
 コリントの信徒への手紙1 15:12~19
 本当にそうである。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなものです。」
 
 人はだれも死んでいく。死によって、閉ざされていく。イエス様の言っていることは、なかなかよいことだし、そのように私も生きてみたいという人は多くいる。しかし、そういう人は、最も惨めな人たちである。永遠の命を与えるためであった。その事実が、私達の喜びのすべてであった。私達が永遠の命の中に生きるということが、喜びのすべてではない。神様が、私たちの命を慈しんでくださっている、慈しみの方であること、私たちの責任をとってくださる方であること。私たちの命が保証されているがゆえに、自分の存在、すべてをかけて仕えても、なんら無駄なことはないということである。永遠の命を保証してくださる。すごいことである。それを、ルカは、これからメッセージとして語りはじめる。私たちに3年かかる。ゆっくり読んでいく。どれほど素敵なメッセージが込められているか。じっくり、味わいながら読んでいきたい。
(2011年10月16日 釜土達雄牧師)

強く、雄々しくあれ(ヨシュア記 1章1節~4節)

2011-10-02 11:48:39 | 主日礼拝
 聖書が語る中心的なメッセージは、祝福を受け継ぐイスラエルに与えられるメッセージは、「主があなたと共にいる」というメッセージである。聖書に従って歩む、御言葉に従って歩むといったときに、繰り返し耳にするのは「主があなたと共にいる」というメッセージである。聖書のどこを切っても、そこには、主があなたと共におられるというメッセージで貫かれている。
 私たちは、キリスト者として地上を歩んでいる。そのときに、様々な困難が襲いかかってくる。人生を生きていくときに、苦しみや悲しみのみならず、誰もが引き受けなければならない、親族との別れや自らの老いと死がある。生きているときも、死ぬときも、死んでいるときも私たちに与えられる変わりなきメッセージは、主があなたと共にいてくださるというメッセージに他ならない。そのメッセージのみが、繰り返し聞かされていく。
 今日、私達がヨシュア記1章1節から読む。来週は詩篇42編を読む。42編と43編と読み進める。そののちに、いよいよルカによる福音書の連続講解に入っていく。その前に、主が共にいてくださるというメッセージを聴き続ける。一箇所、新約聖書を引いておきたい。旧約聖書を土台として生きていた人々を対象に書かれたマタイによる福音書で、系図のあとに記されている箇所である。

マタイによる福音書 1章18節~25節

 もう一度、22節を読む。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる」この名は「神は我々と共におられる」という意味である。

 イエスキリストの誕生自体が、預言者を通して語られていた。預言者を通して言われていたことというのは、一体、何が実現するのか、というと、「神は我々と共におられる」ということが実現するのである。神は我々と共におられるという福音が実現するためだったのである。聖書の福音の大いなる喜びは何かときかれて「神が我々と共にいてくださること」と答えて、何も間違っていない。キリスト者が力を得る、その源は、「主が私たちと主におられる」ということである。苦しみの中にあっても、困難の中にあっても、挫折することなく、勇気を持って歩めるのは、「主が私たちと共にいてくださる」からである。全能の神様が、あなたを見捨てることなく、共にいてくださるからである。私たちを生まれさせ、そこに遣わされた主が、あなたに役割を与え、私たちは主の御名の栄光をあらわすため、その苦しみ、悲しみの中に遣わされている。私達が生きる源は「主が私たちと共に生きておられる」ということなのである。

 ギリシャ語では、イエス。ヘブライ語では、ヨシュアである。ヨシュア記を読むときに、イエスの生涯が、ヨシュアの生涯と重なっているがゆえに、神が、この子を「イエス」と名付けなさいとおっしゃっていると知っていなければならない。今日の最初の箇所が、今日のテキストである。七尾幼稚園の園児募集が始まった。わたしが、七尾幼稚園で語っていることは、これである。「誰も見ていなくても神様が見ていらっしゃるのよ」という話である。これは、本当に語り継ぐべき大事なメッセージである。あなたは一人ぼっちじゃない。お母さんがいなくても、おじいちゃんがいなくても、神様がちゃんとあなたのことを見ておられる。誰も見ていなくても、神様が見ていらっしゃるのよ、という言葉には、必ず「大丈夫」という言葉をつけておいてほしい。そうでないと、誰も見ていなくても、神様が見ていらっしゃるのよ、分かった?と言われると監視になってしまう。ルールを守らせるために、神様を利用する話ではない。私達が苦しい時、悲しいとき、いつも神様が見守ってくださっている。だいたい、1、2歳の子供たちは、ヨチヨチしている。そのときに、おじいちゃんは見ている。見ている。
 昨日、幼稚園の運動会だった。未満児の男の子が階段を踏み外して、一回転した。人間は見ていても手を出せないものである。人間が見ているのはその程度である。しかし、神様が見ているというのは違う。限界がある人間が見ているのではない。見ているというのは、共にいてくださるという言葉と同義語である。誰も見ていなくても、神様が見ていらっしゃる。それは、どれほど幸いなことか。
 しかし、主が共にいてくださると聞いて、不安に思った輩がいる。預言者モーセがいなくなって、出エジプトのときから共に生きてきたのは、4人だけであった。そして、いよいよカナンに入ろうとしていく。リーダーになれといわれたのが、ヌンの子ヨシュアである。神に命じられて、民を約束の地に連れて行くのが、ヨシュアの役割なのである。だから、イエス様と同じ名前なのである。違いは、神の子か人の子かということ。
 約束の地である。神が与えた地である。出エジプトのとき、モーセによって連れて行くと言ったが、人々の罪によって、モーセは死んだ。神様が一方的にヨシュアに向かって語りかける。あなたを見放すことも、見捨てることもない。ヨシュアに対して与えられたたったひとつの約束である。どんなことによって保証され、担保されるか。連れて行くときに、神である方が、保証として語っておられるのか「私が共にいる」ということだけなのである。

ヨシュア記 1章7節~8節

 そういわれても、心配で心配でしょうがない。ならば、あなたの身体で体感できることを与えよう。律法を守れ、と。間違えてはいけない。律法を守ったから共にいるのではない。共にいると言ったあと、ヨシュアが心配なら、律法を守れと言ったのである。
 律法を守ったら、約束の土地を与えると言ったのではない。律法を守ったら、成功する、と言っているのである。あなたがどこに行っても成功する、と書いてある。主が共にいてくださることを体感し、実感できるからである。主の祝福を身に帯びていることを感じながら成功する。主が約束の地に連れて行くことは、律法を守ることで、はじめて成されることではない。
 行く先々で栄え、成功する。そういうこととは、関係なく、私はあなたを見捨てないし、わたしが先祖に与えると約束した地をあなたがたに継がせる、と。無条件で、一方的な恵みである。でも、ヨシュアは心配だった。だから、9節がある。だいたい、人間は神様が一緒にいてくださるから大丈夫、とは思わない。一緒にいてくださるのは、知ってるけど・・・となる。分かってるけど・・・。神様に一緒にいてくださるのは知っている。「だけど」なのである。そのときに、あるのが9節なのである。

 わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならに。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。

 よく考えよ。この私が言っているのである。さっさとカナンに行け、と。何の保証も証拠もない。たった一つの保証は「私が共にいる」ということだけ。もちろん、成功したいなら、栄えたいなら、律法を守ればよい。しかし、それは救いの条件ではない。主が共にいてくださるということとは関係がない。何かがんばったから、イエスキリストがきたのではない。お百土を踏んだから、イエス様が十字架についてくださったのではない。生まれて出てきてみたら、もう十字架について救いが成就していたのである。
だけど、という気持ちになるかもしれないが、この言葉が、言葉を持って行きておられる神のみ心そのものだと信じて、この御堂から押し出されていきたい。
 どこに行っても、あなたの神、主は共にいる。信仰者の生活のすべてを貫くメッセージである。
(2011年10月2日 釜土達雄牧師)

これが主の過ぎ越しの儀式である(出エジプト記 12章24節~28節)

2011-09-18 11:46:49 | 主日礼拝
 今日は過ぎ越しの祭りの儀式について、定めのあった場所についてテキストとして聞くこととなった。皆さんが知っているとおり、私たちの十字架の主が、十字架につけられる時と、同じ時となっている。過ぎ越しの羊を屠る時、私たちの主も十字架につけられた。思い出すために、読んでおきたい。

マルコによる福音書 14:12~
マルコによる福音書 22~26

 最後の晩餐として知られるこの場面は、聖餐制定の場面である。そして、それは過ぎ越しの食事の場面だったのである。食事の定めがされており、主が十字架につけられるそのときであり、私たちが聖餐式を守っていくところである。それらが、どのように定められたかが、今日のテキストなのである。

出エジプト記 12:24~28

 現在に至るまで、過ぎ越しの祭りを聖餐式として守っている。そして、それはイースターの時であるので、この祭りを今でも守っている。

 今日は、後半で「救い」について耳を傾ける。しかし、前半扱うのは「神様に対してしっかりと儀式を行う、その儀式はだれのためのものであったか」ということである。最も大事な祭りであった。イースターの礼拝を守り、ペンテコステを守り、クリスマスを守り、毎週の礼拝を守り、聖餐を守っていくのと同じである。お祭りをするのである。しかし、それらは誰のためのものであるか、よくよく考えておきたい。
 あなたとあなたの子孫のために、と書かれている。
 誰が、何のために守る祭りなのであろうか。聖餐式を守っていくときに、主イエスキリストはなんと言われたか。
マルコによる福音書14:22~23
神様が喜ばれる儀式なのであろうか。それとも、私たちにとって喜びのあることなのであろうか。多くの人々が勘違いする。まつりごとは、宗教的儀式というのは、神様が喜ぶために備えられている、と。しかし、読んでみて欲しい。この祭り、聖餐は、神であるキリストが、私たちのために肉を割かれて血を流されたことを、弟子たちが忘れないようにするために、定められた儀式なのである。これが、聖書が語っている儀式である。それならば、過ぎ越しの犠牲はどうなのであろうか。
 神様がイスラエルの人々を救われたということを人々が忘れないようにするために定められた儀式である。神様が私たちを救ってくださったことを忘れないように、永遠に守れと言われたのである。神様が満足したり、喜んだりするためではない。イスラエルの人々は、忘れないようにするために、神様が定められた儀式なのである。人間のために定められた儀式なのである。守備一貫して知っていなければならない。献堂式の説教がインターネットにも載っているが、連合長老会の機関紙にも載っている。けっこう、評判がよかったのである。説教に評判というのもおかしい。神様の言葉なので。
 神様にとって礼拝堂が必要なのではなく、私たちにとって礼拝堂が必要なのだということが印象的だったらしい。神様は、人間が賛美をして、ヨイショをして神様になっているのではない。人間が、神様などいないと言っても、神様は神様なのである。神という方は、そういう方である。先週、東北地方の津波の現場を回ってきた。そこの教会の牧師で、おもしろいことを言う方がいて、心に留めた。ルカによる福音書の連続こうかいの重要なポイントを何気なくおっしゃったので、共感した。
 復活した主イエスには、傷があった。だから、わたしたちはこの津波の傷を残したまま礼拝堂に残したまま、会堂再建をしたいと。私たちは真っさらになった。そこは、津波の被害だったので、津波がここまで来たことを記しておきたいと。その会話の流れでおっしゃった。「復活の主には、傷があった」復活の主は、新しい身体だから、傷などなくてもよかった。しかし、主は傷を残して復活されたのである。弟子たちに対して、傷をみせつけるためではない。事実、トマスが疑った時だけその傷を見せた。あの虹の契約と同じである。もう二度とこの地を滅ぼすことはしない。あなたがたを救うために十字架についたことを私たちが忘れないためである。あなたたちを許したということを、あなたたちが忘れないために、神である私の身体に傷をつけた。だから、しっかりと確信しなさい。信じないものではなく、信じるものとなりなさい。それがトマスへのメッセージである。
 神様が私たちにしてくださることとは、神様にとって必要なことではない。私たち人間にとって必要なことをしてくださっている。だから、あの教会の先生は、ここまで傷がきたということを忘れないように、そして多くの人たちの祈りによって復興したということを忘れないために、その傷を残すと。実際の苦しみの中で、そのように考えて、復興を考えてくださっている。繰り返す。神様のために儀式があるのではない。私たちのために儀式があるのである。この礼拝も、神様にとって必要なのではなく、私たちが神様の心を聞きたいと思ったときに、この礼拝で聞くことが許されるのである。神様との対話がそこで成り立つから、礼拝も祈りも大切になさい、とおっしゃったのである。すべては、私たちに対する深い愛情のゆえに、神はこのことをしてくださった。過ぎ越しの祭りは、このような祭りである。

 さて、次は「救い」について耳を傾けたい。イスラエルの祈りは長い祈りであった。奴隷の状態から救われたいと願い続けてきた。それに対して、ずっと神は耳を傾けていないかのようにみえた。その願いを無視しているかのように見えた。しかし、そうではなかった。神様はモーセを選んだ。その召命の場面を見てみよう。

 出エジプト記3:1~6

 一方的に、神様がモーセに出会った。モーセは、もう奴隷ではなかった。エトロと書いてある。もう結婚しているのである。しかも、異教徒ミディアンの祭司の娘と。彼は、そこで一生を終えるつもりだった。

出エジプト記3:7~10

 神様は、彼らの痛みを知ったという。だから、私は行動すると。これが、神の決心である。このあとのモーセと神様とのすったもんだは面白いが、神様が、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から救い出すことを決心された。終末のときには、まとめて救うからそれまで我慢しなさい、ということではない。現実の具体的な苦しみに対して、その苦しみをつぶさに見て、叫び声を聞いて、その痛みを知ったというのである。放置されたのではない。だから、モーセに行け、と言われた。歴史の中に、神の意志が介入する。これが、神様である。天の御鞍に座しているだけでない。痛みがわかる方なのである。
モーセは、そのイスラエルの人たちのために、エジプト人を殺してしまったので、ここにいるのである。殺人事件を犯して、それほどまでにイスラエルを救いたいと思っていたのに、ちょっと安定した生活が手に入ると、もう行きたくないと言う。人間の決心とは、そんなものである。神様から遣わされたからといって、ファラオが「はいわかりました」となるわけでない。神様が言っているなら、その証拠を見せろということで、アロンの杖を蛇にするところから始まる。血のわざわい、蛙の災い、ぶよの災い、あぶの災い、疫病、腫れ物、雹の災い、いなごの災い、暗闇の災い。そして、最後の災として出てくるのが過ぎ越しなのである。

出エジプト記 11:1~10

 ファラオの心をかたくなにされたのは、主である。だから、過ぎ越しが起こったのである。

出エジプト記 12:1~13
       12:21~23

 過ぎ越しというのは、まさに「過ぎ越し」なのである。神様の裁きは、エジプトにそのまま来る。神の軍勢は、すべての家に入るために遣わされる。神の軍勢が派遣された。しかし、神の言葉を聞いて、それにしたがって行動した者の家は、過ぎ越した。傷のない1歳の羊。羊でも山羊でも。血を塗る。バカバカしいと思った人はしない。それは神の言葉だと言って、信じてその通りに忠実に行った。神の言葉を聞いて、行ったのである。聞いて行う。神の軍勢は、神の言葉を聞いて行った者の家の前を過ぎ越したのである。これが「救い」である。裁きはすべての人の前にある。「救い」とは、過ぎ越したということであって、神の言葉を聞いた民の前を裁きが過ぎ越した。何も変わらない。過ぎ越したことが「救い」なのである。
 主によって清められた衣を着るということは、天の軍勢に囲まれて天の国に入っていくことではない。神が、この地上を裁かれるときに、どのような恵みを与えられるかというと、裁きの軍勢が過ぎ越していく「救い」に招かれている。そして、それは神様が常に共にいてくださるということである。神様は、神様の言葉を聞いて、行っている者を裁かれない。
 子羊が死んだからと言って、救いを得るわけではない。死んだことを知って、血を受け止めて、鴨居にぬらなければ。その血を受けていなければ。神の軍勢によって過ぎこされるのである。イエス様が救い主だと信じている者は多くいる。しかし、聖餐を軽んじる者は多い。主の犠牲を軽んずる者も多い。私たちは何故に聖餐式を守っているのか。それが、過ぎ越し「救い」だから、である。
(2011年9月18日 釜土達雄牧師)

主の山に備えあり(創世記 22章1節~3節)

2011-09-04 15:19:09 | 主日礼拝
 アブラハムが信仰の父と呼ばれる、非常に有名な箇所である。聖書箇所は創世記22章1節から3節であるが、19節までを、ゆっくり朗読する。

創世記 22章1~19節

 この一連の物語の出だしの所が、今日のテキストである。ここにアブラハムが信仰の父と呼ばれる根幹がある。世界の人口の約4割がキリスト者、同じく4割がイスラム教である。旧約聖書に新約聖書が加わり、キリスト教の聖典である聖書となる。この同じ旧約聖書にコーランが加わるとイスラム教になる。旧約聖書のみを聖典とするユダヤ教を加えると8~9割が旧約聖書を学び、正典としている旧約聖書の民である。そのすべての人々が、アブラハムを信仰の父を呼んでいるのである。
 モリヤの地、私の命じる山。それが、イサクを縛り付ける岩がある。神殿には、至聖所がある。今は黄金のドームが建っている。それは、イスラム教の聖地として中に入ることが制限されている。そのドームの中には、岩がある。この礼拝堂は岩とほぼ同じ大きさのデザインとなっている。それこそ、アブラハムがイサクをささげようとしたモリヤの地であり、イサクを縛った岩なのである。そこにモーセの十戒が記された石が納められている。世界の常識なのである。なぜ、多くの人が、あの嘆きの壁のところで、祈っているのか。まさに、その至聖所を至聖所として、取り戻したいと願っているからである。ここが、多くの人々が、信仰の父アブラハムの信仰が現れた場所として大切にしているのである。ついでにいうならば、この岩から、昇天した人物がいる。そのときに、岩が一緒についていこうとした。昇天した人物は、マホメット。その時に、岩を地上にとどめたのが、天使ガブリエルである。本当かな、と思うが、そのときのガブリエルの手の跡が岩についているという。言いたいことは、そのくらいに有名な箇所なのである、ということである。
 
創世記

 供の二人の若者はその場所におかれ、アブラハムと息子のイサクがモリヤの山に登っていく。

 アブラハムが持っていたのは、薪である。それを息子イサクに担がせる。イサクは、自分が捧げものであることを知らない。薪は、自分を燃やすための材料であった。しかし、イサクはそのことを知らない。二人の間では、何も状況が語られていない。アブラハムが持っていたのは、火であった。それは、イサクを燃やすための火であった。刃物であった。それはイサクを殺すためのものであった。
 二人は歩いていったが、彼らの会話は滞っていた。

 神様に捧げ物をするときに、その捧げ物がない。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす捧げ物にする子羊はどこにあるのですか」アブラハムが献げるように命じられたのは、今、質問している息子のイサクである。「私の子よ、焼き尽くす献げ物の子羊はきっと神が備えてくださる」これは、弁明をしただけである。イサクは、その父、アブラハムの言葉を信じて歩いていった。
 
 モリヤの山につく。神を礼拝するための場所。薪を並べた。持ってきたのはイサクである。アブラハムは、イサクを縛る。わが息子イサクを薪の上に載せるのである。このときに、イサクの言葉は記されていない。どのような葛藤があったのか、わからない。わざとではない。神様から命じられたように、事実として殺そうとしたのである。これが、信仰の父と呼ばれるアブラハムが行った行為である。そして、神の言葉の方を大切にしていたことを「信仰の父」と呼んでいるのである。神の言葉と、愛する息子、贖いの子羊があることを知っていたのではない。神様が殺せと言ったときに、冷徹に息子を殺そうとしたこの姿である。信仰とは何か。信仰とは何か。この日本にいて、信仰や宗教という話をきく。拝んでいる人は山のようにいる。少なくとも世界の8割の人が、信仰と呼んでいる姿である。信仰の父、アブラハムの信仰である。誤解を恐れずに言うならば、神の言葉だと言われるならば、愛する息子さえ殺そうとする。かくありたい、と思うのである。
 なぜ、誤解を恐れずにというか。「誤解」だからである。これを単純にそのままその通りに信仰と読んでは、いけない。私が読んできたような論調で、愛する者の命を殺すことより、神様の言葉に従うことが大切だと読んでしまう危うさがあるのである。
 アブラハムは、神に忠実だったわけではない。神はアブラハムは、神を信じる信仰者になれ、と言われたのではない。少し戻る。

創世記12章1~3節

 神様がアブラハムに求められたのは、祝福の源となることであって、信仰の父となることではない。なぜ、祝福の源とされたのか。それは、祝福の源となるように、地上の支族はすべてあなたによって祝福に入るためである。アブラハムは祝福の源として立てられた。信仰の父として立てられたのではない。このことのいついて、アブラハムはいつも懐疑的であった。

創世記15章1~3節

 こういうのを何というか。皮肉というのである。祝福をくれて、源にすると言った。祝福されると言ったが、見てご覧なさい。私には子孫がいません。アブラハムは頭にきているのである。かっこいいことばかり言って、約束を反故にする。いい約束をする人はたくさんいる。実際そういうことにならない。だまされても、だまされても、だまされるのが人間の性である。反論をするとつぶされるので、ちくりと皮肉を言うに留める。相手は神様である。
ところが、神様は平然と言う。アブラハムは、主の言葉を何でもすぐに信じて、従順にしていたオバカさんではない。神様が言っていたことに疑いを持って、腹を立てて、文句を言いながら、神様が言うから、「しゃあない」と言って神様を信じていたのである。神様と語り合って、不信感を持って、主を信じるのである。これが、アブラハムである。

創世記18章1~15節

 大事なことは何か。同じような物語がある。イエス様の誕生のマリアの物語である。神様にできないことはないと言われているのに、サラは笑うのである。神の全能を信じるのではなく、自分の経験を信じている。常識をふまえて考えてください、と言って笑ったのである。神様の言葉を人間の常識で判断する。だから、サラは笑った。牧師として、未言葉を取り次いでいて、会衆の方から、常識としてというざわざわした雰囲気を感じることがある。信じられないようなこと、論理的に論破することはできる。哲学的には、神の存在証明は、16世紀に終わっている。なのに、日本では信じる者の自由だというレベルである。信仰というのは、いわしの頭も信心から、だと思っている。だから、アブラハムがイサクを殺そうとしたことを信仰の父と見るのである。信仰は、もっと冷静なものである。アブラハムは、神の言葉を疑っている。サラは「いいえ、私は笑いませんでした」と嘘までつくのである。それが、信仰者の姿である。


 イサクと名付けたのは、神を笑った自分に、心からの喜びを与えて下さったからである。イサクとは、アブラハムの信仰の葛藤が込められた名前なのである。それがイサクという名前である。イサクという男の子の話ではなく、アブラハムという人物の、信仰の葛藤の名前なのである。そう思って、神の言葉を読んでみたい。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい」
 信仰の葛藤の中で、どちらをとるのか。私の言葉を信じるか、と問うているのである。信じるのか、笑い飛ばすのか、を問うているのである。神様の言ったとおりにするのが、信仰ではない。神様の言葉と格闘しているのが、信仰なのである。笑い飛ばすのか、それとも神の言葉として受け入れるのか。そこが、葛藤である。言われたことをその通りにすることは、どれほど簡単なことか。神様は言われた。「あなたの愛する息子、・・・モリヤの地に行きなさい」
アブラハムが、神様と格闘してきたことは、何か。祝福の源となるのは、世界の人々を憎んでいたのか、愛していたからか。10人の正しい人がいても滅ぼすのですか、と祈ったのか。自分の幸せというものを、自らに喜び、笑いを与えるのが神様だと信じたからであろうか。アブラハムは神の愛を信じて、葛藤していった。神様が私に語られる言葉は、愛なるうえである、と信じたから、二人の若者とイサクを連れて、神の命じられた場所に向かっていったのである。神の愛を信じるがゆえに、歩いていったのである。

 心から信じていた神様。私が愛するものを神様が取り去るはずがない、と心から信じていたのである。今までとは違う人生を生きていかねばならないがゆえに、神に従おうとした。神が愛なる方であるならば、ためらうことなく、息子を屠ろうとしたのである。神の愛なる業を信じていたからである。

創世記22:11~12

 この畏れは、恐れではない。愛なる方であることを信じて、神を畏れるものであると分かったからである。
 言われたとおりにするという意味ではない。神の愛を信じるもののみに与えられる喜びである。神が私たちを愛していてくださる。愛することも、愛さないこともできる自由の中で、あえて神を愛する方を選ぶ姿が信仰の父アブラハムの姿である。わたしは、アブラハムを信仰の父と呼ぶのではなく、祝福の源と呼びたい。でも、このことがわかっていれば、本物の信仰の父だと言えるのである。
(2011年9月4日 釜土達雄牧師)

とりなしの祈り(創世記 18章16節~20節)

2011-08-28 12:21:38 | 主日礼拝
 創世記11章までは、おおらかな神話の形を借りて、大切なメッセージを私たちに伝えている。天地創造の物語は、世界が7日間でできたことを言いたいのではない。すべてのものは神様がつくり、そのつくったものを神様が自己点検して、「良いものだ」と言っておられる。世界が何日でできたのか、どれだけ時間がかかったのか。それらは、科学が語る。聖書が語っているのは、Howではなく、Whyである。世界がどのようにできたのか、ではなく、なぜできたのか、である。
 夏の間のささやかな楽しみは、仕事をしている間、ラジオを聞くことである。好きな番組がある。それは、NHKの「子供電話何でも相談」である。お月様がいつも、僕についてくるのですが、何でですか。お父さんは、僕のことが大好きだからついて来る、と言っていました。どう答えるのか、と思っていたら。地球と月との距離があって、それでついて来るように見えるんだよ、という。質問者は5歳の子である。科学で、小さな子供たちに説明するのは大変である。今年は特に哲学的な質問が多かった。なんで、人間はお猿さんから進化しなければいけなかったのか。解説する人は、知識の無さで困っている場合もあるが、なぜ、という問いに答えられない。それは、科学の実像である。かつて、科学に信仰が介入してしまったときがあった。天動説と地動説の問題である。しかし、聖書が語っているのは、世界がどうできたかではなく、なぜできたか、である。なぜ、人をつくられたか。人に何をせよとおっしゃっているか、である。信仰が答えなければならないことと、科学が答えるべきことを、信仰者がきちんと分けていないと、迷った信仰「迷信」になってしまう。わたしたちは、冷静な、人間の理性で、信仰を持っている信仰者である。わたしたちが、この日本という国に生きているということである。聖書に耳を傾けるのは、非常に少ない。それは1%に満たない。しかし、世界の人口の4割がキリスト者である。また、ほぼ同数の人々がイスラム教である。共通しているのは、旧約聖書である。旧約聖書の民ユダヤ教を合わせても、少なくとも世界の8割の人々が、旧約聖書を土台としている。これは、知識として知っていなけれなならない。おおらかな神話の形を借りて、神様が私たちにメッセージを与えていると知っている人は、けっこうな数になる。それらの人々が、信仰の父と読んでいるのが、アブラハムである。先週、アブラハムの召命の場面から御言葉を聞いた。神様が、この歴史に介入して来られたという歴史的事実について聞いた。高き天の御鞍におられて、眺めているだけの方ではない。このアブラハムのお墓は、この地上に存在している。もう一度、読んでみよう。

創世記12章1~3節

 イスラエルの誕生も、出エジプトも、イエスキリストの誕生も、十字架と復活も、教会の誕生も、私たちの今の生活も、このアブラハムの創世記12章と関わりのない状態で起こっているのではない。神に対して帰依することにあれほどに熱心なのか。すべては、この言葉にある。
 そして4節にアブラムは主の言葉に従って旅立った、とある。アブラムは特別な民として立てられた。事実、歴史は、イスラエルに特別の地位を与えて、その信仰の継承者が人口の8割になるまでになっている。なぜ、神はアブラムを祝福したのか。それは2節、3節の後半に書いてある。祝福の源となるように。地上の支族はあなたによって祝福に入るように。どんなことがあっても、あなたを見捨てないというインマヌエルメッセージである。これが、祝福の根幹である。結婚式のときに、祝福をお与えくださいとよく言っている。どんなことがあっても、この二人を見捨てない、と言っているのである。祝福するというのは、「おめでとう」というのとは違う。どんなことがあっても、私たちはその二人を引き受ける。それが、祝福を与えるものの務めである。聖書には、祝福は自分に対して行ってはいけないと書いてある。神様の祝福が私にあるように、と祈ることは許されている。しかし、私の祝福は、私以外のものに宛てられなければいけない。祝福の源となるということは、そこが源流だということである。アブラムによって、すべての支族が祝福に入る。だから、あなたが祝福するものを祝福し、あなたが呪うものを私は呪うと言ったのである。そのイスラエルが主の祝福を担うつもりがない、と言ったときに起こったのが、バビロン捕囚である。
 先週、私たちは教会として、同じ祝福を担っているということを聞いた。わたしたちの責任、祝福の担う者に与えられている責任が、今日の箇所に具体的に示されている。

創世記18:16~25

 主と呼ばれているのが、神様である。これが、ソドムとゴモラの滅亡前の姿である。これはよく知られていて映画にもなった。しかし、18章の物語は多くの人は知らない。ソドムとゴモラの話は、19章以下よりも、18章の方が重要である。特に、私たちにとっては。アブラハムは祝福を担うものとなった。そのアブラハムに主はなんと言ったか。
「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」神様は、アブラハムを選んだ。祝福を担うものとして、祝福の中に入れた。私たちも同じ祝福を受けて地上を生きている。礼拝の最後に祝福を受けている。地上に遣わされている。そのアブラハムに対して、(すなわち私たちに対して)主はこう言われている。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」と。神様からの祝福を受けるというのは、神様からの祝福を担うというのは、神様がしようとしておられるということを、聞かされるということである。自分の心を、この人達には明らかにされる、ということである。これが、祝福を担うものにとって、最も大事なことである。
 多くの人達は、神様を信じるというときは、自分の気持を神様に言う。ああしてくれ、こうしてくれ、こういう困難から開放してくれ、と。しかし、アブラハムが聞かされたのは、神の心であって、自分の心を言う話ではない。一方的に神様がアブラムを選んで、祝福の源とすると言った。人間の心を聞くために、アブラムを選んだのではない。アブラムが神様を選んだのではない。神様がアブラムを選んだのである。祝福を受けるとは、神様の心を聞くということである。だから、はじめて教会に来た人はびっくりする。どうやって神様を拝んだらよいのか、と思って入ってきたら、讃美歌を歌って、長々と説教が続く。教会は神様、神様と訴えに来る場所ではなく、神様の言葉を聞きにくる場所になっている。昔から、神の言葉は聞くものであった。神の民は、神の言葉を聞くものとして立てられた。聞いて行うものとして、神の民は立てられた。
 主がアブラムに約束されたことを成就するためである。私の心を全部かたって聞かせよう、と神様がおっしゃっている。多くの人々は神様を見たいと言う。どこにいるんだ、と言う。姿形を見ることと、神様の心を知ることと、どちらがより近いのか。彼氏の顔が見たいというのと、心が知りたいというのとでは、どちらが結婚の条件になるのだろうか。彼氏の気持ちを聞かなければ、結婚の決断はできない。これは、北陸学院高校では受けの悪い話であった。でも、神を見たものは死ぬのである。神の心を知ったものは、救われる。これも伝わらなかったなあ。私たちにとって大事な事柄は、神様の心を知っていることである。神様の心を知っているのは、大事。それが、祝福を担っているものたちの務めである。心を知らされたアブラハムは、その神の心に愕然とするのである。

創世記18章23~25節

 ソドムとゴモラの町に50人の良い人がいたら、その50人のために町を赦すということを考えないのか。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。全能のなんでもおできになる神様の心を聞くことのできる。議論をし、意見をし、やめてくださいと訴えることができる。神と直談判が許されたのは、祝福の源である、祝福を受けたものだけである。それが、神様が祝福してくださるという中身である。アブラハムは訴えた。「正義を行われるべきではありませんか」これは祈りである。神と語り合い、神の心を帰ることさえも、神によって許されているということなのである。
 私たちが、イエスキリストの名によって祈ることが許されていることは、安請け合いすることではない。誰にでもひょいひょい言う話ではない。神様に祈るとは、特別なことである。市長は誰か。あの人のところに行くには、議員の一人も必要である。全能の神に直談判できるということは、すごいことである。神様を奴隷だと思っている人には、大したことではないかもしれない。全能の神であると知っている神に祈ることの凄さ。しかも、その神様が、アブラハムの言うことを聞いたのだから。ところが、聞いてもらったアブラハムの方に自信がなかった。

創世記18:26~32

 クリスチャンの数が多くても少なくても関係ない。100人の礼拝を守ろうが、1000人の礼拝を守ろうが、あまり変わりはない。一人ひとりの信仰者が、神様に従うことは大事である。しかし、10人の真なるキリスト者がいなければならない。わずか10人でも極めて厳格な10人がいれば、とりなしの祈りの対象になる。大きな教会を目指す必要はないが、アブラハムと同じ、このとりなしの祈りができる、10人の信仰者がこの地にいなければいけない。そうでなければ、七尾がほろばされる、能登が滅ぼされる。一人ひとりが救われるために洗礼を受けているのではない。とりなしの祈りをするものとして、この礼拝堂に集わされている。このまちのために、愛するもののために、とりなしの祈りをし続けなければならない。私は、キリストの十字架と復活を受け入れたあなたたちを義としようとおっしゃっている。この10人がいなかったから、ソドムとゴモラは滅ぼされた。愛するもののために、この七尾のために、石川県のために、北陸のために、日本のために、世界のために、とりなしの祈りをし続けていく10人にならねばならない。その合間に、ご自分のお祈りはどうぞ。しかし、とりなしの祈りこそ、祝福を受けたものの最大の務めであることを覚えておきたい。
(2011年8月28日 釜土達雄牧師)