日本基督教団 七尾教会

能登半島にたてられた七尾教会の日々です

堀岡先生、愛餐会で語る

2005年06月19日 | 教会の行事
七尾教会出身の堀岡先生は、現在、北陸学院中学・高校の校長先生です。
北陸学院高校は、ずっとキリスト教系の女子高として名を知られていて、通称「ミッション」と呼ばれていますが、今年の4月から共学になりました。
現在、13人の男子高校生がいるらしいのですが、そのうち、4人が野球部に所属。
堀岡先生は、野球のできるグラウンドの整備を理事会に提案しているとか。。。
いつか、北陸学院が星稜高校をやぶって、甲子園に出場するかも?!
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来週は堀岡先生を囲んで愛餐会

2005年06月12日 | 教会の行事
来週(6月19日)釜土牧師は山口県小月教会礼拝奉仕のため、出張されます。主日礼拝は、北陸学院中学・高校の校長先生となられた堀岡啓信先生を説教者として招きます。礼拝後、堀岡先生を囲んで、北陸におけるキリスト教教育と伝道について語りながらの愛餐会を持ちます。ご予定ください。
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小学校と教会学校の違い

2005年06月12日 | 教会学校の出来事
いま、教会学校では「使徒信条」の学びを進めています。
今日の説教は「ひとり子イエス」
七尾教会の教会学校は、教師が一方的に説教をするのではなく
子どもたちがどんどん発言するのが特徴です。
今日も「小学校と教会学校の違い」で、大いに盛り上がりました。
 ・学ぶことが違う!
 ・ゲームができる!
 ・人数が少ない!
 ・教科がなくて、讃美歌は音楽の時間みたいだし、説教は国語の時間みたいで、算数はない。
 ・テストがない!
そうそう。小学校と教会学校では、いろいろ違うことがあります。
小学校では、授業でいろんな知識を覚えて、テストがあります。学校生活の中で、学ぶこともたくさんあると思います。でも、教会学校では聖書についての知識を学びますが、それをテストすることはありません。(やってもいいんですけど・・・笑)
いま、やっている使徒信条の学びも、いつか子どもたちが知識ではなく「信じて」言葉で「告白」する日がくることを教師たちは祈っていまーす。
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主が祝されたものの強み

2005年06月05日 | 主日礼拝
釜土達雄 牧師
民数記22:41~23:12
ハイデルベルク信仰問答第52聖日

◆主が告げることを行うバラム
ハイデルベルク信仰問答に耳を傾け、本日が第52聖日である。今週と来週で、この第52聖日を取り扱い、その後、北陸学院高校の堀岡先生に講壇を守っていただき、6月の最終週よりマタイによる福音書の連続講解説教が始まる。ハイデルベルク信仰問答第52聖日を読み、そのあとに本日の聖書の箇所に耳を傾けていきたい。
 本日のテキストは、バラクとバラムの物語である。出エジプトから、荒野を通って40年を過ごし、いよいよカナンに入る直前の話である。そこに立ちはだかったのは、異教の国、モアブであった。神の国、イスラエルとしてやってきた人がモアブに入ろうとしていた。そのモアブにバラムという祭司がいた。神の託宣にしたがって、祝福も呪いもできると人々から信じられていた。バラクというモアブの王様は、バラムに、このイスラエルという敵に呪いをかけてくれと頼む。この申し入れをバラムは断った。しかし、神様に祈って聞いたところ、行っても良いと言われて、いよいよ行くことになった。そのとき、バラムは神様から言われたことはできるが、自分の考えではできないと言っている。それは、22章20節に記されている。
 このあと、「バラムとろば」の話があって、よくキリスト教の絵本などに出てくる。興味のある人は読んでみてほしい。その物語の中でも、主の御使いが「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい。」と言っている。
神の祭司として立つバラムは、自分で勝手にするのではなく、神様に命じられたことだけをする。朝になり、いよいよバラムは祭壇を築かせ、そこで語った託宣が今日の箇所である。
「神が呪いをかけぬものにどうして私が呪いをかけられよう。神がののしらぬものを、どうして私がののしれよう。」
神が呪わないものを、いくらこの世の王から脅されようとも呪えない。そこで、バラクは言う。「何のためにあなたを連れてきたと思っているのだ。私の願いを聞かずに彼らを祝福するのか」
するとバラムは言う。「主が私の口に授けること、わたしはそれだけを忠実に告げるのです。」

◆バラクとバラムの違い
バラクは、戦いに勝つことを考えていた。神様がどう考えるかに興味はない。自分がこの戦いに勝つことが大事なのである。きつい言い方をすれば、バラクにとって神は利用すべき相手であった。神を利用して、自分の願いをうまい具合に達成しようとする。
 それに対してバラムは言う「主が呪わぬものを、どうして呪えようか。」このあとの20節でも、バラムは語る。「見よ、祝福の命令をわたしは受けた。」
この2人には決定的な違いがある。神を自分のために利用するのか。神の御心に従って生きるのか。バラムは、異教の神の祭司でありながら、その神の御心に従っておこなったことは、イスラエルを祝福することであった。神と自分との関係は、自分が神よりも上だと考えるのではなく、神の御心に聞き従うのである。
繰り返して言うが、これはイスラエルの祭司ではなく、異教の祭司の言葉である。

◆神から与えられた使命
では、イスラエルは何ゆえにこのような地位を与えられているのか。祝福の源として立てられている。創世記12章の1~3節で聞いてきたメッセージである。
「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。
 あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪うものをわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」
イスラエルはこの世を漫然と生きていた民である。しかし、神から使命が与えられる。あなたが、この世を生きるには理由がある。そのために私はあなたがたを創ったという。祝福の源、地上の氏族はあなたによって祝福に入る。イスラエルには役割が与えられていた。
いま幼稚園には、教育実習生が5人きている。北陸学院の3名が礼拝にきている。これから、幼稚園の世界は大変である。就職しようとしても大変である。幼稚園や保育園の先生になるには、面接がある。最初に聞かれることは決まっている。「なぜ、幼稚園の先生になりたいのですか。」答えは決まっている。「子どもが好きだから」と言う。
ところが、園長はそういう答えを聞くと続けてこう聞く。「嫌いなタイプの子どもに出会ったらどうするのか」たしかに、好きなことは大事である。そうでないと続かない。しかし、好きで勉強は始められるが、好きだけでは仕事は続けられない。挫折する。嫌なことがある。思い通りにならない子どもがいる。喧嘩ばかりする子がいる。どうやったら子どもを抑えられるか。この子がいなければ、と思う。心の中に起こり始める悪魔のささやきである。だから聞く。「嫌いなタイプの子どもは」と。「その子のことも好きになるようにがんばります」「がんばってできる?」すると、言葉を失ってしまう。聞きたいことはただひとつ。好きか嫌いかではない。自分が幼児教育の世界に使命感を感じているかどうか、である。
 ばい菌が好きだから医者になるのではない。犯罪が好きだから警察官になるのではない。火を消すのが好きだから消防士になるのではない。その仕事に使命感を持っているからである。この地上をなぜ生きているのか。この世界が好きだから、家族が好きだから。それでも生きてはいける。しかし、そういう人は挫折をしたときに、自殺を考える。どれほどの人がこの社会で、自殺をしていっているか、ご存知のとおりである。自分がなぜ生きているか分からない人が多い。あたりまえである。創った方に聞いてみなければ分からない。
 神様が私たちに命をお与えになったのであれば、何ゆえに命を与えてくださったのかを聞いてみる。なぜ、このような才能が与えられたのか、何ゆえに子どもが好きなようになったのか。これを職業招命感という。中国の古い言葉で天職という。神の与えた使命に従って生きる。その姿勢が大事なのである。

◆主の鍛錬を受けた忠実な僕
イスラエルは、神様からこの使命が与えられた。使命を持ちそれを自覚している者と、自分が何ゆえに生きているかを知らない者には、大きな違いがある。自分の役割を神に聞こうとするか、しないか。決定的な違いである。利用しようとするか、神の御心に聞こうとするか。もし、使命が与えられているのなら、役割が与えられているのなら、あの有名なヘブライ人への手紙12:11を読んでおく必要がある。
 わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。なぜなら、使命を与えられているからである。役割、責任があるから鍛えられるのである。しかし、それによって使命を与えられたものにふさわしい器となるために、徹底的に訓練が与えられる。
 祝福の源となるため、その使命を果たすために忠実に生きなければいけない。新しいイスラエルである教会にとっても同じである。われわれの信仰が試されるようなものであってはいけない。それゆえに、主の祈りの最後には、こう祈るのである。
神の鍛錬は受け入れるが、悪の中に放り込まれるのはご勘弁いただきたい。これが、主の祈りの最後の祈りである。試みをしっかりと受けながら、忠実な僕として果たしていきたい。この地上を生きていく神を信じるものの群れは、自分に与えられた使命をしっかりと受け入れて、神の御心にしたがって歩むものとして、地上に派遣されている。それをミッションというのである。
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