2006年3月26日
堀岡 啓信牧師
◆キリスト教とはキリスト
われわれとつながりの深い日本基督教会に、永井春子先生という方がいらっしゃる。その先生が書いた、青年のためのキリスト教教理の中に、有名な問答がある。
問1 キリスト教とは何ですか。
答え キリスト教とはキリストです。
これは、重要な問いと答えである。キリスト教とは、キリストとは、キリストの教えでなく、キリストそのものであるという、根源的なことである。生ける主、キリストとの交わりが、キリスト教なのである。
北陸学院という働きの場で、一番深いところにあるのは、主イエスとの交わりである。みなさんはどうだろうか。信仰生活にまだ入っていない方、もう何十年も過ごしている方がいると思う。キリスト教とは、キリストだということを心に留めたい。
◆弱さに徹する王
受難節にあたり、この方がどのように最後の1週間を歩まれたのかを見たい。先ほどの朗読は、たいへん心に残る最後の1週間である。弟子たちを隣村に派遣して、子ろばをつれてきた。いよいよ十字架におかかりになる最後の1週間に入っていくとき、どうしても「子ろば」に乗って、エルサレムに入っていくという強いご意思を持っていた。今朝は、ゼカリヤ書が朗読された。
娘シオンよ、おおいに踊れ・・・・
見よ、あなたの王が来る
・・・高ぶることなくろばに乗ってくる。
ゼカリヤの言葉が、ここで成就していくということを思い、イエス様は、強いご意思を持ってロバにまたがった。その傍には、弟子たちが護衛のように従った。迎えた人々は、着物を脱いで道に敷き、木の枝を切って敷いた。これらは、王を迎えるときの所作である。人々は王を迎えるようにして、イエス様を迎え、イエス様も王としてエルサレムに入ってきたのである。
しかし、考えていただきたい。最後の1週間の姿は、王と言うには風変わりではなかったか。王ならば、軍馬にまたがってくるのではないか。周辺には訓練された近衛兵、鎧を身に着けているのではないか。
イエス様は、軍馬ではなくロバ、しかも子ロバにまたがって来られた。鎧ではなく貧しい姿で、近衛兵ではなくガリラヤの田舎の漁師を従えてきた。お世辞にもかっこいいお姿とは言えない。エルサレムの祭りのばか騒ぎの中で「おい、あれで王だってよ」とささやかれていたことを想像する。権威ではなく、弱さにおいてイエス様は、王であった。
神様から遠く離れている人間は、自分の方から神様に立ち返ることはできないということを聖書は語る。そのままの在り様では、神の元に立ち返ることはできない。罪のある人間は、そのままでは、エデンの園で罪に堕ちたアダムとエバの姿と同じである。その姿こそは、神様が近づいてきたときに、怖くなってかくれなければいけない。それが、人間の本当の姿である。神様の下に、本当によろこんでたちかえることのできない、やっかいな罪の問題は、力で威圧されればされるほど、いっそう頑なになってしまうのである。何万という兵を従えて、たった一人の人間の罪を解決することができない。どんなに力があっても、心を解きほぐして神様によろこばしい思いをもって立ち返ることはできない。
威圧的な力ではなく、神の御子としての権能と御力をお持ちでありながら、徹頭徹尾、弱さに徹した。私たちの日本の教会の直接の先輩は、アメリカの教会だと言ってよい。アメリカの教会の祈りによって、日本にキリスト教が伝えられた。多くの恩恵をおっている。そのアメリカの長老主義教会が、1995年にみんなのカテキズムという本を出した。
問41 イエスキリストはどのようにして、王の職能を成就されたましたか。
主イエスキリストは、僕(しもべ)の立場によって・・・・その弱さにおいて王の力を完成された。義の剣意外に剣を持たず、愛の力以外に力を持たず、罪、悪と死に勝利してくださいました。
◆わたしの王、イエス
私は小松教会の牧師として、8年間仕えた。昨年の3月27日はイースターだった。そこで、洗礼を受けた西居さんのことを紹介する。その方の諮問会のことを紹介したい。諮問会では、信仰的な問いかけをする。このような内容を問いかけた。
「西居さん、主イエスこそはあなたの主です。王です。自分の人生のことは、自分で決められると思っていることがある。自分の人生のこと、それは何でも自分で決められることができれば、自由だと思っている。しかし、本当にそうだろうか。自分で自分を振り返ってみよう。自分を本当に愛して、自分自身を導いて来られただろうか。自分を良い所に導くどころか、暴君になっていないか。」と、問いかけた。
また、自分で自分の王になっている限り、自分や他の人を活かすというよりは、自分や他の人を傷つけていませんか。主イエスが主であるということを信じて生きていくか。自分で、その座席を譲るか、と。
西居さんは、真剣に答えようとするがゆえに悩まれた。「努力していきます」という精一杯の返答をされた。諮問会というときは、しばしばこういうことが起こる。
つまり、私たち人間の努力目標を示し、表明することが諮問会に求められていることなのだろうか。そこで、もう一度問いただした。
西居さん、主イエスがあなたの王となってくださったことを、信じていますかと問うた。
すると、西居さんは、「はい、信じています」と答えた。そこで、私は姉妹を得た、と思った。キリストの教会に召されたものは、私たちがイエス様を王として見出したのではなく、イエス様のほうから来て、王になってくださった。私たちの努力や力で見出したのではなく、このお方が、まことに鈍い私たちであるのに、王として来て下さった。鈍いどころではない。神様に背を向けて生活をしていた私たちのところに来て下さった。それが、神の恵みの事実である。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方にも、その歩みをつくってくださっている。
◆奴隷化される私たち
みなさんの中にもそういう感想をお持ちの方がいるかもしれない。洗礼を受けてから、以前ほど人の目を気にしなくなった。主イエスが私の王としていてくださることを知ってからは、人の目から自由になった。人が自分のことをどう見ているのかというところから、ときはなたれて、神の者として、強くしていただいて自由になった。キリスト者になってもなお、現実的には、私たちを奴隷化するものが日々あるということも、私たちは知っている。
時代が持っている考えや教えが私たちを支配する。たとえば、「勝ち組」という考えがある。何が「勝ち組」か、と思ってしまうが、マスコミなどで「勝ち組、負け組」と言われると、私はどちらかと知らず知らずに思ってしまう。ときとして、なんとか「勝ち組」に入ろうと躍起になって、自分自身を見失ってしまうときがある。時代の考えに縛られ、僕(しもべ)となっている。
「自分らしく生きることが一番良い」とこの時代は教える。それは、大切なことである。自分の願っているのではなく人生を送っているということになると不自由になる。自分らしく生きることを願っている。しかし、私たちはその場合もよく心得ておきたい。自分らしく生きていこうと貫いていこうとするときに、実は周囲のことを考えずに他者との関係を壊してしまっている。即座に自己中心的な人間関係を破壊するものにつながっていく可能性がある。「自分らしく」というときに、自分の権利だけをどこまでも追い続けることになる。
このように、私たちは、私たちを奴隷化するものに囲まれながら生活している。
そこで、「まわりに振り回されてはいけない」という教えが言われる。自分のことは、自分で考えて生きていきなさい、と教えられる。ある意味では、大切なことを教えている。しかし、私たちは最後的に問わなければいけない。自分が自分の主人になって、生きていくことができるだろうか。自分自身をだめにしたり、他人との関係を壊すことが実にしばしばないのではないだろうか。自分の思いや考えで生きていこうとするときに、とらわれの身に陥ってしまうことがある。
外からもがんじがらめにされ、自分で自分のとりこになってしまう。私たちの不自由に対して、イエスキリストを指差してこのように語る。義の剣以外に剣を持たず、愛の力以外に力を持たずに収めてくださる王である。十字架にかかってくださったのだ。私の罪をすべてになって、十字架に死んでくださった。その告白を持って、本当に自由なものとされていく。主イエスを我が主とし、このお方とひとつとなって生きていくことができる。
主イエスによって、神様に立ち返って生きていくことができる。そこに、真の自由がある。
◆キリスト者の自由
「見よ、おまえの王が来る」と今日の聖書は語る。マタイ27章32節~44節
明瞭に聖書は告げている。罪状書として、「ユダヤ人の王」と、主イエスの頭上に掲げられた。エルサレムの王として、まったくのペテンであったということが明らかになったと、この看板がかけられた。看板の文句が気に入ったのだろう。みんなでよってたかって罵倒した。
このとき、もっとも鋭い言葉を投げかけたのは、祭司長、律法学者らであった。この人たちは、民を導く羊飼いのようなものである。主イエスを死刑に定めた。大祭司カイアファが立ち上がっていった。黙り続けている主イエスに対して問う。生ける神に誓って、おまえは神の子キリストなのか。すると、ずっと黙っていた主イエスは、そうなのだという意味を込めて返答した。そこで、カイアファは、いまこそ主イエスは神の子だと自称している。死に値する罪だと。
神のご意思なら助けてもらえばよいではないか。自分で教えを説いたその神に救ってもらえと。主の十字架に立ち会った人たちは、ひとつの確信を持って、このような言葉を浴びせかけている。天の神が遣わしてくださった真の王ではないという確信である。なぜだろうか。主イエスは、弱さの極みにおいて王としてたっているからである。すべての方の目は、主イエスを
ルターはこう語った。生まれながらの人間の理性というものは、力と栄光において神を見出すものである。大きな地震があると、神のことを思い出す。日ごろはすっかり忘れていても、大きな地震のときに、神様が何かお考えがあって、こういうことをしているのではないかと思う。確かに、神様はそういう大きな力や栄光をお持ちだが、本当の和解、本当の平和は、反映や力によって見出すことができない。生まれながらの人間は、どこかで神様を恐れている魂である。しかし、ルターはこうも言う。しかし、信仰は弱さと貧しさの極みに神を見出す。弱さの極みに建っている主イエスを仰ぎ見て、この方こそ主キリスト、王であると告白をする。それはなぜか。そこにこそ、神の全能の愛が表れたからである。弱さの極みに立っている。死に瀕している。ここに私どもの人間の罪をすべて背負ってくださり、輝かしい本当の平和を知っている、神様との交わりに入れてくださるために、すべての罪を贖ってくださった。
聖書の語る、ほんとうの自由とは、主イエスの存在によって示された神の愛によって解き放たれていく。
◆主に与えられる使命
最後に、聖書が語っている子ロバの姿を受け止めて祈りたい。この子ロバは、エルサレムの隣町に繋がれていた。そこから解き放たれて、主イエスの最後の1週間に向かう新たな任務が与えられた。
キリストフォロスということを言った。キリストを背中に乗せて歩むということである。キリストの原型、雛形のような姿である。だれかにつながれ、支配されて生きていた。しかし、主によって解放され、自由になった。自由とは何か。自分のしたいことができる、自分の人生を思いの通りに決められるということか。そういう自由に生きているときに、私たちは自分の欲望の奴隷になっている。本当の自由。それは、縄目から解き放たれ、何かへと献身していく自由だとキリスト教会は信じてきた。何々へと自分の人生を捧げていく。
子ロバにまったく新しい任務を与えられた。主イエスを背中に背負って歩むという新しい生き方が与えられた。私どもの北陸学院では、リアライズ ユア ミッションというスローガンを掲げている。自分の使命を実現しよう。気が付くこと、そしてそれを実現していくこと。誰一人、くだらない人生などない。新しい任務へと私たちを押し出してくださる。主イエス様との交わりに生きていく。
キリスト教とは、キリストです。そういった問答は、私たちの人生にこそ具現化されていくであろう。
堀岡 啓信牧師
◆キリスト教とはキリスト
われわれとつながりの深い日本基督教会に、永井春子先生という方がいらっしゃる。その先生が書いた、青年のためのキリスト教教理の中に、有名な問答がある。
問1 キリスト教とは何ですか。
答え キリスト教とはキリストです。
これは、重要な問いと答えである。キリスト教とは、キリストとは、キリストの教えでなく、キリストそのものであるという、根源的なことである。生ける主、キリストとの交わりが、キリスト教なのである。
北陸学院という働きの場で、一番深いところにあるのは、主イエスとの交わりである。みなさんはどうだろうか。信仰生活にまだ入っていない方、もう何十年も過ごしている方がいると思う。キリスト教とは、キリストだということを心に留めたい。
◆弱さに徹する王
受難節にあたり、この方がどのように最後の1週間を歩まれたのかを見たい。先ほどの朗読は、たいへん心に残る最後の1週間である。弟子たちを隣村に派遣して、子ろばをつれてきた。いよいよ十字架におかかりになる最後の1週間に入っていくとき、どうしても「子ろば」に乗って、エルサレムに入っていくという強いご意思を持っていた。今朝は、ゼカリヤ書が朗読された。
娘シオンよ、おおいに踊れ・・・・
見よ、あなたの王が来る
・・・高ぶることなくろばに乗ってくる。
ゼカリヤの言葉が、ここで成就していくということを思い、イエス様は、強いご意思を持ってロバにまたがった。その傍には、弟子たちが護衛のように従った。迎えた人々は、着物を脱いで道に敷き、木の枝を切って敷いた。これらは、王を迎えるときの所作である。人々は王を迎えるようにして、イエス様を迎え、イエス様も王としてエルサレムに入ってきたのである。
しかし、考えていただきたい。最後の1週間の姿は、王と言うには風変わりではなかったか。王ならば、軍馬にまたがってくるのではないか。周辺には訓練された近衛兵、鎧を身に着けているのではないか。
イエス様は、軍馬ではなくロバ、しかも子ロバにまたがって来られた。鎧ではなく貧しい姿で、近衛兵ではなくガリラヤの田舎の漁師を従えてきた。お世辞にもかっこいいお姿とは言えない。エルサレムの祭りのばか騒ぎの中で「おい、あれで王だってよ」とささやかれていたことを想像する。権威ではなく、弱さにおいてイエス様は、王であった。
神様から遠く離れている人間は、自分の方から神様に立ち返ることはできないということを聖書は語る。そのままの在り様では、神の元に立ち返ることはできない。罪のある人間は、そのままでは、エデンの園で罪に堕ちたアダムとエバの姿と同じである。その姿こそは、神様が近づいてきたときに、怖くなってかくれなければいけない。それが、人間の本当の姿である。神様の下に、本当によろこんでたちかえることのできない、やっかいな罪の問題は、力で威圧されればされるほど、いっそう頑なになってしまうのである。何万という兵を従えて、たった一人の人間の罪を解決することができない。どんなに力があっても、心を解きほぐして神様によろこばしい思いをもって立ち返ることはできない。
威圧的な力ではなく、神の御子としての権能と御力をお持ちでありながら、徹頭徹尾、弱さに徹した。私たちの日本の教会の直接の先輩は、アメリカの教会だと言ってよい。アメリカの教会の祈りによって、日本にキリスト教が伝えられた。多くの恩恵をおっている。そのアメリカの長老主義教会が、1995年にみんなのカテキズムという本を出した。
問41 イエスキリストはどのようにして、王の職能を成就されたましたか。
主イエスキリストは、僕(しもべ)の立場によって・・・・その弱さにおいて王の力を完成された。義の剣意外に剣を持たず、愛の力以外に力を持たず、罪、悪と死に勝利してくださいました。
◆わたしの王、イエス
私は小松教会の牧師として、8年間仕えた。昨年の3月27日はイースターだった。そこで、洗礼を受けた西居さんのことを紹介する。その方の諮問会のことを紹介したい。諮問会では、信仰的な問いかけをする。このような内容を問いかけた。
「西居さん、主イエスこそはあなたの主です。王です。自分の人生のことは、自分で決められると思っていることがある。自分の人生のこと、それは何でも自分で決められることができれば、自由だと思っている。しかし、本当にそうだろうか。自分で自分を振り返ってみよう。自分を本当に愛して、自分自身を導いて来られただろうか。自分を良い所に導くどころか、暴君になっていないか。」と、問いかけた。
また、自分で自分の王になっている限り、自分や他の人を活かすというよりは、自分や他の人を傷つけていませんか。主イエスが主であるということを信じて生きていくか。自分で、その座席を譲るか、と。
西居さんは、真剣に答えようとするがゆえに悩まれた。「努力していきます」という精一杯の返答をされた。諮問会というときは、しばしばこういうことが起こる。
つまり、私たち人間の努力目標を示し、表明することが諮問会に求められていることなのだろうか。そこで、もう一度問いただした。
西居さん、主イエスがあなたの王となってくださったことを、信じていますかと問うた。
すると、西居さんは、「はい、信じています」と答えた。そこで、私は姉妹を得た、と思った。キリストの教会に召されたものは、私たちがイエス様を王として見出したのではなく、イエス様のほうから来て、王になってくださった。私たちの努力や力で見出したのではなく、このお方が、まことに鈍い私たちであるのに、王として来て下さった。鈍いどころではない。神様に背を向けて生活をしていた私たちのところに来て下さった。それが、神の恵みの事実である。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方にも、その歩みをつくってくださっている。
◆奴隷化される私たち
みなさんの中にもそういう感想をお持ちの方がいるかもしれない。洗礼を受けてから、以前ほど人の目を気にしなくなった。主イエスが私の王としていてくださることを知ってからは、人の目から自由になった。人が自分のことをどう見ているのかというところから、ときはなたれて、神の者として、強くしていただいて自由になった。キリスト者になってもなお、現実的には、私たちを奴隷化するものが日々あるということも、私たちは知っている。
時代が持っている考えや教えが私たちを支配する。たとえば、「勝ち組」という考えがある。何が「勝ち組」か、と思ってしまうが、マスコミなどで「勝ち組、負け組」と言われると、私はどちらかと知らず知らずに思ってしまう。ときとして、なんとか「勝ち組」に入ろうと躍起になって、自分自身を見失ってしまうときがある。時代の考えに縛られ、僕(しもべ)となっている。
「自分らしく生きることが一番良い」とこの時代は教える。それは、大切なことである。自分の願っているのではなく人生を送っているということになると不自由になる。自分らしく生きることを願っている。しかし、私たちはその場合もよく心得ておきたい。自分らしく生きていこうと貫いていこうとするときに、実は周囲のことを考えずに他者との関係を壊してしまっている。即座に自己中心的な人間関係を破壊するものにつながっていく可能性がある。「自分らしく」というときに、自分の権利だけをどこまでも追い続けることになる。
このように、私たちは、私たちを奴隷化するものに囲まれながら生活している。
そこで、「まわりに振り回されてはいけない」という教えが言われる。自分のことは、自分で考えて生きていきなさい、と教えられる。ある意味では、大切なことを教えている。しかし、私たちは最後的に問わなければいけない。自分が自分の主人になって、生きていくことができるだろうか。自分自身をだめにしたり、他人との関係を壊すことが実にしばしばないのではないだろうか。自分の思いや考えで生きていこうとするときに、とらわれの身に陥ってしまうことがある。
外からもがんじがらめにされ、自分で自分のとりこになってしまう。私たちの不自由に対して、イエスキリストを指差してこのように語る。義の剣以外に剣を持たず、愛の力以外に力を持たずに収めてくださる王である。十字架にかかってくださったのだ。私の罪をすべてになって、十字架に死んでくださった。その告白を持って、本当に自由なものとされていく。主イエスを我が主とし、このお方とひとつとなって生きていくことができる。
主イエスによって、神様に立ち返って生きていくことができる。そこに、真の自由がある。
◆キリスト者の自由
「見よ、おまえの王が来る」と今日の聖書は語る。マタイ27章32節~44節
明瞭に聖書は告げている。罪状書として、「ユダヤ人の王」と、主イエスの頭上に掲げられた。エルサレムの王として、まったくのペテンであったということが明らかになったと、この看板がかけられた。看板の文句が気に入ったのだろう。みんなでよってたかって罵倒した。
このとき、もっとも鋭い言葉を投げかけたのは、祭司長、律法学者らであった。この人たちは、民を導く羊飼いのようなものである。主イエスを死刑に定めた。大祭司カイアファが立ち上がっていった。黙り続けている主イエスに対して問う。生ける神に誓って、おまえは神の子キリストなのか。すると、ずっと黙っていた主イエスは、そうなのだという意味を込めて返答した。そこで、カイアファは、いまこそ主イエスは神の子だと自称している。死に値する罪だと。
神のご意思なら助けてもらえばよいではないか。自分で教えを説いたその神に救ってもらえと。主の十字架に立ち会った人たちは、ひとつの確信を持って、このような言葉を浴びせかけている。天の神が遣わしてくださった真の王ではないという確信である。なぜだろうか。主イエスは、弱さの極みにおいて王としてたっているからである。すべての方の目は、主イエスを
ルターはこう語った。生まれながらの人間の理性というものは、力と栄光において神を見出すものである。大きな地震があると、神のことを思い出す。日ごろはすっかり忘れていても、大きな地震のときに、神様が何かお考えがあって、こういうことをしているのではないかと思う。確かに、神様はそういう大きな力や栄光をお持ちだが、本当の和解、本当の平和は、反映や力によって見出すことができない。生まれながらの人間は、どこかで神様を恐れている魂である。しかし、ルターはこうも言う。しかし、信仰は弱さと貧しさの極みに神を見出す。弱さの極みに建っている主イエスを仰ぎ見て、この方こそ主キリスト、王であると告白をする。それはなぜか。そこにこそ、神の全能の愛が表れたからである。弱さの極みに立っている。死に瀕している。ここに私どもの人間の罪をすべて背負ってくださり、輝かしい本当の平和を知っている、神様との交わりに入れてくださるために、すべての罪を贖ってくださった。
聖書の語る、ほんとうの自由とは、主イエスの存在によって示された神の愛によって解き放たれていく。
◆主に与えられる使命
最後に、聖書が語っている子ロバの姿を受け止めて祈りたい。この子ロバは、エルサレムの隣町に繋がれていた。そこから解き放たれて、主イエスの最後の1週間に向かう新たな任務が与えられた。
キリストフォロスということを言った。キリストを背中に乗せて歩むということである。キリストの原型、雛形のような姿である。だれかにつながれ、支配されて生きていた。しかし、主によって解放され、自由になった。自由とは何か。自分のしたいことができる、自分の人生を思いの通りに決められるということか。そういう自由に生きているときに、私たちは自分の欲望の奴隷になっている。本当の自由。それは、縄目から解き放たれ、何かへと献身していく自由だとキリスト教会は信じてきた。何々へと自分の人生を捧げていく。
子ロバにまったく新しい任務を与えられた。主イエスを背中に背負って歩むという新しい生き方が与えられた。私どもの北陸学院では、リアライズ ユア ミッションというスローガンを掲げている。自分の使命を実現しよう。気が付くこと、そしてそれを実現していくこと。誰一人、くだらない人生などない。新しい任務へと私たちを押し出してくださる。主イエス様との交わりに生きていく。
キリスト教とは、キリストです。そういった問答は、私たちの人生にこそ具現化されていくであろう。