2006年1月29日
片平 貴宣 牧師
◆これまでの導き
恵泉教会は会堂建築が終わり、お支えをいただきありがとうございます。さまざまな導きが与えられ、万事を神様が益としていただいたことを実感している。私が献身をする際に与えられた御言葉である。また、生涯この御言葉にたって立つとしていただく、私の名前は貴宣と書く。たかのぶという名前はよく耳にするが、この字はめずらしい。クリスチャンホームで育ったのかと言われることが多いが、そうではない。福島県で普通の農家に生まれた。仏壇があり、神棚があり、庭にはお稲荷さんがある。しかし、そのような私に転機が訪れる。それは高校受験がきっかけであった。農家であったが、当時私は農業を継ごうと思い、地元の農業高校を受験した。これは、神様の導きであったと思うが、高校の受験は失敗した。個人的な思いでは、がっかりした。そして、半ば仕方なく、二次募集を行っていた聖光学院に入学した。これがキリスト教と出会う大きな転機となった。キリスト教主義の学校なので、聖書の授業がある。教会の礼拝に出席してレポートを書きなさいという宿題が出た。そのために足を踏み入れた。福島新町教会に行った。高校1年生の6月である。15歳のときである。言葉では言い表せないが、教会はいいところだな、という印象を受けた。当時、私は暗く沈んでいたところがあった。牧師先生は私に様々な話をしてくれた。毎週日曜日の礼拝、水曜日の祈祷会に続けて出席するようになった。
同じ高校1年生の12月に洗礼を受けるまでに導かれていった。高校生活をしながら、教会生活を守っていた。ごく普通の生活で、特に目立ったことはせず、礼拝だけは守っていた。献身をするなどということは、思っていなかった。しかし、また転機が訪れる。進路を決めるときに、山岳部で、よく山に登っていた。そのようなつながりで、先輩が自衛隊に入っており、最初はその試験を受けるまでになったが、試験に落ちて道が閉ざされた。そのことを母教会の先生に報告しにいったところ、献身を薦められた。そのときに、祈る中で聞いたのがローマ8:28である。
私は今まで、自分の思い通りにはなかなかいかなった歩みが、神様の導きの中にあったことをうすうす感じるようになった。そんな導きがあり、東京神学学校に進学した。そのときは、すんなりと入学できた。まさに、神様の召しがあった。
◆山岳部での経験
この御言葉は、さらに私の過去に起こったことに対しても光を当てる御言葉になった。それは、悲しい大きな出来事である。小学1年生のとき、私の母が自殺をしてしまうということであった。このことは、大きな悲しみであり、課題ということでもあるが、やはり、神様は私に対して業を示し、導きをいただいた。そのような観点で見ると、私に対して導きを与え、試練や訓練を与えてくださった。高校のときに、山岳部に入っていた。ある合宿で山に行ったとき、さほど高くない山にパーティを組んで行った。そのとき、体調不良もありメンバーの一人がばててしまった。その一人の荷物を3人で分けて登ることにしたが、そのせいで全員がばててしまったという経験があった。それは、辛かったことは非常に記憶にとどまりやすいということである。大きな感動を覚えたり、自分にとっては大きな出来事である。なんとはなしに、だらだらと過ごしていることは記憶に残りにくい。
もう一つは、他の人の重荷を背負おうとしても、人間にはできないということである。そんなことをすると共倒れになってしまう。私たちのパーティはばててしまった。これを信仰的に受け止めるならば、私たちの心の重荷を受け取れるのは、イエスキリストのみということになる。信仰を持って歩んでいるということは、平坦な道をらくらくと歩むことではないということである。しかし、そのようなときにこそ、イエスキリストの助けがあったことを知り、どんなときにも主が共にいてくださったということを確信するということにいたる。このような体験をすることで、ふたたび試練の中を通ろうとも、イエスキリストが私たちを助けてくださるということを信じ、恐れなく歩むことができる。
◆万事を益とする神
万事を益としてくださる神様。それは、自分の都合のよいことが次々と起こるというわけでない。終わりよければすべてよしということでもない。やはり、これは神様が私たちに対して、絶対的な主権を持っていてくださり、ときには辛い苦しい道の中を閉ざされることもあるが、神様の最善な計画の中に私たちがいるということを知るためである。自分にとっては、マイナスのことを通しても、神様は働かれている。そのことを知る必要があるだろう。
私にとって、大きな出来事とは、恵泉教会に使わされて働きをするうちに、会堂建築という大きな事業を行ったことである。正直なところ、大きな恐れがあった。神学校を卒業して、最初の任地である。経験もなく、会堂建築という大きな働きができるか、不安であった。これからも神様の導きと計画にしたがっていきたい。携わっていた設計士の方が、仕事を下りたいと言って来たこともある。それを受けて教会はとても動揺した。しかし、結果的にはその方が仕事を引き受けてくださり、神様の業が行われることになった。
神様が万事を益としてくださるということは、イエスキリストの十字架の業を見ても明らかである。神の子が十字架につけてくださるなどということは、決してよいこととは思えない。人の手によって十字架につけて殺される。あってはいけないことだと思うが、しかし、そのことが救いの業としてくださった。罪から私たちを買い取り、贖ってくださった。神を愛するものと者として、これからも神様に従っていきたい。
神を愛するものため、・・・・・私たちは知っています。このように書かれている。私たちは知っている。私たちはこのことを知っている、たしかな確信をもって、歩んでいきたい。様々なことを通して、神様が私たちに導きを与えてくださり、そしてその計画は、私たちにとって本当の意味で祝福である。神様の導きのうちに、信仰をもって歩みたい。
片平 貴宣 牧師
◆これまでの導き
恵泉教会は会堂建築が終わり、お支えをいただきありがとうございます。さまざまな導きが与えられ、万事を神様が益としていただいたことを実感している。私が献身をする際に与えられた御言葉である。また、生涯この御言葉にたって立つとしていただく、私の名前は貴宣と書く。たかのぶという名前はよく耳にするが、この字はめずらしい。クリスチャンホームで育ったのかと言われることが多いが、そうではない。福島県で普通の農家に生まれた。仏壇があり、神棚があり、庭にはお稲荷さんがある。しかし、そのような私に転機が訪れる。それは高校受験がきっかけであった。農家であったが、当時私は農業を継ごうと思い、地元の農業高校を受験した。これは、神様の導きであったと思うが、高校の受験は失敗した。個人的な思いでは、がっかりした。そして、半ば仕方なく、二次募集を行っていた聖光学院に入学した。これがキリスト教と出会う大きな転機となった。キリスト教主義の学校なので、聖書の授業がある。教会の礼拝に出席してレポートを書きなさいという宿題が出た。そのために足を踏み入れた。福島新町教会に行った。高校1年生の6月である。15歳のときである。言葉では言い表せないが、教会はいいところだな、という印象を受けた。当時、私は暗く沈んでいたところがあった。牧師先生は私に様々な話をしてくれた。毎週日曜日の礼拝、水曜日の祈祷会に続けて出席するようになった。
同じ高校1年生の12月に洗礼を受けるまでに導かれていった。高校生活をしながら、教会生活を守っていた。ごく普通の生活で、特に目立ったことはせず、礼拝だけは守っていた。献身をするなどということは、思っていなかった。しかし、また転機が訪れる。進路を決めるときに、山岳部で、よく山に登っていた。そのようなつながりで、先輩が自衛隊に入っており、最初はその試験を受けるまでになったが、試験に落ちて道が閉ざされた。そのことを母教会の先生に報告しにいったところ、献身を薦められた。そのときに、祈る中で聞いたのがローマ8:28である。
私は今まで、自分の思い通りにはなかなかいかなった歩みが、神様の導きの中にあったことをうすうす感じるようになった。そんな導きがあり、東京神学学校に進学した。そのときは、すんなりと入学できた。まさに、神様の召しがあった。
◆山岳部での経験
この御言葉は、さらに私の過去に起こったことに対しても光を当てる御言葉になった。それは、悲しい大きな出来事である。小学1年生のとき、私の母が自殺をしてしまうということであった。このことは、大きな悲しみであり、課題ということでもあるが、やはり、神様は私に対して業を示し、導きをいただいた。そのような観点で見ると、私に対して導きを与え、試練や訓練を与えてくださった。高校のときに、山岳部に入っていた。ある合宿で山に行ったとき、さほど高くない山にパーティを組んで行った。そのとき、体調不良もありメンバーの一人がばててしまった。その一人の荷物を3人で分けて登ることにしたが、そのせいで全員がばててしまったという経験があった。それは、辛かったことは非常に記憶にとどまりやすいということである。大きな感動を覚えたり、自分にとっては大きな出来事である。なんとはなしに、だらだらと過ごしていることは記憶に残りにくい。
もう一つは、他の人の重荷を背負おうとしても、人間にはできないということである。そんなことをすると共倒れになってしまう。私たちのパーティはばててしまった。これを信仰的に受け止めるならば、私たちの心の重荷を受け取れるのは、イエスキリストのみということになる。信仰を持って歩んでいるということは、平坦な道をらくらくと歩むことではないということである。しかし、そのようなときにこそ、イエスキリストの助けがあったことを知り、どんなときにも主が共にいてくださったということを確信するということにいたる。このような体験をすることで、ふたたび試練の中を通ろうとも、イエスキリストが私たちを助けてくださるということを信じ、恐れなく歩むことができる。
◆万事を益とする神
万事を益としてくださる神様。それは、自分の都合のよいことが次々と起こるというわけでない。終わりよければすべてよしということでもない。やはり、これは神様が私たちに対して、絶対的な主権を持っていてくださり、ときには辛い苦しい道の中を閉ざされることもあるが、神様の最善な計画の中に私たちがいるということを知るためである。自分にとっては、マイナスのことを通しても、神様は働かれている。そのことを知る必要があるだろう。
私にとって、大きな出来事とは、恵泉教会に使わされて働きをするうちに、会堂建築という大きな事業を行ったことである。正直なところ、大きな恐れがあった。神学校を卒業して、最初の任地である。経験もなく、会堂建築という大きな働きができるか、不安であった。これからも神様の導きと計画にしたがっていきたい。携わっていた設計士の方が、仕事を下りたいと言って来たこともある。それを受けて教会はとても動揺した。しかし、結果的にはその方が仕事を引き受けてくださり、神様の業が行われることになった。
神様が万事を益としてくださるということは、イエスキリストの十字架の業を見ても明らかである。神の子が十字架につけてくださるなどということは、決してよいこととは思えない。人の手によって十字架につけて殺される。あってはいけないことだと思うが、しかし、そのことが救いの業としてくださった。罪から私たちを買い取り、贖ってくださった。神を愛するものと者として、これからも神様に従っていきたい。
神を愛するものため、・・・・・私たちは知っています。このように書かれている。私たちは知っている。私たちはこのことを知っている、たしかな確信をもって、歩んでいきたい。様々なことを通して、神様が私たちに導きを与えてくださり、そしてその計画は、私たちにとって本当の意味で祝福である。神様の導きのうちに、信仰をもって歩みたい。