日本基督教団 七尾教会

能登半島にたてられた七尾教会の日々です

万事を益とする神(ローマ8:28)

2006年01月29日 | 主日礼拝
2006年1月29日
片平 貴宣 牧師

◆これまでの導き
恵泉教会は会堂建築が終わり、お支えをいただきありがとうございます。さまざまな導きが与えられ、万事を神様が益としていただいたことを実感している。私が献身をする際に与えられた御言葉である。また、生涯この御言葉にたって立つとしていただく、私の名前は貴宣と書く。たかのぶという名前はよく耳にするが、この字はめずらしい。クリスチャンホームで育ったのかと言われることが多いが、そうではない。福島県で普通の農家に生まれた。仏壇があり、神棚があり、庭にはお稲荷さんがある。しかし、そのような私に転機が訪れる。それは高校受験がきっかけであった。農家であったが、当時私は農業を継ごうと思い、地元の農業高校を受験した。これは、神様の導きであったと思うが、高校の受験は失敗した。個人的な思いでは、がっかりした。そして、半ば仕方なく、二次募集を行っていた聖光学院に入学した。これがキリスト教と出会う大きな転機となった。キリスト教主義の学校なので、聖書の授業がある。教会の礼拝に出席してレポートを書きなさいという宿題が出た。そのために足を踏み入れた。福島新町教会に行った。高校1年生の6月である。15歳のときである。言葉では言い表せないが、教会はいいところだな、という印象を受けた。当時、私は暗く沈んでいたところがあった。牧師先生は私に様々な話をしてくれた。毎週日曜日の礼拝、水曜日の祈祷会に続けて出席するようになった。
同じ高校1年生の12月に洗礼を受けるまでに導かれていった。高校生活をしながら、教会生活を守っていた。ごく普通の生活で、特に目立ったことはせず、礼拝だけは守っていた。献身をするなどということは、思っていなかった。しかし、また転機が訪れる。進路を決めるときに、山岳部で、よく山に登っていた。そのようなつながりで、先輩が自衛隊に入っており、最初はその試験を受けるまでになったが、試験に落ちて道が閉ざされた。そのことを母教会の先生に報告しにいったところ、献身を薦められた。そのときに、祈る中で聞いたのがローマ8:28である。
私は今まで、自分の思い通りにはなかなかいかなった歩みが、神様の導きの中にあったことをうすうす感じるようになった。そんな導きがあり、東京神学学校に進学した。そのときは、すんなりと入学できた。まさに、神様の召しがあった。

◆山岳部での経験
この御言葉は、さらに私の過去に起こったことに対しても光を当てる御言葉になった。それは、悲しい大きな出来事である。小学1年生のとき、私の母が自殺をしてしまうということであった。このことは、大きな悲しみであり、課題ということでもあるが、やはり、神様は私に対して業を示し、導きをいただいた。そのような観点で見ると、私に対して導きを与え、試練や訓練を与えてくださった。高校のときに、山岳部に入っていた。ある合宿で山に行ったとき、さほど高くない山にパーティを組んで行った。そのとき、体調不良もありメンバーの一人がばててしまった。その一人の荷物を3人で分けて登ることにしたが、そのせいで全員がばててしまったという経験があった。それは、辛かったことは非常に記憶にとどまりやすいということである。大きな感動を覚えたり、自分にとっては大きな出来事である。なんとはなしに、だらだらと過ごしていることは記憶に残りにくい。
もう一つは、他の人の重荷を背負おうとしても、人間にはできないということである。そんなことをすると共倒れになってしまう。私たちのパーティはばててしまった。これを信仰的に受け止めるならば、私たちの心の重荷を受け取れるのは、イエスキリストのみということになる。信仰を持って歩んでいるということは、平坦な道をらくらくと歩むことではないということである。しかし、そのようなときにこそ、イエスキリストの助けがあったことを知り、どんなときにも主が共にいてくださったということを確信するということにいたる。このような体験をすることで、ふたたび試練の中を通ろうとも、イエスキリストが私たちを助けてくださるということを信じ、恐れなく歩むことができる。

◆万事を益とする神
万事を益としてくださる神様。それは、自分の都合のよいことが次々と起こるというわけでない。終わりよければすべてよしということでもない。やはり、これは神様が私たちに対して、絶対的な主権を持っていてくださり、ときには辛い苦しい道の中を閉ざされることもあるが、神様の最善な計画の中に私たちがいるということを知るためである。自分にとっては、マイナスのことを通しても、神様は働かれている。そのことを知る必要があるだろう。
私にとって、大きな出来事とは、恵泉教会に使わされて働きをするうちに、会堂建築という大きな事業を行ったことである。正直なところ、大きな恐れがあった。神学校を卒業して、最初の任地である。経験もなく、会堂建築という大きな働きができるか、不安であった。これからも神様の導きと計画にしたがっていきたい。携わっていた設計士の方が、仕事を下りたいと言って来たこともある。それを受けて教会はとても動揺した。しかし、結果的にはその方が仕事を引き受けてくださり、神様の業が行われることになった。
神様が万事を益としてくださるということは、イエスキリストの十字架の業を見ても明らかである。神の子が十字架につけてくださるなどということは、決してよいこととは思えない。人の手によって十字架につけて殺される。あってはいけないことだと思うが、しかし、そのことが救いの業としてくださった。罪から私たちを買い取り、贖ってくださった。神を愛するものと者として、これからも神様に従っていきたい。
神を愛するものため、・・・・・私たちは知っています。このように書かれている。私たちは知っている。私たちはこのことを知っている、たしかな確信をもって、歩んでいきたい。様々なことを通して、神様が私たちに導きを与えてくださり、そしてその計画は、私たちにとって本当の意味で祝福である。神様の導きのうちに、信仰をもって歩みたい。
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たとえがある理由(マルコ4:10~12)

2006年01月22日 | 主日礼拝
2006年1月22日
釜土 達雄 牧師

◆分かりにくいたとえ話
 まず、構造をみておきたい。先週、耳を傾けた1~9節までは、種まきのたとえである。私たちは、先週これを聞いて、その内容について御言葉の取次ぎを受けた。私たちはその内容を知っている。しかし、多くの人々にとって、これは良く分からなかったということが、10節に記されている。13~20節で、イエス様ご自身がたとえ話を説明している。私たちもイエス様がしてくださった解説に基づいて、1~9節のたとえ話を理解した。ふつう、たとえ話というのは、難しいことを分かりやすくするために使う。分かりにくいことを説明するときに、「たとえば」と言って、たとえ話をする。本来のものは分かりにくくて、たとえ話をすると分かりやすくなるということが普通である。
 ところが、このたとえ話は、弟子たちにとっても周囲の人たちにとっても分かりにくいものであった。本来、たとえ話は分かりやすくするために使うが、イエス様のたとえ話は分かりにくかった。このことは押さえておきたい最初のポイントである。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」とイエス様はおっしゃる。
 イエス様は、話をするときにたとえ話を多用された。外の人々という言い方がされている。では、内の人々とは。それは、あなた方であるという。神の国の秘密が打ち明けられている人々である。彼らは、神の国の秘密が分かっているはずであった。しかし、13節には「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」と言われている。要するに、外の人だけでなく、内の人にもわからなかったのである。要するに、誰もわからなかった。
 なぜ、たとえで語られるのかを聞かれて、イエス様はこう答えた。
 外の人々には、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち返って赦されることがない』ようになるためであったが、神の国の秘密が打ち明けられても、このたとえ話は同じように、さっぱり分からなかったのである。そこで、13節以降に解説が入るのである。
 私たちは、今日の説教を聞くときに、なぜ彼らはこのたとえ話の意味が分からなかったのか、もしかすると私たちも神の国の秘密が分からないのではないかと注意しながら、読み進めていきたい。

◆繁栄の中で神の言葉は聞かれない
 23年前にも、七尾教会でこの箇所を取り次いでいる。あの時は、このことだけで説教をしていた。彼らは分かっていなかったというポイントであった。しかし、分かりにくい話を分かりやすくするのが説教である。ただし、分かりやすくするために、少し知識が必要である。イエス様が引用した聖書は、イザヤ6:9~10である。
 翻訳の雰囲気が違うが、一方はヘブル語から、一方はギリシャ語からの翻訳なので、似ているということを感じ取ってほしい。そして、イザヤ書の6章というのは、イザヤが召命を受けたところである。汚れた民イスラエルに対して、誰を遣わすべきかというときに「私がここにおります。わたしを遣わしてください。」とイザヤが言って、遣わされていくイザヤに対して神様が言った言葉がこれである。
「よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。」あなたの言葉は理解されないということである。イエス様は、地上に神の子として送られた。イエス様は同じように、この言葉を使っている。
では、わざと理解されないように語っていたのだろうか。この例え話は、イエス様の解説に基づいて聞けば、分かる話である。私たちは理解できた。すなわち、訳の分からないことを言っていたわけではない。今でも、あのたとえ話を聞いて、さっぱり分からないと言う人はいない。イザヤの言葉もそうである。民に対して、分からないような言葉であるが語れと言われたのである。
イザヤ書6:11に「主よ、いつまででしょうか。」とある。これが、面白いところである。いつまでも分からない訳ではない。ある時までである。すると神様は答える。
町々が崩れ去って、住むものもなく家々には人影もなく。・・・このあと、インマヌエル預言に入っていくのである。すなわち、北王国イスラエルが滅亡し、南王国ユダが滅亡するときである。このイザヤの時代は、ウジヤ王の死んだ年と書いてある。BC750年である。
ウジヤ王の時代は、BC783年~750年である。この100年前はエリヤの時代である。ちょうど、この時期は北王国も南王国も、大繁栄をしているときなのである。神様の言葉など聞かなくても平気、神様にお願いしなくても金はどんどん入ってくる。豊かな実りがあった。経済は順調である。この数百年間は、イスラエルのバブル期である。だからエリヤが登場するのである。このときはバアルの神を拝んでおり、全能の父なる神はどこかに行ってしまう。出エジプトや荒野の40年など、すっかり忘れている。めんどくさい十戒を守るよりも、自分の都合の良いときに拝めばよい神バアルを信じていた。そのときに、イザヤは遣わされていくのである。

◆神の目から見てどうか
人間がどう見るかではなく、神様の目から見てどうかということである。繁栄の絶頂期にあったイスラエルも、主なる神がご覧になると、その地は乱れていたのである。神様の言葉というのは、自分の力ですべてが成し遂げられているというときには聞こえないのである。神様がすべてを支配しているということは、自分でうまくいっているときには分からない。自分が調子に乗っているときには、神の目からみたらどう見えるのかを忘れてしまう。しかし、そんなときにも誰があなたに繁栄を与えたのか、いつも見ておられる。絶頂期。自分の力ですべてが成されたと考えるとき、神の言葉に誰も耳を傾けない。神の言葉は公平に語られていた。しかし、聞くものの心が、神の言葉を閉ざしてしまうのである。
それにも関わらず、語り続けよと神様はおっしゃる。その御言葉を同じように与えられ、聞く側の問題でその言葉が理解できなくなっているということを忘れてはならない。神の国のたとえを「種まきのたとえ」として語られた。イエスはおっしゃる。あなたがたには、神の国の秘密が打ち明けられている。
イエス様の言葉をどんなときに聞くのか。それは、とても大事である。自分が危機のときにきくこともよい。イエス様の御言葉自体は、何も変わっていない。彼らが見るには見るが、認めず。私たちはどうなのだろうか。私たちは、そういわれるものの一人ひとりである。イエス様の言葉をそれなりに理解できているはずである。絶頂期であろうが、苦難のときであろうが、神様の言葉としては、変わりがない。こちらの心の在り様とは関係なしに、神様の言葉を神様の言葉として聞くことが重要である。

◆どんな場面でも語られる神の言葉
話は変わるが、ここしばらく、加賀屋で結婚式が続いた。長々と結婚講座をやる必要があると思ったこともあった。ホテルでは、あまりうまくいかない。しばらく身を委ねて考えていた。近頃、加賀屋での結婚式には、打ち合わせは10分間である。そのうち7分間は歩き方の練習である。また、3分間が誓約の説明と、名前の確認である。別れるなら、今がラストチャンスだからと言い出すと、ぎょっとする。たった3分間である。
結婚式のときも、5分間ぐらいしかやらない。3つの話しかしない。約束の言葉は思い。心と言葉をひとつにすること。人の言で信じるである。誓約の言葉は心を込めてやること。その言葉を頼りに生きていくこと。2つめは、人間たくさん選べないものの中で生きている。お父さんもお母さんも親戚も選べない。新しい命も選べない。結婚相手だけは選べる。だから、誓約に心を込めること。3つめは、たくさんの人々に支えられてきたということを思い起こして、あなたたちが周りの人たちを支える者となりなさい。そのために夫婦という最小単位がある。長ければ伝わるものではない。いつでも伝わるというものでもない。
どこでどんな言葉が聞かれるのかが、すごく大事である。神様の言葉も、人によっては、いつ聞くかが大事である。たとえ話で聞いている人たちは、危機になって、本当に神様に心が向いたときには聞くだろう。そういうときまで待たなければいけない。
しかし、覚えておきたい。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と言われているイエスの周りにいる私たちは、そんなときになって聞く話ではない。どんなときでも、結婚式に緊張して聞くのと同じように聞かなければいけない。どんなときでも「神様は私たちを愛しておられる」という言葉を聞かなければいけない。だから、イエス様と一緒にいる私たちは特別なのである。こちらの心のありようではない。たとえ、親子喧嘩をしているときでも、頭の片隅に「父と母を敬え」という御言葉が思い起こされる。それが、わたしたちである。周りに不幸を目にしたとき、あなたがたは永遠の命に召されているということ、死によってすべてが終わりではないという言葉を思い起こしていなければいけない。私たちが聞く神の言葉は、ある特定のときに感動して聞くのではない。どんなときでも、変わらずに聞く「神の言葉」を私たちは聞き続けていく。そのために、いまここに召されているのである。
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種をまく人のたとえ(マルコ4:1~9)

2006年01月15日 | 主日礼拝
2006年1月15日
釜土 達雄 牧師

◆たとえ話
 今日のたとえ話は、たねあかしがある。今日の箇所のあとに、弟子たちから、なぜ、たとえ話で話すのかを聞かれ、その後、たとえ話で話す理由が出てくる。そのあと13節から、解説が出てくる。イエス様ご自身が解説している。
 道端のものは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
4:13~ 石だらけのところにまかれるものとは、御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
育とうと思ったときに、いばらの種で、神様の言葉よりも早く成長する。神様の言葉もいいが、それだけでは生きてはいけない。
20節~良い土地に巻かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍の実を結ぶのである。
 他に出てくる茨や雑草は取り除かれている。そのたねが蒔かれるために、その土地がある。30倍、60倍、100倍もの実を結んで、新しい種を生み出していく。4章1節から9節のたとえは、しっかりと解説されている。私たちは、その内容について知ることができる。イエス様が語られたたとえ話について、イエス様ご自身が解説をしておられる。
 種まきの種というのは、神の言葉のことである。では、種を蒔く人とは、神の言葉を取り次ぐ人たちである。それならば、蒔かれた道端や土の少ないところや茨の中や良い土地というのは、誰のことか。それは、神の言葉を聞いた人たち一人ひとりのことである。これらは、読めばはっきりと分かる。

◆種は均一に蒔く
 これで話が終わる。牧師は、解説をきちんとしないと仕事にならないわけだが、こういう風に解説をされると仕事がなくなる。少し、ここを深く読み進めていく。種を蒔くというのは、どういうことか、イメージをふくらませていただきたい。プランターのところに、一つずつ蒔くイメージである。
あさがお、ひまわり、ホウセンカは、幼稚園で必ず蒔く。ホウセンカの種はとても小さい。その種は、芽が出てきて4~50cmくらいになる。それに下から上まで花で覆われる。種にさわるとパンとはじける。ひまわりの対極にあるような話である。
 あさがおは、自分ひとりでは生きていけない。一本で凛と立っていくひまわりと違って、ほかのものに巻きつきながら花を咲かせる。子供たちにどの種を蒔きたいかを聞くと、人によって、個性がある。要するに、種を一つずつ蒔く。
稲も種を植えて、苗を田植えするのである。私たちの日本で、一つ一つの種を大事に蒔く。それは、土地が少ないからである。国土の80%が農地に適さない山地である。
飛行機で飛びながら、種を蒔いていく。最初の大学が農業だったのでよく分かる。大学で、種の蒔き方を教わる。種を蒔くときのポイントは、ひとつにかたまらないように、満遍なく蒔いていく。均一であればあるほど、成績がいい。育つものが均一に出てくる。均一になればきちんと収穫できる。
よく聞きなさい。種は、種を蒔くために与えられた場所、与えられた地域に満遍なく蒔く。ここの土地にきれいに蒔けといわれたら、均一に蒔く。分け隔てなく蒔く。一箇所にだけ蒔くのではない。種まきの仕事とは、満遍なく蒔くことである。たとえ、土の浅いところでも、茨だらけのところでも、満遍なく蒔けといっている。きちんと満遍なく蒔きなさいといっている。私のところにまだ種が来ないということは言えない。「種まきが種まきに出て行った」という3節の短い言葉である。種を蒔く人たちの受け止め方が変わってくる。蒔いている間に、ある種、ほかの種、ほかの種は、平等に蒔かれた種だということである。

◆神の言葉は平等に宣べ伝えられている
種というのは、神様の言葉である。神様の言葉は、どこできくことができるか。教会に行った人は神様の言葉は聞けるが、そうでない人は聞けない、と思うかもしれない。イエス様がここで言っているのはそういうことなのだろうか。ひとつは、こう言えるだろう。教会に行っている人、北陸学院に行っている人の中で、強弱があるということはいえるだろう。学校によって違いはあるか。あるだろう。学校の中でも茨の中の子もいれば、道端の子もいるだろう。良い土地になる子もいるかもしれない。しかし、そうなると、この世の人たちにとっては、あるものは神様の言葉に触れることができるが、そうでないものは触れることができないということになってしまう。
間違えてはならない。ここでいう神様の言葉とは、「神様が私たちを愛してくださっている」という愛のメッセージである。無理に聖書に聞かなくても、みんな知っている。私たちの周りの人たちは、正月になれば初詣に行く。大事なときには神様、仏様を頼ることを知っている。そんな当たり前のことをなんとなく知っている。受験のときにKitKatのチョコを買ったり、カールを買うこともあるが、まさかカールで受かるとは思っていない。縁起を担いで、お寺でも神社でも、教会でもいい。必要なときに神様にすがりたいということ、誰でも神様が傍にいるということを知っている。いつも見守っていることは、みんな知っている。

◆神の言葉を聞いてどう生きるか
私たちは、はっきり小さいときから見えざる神を意識しながら生きている。神社に行って手をあわせたり、神の業があるということを知っていながら、鳥が来てその思いを食べてしまう人がいる。何かあったときに、神も仏もあるものか、と思ってしまう。日常の生活の中で、そんなことにかまっていられないと思う人がいる。本当の神様は何と言っているのかを探し求めて、教会に来るものもいる。神様の御言葉は平等に宣べ伝えられている。私たちは、どこででも御言葉に触れることが赦されている。神様なんて意味がない。神様の言葉を聞くことは弱虫の証だと思うのか。それとも、本当の神様に出会いたいと思うのか。あなたはどれなのか。
神様の言葉を聞いて、どう生きるのか。神様があなたを愛しているということを聞いて、どう生きるのか。神様の側の問題ではなく、あなた生き方の問題であると問うておられる。私たちは、そのことをしっかりと聞き取らなければいけない。
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聖霊を冒とくする者(マルコ3:20~30A)

2006年01月01日 | 主日礼拝
2006年1月1日
釜土 達雄 牧師

◆母マリアの信仰
 先週のクリスマスの礼拝と同じテキストである。そのときには、イエスの母マリアの信仰に視点を置いた。今日のテキスト20節に、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」という言葉があったからである。このときの身内の人たちとは、イエスの母と兄弟たちと書かれている。イエスの母マリアも兄弟たちも、イエスがどうも変になってきたと考えて、取り押さえに来たのである。クリスマスのときに「御言葉どおりこの身に成りますように」と言い、エジプトに逃れ、シメオンが「救い主を見た」と言ったのを聞いていたマリア。また、イエスが12歳のときに「わたしが父の家にいることが分からなかったのか」という言葉を心に留めていたマリアが、イエス
私たちの信仰は揺れ動くものである。わが子の事柄が気になって、共に生きていくときに、神様から与えられた御言葉のひとつひとつが消え去るように、人々の評価によって、イエス様の言葉や神の子であるという事実について、信じられなくなっていく。自分が神様から聞いたメッセージよりも人々の評価に心が動き信仰が揺らぐということを、クリスマスのときに聞いた。
ただ、そのマリアが、ここでイエスを見捨てたわけではなかったということも聞いてきた。弟子たちがイエスを見捨てたときに、十字架への道を共に歩み、殺されていく一部始終を母として見ていた。十字架にいたるまで、わが子を決して見捨てることのなかった母マリアである。受胎告知の信仰告白よりも、十字架の元でイエスを見上げるマリアの信仰に、より深く学ばなければいけない。
今日は新年である。年が改まった。テキストはまったく同じところである。今日は聖書の基本中の基本に戻って、このテキストを読み直してみたい。どうしても乗り越えておかなければいけない聖書の箇所を示しておきたい。十字架の贖いは、どのような例外もなく、どのような罪も許すということである。主イエスの十字架と復活によって、どのような罪も覆われて、主なる神の前に立つことができる。これは、すべての人々に与えられている大いなるメッセージである。教会に与えられている大きな役割は、罪の宣告と罪の赦しである。あなたは罪を犯している。そして、その罪は赦されている。例外になる人も存在しない。イスカリオテのユダでさえも、赦されている。今日のテキストは、そのことに疑問を持つようなテキストなのである。
したがって、新年を迎えた今日、聖書の基本中の基本に立ち返って、今日のテキストを受け止めたい。

◆聖書の基本
 聖書の基本中の基本に戻るには、創世記の1章に戻ればよい。私たちがこの地上を生きていくときの基本は、ほとんど1章1節から2章3節までの間に出てくる。繰り返し、思い起こして、繰り返し読んでおくべき箇所である。特に、創世記1章1節は、決定的に私たちを釘付けにする基本中の基本である。このフレーズは、私たちが地上を生きていくうえでの基本中の基本である。「初めに神は天地を創造された。」この世界は、神様がお創りになられた。この世界は、神のものである。無からお創りになられたのであれば、神のものである。この世界のすべてのものをお創りになられたのは神様である。しかも創ったものを私のものだとおっしゃっている。ということは、私たちが私たちのものだと思っている命は、神様のものだということである。私たちの体は、神様がお創りになった天地の一部である。私たちの地球も然り。私たちはこの宇宙の一部にすぎない。私たちの体や人生は、神様がお創りになったものであって、私のものではない。すべてを支配しておられるのである。自分のものだと思っているもののほとんどが、一時的に神様から預かっているもの、または借りているものである。
 自分の命が自分のものだと思っているから、その命がなくなると告げられたときに「なぜ」と思う。なぜ、このような才能しかないのか、なぜこんな人生を歩まなければいけないのか。
 
◆神がすべてものを創られた
今日は教会にはこれくらいの人が来ているが、同じ時間帯に神社には、ものすごい人が行っている。この地上にある神社にお参りというのは、悪いことではない。自分よりも上の存在を見つめている。自分を超える「見えざるもの」に、心が向いている。悪いことではない。
 しかし、そこで願うことは何か。家内安全、商売繁盛。一年の平安。それも悪いことではない。神に願い事をすることは、繰り返すが、決して悪いことではない。
 だが、考えておこう。自分がいて、神様に願い事に行く。頼みにいく。自分のものがあって、神様に頼みにいく。今の自分の生活を頼みにいく。あるいは、厄払をしに行く。自分に災いが起こらないように頼みにいく。自分の命の存続を頼みにいく。そこには、私の命が神様から与えられたという発想はない。人生は神様からゆだねられているという発想はない。自分の仕事は神様から与えられた使命だという発想はない。
 今日、この新年に、我々はそういう地上の人々と決定的に違うメッセージを聞かなければいけない。「初めに神は天地を創造された」。あなたの人生は、個性は、神のものである。この苦しみ悲しみ、喜びも与えられたのは神様だと聞かなければいけない。うまくいくように、神様に頼みにいくのではない。神から与えられたもので、あなたは満足をしなさいと言われる。
 だから、信仰の基本中の基本として、神がすべてものものを創られた、すべては神のものであるということを聞かなければいけない。
ところが、私たちは分かっている。何かあったときに神様にお願いにいく。困ったときの神頼みをする。苦しいときに頼みに行く。困ったときの神頼みはいけない、と言われるが、困ったときに神頼みもしないのは、もっといけない。神様は、困ったときに逃げ込んでくる人が大好きである。そのときに、私たちが覚えておかなければいけないことがある。ただ、神様、神様と言ってみたり、自分の都合で神様を使ったり、神様のものを自分のものとしてしまったりすると、それは「罪」である。神様のものを自分のものだと思ってしまうこと、託されているものを勝手に使っていいと思ってしまうことである。私たちは、そう知っていても、あたかも自分の人生は自分のものだと思い、好き勝手やってよいものだと思ってしまうのである。だから、礼拝で繰り返し聞く。「すべてものものは神様のものである」
その罪は、主の十字架と復活によって赦されているということを聞く。
教会の基本的な仕事は2つある。罪の宣告と罪の赦しである。「はっきり言っておく。・・・・すべて赦される」これは、繰り返し聞いていなければならない基本中の基本なのである。

◆罪と赦しに気づかせてくれる聖霊
しかし、29節は終わっていない。
「しかし、聖霊を冒とくするものは、・・・永遠に罪の責めを負う」
確かにそうである。教会の仕事は「罪の宣告」と「罪の赦し」である。一つだけ問題がある。どのようにして、その罪に気づくのか。どのようにして、その赦しに出会うのかということである。これを知ろうとするときに、29節が私たちに迫ってくる。
そう、罪に気づかせてくださるのは、聖霊である。罪の赦しに出会わせてくださるのは、聖霊なる神なのである。聖霊なる神によらなければ、すべてのものは神のものであるということを受け入れることはできない。聖霊の助けがなくて、どのように知ることができようか。だから、イエス様はおっしゃる。聖霊がなければ、罪の自覚も赦しのメッセージも知ることができないからである。

◆祈るものとして歩む
私たちは、大いなるひと回りの歩みを始める。そのときに、信仰の基本として、この地上を歩んでいくときには聖霊なる神の助けが必要だということである。私たちの罪に気づかせてください、助けてください。祈りながら生きていくこと、それが大事である。
 聖霊なる神が私たちに働いているかどうかが分かるのは、毎日ちゃんと祈れるかということである。聖霊なる神が働いてくださらないと、祈ることも礼拝に来ることもできない。
 高校生時代に読んで、ばかばかしかったこの言葉ほど含蓄に富んだ言葉はない。「聖霊なる神様に祈れるように祈ること」。「祈れないときに、祈れるように祈ること」。ここにかかっている。
 この1年、祈る者として、歩んでいきたい。
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