12月23日は、教会学校のクリスマス会でした。
52名のお友達が参加して、礼拝をまもったあと、
みんなで楽しくおやつを食べて、ビンゴゲームをしました。
久しぶりに、クリスマスは何の日?
お友達のお誕生日にプレゼントをもらいにいく人いる?
・・・のお話を聞きました。
たくさんのお友達と一緒に、イエスさまのお誕生をお祝いできてよかったね。
52名のお友達が参加して、礼拝をまもったあと、
みんなで楽しくおやつを食べて、ビンゴゲームをしました。
久しぶりに、クリスマスは何の日?
お友達のお誕生日にプレゼントをもらいにいく人いる?
・・・のお話を聞きました。
たくさんのお友達と一緒に、イエスさまのお誕生をお祝いできてよかったね。
◆クリスマスと私たちの関わり
アドベントのときを過ごしている。主イエスキリストのご降誕を祝うために、祈りをもって過ごすために定められている。アドベントの間、イエス様が何ゆえに、この世に来られたのか、祈りながら思い起こす大切なときを過ごさなければいけない。この数週間、あちこちでクリスマスのメッセージを語るように求められている。昨日は、小松のよしたけ保育園で、昨日の夜は羽咋しらゆり幼稚園の母の会のクリスマス会にて。クリスマスが、私たちにどれほど深く関わっているのか。入門中の入門の話を取り次いできた。今年は2005年だが、何から数えて2005年なのか。私たちのイエス・キリストの誕生から数えて、2005年なのである。もちろん、カレンダーを作り出した人が、そのように設定したが、あとから検証したところ、計算間違えがあったため、キリストの誕生はBC4年だと記されている。ともあれ最初の人が、何をもって紀元としようとしたかというと、キリストの誕生なのである。
1月1日は、なぜ1月1日なのか。日本にもともとあった暦は旧暦といって、現在の正月はもともと日本で祝われていた暦とは違う。現在の暦はキリスト暦なので、これもクリスマスと関係する。クリスマスは1週間お祝いする。クリスマスのお祝いが終わったら、次の年になる。今年のクリスマスは25日の日曜日。そして、来年の1月1日も日曜日である。
また、12月24日の夜にサンタさんは来るのだろうか。それとも25日の夜か。イスラエルでは、日没から1日が始まっていたので、24日の日没からは25日である。クリスマスイブというのは、前夜祭ではなくクリスマスの夜という意味である。
こんな話もする。イエス様は、若い頃には大工として普通の生活をしていた。30歳頃に公の生涯を歩まれる。約3年間、地上で神様の話をして、そのあと捕まって十字架につけられた。1週間は7日間で、7日目の土曜日がお休みだった。しかし今、私たちは日曜日にお休みしている。それは、イエス様が金曜日に十字架につけられ、3日目の日曜日によみがえられた。それで、日曜日に礼拝を守るようになった。日曜日がお休みなのは、礼拝を守るためなのである。
◆「なぜ」クリスマスが起こったのか
このように、主イエスキリストと深く関わって生きている。カレンダーがどうやってできてきたか。それは、話を聞けば分かる。クリスマスはどのようにして起こったのか。キリスト教の幼稚園・保育園ではページェントをやるので、その様子はよく分かる。しかし、クリスマスが「なぜ」起こったのか。それは、ページェントを見ているだけでは分からない。なぜ「クリスマス」は「クリスマス」なのか。世界中の人たちがお祝いするようになったのか。
クリスマスの話を求められるとき、聖書の箇所はルカ3章16節に決めてきた。
「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
クリスマスがなぜ起こったのか、クリスマスの意味を知っていなければ、クリスマスをただ祝うことになる。人生の中で、大きな怪我をする、病を得るときに、どうやってそれが起こったかを聞いても心は癒されない。そういうときの人々の問いは「なぜ」である。クリスマスは幸いなときである。どのように起こったかはよく知られている。カレンダーにどのように反映されてきたか。それを知ることはできる。
しかし、「なぜ」クリスマスが起こったかは、聖書に聞いてみないと分からない。そして、明確にここに答えがある。「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」私たち一人ひとりを愛してくださったからである。だから、クリスマスはあるのである。なぜ、私たちはここにいて、イエスキリストのメッセージを聞いているのか。神様が愛してくださった世の中のひとりが、あなただからである。聖書が語っているメッセージは、この繰り返しである。なぜ、こんな苦しみを得なければいけないのか。しかし、神は「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」のである。
聖書の別の箇所にこういうところがある。障害を持っている子どもを持った親が、「だれに責任があるのか」と問う。そのときイエス様は、「神の栄光が現れるためにそうなっている」と答えられる。なぜ、こんなに辛い生涯を歩むのか。そのときのイエス様の答えは明快である。「神の栄光が現れるためである」このことをそう簡単に納得できる人はいない。しかし、神様がそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されたことを知っている者は、その栄光の意味を心の中でいつか受け入れることができるに違いない。私はそのことを固く信じている。
◆クリスマスで盛り上がるまち
先週は、同じようにクリスマスメッセージを求められて、沖縄に行ってきた。先々週になるが、金曜日の早朝に七尾を出た。七尾を出たときは気温が3℃であった。飛行機で小松を出たときは9℃。現地の気温は25℃であった。レインコートを着て行ったが、飛行機を降りると、出迎えてくれた牧師はサングラスをかけて半袖であった。落差はすごい。暑くないかと聞かれたが、非常に暑かった。今年の桜はけっこう早く、来週咲くという。来週というと今日である。クリスマスの頃は、桜が満開らしい。私は、桜とサンタクロースは合わないと思った。12月にクーラーのきいた礼拝堂で説教したのも初めてである。どう表現していいか分からないが、様々な文化の違い、気候の違いを実感してきた。
町にお寺がない。いろんな宗教が混在している。一番、元気だったのがモルモン教である。どの宗教も似たような会堂である。クリスマスは、盛り上がっていない。教会の会堂の上にイエス様が生まれたときの絵が掲げられているが、盛り上がっているのは教会だけで、普通のところではあまりクリスマスの盛り上がりがない。
今日のテキストは、クリスマスとはまったく関係のない話である。私たちのところのクリスマスの雰囲気が出てくる。それは、みんながイエス様をお祝いしている点である。沖縄では、あまりクリスマスは盛り上がっていなかった。そこから帰ってきて、小松に着くと、そこら中クリスマスツリーとクリスマスソングであった。沖縄は、沖縄キリスト教大学があるのに、クリスマスはほとんど盛り上がっていない。私たちの能登では、これだけクリスマスソングが流れているのに、礼拝に集う人は、これだけである。今回招かれた教会は、6,70人集まっている。
七尾に帰ってきて、ありとあらゆるところでクリスマスソングが流れ、クリスマスツリーが飾られ、ありとあらゆるところでクリスマスについて語られている。イエス様は能登では人気者である。今日のテキストと良く似た状況がある。
マルコ3:7~
能登半島にイエス様が来たら、人々が集まってくるのではないかというくらい、今はクリスマスの雰囲気に満ち満ちている。
◆私たちが語るべきこと
10節にこうある。「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。」イエス様に触れることによって、自分の苦しみ悩みを解決してほしいと願っていた。自分の今ある問題を解決したいと願っていた。それは悪いことではない。しかし、「なぜ」イエス様が来られたかということについて、彼らは興味がない。イエス様の生涯は、どこに向かっているかということは、何の興味もない。彼らの興味は、自分の病が治ること、自分の悩みである。イエス様に触れれば、自分の悩みや苦しみが解決する。それならばイエス様に触ってみようと思ったのである。
小松空港にクリスマスツリーが飾ってあった。おもちゃ屋にクリスマスツリー。ジョーシンにもクリスマスツリーとクリスマスプレゼントコーナーもある。クリスマスシーズンで売れるかもしれない。イエス様の名前を使って、商売ができる。だから盛り上がっている。それを悪いとは思わない。彼らはそれで解決した。まだ、沖縄は正直であった。ほかの宗教団体は、そんなことはしていないし、盛り上がっていたわけでもない。今日のテキストで、
私たちは12~13節は、真剣に聞いておく必要がある。
「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」
イエス様のことを神の子だと見抜いていたのは、「汚れた霊」であった。イエスが神の子であると知り、それを告白したのは、信仰者でも聖霊でもなく、汚れた霊であると、マルコは記しているのである。サタンも悪霊も神の子を知っている。彼らはイエス様が怖かった。自分が追い出されるのが怖かった。だから、「あなたは神の子だ」と叫んでいる。イエス様が神の子だと知っていた者たち。その者たちに対して、イエス様は、「自分のことを言いふらさないように」と、霊どもを厳しく戒められた。
私たちの主イエスキリストは、神の子である。しかし、イエス様はそのことを言いふらさないように、悪霊たちを戒められた。イエス様が神の子だ、神の子だ、と語るのが大事なのではない。イエス様が神の子として、地上にこられたのは「なぜ」か。「神が私たちを愛してくださったから」である。イエス様が神の子だということは、悪霊でも語れるのである。私たちがこの地上で語らなければいけないことは、イエス様が神の子であることはもちろんだが、それは「神様は私たち、この世界を愛しておられる」と、よりたくさん、より心から語らなければいけないだろう。
私たちの周りに「イエス様は神の子だ」と言っている人が多くいる。しかし、「イエス様が来てくださったのは、神様がこの世界を愛しておられるからだ」と語る者に悪霊はありえない。このことをきちんと語る者になりたい。また、自分の病を治してもらいたいからイエス様のところにいくというのではない信仰をしっかり持ちたい。
マルコ3:11~12
2005年12月11日 釜土 達雄 牧師
アドベントのときを過ごしている。主イエスキリストのご降誕を祝うために、祈りをもって過ごすために定められている。アドベントの間、イエス様が何ゆえに、この世に来られたのか、祈りながら思い起こす大切なときを過ごさなければいけない。この数週間、あちこちでクリスマスのメッセージを語るように求められている。昨日は、小松のよしたけ保育園で、昨日の夜は羽咋しらゆり幼稚園の母の会のクリスマス会にて。クリスマスが、私たちにどれほど深く関わっているのか。入門中の入門の話を取り次いできた。今年は2005年だが、何から数えて2005年なのか。私たちのイエス・キリストの誕生から数えて、2005年なのである。もちろん、カレンダーを作り出した人が、そのように設定したが、あとから検証したところ、計算間違えがあったため、キリストの誕生はBC4年だと記されている。ともあれ最初の人が、何をもって紀元としようとしたかというと、キリストの誕生なのである。
1月1日は、なぜ1月1日なのか。日本にもともとあった暦は旧暦といって、現在の正月はもともと日本で祝われていた暦とは違う。現在の暦はキリスト暦なので、これもクリスマスと関係する。クリスマスは1週間お祝いする。クリスマスのお祝いが終わったら、次の年になる。今年のクリスマスは25日の日曜日。そして、来年の1月1日も日曜日である。
また、12月24日の夜にサンタさんは来るのだろうか。それとも25日の夜か。イスラエルでは、日没から1日が始まっていたので、24日の日没からは25日である。クリスマスイブというのは、前夜祭ではなくクリスマスの夜という意味である。
こんな話もする。イエス様は、若い頃には大工として普通の生活をしていた。30歳頃に公の生涯を歩まれる。約3年間、地上で神様の話をして、そのあと捕まって十字架につけられた。1週間は7日間で、7日目の土曜日がお休みだった。しかし今、私たちは日曜日にお休みしている。それは、イエス様が金曜日に十字架につけられ、3日目の日曜日によみがえられた。それで、日曜日に礼拝を守るようになった。日曜日がお休みなのは、礼拝を守るためなのである。
◆「なぜ」クリスマスが起こったのか
このように、主イエスキリストと深く関わって生きている。カレンダーがどうやってできてきたか。それは、話を聞けば分かる。クリスマスはどのようにして起こったのか。キリスト教の幼稚園・保育園ではページェントをやるので、その様子はよく分かる。しかし、クリスマスが「なぜ」起こったのか。それは、ページェントを見ているだけでは分からない。なぜ「クリスマス」は「クリスマス」なのか。世界中の人たちがお祝いするようになったのか。
クリスマスの話を求められるとき、聖書の箇所はルカ3章16節に決めてきた。
「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
クリスマスがなぜ起こったのか、クリスマスの意味を知っていなければ、クリスマスをただ祝うことになる。人生の中で、大きな怪我をする、病を得るときに、どうやってそれが起こったかを聞いても心は癒されない。そういうときの人々の問いは「なぜ」である。クリスマスは幸いなときである。どのように起こったかはよく知られている。カレンダーにどのように反映されてきたか。それを知ることはできる。
しかし、「なぜ」クリスマスが起こったかは、聖書に聞いてみないと分からない。そして、明確にここに答えがある。「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」私たち一人ひとりを愛してくださったからである。だから、クリスマスはあるのである。なぜ、私たちはここにいて、イエスキリストのメッセージを聞いているのか。神様が愛してくださった世の中のひとりが、あなただからである。聖書が語っているメッセージは、この繰り返しである。なぜ、こんな苦しみを得なければいけないのか。しかし、神は「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」のである。
聖書の別の箇所にこういうところがある。障害を持っている子どもを持った親が、「だれに責任があるのか」と問う。そのときイエス様は、「神の栄光が現れるためにそうなっている」と答えられる。なぜ、こんなに辛い生涯を歩むのか。そのときのイエス様の答えは明快である。「神の栄光が現れるためである」このことをそう簡単に納得できる人はいない。しかし、神様がそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されたことを知っている者は、その栄光の意味を心の中でいつか受け入れることができるに違いない。私はそのことを固く信じている。
◆クリスマスで盛り上がるまち
先週は、同じようにクリスマスメッセージを求められて、沖縄に行ってきた。先々週になるが、金曜日の早朝に七尾を出た。七尾を出たときは気温が3℃であった。飛行機で小松を出たときは9℃。現地の気温は25℃であった。レインコートを着て行ったが、飛行機を降りると、出迎えてくれた牧師はサングラスをかけて半袖であった。落差はすごい。暑くないかと聞かれたが、非常に暑かった。今年の桜はけっこう早く、来週咲くという。来週というと今日である。クリスマスの頃は、桜が満開らしい。私は、桜とサンタクロースは合わないと思った。12月にクーラーのきいた礼拝堂で説教したのも初めてである。どう表現していいか分からないが、様々な文化の違い、気候の違いを実感してきた。
町にお寺がない。いろんな宗教が混在している。一番、元気だったのがモルモン教である。どの宗教も似たような会堂である。クリスマスは、盛り上がっていない。教会の会堂の上にイエス様が生まれたときの絵が掲げられているが、盛り上がっているのは教会だけで、普通のところではあまりクリスマスの盛り上がりがない。
今日のテキストは、クリスマスとはまったく関係のない話である。私たちのところのクリスマスの雰囲気が出てくる。それは、みんながイエス様をお祝いしている点である。沖縄では、あまりクリスマスは盛り上がっていなかった。そこから帰ってきて、小松に着くと、そこら中クリスマスツリーとクリスマスソングであった。沖縄は、沖縄キリスト教大学があるのに、クリスマスはほとんど盛り上がっていない。私たちの能登では、これだけクリスマスソングが流れているのに、礼拝に集う人は、これだけである。今回招かれた教会は、6,70人集まっている。
七尾に帰ってきて、ありとあらゆるところでクリスマスソングが流れ、クリスマスツリーが飾られ、ありとあらゆるところでクリスマスについて語られている。イエス様は能登では人気者である。今日のテキストと良く似た状況がある。
マルコ3:7~
能登半島にイエス様が来たら、人々が集まってくるのではないかというくらい、今はクリスマスの雰囲気に満ち満ちている。
◆私たちが語るべきこと
10節にこうある。「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。」イエス様に触れることによって、自分の苦しみ悩みを解決してほしいと願っていた。自分の今ある問題を解決したいと願っていた。それは悪いことではない。しかし、「なぜ」イエス様が来られたかということについて、彼らは興味がない。イエス様の生涯は、どこに向かっているかということは、何の興味もない。彼らの興味は、自分の病が治ること、自分の悩みである。イエス様に触れれば、自分の悩みや苦しみが解決する。それならばイエス様に触ってみようと思ったのである。
小松空港にクリスマスツリーが飾ってあった。おもちゃ屋にクリスマスツリー。ジョーシンにもクリスマスツリーとクリスマスプレゼントコーナーもある。クリスマスシーズンで売れるかもしれない。イエス様の名前を使って、商売ができる。だから盛り上がっている。それを悪いとは思わない。彼らはそれで解決した。まだ、沖縄は正直であった。ほかの宗教団体は、そんなことはしていないし、盛り上がっていたわけでもない。今日のテキストで、
私たちは12~13節は、真剣に聞いておく必要がある。
「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」
イエス様のことを神の子だと見抜いていたのは、「汚れた霊」であった。イエスが神の子であると知り、それを告白したのは、信仰者でも聖霊でもなく、汚れた霊であると、マルコは記しているのである。サタンも悪霊も神の子を知っている。彼らはイエス様が怖かった。自分が追い出されるのが怖かった。だから、「あなたは神の子だ」と叫んでいる。イエス様が神の子だと知っていた者たち。その者たちに対して、イエス様は、「自分のことを言いふらさないように」と、霊どもを厳しく戒められた。
私たちの主イエスキリストは、神の子である。しかし、イエス様はそのことを言いふらさないように、悪霊たちを戒められた。イエス様が神の子だ、神の子だ、と語るのが大事なのではない。イエス様が神の子として、地上にこられたのは「なぜ」か。「神が私たちを愛してくださったから」である。イエス様が神の子だということは、悪霊でも語れるのである。私たちがこの地上で語らなければいけないことは、イエス様が神の子であることはもちろんだが、それは「神様は私たち、この世界を愛しておられる」と、よりたくさん、より心から語らなければいけないだろう。
私たちの周りに「イエス様は神の子だ」と言っている人が多くいる。しかし、「イエス様が来てくださったのは、神様がこの世界を愛しておられるからだ」と語る者に悪霊はありえない。このことをきちんと語る者になりたい。また、自分の病を治してもらいたいからイエス様のところにいくというのではない信仰をしっかり持ちたい。
マルコ3:11~12
2005年12月11日 釜土 達雄 牧師
今年のクリスマス礼拝は12月25日です。クリスマスに受洗を希望される方は、牧師または長老にお申し出ください。
クリスマスの予定は、以下の通り。
12月23日(金) 14:30~16:30 CSクリスマス会
12月24日(土) 19:30~キャンドルサービス
21:15~クリスマスキャロル
12月25日(日) 10:30~クリスマス礼拝(主日礼拝)
12:30~クリスマス愛餐会
クリスマスの予定は、以下の通り。
12月23日(金) 14:30~16:30 CSクリスマス会
12月24日(土) 19:30~キャンドルサービス
21:15~クリスマスキャロル
12月25日(日) 10:30~クリスマス礼拝(主日礼拝)
12:30~クリスマス愛餐会
*本日(12月4日)、釜土牧師は日本伝道会の沖縄伝道旅行のため不在です。本日の説教は、北陸学院院長の井上良彦先生がご奉仕くださいました。
*8日 羽咋教会の芳賀恵先生の結婚式があります。
*10日 羽咋白百合幼稚園 母の会クリスマス会
*8日 羽咋教会の芳賀恵先生の結婚式があります。
*10日 羽咋白百合幼稚園 母の会クリスマス会
◆ザカリヤの失敗
アドベントのときである。クリスマスは、われわれの信仰がチェックされるときでもある。それをザカリヤの物語から聞いていきたい。
ザカリヤには、子どもがなかった。それは、民族に属するものの義務を果たせないことであった。子どもを授かることは、長い間の願いであった。時が過ぎ、子どもを持つことは望み得ない頃になっていた。ザカリヤはくじを引いて、祭壇で香をたく役目にあたった。それが、どのくらい貴重なものであるのかを見てみよう。祭司に属する人々は家系により、24組に分けられていた。組ごとに1000人の祭司が属する。神殿に仕えるという任務を先祖代々果たしていた。年に2回、1週間交代で勤めを果たす。1年に2回まわってくることになる。さて、1組でも1000人いるという祭司である。祭壇で香をたくのは、とても貴重な任務である。誰がその役割をするかは、くじで定める。1組1000人で24組、1生に1度、当たるかどうかの確率である。願ってもない夢の日になったわけである。内心の喜びは相当のものであったと想像できる。
ガブリエルがザカリヤのところに現れて言った。「あなたの妻エリザベトは身ごもって、子どもを生むことになる。歴史上見なかったような大きな尊い役目を果たすことになる」ヨハネとは、「神様は恵み深い」という意味である。神様の恵み深さが如実に現れるような子どもが生まれると、天使長は告げるのである。一生に一度あるかという光栄な任務につくという輝かしいときである。しかし、ザカリヤはこのときに失敗をしてしまう。あとから、しまったと思ったかもしれないが、時既に遅し、であった。天使長のお告げに対して「どうして、そんなことがありますか」と言ってしまったのである。
かつて、アブラハムに子どもができると言われたときに、くすっと笑った。これは不信の笑いである。イサクは笑うという意味である。ザカリヤの子はヨハネという名前である。神さまが恵み深いということが、この子を通して現れる。そのお告げを前にして、ザカリヤは「そんなことはあるはずないでしょう」と言ってしまう。これが、ザカリヤの失敗である。ザカリヤは叱られる。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなると、言われる。神殿から出て行ったときに、人々はその状態に驚く。
◆神様の関係の中で祈る
さて、このあと、ヨハネという子どもが実際に生まれてきて、親戚の者が集まってきて、名前をつけなければというときになって、母親が「この子の名前はヨハネです」と、夫婦一致して、神様の御言葉に従った。ザカリヤも「その名はヨハネ」と書いた。そのときに、ザカリヤの口は開けて、しゃべられるようになった。
明治の文学者に国木田独歩という人がいる。上村先生から洗礼を受けた。あの頃の信仰者であり、いつしか信仰から遠ざかっていた。30代の半ばに立ち直ることのできないほどの病にかかっていた。人生は待ったなしである。病の床で、独歩は上村先生に来てもらい祈ってほしいと言った。私の心を開く鍵を持っているのは先生だけです、と。ところが上村氏は、「心を開くのは、君自身だ。君が祈りなさい」と言った。そのとき、独歩は祈れないと言って号泣するのである。神様との関係がなければ、神様に向かって言葉を発することができない。
その後、上村先生は「罪許されずば、口開くことあたわず」という題の説教をされた。神様との間に良い関係をつくるということである。その関係は、イエスキリストだけがその関係をつくることができる。どんなに文才のある人でも、どんなに教養のある人でも、神様とのよい関係がなければ、祈ることができない。ザカリヤは、ひとたび、神様に対して不信の想いをいだいた。不信仰の状態をさらしてしまって、物が言えなくなってしまった。その不信仰が癒されたときに口を開くことができた。お告げの通りに、その名はヨハネと言うことができた。
◆人間についての隠されたご計画
創世記で、神様は「これはよし、はなはだよし」と、肯定して祝福していく。人間をつくったところの書かれ方がおかしいということに、最近気づいた。天地や動植物については、ひとつずつ「これはよし」と言っているが、人間のところだけ、創造したすべてのものと一緒に「極めてよかった」と記されているのである。天地創造の前から、神様には人間に関して、隠されたご計画があったという。動植物は自然法則から外れることができない。神様の命令に従うことしかできない。人間は、神様に従うか、従わないかは自分で決められるように創られた。人間は、創世記の3章ですでに、神様に従うことに失敗している。すべての生き物が、神様の賛美に捧げるようなことが、人間だけができていない。そういう自由意志があるために、神様に従うことができないように、なっている。
ここに、エフェソの手紙にあるような隠された計画がある。イエスキリストを天地創造のときから計画していたということである。強制的ではなく、自分から進んで喜んで神様に従うことができる人間を創り出すということで、神様に従うことができる。
◆全体の中での役割
司馬遼太郎という作家がいる。妻の兄と同級生で、親しい関係である。彼が、「義務」という言葉のルーツをロンドンに調べに行くという場面がある。義務教育、納税の義務など、義務という言葉は良く使う。この言葉がどこから出てきたものかということが、司馬さんの疑問である。英語でDutyという言葉である。いつの頃からか、この言葉が出てきた。イギリスがまだ小さい国であった頃、フランスは大国であった。そのときに、ネルソンの艦隊が大国フランスに立ち向かう。そのときのイギリス軍は、ネルソンの提督にある一人ひとりが、ネルソンであるかのように、全体の中での自分の役割が何かが分かるようにして戦った。ネルソンは、そのときに死んでしまったが、「I shall my Duty」私は義務を果たした、と言って死んだ。戦いの中で、自分の船はどう動けばよいか、何を果たすべきかを判断して動けなければ、勝つことはできない。英国海軍はそれを実践した。
私たちはどうだろうか。人間は、神様に創られた。「これはよし、甚だよし」と祝福された。人間は、その全体の中で、役割を果たせるだろうか。どんなに性質の良い人でも、生まれつき神様に従っている人はいない。神様が遣わしてくださったイエス・キリストだけなのである。イエス様は、人間の滅びと反逆を背負って十字架につけられた。それによって、人間の新しい誕生が出発したのである。
ザカリヤは、その真理に触れた。やがて生まれるヨハネは、バプテスマのヨハネと呼ばれる。旧約と新約をつなぐ時代に生きる。旧約と新約をつなぐのは、イエスキリストである。イエスキリストは、全身全霊で喜んで神をたたえる。そのイエスキリストの前に、ヨハネは生まれる。
クリスマスがやってくる。イエスキリストによって、新しく作りかえられて、身も心も喜んで、神様が私たちを賛美するときである。
冒頭に言ったとおり、クリスマスは、私たちの信仰をもう一度チェックする機会でもある。私たちが、このような恵みに授かっているということを本当に確認して、それを喜び感謝して、神を賛美するものとなる。これが、クリスマスである。私たちはこういうときに向かって、一日一日、歩みを進めている。
2005年12月4日 井上 良彦 牧師
アドベントのときである。クリスマスは、われわれの信仰がチェックされるときでもある。それをザカリヤの物語から聞いていきたい。
ザカリヤには、子どもがなかった。それは、民族に属するものの義務を果たせないことであった。子どもを授かることは、長い間の願いであった。時が過ぎ、子どもを持つことは望み得ない頃になっていた。ザカリヤはくじを引いて、祭壇で香をたく役目にあたった。それが、どのくらい貴重なものであるのかを見てみよう。祭司に属する人々は家系により、24組に分けられていた。組ごとに1000人の祭司が属する。神殿に仕えるという任務を先祖代々果たしていた。年に2回、1週間交代で勤めを果たす。1年に2回まわってくることになる。さて、1組でも1000人いるという祭司である。祭壇で香をたくのは、とても貴重な任務である。誰がその役割をするかは、くじで定める。1組1000人で24組、1生に1度、当たるかどうかの確率である。願ってもない夢の日になったわけである。内心の喜びは相当のものであったと想像できる。
ガブリエルがザカリヤのところに現れて言った。「あなたの妻エリザベトは身ごもって、子どもを生むことになる。歴史上見なかったような大きな尊い役目を果たすことになる」ヨハネとは、「神様は恵み深い」という意味である。神様の恵み深さが如実に現れるような子どもが生まれると、天使長は告げるのである。一生に一度あるかという光栄な任務につくという輝かしいときである。しかし、ザカリヤはこのときに失敗をしてしまう。あとから、しまったと思ったかもしれないが、時既に遅し、であった。天使長のお告げに対して「どうして、そんなことがありますか」と言ってしまったのである。
かつて、アブラハムに子どもができると言われたときに、くすっと笑った。これは不信の笑いである。イサクは笑うという意味である。ザカリヤの子はヨハネという名前である。神さまが恵み深いということが、この子を通して現れる。そのお告げを前にして、ザカリヤは「そんなことはあるはずないでしょう」と言ってしまう。これが、ザカリヤの失敗である。ザカリヤは叱られる。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなると、言われる。神殿から出て行ったときに、人々はその状態に驚く。
◆神様の関係の中で祈る
さて、このあと、ヨハネという子どもが実際に生まれてきて、親戚の者が集まってきて、名前をつけなければというときになって、母親が「この子の名前はヨハネです」と、夫婦一致して、神様の御言葉に従った。ザカリヤも「その名はヨハネ」と書いた。そのときに、ザカリヤの口は開けて、しゃべられるようになった。
明治の文学者に国木田独歩という人がいる。上村先生から洗礼を受けた。あの頃の信仰者であり、いつしか信仰から遠ざかっていた。30代の半ばに立ち直ることのできないほどの病にかかっていた。人生は待ったなしである。病の床で、独歩は上村先生に来てもらい祈ってほしいと言った。私の心を開く鍵を持っているのは先生だけです、と。ところが上村氏は、「心を開くのは、君自身だ。君が祈りなさい」と言った。そのとき、独歩は祈れないと言って号泣するのである。神様との関係がなければ、神様に向かって言葉を発することができない。
その後、上村先生は「罪許されずば、口開くことあたわず」という題の説教をされた。神様との間に良い関係をつくるということである。その関係は、イエスキリストだけがその関係をつくることができる。どんなに文才のある人でも、どんなに教養のある人でも、神様とのよい関係がなければ、祈ることができない。ザカリヤは、ひとたび、神様に対して不信の想いをいだいた。不信仰の状態をさらしてしまって、物が言えなくなってしまった。その不信仰が癒されたときに口を開くことができた。お告げの通りに、その名はヨハネと言うことができた。
◆人間についての隠されたご計画
創世記で、神様は「これはよし、はなはだよし」と、肯定して祝福していく。人間をつくったところの書かれ方がおかしいということに、最近気づいた。天地や動植物については、ひとつずつ「これはよし」と言っているが、人間のところだけ、創造したすべてのものと一緒に「極めてよかった」と記されているのである。天地創造の前から、神様には人間に関して、隠されたご計画があったという。動植物は自然法則から外れることができない。神様の命令に従うことしかできない。人間は、神様に従うか、従わないかは自分で決められるように創られた。人間は、創世記の3章ですでに、神様に従うことに失敗している。すべての生き物が、神様の賛美に捧げるようなことが、人間だけができていない。そういう自由意志があるために、神様に従うことができないように、なっている。
ここに、エフェソの手紙にあるような隠された計画がある。イエスキリストを天地創造のときから計画していたということである。強制的ではなく、自分から進んで喜んで神様に従うことができる人間を創り出すということで、神様に従うことができる。
◆全体の中での役割
司馬遼太郎という作家がいる。妻の兄と同級生で、親しい関係である。彼が、「義務」という言葉のルーツをロンドンに調べに行くという場面がある。義務教育、納税の義務など、義務という言葉は良く使う。この言葉がどこから出てきたものかということが、司馬さんの疑問である。英語でDutyという言葉である。いつの頃からか、この言葉が出てきた。イギリスがまだ小さい国であった頃、フランスは大国であった。そのときに、ネルソンの艦隊が大国フランスに立ち向かう。そのときのイギリス軍は、ネルソンの提督にある一人ひとりが、ネルソンであるかのように、全体の中での自分の役割が何かが分かるようにして戦った。ネルソンは、そのときに死んでしまったが、「I shall my Duty」私は義務を果たした、と言って死んだ。戦いの中で、自分の船はどう動けばよいか、何を果たすべきかを判断して動けなければ、勝つことはできない。英国海軍はそれを実践した。
私たちはどうだろうか。人間は、神様に創られた。「これはよし、甚だよし」と祝福された。人間は、その全体の中で、役割を果たせるだろうか。どんなに性質の良い人でも、生まれつき神様に従っている人はいない。神様が遣わしてくださったイエス・キリストだけなのである。イエス様は、人間の滅びと反逆を背負って十字架につけられた。それによって、人間の新しい誕生が出発したのである。
ザカリヤは、その真理に触れた。やがて生まれるヨハネは、バプテスマのヨハネと呼ばれる。旧約と新約をつなぐ時代に生きる。旧約と新約をつなぐのは、イエスキリストである。イエスキリストは、全身全霊で喜んで神をたたえる。そのイエスキリストの前に、ヨハネは生まれる。
クリスマスがやってくる。イエスキリストによって、新しく作りかえられて、身も心も喜んで、神様が私たちを賛美するときである。
冒頭に言ったとおり、クリスマスは、私たちの信仰をもう一度チェックする機会でもある。私たちが、このような恵みに授かっているということを本当に確認して、それを喜び感謝して、神を賛美するものとなる。これが、クリスマスである。私たちはこういうときに向かって、一日一日、歩みを進めている。
2005年12月4日 井上 良彦 牧師
2005年11月27日
釜土 達雄 牧師
マルコによる福音書3:1~6
◆3つのポイント
先週のテキストの連続である。安息日についての一連の話の第二部である。今日の御言葉に耳を傾ける最大のポイントは、先週の27節「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という言葉である。第二に知っておきたいことがある。それは、この日が安息日であったということであった。しかも、今日の物語は会堂の中で起こったことである。会堂というのは、主なる神を賛美し、祈り、捧げ物を捧げるために供えられていた。そして、主なる神の御言葉をいただくために、備えられていた。形式は違うが、今日の礼拝堂と大差はない。主の日の賛美のときに、今日の物語が起こったと考えてよい。
そして、第三点目は奇跡が行われているが、誰も奇跡に注目していないということである。多くの人によって、奇跡物語は躓きになる。信仰を持って最初の頃には、本当にそういうことができるのか、ということを疑問に思うものだが、今日の箇所では、奇跡は当たり前のものになっている。安息日に奇跡を行うかどうか、が問題になっている。繰り返すが、これは会堂で、主の日に賛美のときに起こっている。この出来事のあとに、この会堂から押し出されていった。私たちも今日、こうやって集い、祈り、御言葉に耳を傾けて、この礼拝堂から押し出されていく。この人々が、何を考えて礼拝堂から押し出されていったかというと、「どのようにイエスを殺すか」ということを相談しながら出て行ったということである。
大きく、3つのポイントを紹介した。3つめはこれ以上触れないようにする。
◆礼拝を守る人々の姿
人々は、イエスさまが何をするかに注目していた。片手の萎えた人がいた。人々は、神様を賛美すべき礼拝のときに、イエス様に注目していた。もし、イエス様が奇跡を起こしたら、イエス様を訴えてやろうと思いながら見ていた。人の心を奥底まで知っている神様の御前で、人の揚げ足をとろうとして集っているのである。藁をもすがる思いで礼拝に集ってくる人がいる。私は昔、礼拝についてこのように聞かされた。「礼拝に集う人は、みんな傲慢だ。普段の生活では自分が一番だと思っている罪人の集まりである。礼拝堂に入ったとたん、自分よりも偉い方を認めようとしているのだから、礼拝に集う人は謙虚だと知っていなければいけない。」
しかし、神学生だったので今日の箇所を知っていた。今日の釜土先生の話はちょっと・・・とか、あの先生の話は・・・と批判をしてくださる方もいる。神様の御前に立つということが、どういうことか、と思う。私も皆様と一緒で、心の中でそういう風に思うところがある。
礼拝の最中だったのだろうか、終わりごろだったのか聖書には書いていない。しかし、イエス様は、人々の心を見抜いておられた。
マタイ3:3~5 イエスは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」といわれた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、全を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心をこなし見ながら、その人に、「手を伸ばしなさい」といわれた。伸ばすと、手は元どおりになった。
これが今日の物語である。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。礼拝堂から押し出されていくときに、人を殺そうと相談しながら出て行く彼らの心はどこにあるのか。それを味わっておかなければいけない。私たちは、礼拝堂からでていくときに、このような愚かなことだけは避けなければいけない。
◆戒めや律法は神ではない
安息日には、緊急の場合を除いて病を治すことが禁じられていた。この人の病気は、明日治してもよかった。「今日は安息日だから、明日いらっしゃい」とイエスが言えばよかった。人々の心への挑戦である。「イエスは怒って人々を見回し」とある。イエス様は激情家である。そして、彼らのかたくなな心を悲しみながら癒されたのである。
先週、私たちが神様を神様として賛美しなくても、神様は神様だという話を聞いた。「鰯の頭も信心から」という。私たちの国には、蛸やかもめ、サルを祀る神社がある。よく問題になるのは、第二次世界大戦のときに英霊として死んだ人々が、神として祀られるという話である。しかし、ここで繰り返し申し上げてきた。蛸は蛸、かもめはかもめ、サルはサル、人は人なのである。それは、世界の常識である。鰯の頭は、鰯の頭である。どう分析してもそうなのである。そのことをよく忘れてしまう。何を忘れるのか。私たちが神様をつくる力があるということである。何かを神としていけば、それが神になるという。私たちはそれに否定的である。太陽をお天道様と呼んで拝んでも、太陽は太陽である。人々はそこに、神性を見出してしまう。
ところが、本物の神様からいろんな話をきく。あなたたちはすべての働きを休んで、安息日であると、神様が命令された。これは神様のご命令なのだから、安息日に働いてはならない。安息日の出来事は、それを神様のために守っているという心があればあるほど、私がいなければ神様は神様として機能しないと思ってしまう。気がつけば、安息日の神という神を勝手に作り上げているのではないか。神様の言葉を祀り上げることによって、人を断罪している。イエス様は、それに対してお叱りになられた。
2章25節「ダビデが、自分も供の者たちも・・・」
3章4節「安息日に律法で許されているのは、・・・」
あなたたちは神様を知っている。その神様が与えられた言葉を神様の心に目を向けるのではなく、言葉だけに目を留めていると、いつのまにか神様を神様とするのではなく、戒めや律法を神としているのではないか。
◆安息日は休日ではない
イスラエルに行ってきたときに、非常に印象的だったのは、一日の始まりは本当に日没だということである。土曜日の日没になると同時にぱたぱたと店が開く。イスラムになると金曜日にぱたぱたとお店が閉まる。ホテルも金曜日はイスラム、土曜日はユダヤ、日曜日はキリスト教が休むので、それぞれの宗教の人を雇っておかないと仕事にならない。自分が何の宗教なのかをきちんと守っている。その中で一番ルーズなのは、キリスト教である。信仰の自由を求めてアメリカに渡った人たちは、最初のころは安息日を守っていた。ところが、安息日というよりも休日という感覚が広まっていった。そうすると、当番医という話が出てくる。礼拝というのは、1回休むと休んだときは、心に傷がある。2回休むと慣れる。3回休むとそれが普通になる。1ヶ月休むと、もう一度教会に行くのが抵抗になる。アメリカも安息日であった日曜日が、安息日ではなく、休日に変わったときに、礼拝出席者が、がたがたと減った。安息日だったときは、みんな守っていたからその日に、仕事をやめて善なることをすることがいいことか悪いことかと問われている。ところが、この言葉が免罪符になる。それならば、「いい仕事の方を選ぶ」となってしまう。そうすると、1回休み、2回休み、3回休めばバッチリである。私たちが信仰から離れていくとは、こういうときである。安息日であるがゆえに、日曜日は礼拝するのである。安息日が休日だと思ってしまうと、神様はどうでもよくなってしまう。私たちはそういう谷底を、バランスをとりながら歩んでいる信仰者である。
一方の谷底は、神様を神様とし続けるといいながら、実は、神様の心よりも一言、一言を律法として後生大事に抱えてしまう、神ならざるものを神としてしまう谷底である。もう一つの谷底は、神様の言葉をきちんと理解せず、自分の都合の良いように、安息日を私の休日にしてしまう、神をないがしろにする谷底である。間違えてはならない。私たちはその中間を行かなければいけない。神を神としつつ、神から与えられた安息日は私のためではなく、神様を賛美するために招かれ、神様に捧げ物をすることが許される。神様の心がどこにあるかをはっきり聞くことが許されているこの礼拝への招きだと知っていなければ、間違えてしまう。
今日の箇所は、イエス様が安息日を大事にしなさいとおっしゃっていたはずなのに、安息日を休日に変えてしまった多くのキリスト者の谷底への入り口でもある。心を凝らして聞き取らなければいけない。神様を賛美するために許された安息日である。この言葉の後ろには、28節もついている。人の子は安息日の主である。私たちは、この主を賛美するために集う。イエス様を主としない休日は安息日ではない。滅びにいたる地獄への入り口である。あなたは神と共に生きるために創られた。私たちは何のために創られたのか。神様を賛美し、神と共に生き、この世界を神様の名によって管理するために召されている。だから人の子は安息日の主なのだ、と知っておかなければいけない。
礼拝を中心とする生活、聖餐式を中心とする生活。それは、私たちの宝である。
釜土 達雄 牧師
マルコによる福音書3:1~6
◆3つのポイント
先週のテキストの連続である。安息日についての一連の話の第二部である。今日の御言葉に耳を傾ける最大のポイントは、先週の27節「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という言葉である。第二に知っておきたいことがある。それは、この日が安息日であったということであった。しかも、今日の物語は会堂の中で起こったことである。会堂というのは、主なる神を賛美し、祈り、捧げ物を捧げるために供えられていた。そして、主なる神の御言葉をいただくために、備えられていた。形式は違うが、今日の礼拝堂と大差はない。主の日の賛美のときに、今日の物語が起こったと考えてよい。
そして、第三点目は奇跡が行われているが、誰も奇跡に注目していないということである。多くの人によって、奇跡物語は躓きになる。信仰を持って最初の頃には、本当にそういうことができるのか、ということを疑問に思うものだが、今日の箇所では、奇跡は当たり前のものになっている。安息日に奇跡を行うかどうか、が問題になっている。繰り返すが、これは会堂で、主の日に賛美のときに起こっている。この出来事のあとに、この会堂から押し出されていった。私たちも今日、こうやって集い、祈り、御言葉に耳を傾けて、この礼拝堂から押し出されていく。この人々が、何を考えて礼拝堂から押し出されていったかというと、「どのようにイエスを殺すか」ということを相談しながら出て行ったということである。
大きく、3つのポイントを紹介した。3つめはこれ以上触れないようにする。
◆礼拝を守る人々の姿
人々は、イエスさまが何をするかに注目していた。片手の萎えた人がいた。人々は、神様を賛美すべき礼拝のときに、イエス様に注目していた。もし、イエス様が奇跡を起こしたら、イエス様を訴えてやろうと思いながら見ていた。人の心を奥底まで知っている神様の御前で、人の揚げ足をとろうとして集っているのである。藁をもすがる思いで礼拝に集ってくる人がいる。私は昔、礼拝についてこのように聞かされた。「礼拝に集う人は、みんな傲慢だ。普段の生活では自分が一番だと思っている罪人の集まりである。礼拝堂に入ったとたん、自分よりも偉い方を認めようとしているのだから、礼拝に集う人は謙虚だと知っていなければいけない。」
しかし、神学生だったので今日の箇所を知っていた。今日の釜土先生の話はちょっと・・・とか、あの先生の話は・・・と批判をしてくださる方もいる。神様の御前に立つということが、どういうことか、と思う。私も皆様と一緒で、心の中でそういう風に思うところがある。
礼拝の最中だったのだろうか、終わりごろだったのか聖書には書いていない。しかし、イエス様は、人々の心を見抜いておられた。
マタイ3:3~5 イエスは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」といわれた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、全を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心をこなし見ながら、その人に、「手を伸ばしなさい」といわれた。伸ばすと、手は元どおりになった。
これが今日の物語である。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。礼拝堂から押し出されていくときに、人を殺そうと相談しながら出て行く彼らの心はどこにあるのか。それを味わっておかなければいけない。私たちは、礼拝堂からでていくときに、このような愚かなことだけは避けなければいけない。
◆戒めや律法は神ではない
安息日には、緊急の場合を除いて病を治すことが禁じられていた。この人の病気は、明日治してもよかった。「今日は安息日だから、明日いらっしゃい」とイエスが言えばよかった。人々の心への挑戦である。「イエスは怒って人々を見回し」とある。イエス様は激情家である。そして、彼らのかたくなな心を悲しみながら癒されたのである。
先週、私たちが神様を神様として賛美しなくても、神様は神様だという話を聞いた。「鰯の頭も信心から」という。私たちの国には、蛸やかもめ、サルを祀る神社がある。よく問題になるのは、第二次世界大戦のときに英霊として死んだ人々が、神として祀られるという話である。しかし、ここで繰り返し申し上げてきた。蛸は蛸、かもめはかもめ、サルはサル、人は人なのである。それは、世界の常識である。鰯の頭は、鰯の頭である。どう分析してもそうなのである。そのことをよく忘れてしまう。何を忘れるのか。私たちが神様をつくる力があるということである。何かを神としていけば、それが神になるという。私たちはそれに否定的である。太陽をお天道様と呼んで拝んでも、太陽は太陽である。人々はそこに、神性を見出してしまう。
ところが、本物の神様からいろんな話をきく。あなたたちはすべての働きを休んで、安息日であると、神様が命令された。これは神様のご命令なのだから、安息日に働いてはならない。安息日の出来事は、それを神様のために守っているという心があればあるほど、私がいなければ神様は神様として機能しないと思ってしまう。気がつけば、安息日の神という神を勝手に作り上げているのではないか。神様の言葉を祀り上げることによって、人を断罪している。イエス様は、それに対してお叱りになられた。
2章25節「ダビデが、自分も供の者たちも・・・」
3章4節「安息日に律法で許されているのは、・・・」
あなたたちは神様を知っている。その神様が与えられた言葉を神様の心に目を向けるのではなく、言葉だけに目を留めていると、いつのまにか神様を神様とするのではなく、戒めや律法を神としているのではないか。
◆安息日は休日ではない
イスラエルに行ってきたときに、非常に印象的だったのは、一日の始まりは本当に日没だということである。土曜日の日没になると同時にぱたぱたと店が開く。イスラムになると金曜日にぱたぱたとお店が閉まる。ホテルも金曜日はイスラム、土曜日はユダヤ、日曜日はキリスト教が休むので、それぞれの宗教の人を雇っておかないと仕事にならない。自分が何の宗教なのかをきちんと守っている。その中で一番ルーズなのは、キリスト教である。信仰の自由を求めてアメリカに渡った人たちは、最初のころは安息日を守っていた。ところが、安息日というよりも休日という感覚が広まっていった。そうすると、当番医という話が出てくる。礼拝というのは、1回休むと休んだときは、心に傷がある。2回休むと慣れる。3回休むとそれが普通になる。1ヶ月休むと、もう一度教会に行くのが抵抗になる。アメリカも安息日であった日曜日が、安息日ではなく、休日に変わったときに、礼拝出席者が、がたがたと減った。安息日だったときは、みんな守っていたからその日に、仕事をやめて善なることをすることがいいことか悪いことかと問われている。ところが、この言葉が免罪符になる。それならば、「いい仕事の方を選ぶ」となってしまう。そうすると、1回休み、2回休み、3回休めばバッチリである。私たちが信仰から離れていくとは、こういうときである。安息日であるがゆえに、日曜日は礼拝するのである。安息日が休日だと思ってしまうと、神様はどうでもよくなってしまう。私たちはそういう谷底を、バランスをとりながら歩んでいる信仰者である。
一方の谷底は、神様を神様とし続けるといいながら、実は、神様の心よりも一言、一言を律法として後生大事に抱えてしまう、神ならざるものを神としてしまう谷底である。もう一つの谷底は、神様の言葉をきちんと理解せず、自分の都合の良いように、安息日を私の休日にしてしまう、神をないがしろにする谷底である。間違えてはならない。私たちはその中間を行かなければいけない。神を神としつつ、神から与えられた安息日は私のためではなく、神様を賛美するために招かれ、神様に捧げ物をすることが許される。神様の心がどこにあるかをはっきり聞くことが許されているこの礼拝への招きだと知っていなければ、間違えてしまう。
今日の箇所は、イエス様が安息日を大事にしなさいとおっしゃっていたはずなのに、安息日を休日に変えてしまった多くのキリスト者の谷底への入り口でもある。心を凝らして聞き取らなければいけない。神様を賛美するために許された安息日である。この言葉の後ろには、28節もついている。人の子は安息日の主である。私たちは、この主を賛美するために集う。イエス様を主としない休日は安息日ではない。滅びにいたる地獄への入り口である。あなたは神と共に生きるために創られた。私たちは何のために創られたのか。神様を賛美し、神と共に生き、この世界を神様の名によって管理するために召されている。だから人の子は安息日の主なのだ、と知っておかなければいけない。
礼拝を中心とする生活、聖餐式を中心とする生活。それは、私たちの宝である。
2005年11月20日
釜土 達雄 牧師
マルコによる福音書2:23~28
◆安息日
安息日は、創世記第1章1節~第2章4節までの第1天地創造物語と深く関わっている。教会と日本との関係を多くの人が知らないのは、悲しむべきことである。1週間が1週間であること、1年が1年であること、なぜ1月1日が1月1日なのか。なぜ今年は2005年で、来年は2006年なのか。
1週間が7日だというのは、創世記のおおらかな神話の中で記されている。神様が7日目に休まれたと記されている。それで、7日目の土曜日を安息日とした。その日は働いてはならない日として定められた。では、今は土曜日ではなくて、日曜日なのか。金曜日にイエスキリストが十字架につけられて、3日目の日曜日に蘇られたことを記念して、日曜日を安息日とした。日曜日は1週間の最初の日に定められていて、日曜日から1週間が始まる。これが、世界の常識である。今週の日曜日は今日であって、金曜日に「今週の日曜日に会おう」と言ったら、その週の日曜日はもう終わっている。
12月25日の夜はクリスマスではない。12月24日の夜がクリスマスである。七尾教会の皆さんは耳タコかもしれないが、1日は日没から始まったのである。24日の夜は25日であった。25日の夜は、26日である。したがって、教会は24日の夜にキャンドルサービスを守る。
カレンダーや暦に、ある程度の知識を持っている必要がある。安息日は、次のように定められた。十戒で定められた。旧約聖書出エジプト記20章8~11節(旧約126ページ)に、このように記されている。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。・・・・主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
日本の明治政府は、このカレンダーを取り入れるとき、この安息日の規定を持っているカレンダーに変えたというわけである。土曜日ではなく、日曜日に安息日を変更したキリスト教暦を採用したのである。主なる神の安息日の命令に従って、安息日を守る心が土曜日から日曜日に移動したということを知っておく必要がある。だから、安息日にはアルバイトやなんだとしない方がよい。安息日はどのように定められたか。これは、よく知っておいた方が良い。
◆主なる神を第一とする安息日
今日の物語は、この安息日をめぐっての出来事である。安息日を守ることについては、厳密であったファリサイ派の人々がイエス様に文句を言っているという場面である。安息日とは、いったいどういうものか。あの十戒がルーツである。
マルコ2:23~。安息日であった。戒律によれば、この日は主の安息日であるがゆえに、いかなる労働もしてはならないと定められていた。そうであるがゆえに、安息日に労働をするということを厳しく見ていた。麦の穂を摘むということは収穫にあたるのではないか。収穫は労働にあたる。したがって、安息日に麦の穂を摘むということは、労働にあたるのではないか。
イエス様の弟子からみると、「お腹がすいているときに歩きながら食べ物のあるときは、食べても良い」という別の戒律があったので、それを使って食べながら歩いていた。ファリサイ派の人々は、麦の穂を摘みながら歩いているイエスの一行を見た。要するに、安息日の規定をしっかり守るべきかどうかを問いただした。すると、イエスはこう答えた。25~26節「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが・・・与えたではないか。」
ここも専門的な話になるが、今日はポイントを変えて本質に心を留めたい。神様が、安息日にすべての労働をしてはならないと定められた。神様が7日目に休まれたのだから、あなたたちも休まなければならないと、命じられていた。主なる神を第一に置くことが命じられていた。
十戒自体に何か問題があるのではない。主なる神様を第一にし、御言葉に耳を傾け、神の心を我が心としてこの地上を歩んでいく。それは、正しいことである。しかし、このファリサイ派の人々とイエス様との考えにずれが生じている。そこがポイントである。
イエス様はこうおっしゃった。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」不思議な言葉である。今日、私たちが注目すべき言葉である。
◆自分の心で語ること
先週、例の田鶴浜高校に行って話しをしてきた。90人の生徒の前で話をした。90分の話である。「主を見つめて生きる」という仰々しいタイトルであった。最初の45分は、げらげら笑いが起こった。そのあと20分はしーんとしてしまった。みんながまじめに話を聞いている。最後には、おおーっと歓声があがり、あとから感想文が送られてきた。
金曜日に、専攻科で同じ話をしてほしいという電話があった。大した話ではない。キャベツの千切りの話、お星様に触れる話、サンタクロースが偽者だったと知ったときの話など。耳タコの連続をやった。人生で確実なことは2つだけ。今、自分が生きているということと、その自分がいつか必ず死ぬということ。結婚式の話もした。結婚相手は選べる。その人でいいか、考えて考えても失敗する人がいっぱいいる。結婚式のぎりぎりまで、考えることは間違えではない。438000時間って分かる?結婚式から金婚式までの時間。どこかで自覚していない。感想文を読むと、初めて聞いた話がたくさんあったという。結婚相手は選べるということを知ったというなど。
本当に求められたのは、こういうことであった。看護師になっていく人たちが、死に行く人を相手にしなければならないときに、宗教や信仰をまじめに取り上げたことがないし、考えたこともない。公立高校なので取り上げることもできない。宗教家の牧師に来てもらいたいと思った。先生の話を聞いて、信仰や宗教というよりも、あまりにも当たり前の話だった。キャベツの千切りの話で、考えてくれることが大事だった。
最後の質問がおもしろかった。看護実習で、もう死んでいくというおじいちゃんに出会った。どう答えていいか分からなかったが、どう言ったらいいのか。答えは簡単である。そういうときには、どういう答えがあるということはない。その人がどういう人で、自分がどういう人か、関係の中でしか答えられない。そういう答えを誰かから聞いてくることのほうがおかしい。自分の心を整えていくしかない。どんな関係の人が語っているかによって、ぜんぜん違う。新人の看護婦さんが、「あなたもいろいろ人生苦労してきたんだから」と言っても、受け入れられないだろう。しかし、同じように人生を送ってきたベテランの看護師に「今まで苦労してきていい人生だったじゃありませんか」と言われるのとでは、違う。どういう関わり方をしているかによって、全然違う。プロポーズをするときも同じである。自分の心で語るしか方法のないものを、人に聞くのはおかしい。自分の言葉で語るしかない。どう答えて良いか分からない中で、言葉を捜しているその人の存在のすべて、私のすべてが言葉に代わるのである。
◆神様を作り上げてしまう心
最初に話を頼まれたときは、「鰯の頭も信心から。どんな人でも信仰を持っていた方がいいという話をしてほしい」と言われた。そのとき私は「鰯の頭は鰯の頭である。どんなに信心をしても、神様にはならない」といった。日本とは面白い国である。靖国神社の話がテレビに流れるたび、出てくる。心ならずも命を落とされた人に対する想いは私にもあるが、その人たちが神になるとは思えない。人は死んでも人である。私たちの心で作り上げて神様になると考えるのではなく、神様は神様だということである。私たちがその人を「神様のようだ」と言っても、それは神様にはならない。鰯の頭は神様にならない。かもめはかもめ。たこはたこ。それは、祀り上げたところで偽者の神にしかなりえない。
安息日である。安息日には、山のようにしてはならないことがある。ファリサイ派の人々は、「私たちが神様を礼拝しているから、神は神になれるのだ」と考えていた。私たちが神様を神様にしてあげている。私たちが安息日に他の仕事をしないで、神様を礼拝しているがゆえに、神で神であられる。本来の十戒の意図は、主を第一に置くことであったが、いつの間にか、私たちが神様を礼拝しているから、神様は神様でいることができると考えてしまうのではないか。
祈ってあげているから神様になるのではない。鰯の頭は笑う。人間を神様にすることは笑う。しかし、それを神として祀っていたら、神になると思ううちに、十戒の神も、私たちがそれを十分に守っているから、目に見えない神として存在し得ると考えてしまう。鰯の頭も、全能の神と変わらなくなってしまう。私たちは神様をいつの間にかつくりあげてしまう罪深いものだと知っていなければいけない。
◆安息日は人のために定められた
ところが、イエス様はおっしゃる。神様が、礼拝してもらうために安息日を定められたのではない。あなたたちが、神を賛美しなくても、神は神である。あなたたちが祈らなくでも、神様は神様である。七尾の地に教会がなくても、石川県に日本に全能の父なる神の教会がなくても、世界中に神を賛美するものが一人もいなくても、神は神である。
ならば、なにゆえに、神は聖書の中で私たちの前に立ってくださったのか。神の言葉をとりつぐ教会を立ててくださったのか。神のためではない。この地上を生きる私たちのために、神様の心を明らかにする場を置いてくださった。私たちがここに集っているのは、神様のために集っているのではない。私たちが許されて、ここに集っている。私たちが、神様の心が聞きたくてしかたなくて、ここに集っている。
順序を間違うと、おかしな思いが湧いてくる。日曜日、礼拝いかなければいけない。行かないと礼拝が成り立たない。たまには礼拝に行っておかないと。神様のご機嫌を伺いに、菓子折りではなく、献金を持って。これほど神を愚弄することはない。神は私たちと関わりなく神である。しかし、私たちが神の御心を知りたいと願うとき、礼拝を備えて、祈りの場を備えてくださっている。それは、私たちに与えられた一方的な恵みである。ここに来ることが、本当に喜びになる者のために、神様は礼拝を備えてくださった。
イエス様は、「安息日は人のために備えられた。人が安息日のためにあるのではない」とおっしゃった。みなさん、一人ひとりのために、主の安息日が定められたのである。困ったとき、苦しいとき、神様の御言葉に触れたいとき、教会の扉はいつも開かれている。神様が自分の御心を明らかにするために礼拝が備えられている。行かなければいけないから礼拝に集うのではなく、喜んで礼拝するこの礼拝に、これからも集っていきたい。
釜土 達雄 牧師
マルコによる福音書2:23~28
◆安息日
安息日は、創世記第1章1節~第2章4節までの第1天地創造物語と深く関わっている。教会と日本との関係を多くの人が知らないのは、悲しむべきことである。1週間が1週間であること、1年が1年であること、なぜ1月1日が1月1日なのか。なぜ今年は2005年で、来年は2006年なのか。
1週間が7日だというのは、創世記のおおらかな神話の中で記されている。神様が7日目に休まれたと記されている。それで、7日目の土曜日を安息日とした。その日は働いてはならない日として定められた。では、今は土曜日ではなくて、日曜日なのか。金曜日にイエスキリストが十字架につけられて、3日目の日曜日に蘇られたことを記念して、日曜日を安息日とした。日曜日は1週間の最初の日に定められていて、日曜日から1週間が始まる。これが、世界の常識である。今週の日曜日は今日であって、金曜日に「今週の日曜日に会おう」と言ったら、その週の日曜日はもう終わっている。
12月25日の夜はクリスマスではない。12月24日の夜がクリスマスである。七尾教会の皆さんは耳タコかもしれないが、1日は日没から始まったのである。24日の夜は25日であった。25日の夜は、26日である。したがって、教会は24日の夜にキャンドルサービスを守る。
カレンダーや暦に、ある程度の知識を持っている必要がある。安息日は、次のように定められた。十戒で定められた。旧約聖書出エジプト記20章8~11節(旧約126ページ)に、このように記されている。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。・・・・主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
日本の明治政府は、このカレンダーを取り入れるとき、この安息日の規定を持っているカレンダーに変えたというわけである。土曜日ではなく、日曜日に安息日を変更したキリスト教暦を採用したのである。主なる神の安息日の命令に従って、安息日を守る心が土曜日から日曜日に移動したということを知っておく必要がある。だから、安息日にはアルバイトやなんだとしない方がよい。安息日はどのように定められたか。これは、よく知っておいた方が良い。
◆主なる神を第一とする安息日
今日の物語は、この安息日をめぐっての出来事である。安息日を守ることについては、厳密であったファリサイ派の人々がイエス様に文句を言っているという場面である。安息日とは、いったいどういうものか。あの十戒がルーツである。
マルコ2:23~。安息日であった。戒律によれば、この日は主の安息日であるがゆえに、いかなる労働もしてはならないと定められていた。そうであるがゆえに、安息日に労働をするということを厳しく見ていた。麦の穂を摘むということは収穫にあたるのではないか。収穫は労働にあたる。したがって、安息日に麦の穂を摘むということは、労働にあたるのではないか。
イエス様の弟子からみると、「お腹がすいているときに歩きながら食べ物のあるときは、食べても良い」という別の戒律があったので、それを使って食べながら歩いていた。ファリサイ派の人々は、麦の穂を摘みながら歩いているイエスの一行を見た。要するに、安息日の規定をしっかり守るべきかどうかを問いただした。すると、イエスはこう答えた。25~26節「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが・・・与えたではないか。」
ここも専門的な話になるが、今日はポイントを変えて本質に心を留めたい。神様が、安息日にすべての労働をしてはならないと定められた。神様が7日目に休まれたのだから、あなたたちも休まなければならないと、命じられていた。主なる神を第一に置くことが命じられていた。
十戒自体に何か問題があるのではない。主なる神様を第一にし、御言葉に耳を傾け、神の心を我が心としてこの地上を歩んでいく。それは、正しいことである。しかし、このファリサイ派の人々とイエス様との考えにずれが生じている。そこがポイントである。
イエス様はこうおっしゃった。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」不思議な言葉である。今日、私たちが注目すべき言葉である。
◆自分の心で語ること
先週、例の田鶴浜高校に行って話しをしてきた。90人の生徒の前で話をした。90分の話である。「主を見つめて生きる」という仰々しいタイトルであった。最初の45分は、げらげら笑いが起こった。そのあと20分はしーんとしてしまった。みんながまじめに話を聞いている。最後には、おおーっと歓声があがり、あとから感想文が送られてきた。
金曜日に、専攻科で同じ話をしてほしいという電話があった。大した話ではない。キャベツの千切りの話、お星様に触れる話、サンタクロースが偽者だったと知ったときの話など。耳タコの連続をやった。人生で確実なことは2つだけ。今、自分が生きているということと、その自分がいつか必ず死ぬということ。結婚式の話もした。結婚相手は選べる。その人でいいか、考えて考えても失敗する人がいっぱいいる。結婚式のぎりぎりまで、考えることは間違えではない。438000時間って分かる?結婚式から金婚式までの時間。どこかで自覚していない。感想文を読むと、初めて聞いた話がたくさんあったという。結婚相手は選べるということを知ったというなど。
本当に求められたのは、こういうことであった。看護師になっていく人たちが、死に行く人を相手にしなければならないときに、宗教や信仰をまじめに取り上げたことがないし、考えたこともない。公立高校なので取り上げることもできない。宗教家の牧師に来てもらいたいと思った。先生の話を聞いて、信仰や宗教というよりも、あまりにも当たり前の話だった。キャベツの千切りの話で、考えてくれることが大事だった。
最後の質問がおもしろかった。看護実習で、もう死んでいくというおじいちゃんに出会った。どう答えていいか分からなかったが、どう言ったらいいのか。答えは簡単である。そういうときには、どういう答えがあるということはない。その人がどういう人で、自分がどういう人か、関係の中でしか答えられない。そういう答えを誰かから聞いてくることのほうがおかしい。自分の心を整えていくしかない。どんな関係の人が語っているかによって、ぜんぜん違う。新人の看護婦さんが、「あなたもいろいろ人生苦労してきたんだから」と言っても、受け入れられないだろう。しかし、同じように人生を送ってきたベテランの看護師に「今まで苦労してきていい人生だったじゃありませんか」と言われるのとでは、違う。どういう関わり方をしているかによって、全然違う。プロポーズをするときも同じである。自分の心で語るしか方法のないものを、人に聞くのはおかしい。自分の言葉で語るしかない。どう答えて良いか分からない中で、言葉を捜しているその人の存在のすべて、私のすべてが言葉に代わるのである。
◆神様を作り上げてしまう心
最初に話を頼まれたときは、「鰯の頭も信心から。どんな人でも信仰を持っていた方がいいという話をしてほしい」と言われた。そのとき私は「鰯の頭は鰯の頭である。どんなに信心をしても、神様にはならない」といった。日本とは面白い国である。靖国神社の話がテレビに流れるたび、出てくる。心ならずも命を落とされた人に対する想いは私にもあるが、その人たちが神になるとは思えない。人は死んでも人である。私たちの心で作り上げて神様になると考えるのではなく、神様は神様だということである。私たちがその人を「神様のようだ」と言っても、それは神様にはならない。鰯の頭は神様にならない。かもめはかもめ。たこはたこ。それは、祀り上げたところで偽者の神にしかなりえない。
安息日である。安息日には、山のようにしてはならないことがある。ファリサイ派の人々は、「私たちが神様を礼拝しているから、神は神になれるのだ」と考えていた。私たちが神様を神様にしてあげている。私たちが安息日に他の仕事をしないで、神様を礼拝しているがゆえに、神で神であられる。本来の十戒の意図は、主を第一に置くことであったが、いつの間にか、私たちが神様を礼拝しているから、神様は神様でいることができると考えてしまうのではないか。
祈ってあげているから神様になるのではない。鰯の頭は笑う。人間を神様にすることは笑う。しかし、それを神として祀っていたら、神になると思ううちに、十戒の神も、私たちがそれを十分に守っているから、目に見えない神として存在し得ると考えてしまう。鰯の頭も、全能の神と変わらなくなってしまう。私たちは神様をいつの間にかつくりあげてしまう罪深いものだと知っていなければいけない。
◆安息日は人のために定められた
ところが、イエス様はおっしゃる。神様が、礼拝してもらうために安息日を定められたのではない。あなたたちが、神を賛美しなくても、神は神である。あなたたちが祈らなくでも、神様は神様である。七尾の地に教会がなくても、石川県に日本に全能の父なる神の教会がなくても、世界中に神を賛美するものが一人もいなくても、神は神である。
ならば、なにゆえに、神は聖書の中で私たちの前に立ってくださったのか。神の言葉をとりつぐ教会を立ててくださったのか。神のためではない。この地上を生きる私たちのために、神様の心を明らかにする場を置いてくださった。私たちがここに集っているのは、神様のために集っているのではない。私たちが許されて、ここに集っている。私たちが、神様の心が聞きたくてしかたなくて、ここに集っている。
順序を間違うと、おかしな思いが湧いてくる。日曜日、礼拝いかなければいけない。行かないと礼拝が成り立たない。たまには礼拝に行っておかないと。神様のご機嫌を伺いに、菓子折りではなく、献金を持って。これほど神を愚弄することはない。神は私たちと関わりなく神である。しかし、私たちが神の御心を知りたいと願うとき、礼拝を備えて、祈りの場を備えてくださっている。それは、私たちに与えられた一方的な恵みである。ここに来ることが、本当に喜びになる者のために、神様は礼拝を備えてくださった。
イエス様は、「安息日は人のために備えられた。人が安息日のためにあるのではない」とおっしゃった。みなさん、一人ひとりのために、主の安息日が定められたのである。困ったとき、苦しいとき、神様の御言葉に触れたいとき、教会の扉はいつも開かれている。神様が自分の御心を明らかにするために礼拝が備えられている。行かなければいけないから礼拝に集うのではなく、喜んで礼拝するこの礼拝に、これからも集っていきたい。
2005年11月13日
釜土 達雄 牧師
マルコによる福音書2:18~22
◆ 断食とは
21節以下はたいへん有名な箇所である。特に、22節は今日の説教題になっており、ことわざにもなっている有名な言葉である。新しいぶどう酒というのは、これから発酵する。そのぶどう酒を古い革袋に入れると、発酵が激しくて破れてしまう。新しい革袋ならば、弾力もあり発酵に耐えることができる。古いものは古いものとして大切にしなければならないが、新しいものについては、新しい発想で新しく組み立てていくものだ、と言われてきた。世代が交代していくときにも語られたことである。ことわざになっているので、いろいろな場面で使われる。しかし、私たちはマルコによる福音書では、どういう意味で言われているのか、それはことわざの意味にそぐうのか。そこに、よく耳を傾けてみたい。
ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人たちは断食をしていた。20節の言葉「花婿が奪い去られるときが来る」という部分は非常に重要である。しかし、今日は20節以降のことについては、あまり神経質にならずに聞きたい。この時点で、イエス様が十字架の死を予言していたということは注目に値するが、今日は、ここはカッコに入れて取り扱う。
断食についても知識が必要である。この断食についても、今日は神経質にならないように見ておきたい。1年に1回、断食は守られ続けてきた。これはレビ記に記されている断食の記述を見ると分かりやすい。レビ記16章29節~31節。
最近テレビでよく聞くことで言えば、イスラムのラマダンを思い起こしてみてほしい。その意味がここに記されている。「あなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである」当時の人々が、なぜ断食を守っていたかというと、自分たちの罪が主の御前に清められるということを信じていたからである。しかも、それはその人たちにとって、最も厳かな安息日だということである。
◆宗教家やキリスト者に求められる姿
しかし、今日の箇所で出てくる断食とは、この年に1度の断食ではないと考えられる。このときは、断食の月ではなかった。ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人たちは、禁欲をすることによって、自分たちの罪が赦されると考えていた。だから、年に一度の断食のほかに、1週間のうちに禁欲の日を設けて、断食をしていた。しかし、イエスの弟子たちは断食をしていなかった。人々は、禁欲生活を自分の生活の中心において、自分が神様の御前にふさわしい生活をするという、立派な宗教家的姿をとらないのか、という質問をしたのである。
第二次世界大戦中の卵が貴重だった時代、ある教会の牧師が教会員から卵をもらったらしい。教会のゴミ箱に卵の殻があったために、ほかの教会員から日曜日の朝に禁欲もしないで、と言われたことがあるという。宗教家や神様の御言葉に仕える人に対して、清く正しく美しい生活や禁酒禁煙などの禁欲を求める人はいる。クリスチャンも同様である。クリスチャンのくせに、そんなことをするのか、そんな生活なのか、と言われることはないだろうか。教会に来る人は、罪人だから行っているのである。しかし、そこのところはなかなか通じない。教会に行く人は清く正しく美しくなければいけないと言われる。これは、世の人々がどこかで間違っている、素朴で純粋な宗教への思いである。
ファリサイ派の人々は、普通の人は1年に1回しか断食しないところ、何度も断食をして神様の前で自らを正して、罪を清めていた。ヨハネの弟子たちも、清く正しく、誰の目から見ても神様に仕える者としての姿を示していた。だから、人々からも尊敬されてきた。ところが、イエス様の弟子たちはそれから自由だった。人々は言った。ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人たちは、断食をしているのに、どうしてイエス様の弟子はしないのか。私たちが、クリスチャンのくせに、教会に行っているくせに、といわれるのとよく似た状況がこの頃からあった。そのときにイエス様が何と言っているかに注目したい。
◆主と共にいることを喜ぶ「礼拝」と「聖餐式」
イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる限り、断食はできない」何のために断食をするのか。それは罪を贖うためである。人々はそう信じていた。自分の犯してきた罪の数々を赦してもらうために、彼らは断食した。自分たちの断食によって、人々の罪をも贖われると考えられてきた。
花婿というのは、主イエスキリストのことである。婚礼の客とは弟子のことである。花婿が共にいて下さる。むしろそのときは禁欲よりも、喜びにあふれた感謝のときが満ち足りている。主が共にいてくださることを喜ぶのだ、と語られる。ならば、この地上においてイエスキリストが明らかにされるのは、どこなのか。それは「礼拝」そのものなのである。礼拝に集うということについて、主イエスが共にいてくださることを体感し、実感することが許されている。
ここで、われわれは禁欲しない。さらに、礼拝の中で主イエスを体感することができるのは、どこだろうか。断食とまったく逆のことがらがある。それは、「聖餐式」のときである。すなわち、ここで私たちが聞かなければいけないのは、断食の話ではない。私たちにキリストの体が与えられているところはどこなのか。それは、聖餐式以外ないのである。
◆礼拝を聖別する生活
イエスと並び称されるヨハネがいる。自らの罪を贖うために断食をし続けてきたファリサイ派の人たちがいる。彼らは、自分たちの難行苦行によって、自らの罪を贖ってほしいと願ってきた。しかし、ここにイエスがいる。罪を贖う十字架につけられるためにイエスが来てくださった。罪を贖ってくださる方が、共にいてくださるという現実があった。自分の努力ではなく、共にいてくださるイエス様が十字架についてくださることによって、罪が贖われるからである。
イエス様が共にいてくださる。大喜びでそこに集う。何をも捨てて、そこへやってくる。もし、苦行があるとすれば、日曜日の午前中に仕事が入っていて悩むという、苦行はあるかもしれない。本当にイエス様がいてくださることが体感できることが喜びなのであれば、礼拝にくる。
私たちは何のために礼拝に集っているのか。神様を礼拝するためである。私たちは、礼拝に招かれている。だから、礼拝の最初は「招詞」招きの言葉なのである。礼拝に招かれてくる。花婿である主イエスと花嫁たる教会がともにいる婚礼の場所なのである。だから、わたしたちはこの時間を聖別するのである。お祈りは家ですることもある。しかし、礼拝を守るこの時間だけは聖別をして、ここに集まる。私たちが他のものと区別していることがあるとするならば、それは主の日の礼拝の時間を私の時間として用意するということである。他のことはあるかもしれないが、譲るわけにはいけない。キリストの体を体感することができるのは、聖餐式だけなのである。だから私たちは聖餐式だけは譲れない。そうやって、聖餐式を守っていく。
◆聖餐式は裏切らない
礼拝には躓くこともある。説教を聞いていて、私のことを言っているように感じることがある。聖書がそう語っているだけで、説教者はそれを仲介しているにすぎないが、人の言葉に躓くこともある。礼拝は躓きの石である。しかし、覚えていただきたい。聖餐式のキリストの血と肉は、決して私たちを裏切らない。事実として、イエス様による罪の贖いを感じることができる。味わうことが許されている。その贖いの場面に、私たちは招かれている。だから私たちは、神様の御言葉に耳を傾けてみましょう、と呼びかける。これを伝道という。
神様の御言葉に耳を傾ける。礼拝に集う人がいる。たしかに神様を賛美することは、すばらしい。しかし、キリストの体と血潮を味わい、神様は決して私たちを裏切らないということを体感する聖餐に預からないかと招く。私たちがそれを望むのではなく、神様があなたの弟子になることを望んでいる。洗礼を受けないかと招くのは、聖餐は決して裏切らないからである。神様が裏切らないという証は、本来「聖餐式」にしかない。
マルコ2:18~
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」
ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食をしていた。私たちは、むしろ花婿の肉と血を味わい、共に喜ぶのではないか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。聖餐式が与えられない。礼拝に招かれないときが来る。そうしたときに、主よ、はやく私に礼拝のときをお与えください。主よ、キリストの血と肉をお与えください。そう祈るために、断食をする。自分の罪を贖うために、自分の体に苦行を与える断食ではなく、礼拝に招かれることを願う断食に変わる。
◆キリストに結ばれた新しい生活
「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
今までと同じような生活習慣を守りながら、キリストの弟子になることはできない。なぜなら、礼拝と聖餐のときを聖別しなければならない。今までどおりの生活をしながら、キリストを主と仰ぎ、聖餐を受け続けることはできない。私たちには工夫が必要なのである。知恵が要るのである。ついでに言うなら、躓きとならないために、来週の少しだけ予告をする。安息日は人のために定められた。私たちが神様を賛美することが許されるために、この日を定められた。確かに招かれない日がある。もしよければ日曜日の間に、こっそりと礼拝堂に来て祈ることができる。聖餐式が行われた週のうちに、牧師に連絡をとってもらって、聖餐式をすることができる。安息日は、人のために設けられたのである。だから、わたしたちは躓いてはならない。
礼拝も聖餐式も、どのようにして自分のために確保するか。主の御心をどのように大事にしていくことができるか。工夫をしながら、聖餐式を守っていくことはとても大事なことなのである。
病を得ていったときに、それが大きな力になる。主が共にいてくださるということを御言葉で聞いていても、苦しみの中では体感できない。病を得て自ら死に赴いていくとき、主が私を捉えていてくださることを実感できるのは、聖餐式以外ない。聖餐式に招かれているのが、わたしたちだということをしっかり知っておかねばならない。それが、新しい生活である。キリストに結ばれた新しい生活である。
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れる。キリストに結ばれた私たちは、新しい命を生きていく新しい酒なのである。それを新しい革袋に入れてくださるのは、主なる神である。自分で用意するのではない。後輩に、「私は古いぶどう酒で、古い革袋なのよ」というのはおかしい。キリストに結びつく者は新しい酒である。新しい革袋を主が用意してくださって、私たちはそこに注がれる。いつもキリストの体を味わいながら生きていく。そこに生活が変わる唯一のポイントがある。父なる神の前に、裏切らない聖餐に招かれていることを覚え、礼拝と聖餐を大事にしていきたい。
釜土 達雄 牧師
マルコによる福音書2:18~22
◆ 断食とは
21節以下はたいへん有名な箇所である。特に、22節は今日の説教題になっており、ことわざにもなっている有名な言葉である。新しいぶどう酒というのは、これから発酵する。そのぶどう酒を古い革袋に入れると、発酵が激しくて破れてしまう。新しい革袋ならば、弾力もあり発酵に耐えることができる。古いものは古いものとして大切にしなければならないが、新しいものについては、新しい発想で新しく組み立てていくものだ、と言われてきた。世代が交代していくときにも語られたことである。ことわざになっているので、いろいろな場面で使われる。しかし、私たちはマルコによる福音書では、どういう意味で言われているのか、それはことわざの意味にそぐうのか。そこに、よく耳を傾けてみたい。
ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人たちは断食をしていた。20節の言葉「花婿が奪い去られるときが来る」という部分は非常に重要である。しかし、今日は20節以降のことについては、あまり神経質にならずに聞きたい。この時点で、イエス様が十字架の死を予言していたということは注目に値するが、今日は、ここはカッコに入れて取り扱う。
断食についても知識が必要である。この断食についても、今日は神経質にならないように見ておきたい。1年に1回、断食は守られ続けてきた。これはレビ記に記されている断食の記述を見ると分かりやすい。レビ記16章29節~31節。
最近テレビでよく聞くことで言えば、イスラムのラマダンを思い起こしてみてほしい。その意味がここに記されている。「あなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである」当時の人々が、なぜ断食を守っていたかというと、自分たちの罪が主の御前に清められるということを信じていたからである。しかも、それはその人たちにとって、最も厳かな安息日だということである。
◆宗教家やキリスト者に求められる姿
しかし、今日の箇所で出てくる断食とは、この年に1度の断食ではないと考えられる。このときは、断食の月ではなかった。ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人たちは、禁欲をすることによって、自分たちの罪が赦されると考えていた。だから、年に一度の断食のほかに、1週間のうちに禁欲の日を設けて、断食をしていた。しかし、イエスの弟子たちは断食をしていなかった。人々は、禁欲生活を自分の生活の中心において、自分が神様の御前にふさわしい生活をするという、立派な宗教家的姿をとらないのか、という質問をしたのである。
第二次世界大戦中の卵が貴重だった時代、ある教会の牧師が教会員から卵をもらったらしい。教会のゴミ箱に卵の殻があったために、ほかの教会員から日曜日の朝に禁欲もしないで、と言われたことがあるという。宗教家や神様の御言葉に仕える人に対して、清く正しく美しい生活や禁酒禁煙などの禁欲を求める人はいる。クリスチャンも同様である。クリスチャンのくせに、そんなことをするのか、そんな生活なのか、と言われることはないだろうか。教会に来る人は、罪人だから行っているのである。しかし、そこのところはなかなか通じない。教会に行く人は清く正しく美しくなければいけないと言われる。これは、世の人々がどこかで間違っている、素朴で純粋な宗教への思いである。
ファリサイ派の人々は、普通の人は1年に1回しか断食しないところ、何度も断食をして神様の前で自らを正して、罪を清めていた。ヨハネの弟子たちも、清く正しく、誰の目から見ても神様に仕える者としての姿を示していた。だから、人々からも尊敬されてきた。ところが、イエス様の弟子たちはそれから自由だった。人々は言った。ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人たちは、断食をしているのに、どうしてイエス様の弟子はしないのか。私たちが、クリスチャンのくせに、教会に行っているくせに、といわれるのとよく似た状況がこの頃からあった。そのときにイエス様が何と言っているかに注目したい。
◆主と共にいることを喜ぶ「礼拝」と「聖餐式」
イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる限り、断食はできない」何のために断食をするのか。それは罪を贖うためである。人々はそう信じていた。自分の犯してきた罪の数々を赦してもらうために、彼らは断食した。自分たちの断食によって、人々の罪をも贖われると考えられてきた。
花婿というのは、主イエスキリストのことである。婚礼の客とは弟子のことである。花婿が共にいて下さる。むしろそのときは禁欲よりも、喜びにあふれた感謝のときが満ち足りている。主が共にいてくださることを喜ぶのだ、と語られる。ならば、この地上においてイエスキリストが明らかにされるのは、どこなのか。それは「礼拝」そのものなのである。礼拝に集うということについて、主イエスが共にいてくださることを体感し、実感することが許されている。
ここで、われわれは禁欲しない。さらに、礼拝の中で主イエスを体感することができるのは、どこだろうか。断食とまったく逆のことがらがある。それは、「聖餐式」のときである。すなわち、ここで私たちが聞かなければいけないのは、断食の話ではない。私たちにキリストの体が与えられているところはどこなのか。それは、聖餐式以外ないのである。
◆礼拝を聖別する生活
イエスと並び称されるヨハネがいる。自らの罪を贖うために断食をし続けてきたファリサイ派の人たちがいる。彼らは、自分たちの難行苦行によって、自らの罪を贖ってほしいと願ってきた。しかし、ここにイエスがいる。罪を贖う十字架につけられるためにイエスが来てくださった。罪を贖ってくださる方が、共にいてくださるという現実があった。自分の努力ではなく、共にいてくださるイエス様が十字架についてくださることによって、罪が贖われるからである。
イエス様が共にいてくださる。大喜びでそこに集う。何をも捨てて、そこへやってくる。もし、苦行があるとすれば、日曜日の午前中に仕事が入っていて悩むという、苦行はあるかもしれない。本当にイエス様がいてくださることが体感できることが喜びなのであれば、礼拝にくる。
私たちは何のために礼拝に集っているのか。神様を礼拝するためである。私たちは、礼拝に招かれている。だから、礼拝の最初は「招詞」招きの言葉なのである。礼拝に招かれてくる。花婿である主イエスと花嫁たる教会がともにいる婚礼の場所なのである。だから、わたしたちはこの時間を聖別するのである。お祈りは家ですることもある。しかし、礼拝を守るこの時間だけは聖別をして、ここに集まる。私たちが他のものと区別していることがあるとするならば、それは主の日の礼拝の時間を私の時間として用意するということである。他のことはあるかもしれないが、譲るわけにはいけない。キリストの体を体感することができるのは、聖餐式だけなのである。だから私たちは聖餐式だけは譲れない。そうやって、聖餐式を守っていく。
◆聖餐式は裏切らない
礼拝には躓くこともある。説教を聞いていて、私のことを言っているように感じることがある。聖書がそう語っているだけで、説教者はそれを仲介しているにすぎないが、人の言葉に躓くこともある。礼拝は躓きの石である。しかし、覚えていただきたい。聖餐式のキリストの血と肉は、決して私たちを裏切らない。事実として、イエス様による罪の贖いを感じることができる。味わうことが許されている。その贖いの場面に、私たちは招かれている。だから私たちは、神様の御言葉に耳を傾けてみましょう、と呼びかける。これを伝道という。
神様の御言葉に耳を傾ける。礼拝に集う人がいる。たしかに神様を賛美することは、すばらしい。しかし、キリストの体と血潮を味わい、神様は決して私たちを裏切らないということを体感する聖餐に預からないかと招く。私たちがそれを望むのではなく、神様があなたの弟子になることを望んでいる。洗礼を受けないかと招くのは、聖餐は決して裏切らないからである。神様が裏切らないという証は、本来「聖餐式」にしかない。
マルコ2:18~
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」
ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食をしていた。私たちは、むしろ花婿の肉と血を味わい、共に喜ぶのではないか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。聖餐式が与えられない。礼拝に招かれないときが来る。そうしたときに、主よ、はやく私に礼拝のときをお与えください。主よ、キリストの血と肉をお与えください。そう祈るために、断食をする。自分の罪を贖うために、自分の体に苦行を与える断食ではなく、礼拝に招かれることを願う断食に変わる。
◆キリストに結ばれた新しい生活
「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
今までと同じような生活習慣を守りながら、キリストの弟子になることはできない。なぜなら、礼拝と聖餐のときを聖別しなければならない。今までどおりの生活をしながら、キリストを主と仰ぎ、聖餐を受け続けることはできない。私たちには工夫が必要なのである。知恵が要るのである。ついでに言うなら、躓きとならないために、来週の少しだけ予告をする。安息日は人のために定められた。私たちが神様を賛美することが許されるために、この日を定められた。確かに招かれない日がある。もしよければ日曜日の間に、こっそりと礼拝堂に来て祈ることができる。聖餐式が行われた週のうちに、牧師に連絡をとってもらって、聖餐式をすることができる。安息日は、人のために設けられたのである。だから、わたしたちは躓いてはならない。
礼拝も聖餐式も、どのようにして自分のために確保するか。主の御心をどのように大事にしていくことができるか。工夫をしながら、聖餐式を守っていくことはとても大事なことなのである。
病を得ていったときに、それが大きな力になる。主が共にいてくださるということを御言葉で聞いていても、苦しみの中では体感できない。病を得て自ら死に赴いていくとき、主が私を捉えていてくださることを実感できるのは、聖餐式以外ない。聖餐式に招かれているのが、わたしたちだということをしっかり知っておかねばならない。それが、新しい生活である。キリストに結ばれた新しい生活である。
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れる。キリストに結ばれた私たちは、新しい命を生きていく新しい酒なのである。それを新しい革袋に入れてくださるのは、主なる神である。自分で用意するのではない。後輩に、「私は古いぶどう酒で、古い革袋なのよ」というのはおかしい。キリストに結びつく者は新しい酒である。新しい革袋を主が用意してくださって、私たちはそこに注がれる。いつもキリストの体を味わいながら生きていく。そこに生活が変わる唯一のポイントがある。父なる神の前に、裏切らない聖餐に招かれていることを覚え、礼拝と聖餐を大事にしていきたい。