2005年9月25日
釜土 達雄 牧師
マルコによる福音書1:29~34
◆“出来事”を通して伝えたいメッセージ
ページを戻して前のページをみると、マルコによる福音書の最初になる。まだ、それほど時は過ぎていない。マルコによる福音書には、クリスマスの物語、イースターの物語がない。ストーリは飛び去るように最後の一週間へと向かう。マルコによる福音書は、全体の1/3以上が最後の1週間に集中している。
マルコの興味は、イエス様が公の生涯を歩み始めてから以降のことである。しかも、イエス様が何を語られたかということは興味の中心ではなかった。イエス様の言葉の数々は出てくるが、たとえばマタイの山上の説教のような形はない。マルコはそれらのことを知っていたが、興味があったのは最後の1週間に向かう出来事であった。マルコが伝えたかったのは、イエス様の言葉のひとつひとつというよりも、イエス様の成してくださった“出来事”のひとつひとつであった。
今日は、病をいやされた一人のしゅうとめが登場する。しかし覚えておきたい。たしかに、このときは病を治していただき、人々をもてなしたが、その後に病にかからなかったのではない。このときは病を治してもらったが、きっとまた熱を出したに違いないのである。
この話を聞いて、まちの人々が集まってきた。たしかにイエス様はいろいろな病気にかかった大勢の人々を治されたが、その人々は二度と病にかからなかったのではない。同じように病を得て、死を迎えていった。ラザロはイエス様によって生き返ったが、今に至るまで生きているわけではない。
先週、私たちは風間先生から嵐を静められたイエス様の説教を聞いた。しかし、その後2000年間、嵐が起こらなかったのではない。その出来事を通して、何を感じ、何を信じ、何を自らの事柄として味わったのか。そこに注目をしなければ、イエス様は病気を治すお医者さんと同じになってしまう。奇跡が問題なのではない。イエス様は、このことを通して何を伝えたいのかということに目を留めなければいけない。このメッセージに目を留めたい。
◆奇跡に対する基本的な立場
もうひとつ確認しておきたい。それは、奇跡に対する基本的な立場である。クリスマスの夜にお生まれになった方が「神の子」であれば、奇跡ぐらい起こしてもらわないと困る。あの方が、全能の神のひとり子、地上に送られた神の子が、嵐に向かって静まれと言っても静まらず、病も治らず、海の上を歩こうと思ったら沈んだということになると、話にならないのである。しかし、その方がもし、私たちと同じ一人の人間であれば、そう簡単に奇跡を起こしてもらっては困る。病を治れと言う前に治療をしたほうがよいし、嵐を静まれと言う前に天気図ぐらいは見てほしい。クリスマスの夜にお生まれになった方を一人の人間だと考えるのか、全能の父なる神のひとり子と信じるのか。ここに決定的な差がある。この聖書を「神の子イエスキリストの福音」として読むなら、マルコが1章1節に記したように、神の子イエスキリストの福音のはじめ、中身として読むならば、奇跡ぐらい起こしてもらわなければ困るのである。
◆事実から見えてくるメッセージ
すぐに、一行は会堂を出て・・・と記されている。ということは、会堂にいた。21節に記されている。安息日にイエスは会堂に入って教えられていた。16節には、ガリラヤ湖のほとりを歩いていたとき、シモンとアンデレを弟子にしている。シモンというのは、ペトロのことである。このあたりは、極めてリアリティのあるところで、すべて場所が分かっている。山上の説教の場所がだいたい能登病院だとすると、舟で漁をしていた港は恵寿病院あたりである。距離感はそのくらいで、新しい浜野病院くらいが会堂の場所である。カファルナウムは、阿良町と一本杉と木町くらいの空間である。ペトロの家と会堂の位置関係は、七尾教会と道をはさんだ拘置所の関係で、まったくの目の前である。すぐ目の前の家に行ったのである。そうしたら、シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていた。ということは、この人は礼拝に行っていない。
人々は会堂で悪霊を追い出されたのを見ていたので、彼女のことをイエスに話した。その言葉の裏には、「できれば治していただければ」というものがある。そうするとイエスは彼女の手を取って起こされて、彼女は一同をもてなした。極めて簡単な話である。
その後どうなったか、そこでイエスが何を語ったかは記されていない。1章1節から、ここにいたるまで、イエス様の身長も体格も髪型も、ひげの有無も一切書いていない。イエス様がどんな人であったかは書いていない。マルコはそんなことには興味が無い。マタイもルカも興味が無い。肝心なことは、会堂を出てシモンとアンデレの家に行った、シモンのしゅうとめの話をした。イエスはしゅうとめを癒し、彼女は一同をもてなした。その“出来事”が言いたいのである。聖書はこのように、事実の羅列なのである。そのことにどういう意味があるのか、解説が要るのである。“出来事”が何かを意味している。
◆会堂を出て行われる御業
イエスは会堂で何をしていたか。イエスは会堂で教えておられた。権威あるものとして、福音を教え、御言葉を語っておられた。会堂は何をするためにあるものか。御言葉が解き明かされるためにあるのである。しかし、会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。会堂でしゅうとめを癒されたのではない。御言葉は会堂で語られ、福音の業は、会堂から出て行ってなさっている。こういうところは、注目しておいたほうがよい。
教会に、いろいろなものを求めにやってくる。食べ物やお金をくださいと言ってくる。交番に連れて行くことになっている。そう通達が出ている。生活費の無い人には、行政の支援を受けるようにということになっている。そうでないと、その人の一生のお金を教会が面倒を見なければいけなくなる。教会の仕事は、御言葉を取次ぎ、祝福を与えること、祈ることである。教会には教会の役割がある。
そのイエス様が奇跡をなさったときは、会堂を出ている。遣わされた場所で、癒しの業を行っている。
◆とりなしの祈りによって行われる御業
ところが、イエス様はどこかに病の人はいないかと求めて行ったのではない。全能の神のひとり子である。全能というのは、何でもできるということである。ということは、イエスは、シモンの家にしゅうとめがいて、熱を出していることをきっと知っていた。しかし、この奇跡は、人々が彼女のことをイエスに話すまでは起こらなかった。彼女のことをイエスに話す人々がいたのである。これを、とりなしの祈りと言わずに何と言うのであろうか。
私たちがイエス様に語りかけるということは、今は祈りとして行われる。苦しんでいる人がいる、悲しんでいる人がいる。「イエス様、助けてください」と祈る人がいないで、どうしてイエス様が奇跡をなしてくれようか。知っているものは、イエス様にそれを取り次ぐ勤めが与えられている。奇跡はそうやって起こった。
◆いやされた人がキリストに仕える
この奇跡は何のために起こったのか。奇跡の目的が明確になっている。自分の苦しみを取り除いてもらうために奇跡を起こしてもらったのではない。彼女は奇跡のあとに、果たさなければならない役割があった。その役割のために彼女に奇跡がなされた。こう書いてある。「彼女は一同をもてなした」主に仕えるため、主に仕えるものたちに仕えるために、彼女の病はいやされた。
イエス様が、彼女の病を癒されたのは、人々の願いがあってのこと、求めがあってのことであった。人々のとりなしがあってのことであった。そして、主イエスキリストをもてなし、仕え、キリストに仕える者たちに仕えるために彼女の奇跡は起こった。
病気が治った人はもっと多くいた。全員がイエスをもてなしたわけではない。しかし、マルコは、多くの奇跡の中からこのしゅうとめの奇跡に話を絞っているのである。私たちが知っておかなければいけない奇跡は、ただ自分の苦しみ悲しみを取り除くための奇跡ではない。
会堂から出て行って主が奇跡を起こされたこと、人々がとりなしてはじめてイエス様が奇跡を起こされたこと、そして奇跡を起こされた者たちは、それによってキリストに仕えていったこと。
◆私たちに起こった奇跡
あなたが経験した奇跡も同じではないか。あなたの人生の中でのキリストとの出会いも、人々のとりなしがあったのではなかったか。人々のとりなしによって、キリストが手を取って起こしてくださって、はじめて自分の悲しみ苦しみの本質が見え、自分の果たすべき役割が見えてきたのではなかったか。キリスト者はそうやって、いまこの礼拝堂に集っているのではなかったか。
そして会堂から出て行ったときに、同じようにキリストと共に歩み、「この人は悲しんでいる、困っている。私にできないことを主よ、あなたがなしてください」と、とりなしの祈りに招かれていることを、私たちに語っている。マルコはそのことをこの短い奇跡の出来事で語りかけている。そうでないと、ただ病気が治っただけの話になってしまう。福音が福音にならずに、ただ儲かった話になる。私たちが聖書から、何を学んでおかなければいけないのか、何を聞いておかなければならないか、この出来事を通して深く味わっておきたい。
釜土 達雄 牧師
マルコによる福音書1:29~34
◆“出来事”を通して伝えたいメッセージ
ページを戻して前のページをみると、マルコによる福音書の最初になる。まだ、それほど時は過ぎていない。マルコによる福音書には、クリスマスの物語、イースターの物語がない。ストーリは飛び去るように最後の一週間へと向かう。マルコによる福音書は、全体の1/3以上が最後の1週間に集中している。
マルコの興味は、イエス様が公の生涯を歩み始めてから以降のことである。しかも、イエス様が何を語られたかということは興味の中心ではなかった。イエス様の言葉の数々は出てくるが、たとえばマタイの山上の説教のような形はない。マルコはそれらのことを知っていたが、興味があったのは最後の1週間に向かう出来事であった。マルコが伝えたかったのは、イエス様の言葉のひとつひとつというよりも、イエス様の成してくださった“出来事”のひとつひとつであった。
今日は、病をいやされた一人のしゅうとめが登場する。しかし覚えておきたい。たしかに、このときは病を治していただき、人々をもてなしたが、その後に病にかからなかったのではない。このときは病を治してもらったが、きっとまた熱を出したに違いないのである。
この話を聞いて、まちの人々が集まってきた。たしかにイエス様はいろいろな病気にかかった大勢の人々を治されたが、その人々は二度と病にかからなかったのではない。同じように病を得て、死を迎えていった。ラザロはイエス様によって生き返ったが、今に至るまで生きているわけではない。
先週、私たちは風間先生から嵐を静められたイエス様の説教を聞いた。しかし、その後2000年間、嵐が起こらなかったのではない。その出来事を通して、何を感じ、何を信じ、何を自らの事柄として味わったのか。そこに注目をしなければ、イエス様は病気を治すお医者さんと同じになってしまう。奇跡が問題なのではない。イエス様は、このことを通して何を伝えたいのかということに目を留めなければいけない。このメッセージに目を留めたい。
◆奇跡に対する基本的な立場
もうひとつ確認しておきたい。それは、奇跡に対する基本的な立場である。クリスマスの夜にお生まれになった方が「神の子」であれば、奇跡ぐらい起こしてもらわないと困る。あの方が、全能の神のひとり子、地上に送られた神の子が、嵐に向かって静まれと言っても静まらず、病も治らず、海の上を歩こうと思ったら沈んだということになると、話にならないのである。しかし、その方がもし、私たちと同じ一人の人間であれば、そう簡単に奇跡を起こしてもらっては困る。病を治れと言う前に治療をしたほうがよいし、嵐を静まれと言う前に天気図ぐらいは見てほしい。クリスマスの夜にお生まれになった方を一人の人間だと考えるのか、全能の父なる神のひとり子と信じるのか。ここに決定的な差がある。この聖書を「神の子イエスキリストの福音」として読むなら、マルコが1章1節に記したように、神の子イエスキリストの福音のはじめ、中身として読むならば、奇跡ぐらい起こしてもらわなければ困るのである。
◆事実から見えてくるメッセージ
すぐに、一行は会堂を出て・・・と記されている。ということは、会堂にいた。21節に記されている。安息日にイエスは会堂に入って教えられていた。16節には、ガリラヤ湖のほとりを歩いていたとき、シモンとアンデレを弟子にしている。シモンというのは、ペトロのことである。このあたりは、極めてリアリティのあるところで、すべて場所が分かっている。山上の説教の場所がだいたい能登病院だとすると、舟で漁をしていた港は恵寿病院あたりである。距離感はそのくらいで、新しい浜野病院くらいが会堂の場所である。カファルナウムは、阿良町と一本杉と木町くらいの空間である。ペトロの家と会堂の位置関係は、七尾教会と道をはさんだ拘置所の関係で、まったくの目の前である。すぐ目の前の家に行ったのである。そうしたら、シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていた。ということは、この人は礼拝に行っていない。
人々は会堂で悪霊を追い出されたのを見ていたので、彼女のことをイエスに話した。その言葉の裏には、「できれば治していただければ」というものがある。そうするとイエスは彼女の手を取って起こされて、彼女は一同をもてなした。極めて簡単な話である。
その後どうなったか、そこでイエスが何を語ったかは記されていない。1章1節から、ここにいたるまで、イエス様の身長も体格も髪型も、ひげの有無も一切書いていない。イエス様がどんな人であったかは書いていない。マルコはそんなことには興味が無い。マタイもルカも興味が無い。肝心なことは、会堂を出てシモンとアンデレの家に行った、シモンのしゅうとめの話をした。イエスはしゅうとめを癒し、彼女は一同をもてなした。その“出来事”が言いたいのである。聖書はこのように、事実の羅列なのである。そのことにどういう意味があるのか、解説が要るのである。“出来事”が何かを意味している。
◆会堂を出て行われる御業
イエスは会堂で何をしていたか。イエスは会堂で教えておられた。権威あるものとして、福音を教え、御言葉を語っておられた。会堂は何をするためにあるものか。御言葉が解き明かされるためにあるのである。しかし、会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。会堂でしゅうとめを癒されたのではない。御言葉は会堂で語られ、福音の業は、会堂から出て行ってなさっている。こういうところは、注目しておいたほうがよい。
教会に、いろいろなものを求めにやってくる。食べ物やお金をくださいと言ってくる。交番に連れて行くことになっている。そう通達が出ている。生活費の無い人には、行政の支援を受けるようにということになっている。そうでないと、その人の一生のお金を教会が面倒を見なければいけなくなる。教会の仕事は、御言葉を取次ぎ、祝福を与えること、祈ることである。教会には教会の役割がある。
そのイエス様が奇跡をなさったときは、会堂を出ている。遣わされた場所で、癒しの業を行っている。
◆とりなしの祈りによって行われる御業
ところが、イエス様はどこかに病の人はいないかと求めて行ったのではない。全能の神のひとり子である。全能というのは、何でもできるということである。ということは、イエスは、シモンの家にしゅうとめがいて、熱を出していることをきっと知っていた。しかし、この奇跡は、人々が彼女のことをイエスに話すまでは起こらなかった。彼女のことをイエスに話す人々がいたのである。これを、とりなしの祈りと言わずに何と言うのであろうか。
私たちがイエス様に語りかけるということは、今は祈りとして行われる。苦しんでいる人がいる、悲しんでいる人がいる。「イエス様、助けてください」と祈る人がいないで、どうしてイエス様が奇跡をなしてくれようか。知っているものは、イエス様にそれを取り次ぐ勤めが与えられている。奇跡はそうやって起こった。
◆いやされた人がキリストに仕える
この奇跡は何のために起こったのか。奇跡の目的が明確になっている。自分の苦しみを取り除いてもらうために奇跡を起こしてもらったのではない。彼女は奇跡のあとに、果たさなければならない役割があった。その役割のために彼女に奇跡がなされた。こう書いてある。「彼女は一同をもてなした」主に仕えるため、主に仕えるものたちに仕えるために、彼女の病はいやされた。
イエス様が、彼女の病を癒されたのは、人々の願いがあってのこと、求めがあってのことであった。人々のとりなしがあってのことであった。そして、主イエスキリストをもてなし、仕え、キリストに仕える者たちに仕えるために彼女の奇跡は起こった。
病気が治った人はもっと多くいた。全員がイエスをもてなしたわけではない。しかし、マルコは、多くの奇跡の中からこのしゅうとめの奇跡に話を絞っているのである。私たちが知っておかなければいけない奇跡は、ただ自分の苦しみ悲しみを取り除くための奇跡ではない。
会堂から出て行って主が奇跡を起こされたこと、人々がとりなしてはじめてイエス様が奇跡を起こされたこと、そして奇跡を起こされた者たちは、それによってキリストに仕えていったこと。
◆私たちに起こった奇跡
あなたが経験した奇跡も同じではないか。あなたの人生の中でのキリストとの出会いも、人々のとりなしがあったのではなかったか。人々のとりなしによって、キリストが手を取って起こしてくださって、はじめて自分の悲しみ苦しみの本質が見え、自分の果たすべき役割が見えてきたのではなかったか。キリスト者はそうやって、いまこの礼拝堂に集っているのではなかったか。
そして会堂から出て行ったときに、同じようにキリストと共に歩み、「この人は悲しんでいる、困っている。私にできないことを主よ、あなたがなしてください」と、とりなしの祈りに招かれていることを、私たちに語っている。マルコはそのことをこの短い奇跡の出来事で語りかけている。そうでないと、ただ病気が治っただけの話になってしまう。福音が福音にならずに、ただ儲かった話になる。私たちが聖書から、何を学んでおかなければいけないのか、何を聞いておかなければならないか、この出来事を通して深く味わっておきたい。