◆イエスと弟子の思いの違い
私たちはいま、主イエスの奇跡物語を集めた箇所を読み進めている。この後、ペトロの信仰が問われ、死と復活について予告し、11章に入ると最後の1週間に入っていく。これまで、奇跡物語について解説を聞き、信仰の面で、これを受け止めてきた。今日の弟子たちと主イエスキリストの言葉を聞いて、私たちはこの聖書の中身が分かるはずである。当時の弟子たちは分からなかったが、私たちは分かるだろう。イエスキリストが「まだ悟らないのか」と言われた後に、「私たちはわかっております」と答えられるはずである。弟子たちが、とんちんかんな議論をして勘違いをしているが、私たちは分かっているだろう。
ゆっくりと今日の物語を見てみたい。
マルコ8:14~
ここしばらく、連続講解を聞いていた人は分かるだろう。分かるはずである。何のことか分からなければ、弟子たちと同じところにいる。分からないといって恥じることはない。
12のかごと7つのかごにいっぱいになったことを神の完全数字だと言う人もいる。しかし、ここで語ろうとしたのは、むしろマルコが語りたかったのは弟子たちが分かっていなかった、自分もよく分からなかったということなのである。このときは、きっとこういうことだったのだ、と弟子たちは解説をしていたと思われる。弟子たちは、そのことを恥ながら、あのとき悟っていなかったことを語ったのである。イエス様が語りたかったことと、弟子たちが考えていたことの違いはなにか。
◆食べることは大事
今日の箇所の前は、「彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた」とある。
神の子イエスキリストが、神の子であることを証明するものではない。しるしは与えられない。奇跡によって、しるしは与えられない。そういわれて向こう岸へ行ったのである。その向こう岸に行く舟の中で、弟子たちはパンを持ってくることを忘れた。パンが1つしかないことを議論していたと言うが、おそらく、パンを忘れたことの責任をなすりつけあっていた。
イエス様は、これに気づいて、私が言いたかったのはそういうことではない、という。
パンは大事である。教会の婦人会で話が盛り上がるのは、お弁当をどうするかということである。教会総会記録をどうするかというときは、発言は活発ではない。修養会のお弁当の話になると活発になる。日常だから、大事なのである。基本的な生活のことは大切である。弟子たちが食べ物のことを論じ合っていたことを軽蔑してはいけない。しかし、覚えておかなければいけない。5つのパンと2匹の魚で5000人を養われたことである。1つのパンがあれば、弟子たちの分くらいはイエス様が用意してくださる。自分たちがパンを持っていないから、イエス様に叱られたと思っている。わずかなパンと魚で5000人、4000人を養われた主イエスが、弟子たちの分くらいは、必要ならば用意してくださる。主が共にいてくださるということはそういうことである。弟子たちは、自分たちがパンをもっていないからだと思ってしまったのである。
主イエスキリストが、食べ物のことをないがしろにしていたのではない。弟子たちは、主イエスキリストは、必要なものを必要なときに備えてくださるということを信じていなかった。現実に、そういう現場を目にしながら、自分たちでパンがない、パンがないと大騒ぎしている。必要なものが満たされていないとき、大騒ぎする。主がそのくらいのことを十分に知っていながら、目の前にあるものを見て、汲々としてしまう。
◆主の恵みは満ち溢れる
何が分からない、何を悟っていないといわれたのか。なぜ、心がかたくなだというのか。「覚えていないのか」と言われた。「わたしが5千人に5つのパンを裂いたとき、集めたパンのくずでいっぱいになったかごは、幾つあったのか」この質問は、大好きな質問である。こういった質問ではなかった。「私が5つのパンを裂いたとき、食べたのは何人だったか」と聞けば、1つのパンで弟子たちを食べさせられるか、これは「どれだけ余ったか」という話なのである。足りたかと言う話ではなく、余った話なのである。覚えていないのか、余っただろう。あなたたちが必要に満たされているときに、主は必要なだけしか与えなかったのか。十分必要な数だけを用意してくださったのか、たっぷり余ったのか。妙に、教会学校のときに「余った」という話をよく聞いた。神様のめぐみは、足りるのではない。これ以上ないというくらいに余った。12も余った。7つも余った。神様の恵みは、必要が満たされるだけではなく、余るものなのだ。大事なポイントである。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種よく気をつけなさい」と言われて、自分たちがパンを持っていないことを論じ合っていた。「余るんだよ、神のめぐみは」16日から発表のあった宝くじをあけてみて、3000円当たった。よく見ていると1億円と4000番違いのものもあった。最近は、100番違いというものもあった。違っていたら、何の価値もない。5000人分余ったのではなく、12かご余った。主の恵みとは、そういうものである。
主イエスキリストが神の子であるという証拠は与えられない。少なくとも奇跡物語はそういうことを意図していない。しかし、この奇跡物語を通して、私たちは神様が悲しむもの苦しむものを見捨てずに癒されるということであった。何千人もの前で手品や魔術をするような形で行われたのではなく、主の基にいるものだけが知ることができた、ひっそりとした奇跡であった。主の御側で働いていた弟子たちだけであった。それらの奇跡を通して、マルコが語ろうとしたのは、神の苦しむものを見捨てられない、食べ物のことを心配してくださるということである。
限りない神の私たちへの愛情。それが、マルコの語ろうとしたことである。あなたに対する、神の愛は、十分にあふれるほどにあったのではないか。溢れて余りがあるほどではなかったのか。ちょうどではない。8分目ではなく、溢れていた。なぜ、まだそれを悟らないのか。
この物語は、神の愛に関する問いかけであった。神の愛が私たちにたっぷりと与えられていること。それが分かっていると、次の週の物語がよく分かる。
神の愛が、私たちに溢れていることをよくよく、覚えておきたい。
(2006年8月27日 釜土達雄牧師)
私たちはいま、主イエスの奇跡物語を集めた箇所を読み進めている。この後、ペトロの信仰が問われ、死と復活について予告し、11章に入ると最後の1週間に入っていく。これまで、奇跡物語について解説を聞き、信仰の面で、これを受け止めてきた。今日の弟子たちと主イエスキリストの言葉を聞いて、私たちはこの聖書の中身が分かるはずである。当時の弟子たちは分からなかったが、私たちは分かるだろう。イエスキリストが「まだ悟らないのか」と言われた後に、「私たちはわかっております」と答えられるはずである。弟子たちが、とんちんかんな議論をして勘違いをしているが、私たちは分かっているだろう。
ゆっくりと今日の物語を見てみたい。
マルコ8:14~
ここしばらく、連続講解を聞いていた人は分かるだろう。分かるはずである。何のことか分からなければ、弟子たちと同じところにいる。分からないといって恥じることはない。
12のかごと7つのかごにいっぱいになったことを神の完全数字だと言う人もいる。しかし、ここで語ろうとしたのは、むしろマルコが語りたかったのは弟子たちが分かっていなかった、自分もよく分からなかったということなのである。このときは、きっとこういうことだったのだ、と弟子たちは解説をしていたと思われる。弟子たちは、そのことを恥ながら、あのとき悟っていなかったことを語ったのである。イエス様が語りたかったことと、弟子たちが考えていたことの違いはなにか。
◆食べることは大事
今日の箇所の前は、「彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた」とある。
神の子イエスキリストが、神の子であることを証明するものではない。しるしは与えられない。奇跡によって、しるしは与えられない。そういわれて向こう岸へ行ったのである。その向こう岸に行く舟の中で、弟子たちはパンを持ってくることを忘れた。パンが1つしかないことを議論していたと言うが、おそらく、パンを忘れたことの責任をなすりつけあっていた。
イエス様は、これに気づいて、私が言いたかったのはそういうことではない、という。
パンは大事である。教会の婦人会で話が盛り上がるのは、お弁当をどうするかということである。教会総会記録をどうするかというときは、発言は活発ではない。修養会のお弁当の話になると活発になる。日常だから、大事なのである。基本的な生活のことは大切である。弟子たちが食べ物のことを論じ合っていたことを軽蔑してはいけない。しかし、覚えておかなければいけない。5つのパンと2匹の魚で5000人を養われたことである。1つのパンがあれば、弟子たちの分くらいはイエス様が用意してくださる。自分たちがパンを持っていないから、イエス様に叱られたと思っている。わずかなパンと魚で5000人、4000人を養われた主イエスが、弟子たちの分くらいは、必要ならば用意してくださる。主が共にいてくださるということはそういうことである。弟子たちは、自分たちがパンをもっていないからだと思ってしまったのである。
主イエスキリストが、食べ物のことをないがしろにしていたのではない。弟子たちは、主イエスキリストは、必要なものを必要なときに備えてくださるということを信じていなかった。現実に、そういう現場を目にしながら、自分たちでパンがない、パンがないと大騒ぎしている。必要なものが満たされていないとき、大騒ぎする。主がそのくらいのことを十分に知っていながら、目の前にあるものを見て、汲々としてしまう。
◆主の恵みは満ち溢れる
何が分からない、何を悟っていないといわれたのか。なぜ、心がかたくなだというのか。「覚えていないのか」と言われた。「わたしが5千人に5つのパンを裂いたとき、集めたパンのくずでいっぱいになったかごは、幾つあったのか」この質問は、大好きな質問である。こういった質問ではなかった。「私が5つのパンを裂いたとき、食べたのは何人だったか」と聞けば、1つのパンで弟子たちを食べさせられるか、これは「どれだけ余ったか」という話なのである。足りたかと言う話ではなく、余った話なのである。覚えていないのか、余っただろう。あなたたちが必要に満たされているときに、主は必要なだけしか与えなかったのか。十分必要な数だけを用意してくださったのか、たっぷり余ったのか。妙に、教会学校のときに「余った」という話をよく聞いた。神様のめぐみは、足りるのではない。これ以上ないというくらいに余った。12も余った。7つも余った。神様の恵みは、必要が満たされるだけではなく、余るものなのだ。大事なポイントである。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種よく気をつけなさい」と言われて、自分たちがパンを持っていないことを論じ合っていた。「余るんだよ、神のめぐみは」16日から発表のあった宝くじをあけてみて、3000円当たった。よく見ていると1億円と4000番違いのものもあった。最近は、100番違いというものもあった。違っていたら、何の価値もない。5000人分余ったのではなく、12かご余った。主の恵みとは、そういうものである。
主イエスキリストが神の子であるという証拠は与えられない。少なくとも奇跡物語はそういうことを意図していない。しかし、この奇跡物語を通して、私たちは神様が悲しむもの苦しむものを見捨てずに癒されるということであった。何千人もの前で手品や魔術をするような形で行われたのではなく、主の基にいるものだけが知ることができた、ひっそりとした奇跡であった。主の御側で働いていた弟子たちだけであった。それらの奇跡を通して、マルコが語ろうとしたのは、神の苦しむものを見捨てられない、食べ物のことを心配してくださるということである。
限りない神の私たちへの愛情。それが、マルコの語ろうとしたことである。あなたに対する、神の愛は、十分にあふれるほどにあったのではないか。溢れて余りがあるほどではなかったのか。ちょうどではない。8分目ではなく、溢れていた。なぜ、まだそれを悟らないのか。
この物語は、神の愛に関する問いかけであった。神の愛が私たちにたっぷりと与えられていること。それが分かっていると、次の週の物語がよく分かる。
神の愛が、私たちに溢れていることをよくよく、覚えておきたい。
(2006年8月27日 釜土達雄牧師)