日本基督教団 七尾教会

能登半島にたてられた七尾教会の日々です

まだ悟らないのか(マルコ8:14~21)

2006年08月27日 | 主日礼拝
◆イエスと弟子の思いの違い
 私たちはいま、主イエスの奇跡物語を集めた箇所を読み進めている。この後、ペトロの信仰が問われ、死と復活について予告し、11章に入ると最後の1週間に入っていく。これまで、奇跡物語について解説を聞き、信仰の面で、これを受け止めてきた。今日の弟子たちと主イエスキリストの言葉を聞いて、私たちはこの聖書の中身が分かるはずである。当時の弟子たちは分からなかったが、私たちは分かるだろう。イエスキリストが「まだ悟らないのか」と言われた後に、「私たちはわかっております」と答えられるはずである。弟子たちが、とんちんかんな議論をして勘違いをしているが、私たちは分かっているだろう。
 ゆっくりと今日の物語を見てみたい。
 マルコ8:14~
 ここしばらく、連続講解を聞いていた人は分かるだろう。分かるはずである。何のことか分からなければ、弟子たちと同じところにいる。分からないといって恥じることはない。
 12のかごと7つのかごにいっぱいになったことを神の完全数字だと言う人もいる。しかし、ここで語ろうとしたのは、むしろマルコが語りたかったのは弟子たちが分かっていなかった、自分もよく分からなかったということなのである。このときは、きっとこういうことだったのだ、と弟子たちは解説をしていたと思われる。弟子たちは、そのことを恥ながら、あのとき悟っていなかったことを語ったのである。イエス様が語りたかったことと、弟子たちが考えていたことの違いはなにか。

◆食べることは大事
 今日の箇所の前は、「彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた」とある。
神の子イエスキリストが、神の子であることを証明するものではない。しるしは与えられない。奇跡によって、しるしは与えられない。そういわれて向こう岸へ行ったのである。その向こう岸に行く舟の中で、弟子たちはパンを持ってくることを忘れた。パンが1つしかないことを議論していたと言うが、おそらく、パンを忘れたことの責任をなすりつけあっていた。
 イエス様は、これに気づいて、私が言いたかったのはそういうことではない、という。
パンは大事である。教会の婦人会で話が盛り上がるのは、お弁当をどうするかということである。教会総会記録をどうするかというときは、発言は活発ではない。修養会のお弁当の話になると活発になる。日常だから、大事なのである。基本的な生活のことは大切である。弟子たちが食べ物のことを論じ合っていたことを軽蔑してはいけない。しかし、覚えておかなければいけない。5つのパンと2匹の魚で5000人を養われたことである。1つのパンがあれば、弟子たちの分くらいはイエス様が用意してくださる。自分たちがパンを持っていないから、イエス様に叱られたと思っている。わずかなパンと魚で5000人、4000人を養われた主イエスが、弟子たちの分くらいは、必要ならば用意してくださる。主が共にいてくださるということはそういうことである。弟子たちは、自分たちがパンをもっていないからだと思ってしまったのである。
 主イエスキリストが、食べ物のことをないがしろにしていたのではない。弟子たちは、主イエスキリストは、必要なものを必要なときに備えてくださるということを信じていなかった。現実に、そういう現場を目にしながら、自分たちでパンがない、パンがないと大騒ぎしている。必要なものが満たされていないとき、大騒ぎする。主がそのくらいのことを十分に知っていながら、目の前にあるものを見て、汲々としてしまう。

◆主の恵みは満ち溢れる
 何が分からない、何を悟っていないといわれたのか。なぜ、心がかたくなだというのか。「覚えていないのか」と言われた。「わたしが5千人に5つのパンを裂いたとき、集めたパンのくずでいっぱいになったかごは、幾つあったのか」この質問は、大好きな質問である。こういった質問ではなかった。「私が5つのパンを裂いたとき、食べたのは何人だったか」と聞けば、1つのパンで弟子たちを食べさせられるか、これは「どれだけ余ったか」という話なのである。足りたかと言う話ではなく、余った話なのである。覚えていないのか、余っただろう。あなたたちが必要に満たされているときに、主は必要なだけしか与えなかったのか。十分必要な数だけを用意してくださったのか、たっぷり余ったのか。妙に、教会学校のときに「余った」という話をよく聞いた。神様のめぐみは、足りるのではない。これ以上ないというくらいに余った。12も余った。7つも余った。神様の恵みは、必要が満たされるだけではなく、余るものなのだ。大事なポイントである。
 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種よく気をつけなさい」と言われて、自分たちがパンを持っていないことを論じ合っていた。「余るんだよ、神のめぐみは」16日から発表のあった宝くじをあけてみて、3000円当たった。よく見ていると1億円と4000番違いのものもあった。最近は、100番違いというものもあった。違っていたら、何の価値もない。5000人分余ったのではなく、12かご余った。主の恵みとは、そういうものである。
 主イエスキリストが神の子であるという証拠は与えられない。少なくとも奇跡物語はそういうことを意図していない。しかし、この奇跡物語を通して、私たちは神様が悲しむもの苦しむものを見捨てずに癒されるということであった。何千人もの前で手品や魔術をするような形で行われたのではなく、主の基にいるものだけが知ることができた、ひっそりとした奇跡であった。主の御側で働いていた弟子たちだけであった。それらの奇跡を通して、マルコが語ろうとしたのは、神の苦しむものを見捨てられない、食べ物のことを心配してくださるということである。
 限りない神の私たちへの愛情。それが、マルコの語ろうとしたことである。あなたに対する、神の愛は、十分にあふれるほどにあったのではないか。溢れて余りがあるほどではなかったのか。ちょうどではない。8分目ではなく、溢れていた。なぜ、まだそれを悟らないのか。
 この物語は、神の愛に関する問いかけであった。神の愛が私たちにたっぷりと与えられていること。それが分かっていると、次の週の物語がよく分かる。
 神の愛が、私たちに溢れていることをよくよく、覚えておきたい。
(2006年8月27日 釜土達雄牧師)
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今年のお泊り会と夏期キャンプ

2006年08月20日 | 教会学校の出来事
今年の夏の諸行事も、無事に終わりました。
8月13日(日)~14日(月) CSお泊り会(小学1~4年)
 男児15名 女児19名 合計34名
8月14日(月)~15日(火) CS夏期キャンプ(小学5.6年)
 男児6名 女児3名 合計9名

あっつかった~!汗びしょびしょです。
今年の話題は、なんといっても中高生お手伝いチームの活躍!
小学1~6年まで、ずっと参加CSの行事に参加してきた子供たちが、
お兄ちゃん、お姉ちゃんになって、スタッフとして働く。
七尾教会のCSには、そんなつながりがあります。
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教会が人気になったら?!

2006年08月20日 | 教会学校の出来事
先日の教会学校での説教中の出来事。
「イエス様のところにたくさんの人が集りました。イエス様は大人気!みんな、七尾教会が人気になって、人がいっぱいきたらどうなると思う?」
間髪入れず、子供たち
献金が増える~!!」
先生「・・・・」

・・・・先生たちより、しっかりものの子供たち。
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決してしるしは与えられない(マルコ8:11~13)

2006年08月20日 | 主日礼拝
◆奇跡は神と私たちの関わりを明らかにする
 私たちは、ここしばらく奇跡物語を連続して聞いてきた。突風を沈め、長血を患った女性を治された話、5000人の給食など、多くの奇跡をきいてきた。この後に、ファリサイ派の人々とヘロデのパン種などの重要な話に続く。ただし、この後は、少しずつ奇跡の話は減っていく。11章以下は、いよいよ最後の1週間に入っていく。マルコは、奇跡物語にあまり興味がなかったのではないかと言われる。マルコは、イエスキリストが奇跡を起こしたことで、神の子であることを証明しようとしたのではない。一人ひとりの奇跡を体感したものに、よかったねと送り出された。人々の前で公にやったのではない。その大事な根拠が、今日のテキストである。
天からのしるしとは何か。イエスが、神から遣わされた人であるという証拠である。エリヤは、雨に降るなといえば3年間降らなかったし、バアルとの戦いにおいて、天からの火を招いた。そのような「しるし」を求めたのである。これに対して、イエス様は心の中で深く嘆いて言われた。
「どうして、今の時代の者たちはしるしをほしがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」そして、この場所を去っていく。このマルコの表現は、実に面白い。ファリサイ派の人々にこれを言ったのではない。「心の中で」言ったのである。イエスさまは、何も語られず、彼らの言葉を無視して去られたのである。残された人々はどう思ったか。人々は、天からのしるしを求めて集ってきた。しかし、しるしを見ることもなく、言葉も与えられずにイエスさまはそこを去る。神の子の拒絶がここにある。
どんな奇跡物語がこの聖書に書いてあっても、それはイエスキリストが神の子である証拠にはならない。神の心が、どこにどのように現れてきているのか、神の子がどのように出会って、どのように関わってくださっているのかを明らかにするためのものが、奇跡物語なのである。

◆神の子の証明を求める心
 カトリックの神父で、石川県カトリック学園の学長の三上先生と、最近仲良くなった。認定こども園について、レクチャーをしたことがきっかけである。彼がいろいろと聞いてくるので、いろいろと教えている。カトリック教会の説教とは短いらしい。3分とか5分、長くても10分である。いま、ちょうど10分くらいである。今のところで、終わっても、だいたいのポイントは入っている。しかし、しるしを求めるということを「今の時代の者たちには」とおっしゃった部分に集中して読んでみたい。この人たちには、ではなく、この「時代」と言っている。
ファリサイ派の人々は、一生懸命、調べて、聞いて、本人に何回も聞く。本当に、この人が神の子かどうかを何度も確かめようとする。私たちも、ある瞬間、いつかどこかで、本当にこの人が神の子かどうか、問うたときがあるかもしれない。ある人は洗礼を受けるときかもしれない。洗礼を受けて3,4年後の迷いの時期があるだろう。牧師を信じるわけにいけない。御言葉の取り継ぎ手でしかない。カトリックでは、神父を信じている。自分から神様に向かって祈るのではない。取り次いでもらって祈る。決まったお祈りで、式文祈祷である。自分の思いのままに祈るわけにいけない。けれど、わたしたちは違う。悩む。疑問に思う。その問いは自由なのである。
必ず悩むときがある。この方は本当に神の子なのだろうか。ファリサイ派の人々と同じ誘惑が私たちにもある。そのときに、私たちが覚えておかなければいけない重要なことがある。ファリサイ派の方は、問い続けている。しかし、答えてもらえない。本当に神の子であれば、神に頼らなければいけない状況に追い込めば、神の助けを呼ぶのではないか。天の軍勢が現れて、助けるのではないか。もし、そうならなければ神の子でない証拠になる。彼らは、そう考えたのである。
マルコ15:32~
「メシア、イスラエルの王、いますぐ十字架から降りるがよい。それを見たら、信じてやろう。」
しるしを求めるとはどういうことか、ということをしっかりと知っている必要がある。主イエスキリストは、十字架にいたるまで従順であった。十字架上での死を与えられるまで、従順であった。彼らは、イエスを神の子では困ると思っていたのではない。むしろ、神の子であった方がよいと思っていた。そうすれば、ローマ帝国からの支配を打ち砕き、地上に神の王国が到来するかもしれない。彼らはそのイエスに従いたいと思っていた。だから、彼らはイエスが本当に神の子であるかを知りたかったのである。その彼らの思いを、主イエスキリストは拒絶した。私たちは、その理由を知っておかなければいけない。

◆信じてやろうという傲慢
 私たちの迷いや心が、この人々と同じであるということに気づいていなければならない。全能の父なる神の子が、十字架につけられている。
「信じてやろう」という言葉に、しるしを求める人々の心を見ておかなければいけない。認めてやる。みんなに言ってやる。それは、神の子と対等などというはずもなく、信じるものよりも信じられるものの方が、地位が上の状況でしかありえない。しるしを求めるものは、いつ神になったのか。ここに、最大の傲慢がある。自分が神の側に立って「信じてやる」と思う。
だから、イエスキリストが神の子かどうかと悩むときというのはどういうときかといったら、いつの間にか、神様をいつの間にか自分の下に見ている。
神様は、私たちが存在を信じようが、信じまいが、神様なのである。私たちが礼拝をしなくても、神様は神様なのである。
神様は私たちを愛すると言って下さった。そこだけがちょっと違う。

◆神の愛のしるし
 きのう、幼稚園の夕涼み会があった。ちょっとした、ささいな喧嘩はいつでも起こる。「お母さんなんか嫌い。いなくなればいい。」という3歳児がいる。お母さんは必要なのである。喧嘩が喧嘩になって、楽しく見えるのは、お母さんがその子を愛しているからである。本当はあなたなどいなくてもかまわないと開き直ることもできるが、そうもできずに困った子だと思いながら、いろいろと説得してくれる。神様と私たちも似たところがある。「お母さんが、お母さんだと証明してみ」と言っても、お母さんはお母さんである。「父なる神っていうなら、神様らしいことをしてみ」と言われても、神様が私たちを裁かないのは、愛してくださっているからである。
 しかし、決してしるしは与えられない。神様は、自分が神様であると証明しようとは、微塵も思っていないからである。この時代の人々に、神様が語ろうとしたのは、別のことであった。イエス様が神の子であるということではなく、何がしるしとして与えられていたか。それは「神様が私たちを愛してくださっている」ということである。そのことだけを証明してくださった。父なる神、イエスキリストが、私たちを愛してくださっている。そういうしるしを聖書は、全巻を通して私たちに語り続けている。決して見捨てない、いつも共に居る。そのしるしを繰り返し語り続けているのである。

◆神の子のしるしが与えられるとき
 そんなことを言われても、イエスが神の子である証拠のひとつくらいはないのかといわれるかもしれない。ある。「神様が私たちを愛されている」ということは、繰り返し、繰り返し、語られている。しかし、「今の時代には」しるしは与えられないが、では、別の時代には、しるしが与えられるのか。与えられるのである。いつの時代か。どこでか。聖書はちゃんと語っている。
マルコ13:24~27
 終末の時。イエスキリストが、全能の神の子として地上に降りてくる。主イエスキリストご自身が語っていたメッセージである。この聖書は、この時代をどう生きるかだけでなく、「神が私たちを愛してくださっている」という、この終わりのときに向かって生きる私たちへのメッセージである。終末のとき、いよいよ私たちが裁かれるとき、私たちの主イエスキリストは神の右で、私たちの前に立たれる。それは、イエスキリストが神の子であるしるしを、全権を帯びて、神の右に立っている。今の時代には語られない。しかし、裁きの時には、私たちはその栄光を見ることになる。黙示録は、そのことを英々と語っている書物である。
しるしは、今は与えられない。今は「神は私たちを愛している」ということだけが、与えられる。しかし、終わりのときには、神の子であるということが、すべて証明されるであろう。その裁きのときに、私たちの助けは、十字架と復活によって、私たちが愛されているという事実なのである。しるしを求める人は、神の恐ろしさを知らない。神が私たちを裁かれるということを知らないのである。だから、信じてやろうなどといえる。しかし、全能の神が、裁き主であるということを知っていれば、神が私たちを愛していてくださること以上のことは知らなくてよい。むしろ、そのことだけを頼りに、神の前に立たねばならないのである。
(2006年8月20日 釜土達雄牧師)
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群衆がかわいそうだ(マルコ8:1~10)

2006年08月13日 | 主日礼拝
◆奇跡物語は神の子の証明ではない
 奇跡物語を連続して聞いている。今日、ふたたび、4000人に食べ物を与えるという話をきく。私たちの主イエスキリストが、神の子として奇跡を行っていたということをきく。はじめて聖書を読む人は、奇跡物語を読んで躓く。科学的に証明できるか、研究している人が今もいる。私はこの聖書を科学書として読んでいるのではなく、信仰の書として呼んでいる。私たちの奇跡物語に対する立場は、極めて明確である。あの、クリスマスの夜にお生まれになった方が、本当に神の子なのであれば、奇跡くらい起こしてもらわなければ困る。嵐を静めること、湖の上を歩く、パンが多くなるくらい、当然のことである。病が癒され、死人を蘇らせ、全能というならば、できないことはない。しかし、クリスマスの夜にお生まれになった方が、私たちと同じ人間なのであれば、奇跡は眉唾物になってしまう。私たちが、どのようなスタンスをとるのかによって、信仰と不信仰のポイントがある。聖書、とくに奇跡物語の個所を読み進めていって、気のつくことがある。イエス様が、奇跡を通して御自分が神の子であることを証明しようとはしていないということである。
たとえば、7章36節で、「誰にも話してはならない」と言っている。その生涯の最後が何であったかは、よく御存知だろう。私たちは塔の下にある玄関を通って礼拝堂に入ってくる。塔には十字架が掲げている。主が十字架につけられたときに、人々が言った。「神の子ならば、十字架から降りて来い。そうしたら、信じてやろう」苦難の僕として、その生涯を閉じられた。
奇跡物語を連ねて、「だから、この人は神の子なのだ」といいたいのではない。神の子として、地上を歩かれたこの方は、弱く惨めで、私たちと同じように苦しみや病を知っていた。「にもかかわらず、この方は神の子であった」悲しみの中で、涙を流し、苦しまれた。私たちと同じ苦しみや悲しみを知っているこの方が、それにも関わらず神の子なのである。
分かりやすくするために、こう話してきた。聖書が語るのは「だから」の信仰ではなく、「にもかかわらず」の信仰である。神の子がこれほどに栄光に満ちている。「だから」ではなく、これほどに、惨めで弱い存在でありながら、「にもかかわらず」神の子であるという。

◆主イエスの気遣い
今日の聖書の個所で、4000人に食事を与えられた。こんなにすごいことをやった。「だから」この方は神の子だと言っているのではない。マルコは、そういうことを伝えようとしたのではない。イエス様ご自身が、私たちに伝えたいと思っているメッセージは、そうではない。
マルコ8:1~
今はお盆なので、民族大移動が起こっているが、弁当を持ってくる人もいるだろうが、途中で何か買えば良いということになる。しかし、当時コンビニもサービスエリアもない。イエス様がやってくるというときに、家の中にあった食べるものを持って、みんなで行った。ちょっとした遠足のような形で、イエス様の周りに集まってきた。最初は、自分たちで用意したものを食べていただろうが、途中でなくなってきた。そこでイエス様が言った。
「群集がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ているものもいる。」
イエス様は群集を気遣っている。これに対して、弟子たちは、答える。「こんな人里はなれたところで、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」弟子たちは、男性である。お弁当に関する男性と女性の感覚は、相当違う。
お弁当は大事だ、と言う。本当に不思議だが、聖書百話のときには、下を向いて聞いているが、お弁当の話になるとイキイキする。今日、何食べたいと聞いても、関心のない人が多い。
弟子の中に一人女性がいたら、きっと1日目から違っただろう。弟子たちは、あまり食べることについて考えていない。しかし、イエス様は違う。とても細やかな発想である。

◆伝えたいのは「イエス様の心」
冷静になって読んでみたい。3日間、群集と共にいたのである。マルコは奇跡を通して神の子であることを証明しようとは微塵も思っていない。群集たちは、パンをもらって喜んで食べただけである。不思議だとは思わないか。イエス様が、この群集に何を話されたかが、ひとつも書いていないのである。異教の民に対して語っていた。どのようなことを語られたのか、ペテロはマルコに話しただろうが、マルコは興味を示さなかった。今日、私たちはそこから御言葉を聞く。
マルコが書いたのは、こういう言葉である。「群集がかわいそうだ」この言葉をマルコは記すのである。どんな、すばらしい言葉を語られたか、聖書の解釈を語ったか、天国とはどんなところか、信仰を持つとはどんなことか、ではなく「群集がかわいそうだ」と語られたイエス様を描いているだけである。
教会学校で説教を語る長老たちは、よく聞いておいてほしい。すなわち、聖書が語ろうとしているのは、旧約聖書の一言一言の解説ではないのである。イエス様が何を言われたか、ではなくて、イエス様の心そのものである。人々に対して、イエス様がどんな心で接していたかを伝えようとしているのである。奇跡物語を通して、主の心がどこにあるかを伝えようとしているのである。群集は、寄ってたかってイエス様を見に行った。彼らは、主の心に触れることになる。主の心がどこにあるか。主の心が、彼らに渡されたパンなのである。単に、身体のエネルギーの源になる食べ物ではない。イエス様の心が表現されたパンなのである。その食べ物が提供された背景には、主の心があるのである。

◆主の心を味わい元気になる
毎月の第一主日に聖餐式を行う。聖餐のパンとぶどう酒をいただく。十字架と復活に込められた主の心を味わう大切な儀式がある。長老会が終わってから、行くところがある。この礼拝に集っていた水谷歌子さんのところへ病床聖餐をする。聖書の言葉をテープにとって、お届けしているのではなく、月に1回、聖餐式のパンとぶどう酒を運ぶのである。ただ、それだけである。
会いに行けばいい。お祈りすればよい。そうであろう。聖書の話を本人にすればよい。それも、そうだろう。しかし、それよりも大事なことは、聖餐のパンとぶどう酒をお届けすることである。私たちが口にすることのできる、主の心である。主の心を説明されるよりも、主の心を味わうことのほうが、どれほど大事なことか。主の心を味わうことを許されるのは、主の心をわが心とすると決心した者たちなのである。
言葉によって人々に何かを伝えようとしたのではない。群集がかわいそうだ、という主イエスの心をここに込めた。そして、その心がパンになっていることを私たちに伝えようとしている。それをいただいた者は満腹したのである。主の御心によって、お腹がいっぱいになったのである。それによって、元気になって家まで帰っていくことができるのである。活力になって、家まで帰って、それぞれの持ち場、立場に戻っていくのである。私たちも、主の心をエネルギーとして、与えられた役目に忠実に生きて行くこと。それが、とても大切なことであろう。続けて、話をしたのではない。人々が食べて満腹した。イエスは彼らを解散させられた。
主の心で満腹した人から、離れていくのである。どうか、解説ではなく、主の心をしっかりと受け止めて、この御堂を出て行っていただきたい。主の心を生きていただきたい。主の心で生きること。それをキリスト者というのである。キリストの手紙、香、地の塩、世の光、神の心をわが心をして、生きて行っていただきたい。
(2006年8月13日 釜土達雄牧師)
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