日本基督教団 七尾教会

能登半島にたてられた七尾教会の日々です

時は満ちた。神の国は近づいた

2005年08月28日 | 主日礼拝
2005年8月28日
マルコによる福音書1:14~15

◆これまでのあらすじ
いよいよ、マルコによる福音書で、イエス様がはじめて言葉を発する。マルコによる福音書には、クリスマス物語がない。イースターの物語がない。最後の1週間を1/3かけて書いている。マルコによる福音書の目的は1章1節に記されている。「神の子イエスキリストの福音のはじめ。」こうして、マルコはクリスマス物語を省いてでも、福音について記したいと願っていた。
イエス様は神様から愛されていた神の「子」であった。愛されているがゆえに神から与えられる責務があった。それは、神様の御心に適うということであった。そのことを私たちは、心して聞いた。私たちも、神様から愛されているということを自覚している。そこで、ただ愛されているということにとどまるのではなく、神様の御心に適う者としてこの世を生きることを求められている。イエス様に対する神様の言葉としてだけではなく、私たちにも向けられている言葉であるときいた。
そして、イエスは訓練を受けられた。これをマルコは短い文章で記す。「それから“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」神の御心に適う者として歩む備えをされた。自分が生きる道として、神の御心に従って生きる道と神を神とせずに生きる道とを選択するときがあった。誘惑であった。短いが、内容は凝縮されている。
さあ、そして、いよいよイエス様の一言が出てくる。

◆神の福音
このあとの物語は比較的長さをとって記している。今日の箇所までは、きわめて短いが内容豊かな箇所なのである。そこに書かれている単語のひとつひとつには、深みがあり、皆様にはこだわりを持って覚えていただきたいと願う。それくらいにこの内容は深い。
イエス様が、これから述べ伝えるのは、神の福音である。他ならぬ「神の」福音なのである。以前に、今の若い人は辞書を引かずにインターネットで調べるという話をした。そのインターネットで調べると大字泉を無料でひける。それによると、福音とは、「喜びを伝える知らせ。良い便り。」例話として「福音をもたらす」と使う。喜びの知らせ。それが、誰からのものであるかが大事である。釜土先生の家であった、何か喜ばしい話ではない。これは「神の」福音である。神様から来る良い便りなのである。他ならぬ神から来る。これを読んで、「あら嬉しい」と思うかどうかは、これからの問題である。良い便りだが、これを聞いた人が、悪い便りだと思うと困る。人間とは、不思議なもので、良いことだと思って語っていても、相手は目をぱちくりということはよくある。

◆福音の受け止め方
新入園のときに、子どもたちは泣く。お母さんはおろおろする。しかし、こちらは泣いてくれたらほっとする。お父さんやお母さんが大好きなのに、ある時、いきなり幼稚園というところに連れてこられて、お母さんが去っていく。呆然としている子もいる。あるいは、お母さんから良く言い聞かされていて、歯を食いしばっている子もいる。
お母さんは、泣いてほしくないと思っているが、こちらは泣いてくれないと困る。そうでなければ、いかに家にいることが嫌な子どもだったかということになる。冷静に考えると当たり前の話である。こちらが、喜びとしていることとお母さんの受け止め方は違う。
さて、神様の福音である。これが福音だと思ってくれるならば、良かった良かったと大喜びしてくれるはずだ。これを福音だと思わなければ、喜びにならない。なぜ、それがそんなに嬉しいの?という話になる。イエス様は、神の福音を宣べ伝えてこう言った。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
みなさんは、この言葉を聞いて喜ぶか。それとも「だから何?」と思うか。
口語訳ではこうである。「時は満ちた。神の国は近づいた、悔い改め福音を信ぜよ。」より迫力がある。
どうだろうか。喜びを感じるだろうか。この言葉は「だから何?」なのである。意地の悪い人がこういう。福音を宣べ伝えたが、誰も弟子が集まってこなかった。だから、イエス様がペテロのところに行って弟子になりなさいと言った。この言葉は、意味がよく分からない。しかし、マルコによる福音書は、この先読み進めていくと、この言葉に戻ってくる。

◆時が満ちる
時が満ちるとは何か。この言葉だけで、一体どれだけの論文がかかれたことか。時とは何か。私たちの時間は、だらだらと流れているのではない。人生に節目があったように。大きな思い出がある。思い出のとき、幸せのときがある。同じように24時間を持っていても、ある人にとっては至福のときであり、ある人にとっては苦しみのときである。時は満ちるときがある。満ちるとは、神様の目からみた「満ちる」ということである。私たちのために時を与えている。世界を作られた「時」がある。カナン進入の「時」イスラエル捕囚の「時」キリストを生まれさせた「時」があった。この世界をプレゼントする「時」があった。それぞれの「時」が「満ちた」というのである。神様ご自身が忘れることのできない「時」が満ちたというのである。
 別の単語に目を留めよう。「神の国」私たちが招かれることを知っている。「神の国」に行けるようになった、とは言っていない。「神の国」は「近づいた」のである。ここで終わったら、まだ神の福音は、福音らしかった。ところが、この次に「悔い改めて福音を信じなさい」と続く。悔い改めないとダメだと言う。なおかつ、信じるものだと言うのである。
そんなこと言われてもねぇ。信じろと言われても困る。嬉しいことは信じるものではない。嬉しいことは現実である。悔い改めなくても、喜びは喜びだろう。

◆イエス様の生涯を通して現れる福音
 大字泉で2番目に出てくる意味は、「イエスキリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ。福音書に記されているキリストの生涯。」である。福音とは、人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせであり、しかもそれはイエスキリストによってもたらされた。そして、それはイエスキリストの生涯と深く関わっている。
 福音を信じるということは、イエスの生涯を通して現れてくる「神の愛」を信じるということであり、そこに福音がある。イエスキリストがつけられる十字架に福音がある。神様の御前で、自分は罪人だと知っているものは、悔い改めなしに、この十字架を見ることはできないのである。また、誰が考えても、全能の神である父なる神の子が十字架につけて殺されるということはあり得ない。愛しているものを見捨てると言うことはあり得ない。しかし、神様は言う。キリストは見捨てるが、おまえたちは見捨てない。キリストは罰するが、あなたたちは罰しない。この神の愛は、信じるより方法がない。愛していることは、信じてもらうより方法がない。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコは堂々と、ヨハネが捕らえられた後、ヨハネのあり方の福音ではなく、イエスが話したことを記した。ここに神の愛が満ち満ちている。私たちの努力によって取りに行ったものではない。神の一方的な愛によって与えられた。これは、最後に聞くべき結論なのである。マルコはそれを最初に記した。これが、どういうふうに展開していくか。ますます楽しみになる。福音に満ちているマルコを読み進めていきたい。
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サタンの誘惑

2005年08月21日 | 主日礼拝
2005年8月21日
マルコによる福音書1:12

◆神の定めた洗礼を受けるイエス
 本日は短いテキストである。もう何度も繰り返してきたように、マルコによる福音書は、基本となる福音書である。イエスキリストの誕生と復活の物語が記されていない。これには、マルコの意図があった。マルコは、その1/3をかけて最後の1週間を記している。
 今日の箇所の見出しは、「誘惑を受ける」である。マルコは、特別な物語以外は箇条書きにしているかのように記している。大事な事柄だけを記している。そういう意味では、今日のところは一生懸命書いておこうとした場所ではなく、箇条書きの部分である。司式の方が読んでいても、七尾弁で言うと、「愛想もない」ところである。
 並行記事をみてみると、マタイでは4章1~11節、ルカは4章1~13節と、少し長めに取り上げている。マルコでは最後の1週間を書くために、今日の箇所は箇条書きとして記した。箇条書きにしたが、大事なことだけを書き記している。大事なことというのは、最初はあまり気がつかないが、立ち止まって考えてみると、案外、大事なことを落とさないように書いていることに気づく。
 先週、私たちがきいたのは、イエス様が公の生涯を始められるときに、洗礼を受けたということであった。
マルコ1:8~11
イエス様は、ユダヤ教の小さな教会学校に通い、手に職をつけながら生きていた。特別の聖書の学びをしていたわけではない。そのイエス様が、30歳くらいになって公の生涯を歩まれる。公の生涯の最初に、何をされたか。マルコはそれを「ヨハネのところに行って洗礼を受けた」と書いている。何もなしに、自分の心で決めたのではない。神が定めた洗礼を受け、神の名によってそれをはじめたのである。
私たちは、何かを成そうとするときに、自分で決心をして、自分で行動していくということがある。そのときに、イエス様は、神の定めたもうた洗礼を受けているということに、注目しておくべきである。マルコは、イエス様の生涯を「自分が決心した」というところに置いていない。そうではなく、神の前でバプテスマを受けたということに注目している。

◆神様の心に適う者
そのあと、天が裂けて霊が鳩のように降りてきた。天から声がした。「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」私たちも同じように、神様から愛されていることを繰り返し聞いている。そののちに「わたしの心に適う者」ということが並行して書かれている。私たちが先週聞いたメッセージである。愛されているということは、よく聞く。しかし、神の御心に適って生きるとはどういうことか。
ゲツセマネの祈りのときに、自分の思いと神様の御心の間で苦しまれるイエス様を見てきた。神様がイエス様を愛しておられたがゆえに、十字架への道を歩むようにと示されている。私たちはそのことを深く考えなければいけない。神様の御心に適う。それは、どういうことだったのか。
私たちが、この礼拝堂で、「愛されている」というメッセージをきく。神の心を我が心として、それぞれの持ち場立場へ遣わされていくのではなかったか。神様に愛されているものとして、何か特権を得て、自分の思うような道を歩んでいるのか。それとも、神の御心を明らかにするものとして、あえて自らを犠牲にしながらも、生きていくことを求められているのか。十字架でイエスが明らかにしてくださった自己犠牲にならって、この地上を歩んでいくのではないか。
あなたは、神様に愛されているのに、どうしてそんなにうまくいかないのかと、問われるときに、「あなたはわたしの愛する子」と呼ばれたが、「わたしの心に適う者」として、苦しみの中を歩むことも必要であると言われたのではなかったか。

◆神様が与える重荷
 さて、今日のテキストである。イエスが誘惑を受けるとき、そこには天使たちが仕えていたが、誘惑は一向に変わることなく、あった。教会を知らない多くの人たちは、教会というのは、何か苦しいことから逃れていくところであり、信仰を持てば、苦しみからも悲しみからも遠ざかり、心に平安が与えられると思っている人が多い。少なくとも教会では、そんなことはない。イエスはとっても有名な言葉を言った。「すべて重荷を負うものは、私のもとに来なさい」そのあとに、こう書いてある。「あなた方を休ませてあげよう。」・・・休むだけである。重荷がなくなるわけでない。聖書はこう続く。「私のくびきは負いやすい。」荷物が増えるのである。そこで言っている事は、「休む」ということである。
 あなたの重荷は、私が与えたものだ。ここで休みなさい。あなたの罪の結果、まとわりついたものではない。神であるわたしが、あなたに与えたものだ。神様がそういうなら、元気になって、その重荷を持ってまた出て行こうとすると、さらに「私のくびきは負いやすい」と言う。この世の生活の中で、かーっとなっても、その人のために祈りなさい。と言われる。

◆サタンの誘惑
 霊はイエスを荒れ野に送り出し、40日間の誘惑をうけた。天使たちが仕えていたが、この天使がどれほど役にたっているのか、マタイ4章1節~をみてみる。
 聖霊に従っていったら、誘惑を受ける。聖霊によって、いつも試みの場におかれている。イエス様ご自身が、主の祈りの中で「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と言われるくらいである。私たちも試みの中に追い込まれているということはある。ヘブライ人の手紙が書いているが、そうやって信仰は成長させられている。その誘惑には乗らないと言えるかどうか。それが勝負である。
 単にお腹がすいたのではない。生きていくために必要なものがなかったということである。何でもできる全能の神の子キリストである。もし本当におまえが神の子なら、これらの石にパンになるように命じればどうか。空腹を解消するために、用いてはどうか。
 この苦しみ悲しみから逃れさせてください。あなたが全能なら、できるでしょう。そう祈るときがある。私たちは生まれてきたくて生まれたわけではない。神様ご自身の業によって、この家族で生まれ、体も人間性も神様が与えた。全能の神様が本当に全能なら、私のこの状況をなんとかしてくれても良いではないか。
 イエスは、こう答える。人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る、一つ一つの言葉によって生きる。たしかに苦しみや悲しみからの解放は大事である。しかし、神様の御言葉は何よりも勝るのではなかったか。神の御心にしたがって歩むことが、神様から愛されているということの実際ではないか。
こういうところは、どんなに説明しても難しい。みなさん、ぜひ心で味わってほしい。
神の御心によって歩む。私たちは、どんなに願っても200歳まで生きない。150歳も難しい。神の御心があるのである。この苦しみ、この悲しみから解放してほしい。どこかで神の御心を受け入れなければいけない。しかし、聖書は、その先にある「永遠の命」を語ってくださる。
 次に、サタンは言う。神殿の屋根の端から飛び降りてみろ。マルコはイエスに天使が仕えていたと記す。マタイでは、想像をたくましくして読んでほしい。イエスは「あなたの神である主を試してはならない」と言う。
さらに、サタンは、世のすべての国々と繁栄ぶりを見せて、私にひれ伏して拝むなら、そのすべてをあげよう。イエスは言う。あなたの神である主をおがめ。

◆主の御心に適う者として生きる
これらは、どんな誘惑だったのか。すべての栄華、神様の心を試したくなる心、苦しみや悲しみ。愛されているということを信じるがゆえに、その事実だけでよろしい。主の御心にしたがって生きる。愛されていることを信じるものが、何ゆえに、その愛を試す必要があるのか。
 神ご自身が、神であることを知っているものが、何ゆえに自分が「神」となって、すべてを手に入れる必要があるのか。
 実は、こういう話が、当時の教会の中で交わされていたのである。マルコは誰もが知っているその話を短く書いた。
「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」
神様から「わたしの心に適う者」と言っていただけるように、またそれぞれの場所に散らされていく。そして、来週またここへ来て、自分は神様の御心にかなっていたか、悔い改めて、ときを過ごしていきたい。
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あなたは私の愛する子、私の心に適う者

2005年08月14日 | 主日礼拝
マルコによる福音書1:9~11

◆マルコによる福音書の特徴
 マルコによる福音書は、最初に書かれた福音書である。これが第1の特徴である。マルコとルカは、マルコによる福音書を土台として福音書を書いた。それぞれに読者が違っていた。マタイはもっぱらユダヤ人のために、ルカはローマの人々のために記された。マルコによる福音書は、マタイとルカの福音書に影響を与えた。ヨハネによる福音書は独立している。
第2に、福音書はイエスキリストの生涯について書き記すものであるが、イエスキリストの生涯で、もっとも有名なクリスマスの物語が記されていない。本日の箇所で、いきなりイエスキリストが登場する。さらに、教会にとって、信仰者にとって、もっとも重要な復活の物語も記されていない。教会には3つの大きなお祭りがある。クリスマス、イースター、ペンテコステであるが、ペンテコステはイエスキリスト昇天以降の話であり、福音書に出てくるとすればそれ以外の2つである。そのうちの2つともマルコには出てこない。これが二番目の大きな特徴である。
 もうひとつのマルコによる福音書の特徴は、その1/3をかけて最後の1週間を記しているということである。マルコによる福音書は全部で16章あるが、11章から16章までは最後の1週間である。マルコによる福音書は、何が書きたかったかという問いがあるならば、イエスキリストの最後の1週間であると言ってよい。イエスキリストの3年間の公生涯のうち、最後の1週間に、1/3を費やしている。それが第3の特徴である。

◆著者による記し方の違い
そうであるから、それまでの出来事は羅列するに等しく進んでいく。今日のテキストも1章9節~11節のたった3節で記されている。この箇所の並行記事はルカによる福音書3章21節~22節にある。これはマルコによる福音書とほぼ同じ分量である。一方、マタイによる福音書3章13節以下の並行記事では、少々、様相が変わってくる。少し長めの記事がある。
 マタイ3章13節~17節
このようにマタイでは、この出来事の前半部分を膨らませている。特に14節に「ヨハネはそれを思いとどまらせようとして言った。」というところは、ほかの福音書には出てこない。イエスキリストは、罪なき神の子キリストである。マルコ、マタイ、ルカともそのように信じていた。
 マタイによる福音書3:11以下「私は悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けている」あるいは、3:8「悔い改めにふさわしい実をむすべ」
すなわちバプテスマのヨハネは、悔い改めのバプテスマを授けていた。神様の目から見て、あなたの生き方をよく考えなさい。よく考えて悔い改めるべきだ。バプテスマのヨハネは悔い改めの福音を宣べ伝えていた。そこにイエス様が登場されて、悔い改めのバプテスマを受けようとする。そこで、ヨハネは私こそあなたからバプテスマを受けるべきなのに、と拒む。これが、イエスとバプテスマのヨハネの論争である。
こんなところは、私たちにはあまり興味がない。しかし、マタイは違った。悔い改めのバプテスマを受けていたのは、ユダヤ人だったからである。当時のユダヤでは、イエス様は、我々と同じバプテスマを受けた罪人であり、十字架につけられたのは我々の代表ということであって、神の子ではないという話が出ていたのである。
そこでマタイは、イエスは我々と同じく悔い改めのバプテスマを受けたが、それはこういう理由なのだということ、すなわち「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、われわれにふさわしいこと」我々と同じ人間になって下さったのだ、と強調したいがゆえに、この部分を入れたと考えられている。
マルコによる福音書は、あまりそのことには興味がない。マルコ1:9 この1節で終わっている。マルコは、大事なことしか記さないので、本当に大事なことが、ポンと目の前に出てくる。これがマルコ5つめの特徴だと言える。
では、何が大事だと言っているのか。聖霊が鳩のようにくだり、声が聞こえた、その声の中身であった。「あなたは私の愛する子。私の心に適う者」それが、今回の大ポイントである。プロローグを終えて、これが、本文最初のメッセージである。
 ここまでは知識の部分である。もし、考えていただけるのであれば、この言葉が持つ深みを感じていただければ幸いである。

◆愛されていることを知り、愛するものとなる
 金曜日から土曜日にかけて、小学校1年~4年のお泊り会をしていた。開会礼拝と閉会礼拝は、この礼拝堂を使った。参加者は、幼稚園の卒業生が主である。だから、クリスマスや卒業式、花の日礼拝などでこの礼拝堂に入ったことがある。それ以外のときはめったに入らない。ときどき、神様に叱られるときに入れられてしまうときもある。「そんなに悪いことをするなら、先生がいくら叱っても分からないなら、神様に叱ってもらいなさい」と言って連れてこられる。別にお仕置き部屋ではない。神様がみんなに命を与えているということ、神様はみんなに良い子になってほしいということを言うために入ってくる。
 昨日、閉会礼拝のときに、子どもたちにまたそれぞれの家や小学校に帰るときに、忘れないでいてほしいことがあるという話をした。「幼稚園に入園したときは泣いていた。さびしくて、幼稚園がどんなところか分からずに泣いていた。みんながお父さんやお母さんに宝物のように愛されていたのは本当だけど、幼稚園の中でやさしくされて、先生やA組さんやB組さんも優しかった。幼稚園の玄関に書いてある。『愛されていることを知り、愛するものとなるために。』みんなは、たくさんの人から愛されて生きているんですよ。近所のおじちゃん、おばちゃん、親戚のおじちゃん、おばちゃんから愛されて、大事に大事にされて生きているんですよ。たくさんの人に愛されているってこと、何よりも神様がみんなのことを愛しているってことを忘れないでね。」
 そうして、みんなは嬉しそうな顔をして帰っていく。最後に「だから、みんなもまわりのお友達にやさしくすることを忘れないでね」と付け加える。「愛されていることを知り、愛するものとなるために」これは、七尾幼稚園の教育目標である。いや、それは実は聖書が語っていることである。
 マルコによる福音書では、イエス様が登場をされたときに「あなたは私の愛する子」とストレートに言われている。そう。イエスは神から愛されている方であった。私たちが聞いてきたように、イエス様も「あなたは私の愛する子」と、はっきりと示されている。
幼稚園の子どもたちほど良く分かっている。大人になると、自分が愛されているという事実を忘れてしまう。神様から愛されている事実を完全に忘れてしまう。自分は愛された経験がないなどと思ってしまう人は確かにいる。しかし、このイエス様に対するメッセージは、われわれに対するメッセージでもあるということを忘れないでほしい。偶然にいきなり命ができたのではない。神様から愛されて生まれるのである。

◆神様の御心に適うイエス様の姿
ここまではよい。しかし、大人になると「私の心に適う者」という言葉に目と耳を留めておく必要がある。イエス様が神様に愛されていたことは紛れもない事実である。しかし、そのイエス様の歩むべき道は、十字架への道であったということである。愛してくださるがゆえに、その責任もあるということである。そのイエス様が、十字架につけられる直前に、ゲツセマネという場所でお祈りをする場面がある。
マルコ14:32節~42節
イエス様の生涯は、十字架に向かっていた。イエス様は、「よし、十字架にかかってやろう」と大喜びで行ったのではない。「アッバ、父よ。この杯を私から取り除けてください」と祈っていた。大事なのは、あとに続く言葉である。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」父なる神に愛されるということと、父なる神の御心に適うということ。これらは、場合によっては相対立するように見える。愛されているにもかかわらず、何ゆえに十字架上で神から見捨てられるのか。しかし、聖書が語る福音は、神から愛されているという事実と、神様がその僕たちを苦しみ、悲しみのうちに追いやることは一つなのである。なにゆえに、御子イエスキリストは、十字架への道を歩まれたのか。なにゆえに愛する御子イエスキリストに十字架の苦しみを与えたのか。これは、福音書に耳を傾けていくときに、常に問うていかなければいけない大事なメッセージである。

◆神の御心に適う者として遣わされる私たち
「愛されていることを知り、愛するものとなるために」愛されていることをたっぷり知って、人を愛する者になっていこうとするときに、私たちは、その苦しみ、悲しみを引き受けなければいけないときがあったのではなかったか。愛するものと共に生きていこうとするときに、自分が犠牲にならねばならないときがあるのではなかったか。我々がこの地上を生きていくときに、どれほどの苦しみや困難があるか。しかし、それはただ単に自分がやりたいことをやろうとしたときに目の前に立ちはだかってきたものにとどまらず、愛するものを愛し続けるために、自分の身を犠牲にしなければならなかったり、自分の時間を割かねばならなかったり、自分の夢を捨てなければならなかったり、自分の願いをあきらめなければならないときがあったのではなかったか。
そのことを知る者は、「あなたは私の愛する子」と「私の心に適う者」という2つのメッセージの意味が分かるはずである。何ゆえに、キリストがゲツセマネで血の汗を流して祈られたか。自らの願いを達成するためだけでなく、愛するもののために責任を与えられた者が、自分を犠牲にしていく自己犠牲を神が願っておられることを思ったときに、十字架への道を決心されるイエスキリストの祈りの中に、その本質をみなければならない。そして、キリストに倣うというときに、われわれも同じ道を歩まなければならない。ここに、神の御心に適うものとして、それぞれの場所に遣わされていくミッションの意味がある。遣わされていくとは、そういうことである。愛するもののために自分を犠牲にし、父なる神の御心に、自らの心を沿わせていく。それが、われわれキリスト者の生き方ではないか。そのことを深く知り、いよいよイエス様が登場したマルコによる福音書の学びを続けていきたい。
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おとまり会集合写真

2005年08月13日 | 教会学校の出来事
1年~4年の七尾教会教会学校おとまり会
2005年8月12日(金)~13日(土)
楽しかったね!!
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おとまり会スナップ

2005年08月13日 | 教会学校の出来事
キャンプファイヤーで火に近づく挑戦!
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教会学校お泊り会

2005年08月13日 | 教会学校の出来事
七尾教会教会学校の夏は、お泊り会(1年~4年)とキャンプ(5,6年)があります。出席者のほとんど全員が七尾幼稚園の卒業生です。会場も幼稚園の園舎を使うので、子どもたちは、数年ぶりの幼稚園の雰囲気と、久しぶりに会うお友達に、懐かしく楽しい時間を過ごします。
今年は、例年よりすこし多めで、43名の参加がありました。めずらしく、雨が降ってしまいましたが、毎年ほぼ同じプログラムで開催されています。

お泊り会のプログラム
12日(金)
◆開会礼拝
◆オリエンテーション
◆すいかわり(今年は雨のため、ホールで)
  すいかわりの後、晴れ間を見てテラスですいかの種飛ばし大会をやりました
◆ゆうごはん(メニューは定番、カレーライス!)
◆キャンプファイヤー(この時間は雨が上がったので、おにわでできました)
  恒例!十字架音頭で盛り上がり!
◆就寝前のお祈り、消灯
  遅くまで起きていた子どもたちもたくさんいましたね。
 (毎年のことですが、ま、これも楽しみのうちなので)

13日(土)
◆起床
◆ラジオ体操
◆あさごはん
  このあと、みんなで力をあわせて布団をかたづけました。
◆ゲームの時間
  今年は、恒例の「進化論じゃんけん(ゴキブリじゃんけん)」と、久しぶりの 「主の祈りクイズ」をやりました。
  アブラハムダンスがなくてよかった(・・・ほっ)
◆閉会礼拝

今年も、このお泊り会・キャンプに毎年参加していた高校生が、3名手伝いに来てくれました。新米先生です。毎年すこーしずつ形態やスタッフが変化しながらも、お泊り会が続けられることは感謝です。子どもたちの胸に「だーれも見ていなくても、神様がみてるのよ!」という、幼稚園で耳タコのメッセージを呼び起こし、種を蒔く機会なのです。

5,6年のキャンプは、14日(日)~15日(月)の日程で行われます。
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悔い改めのバプテスマ

2005年08月07日 | 主日礼拝
2005年8月7日 説教
釜土達雄 牧師
マルコによる福音書1:1~8

◆ヨハネに関する記述
 マルコによる福音書には、目的があった。最後の一週間に集中をしていく。福音書の1/3をかけて、最後の一週間を書いている。そのマルコが、バプテスマのヨハネについて記している。この人物がどういう人物であったか。世のできる前からのご計画であった。私たち自身が、神様に救いを求めるということはある。そのときまで、神様は何もしていないように思えるが、私たちが神様を必要とするよりもずっと前に、神様が私たちに命を与え、救いの道を備えてくださっていた。
 どうしても、私たちは自分を中心に考えるので、自分の救いを考えており、またそれは悪いことではないが、神様が私たちを生まれさせるよりもはるか前に、私たちの救いをすでにご計画されていた。気づいてみれば、神様がどれほど私たちを愛していたかが分かるのである。
 そのように読み進めていくと、不思議な一文がある。マルコはバプテスマのヨハネについて端的に記していく。しかし、その間に6節を加えた。この6節は、なくても差し支えのない一文である。
「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締めていた。・・・いなごと野蜜を食べていた。」
 だから、なんだ?という一文である。ヨハネの身長や体つきを記すのではなく、「いなごと野蜜を食べていた」と、あえて記すのである。これは、聖書をよく読んでいる人には、「あっ」と思うが、聖書をまったく知らない人にとっては「ふーん」と思うことである。今日は、この6節を中心に御言葉に耳を傾けていきたい。
 マルコによる福音書が記しているのは、紀元後30年ごろ、あるいは26年ごろと考えられている。この時代のパレスチナは平和であった。その平和な時代にヨハネが現れた。

◆平和な時代の預言者
 マタイ3:7~12
「蝮の子らよ。」そう語ったのは、バプテスマのヨハネである。悔い改めたというなら、その悔い改めにふさわしい実を結ぶべきではないかと迫っている。そのヨハネの元に、多くの人々が集まった。とりあえず、神様の前でごめんなさいをする。しかし、変わったのではない。
だからヨハネは言うのである。「悔い改めにふさわしい実を結べ」平和な時代に、これを言ったのである。平和な時代というのがキーワードである。バプテスマのヨハネが現れたのは、平和で繁栄をしていた時代である。同じように、イスラエルが平和な時代に、らくだの毛衣を着て、腰に皮の帯を締めていた預言者がいるのである。
 平和な時代であり、神によって整えられた場所であった。財政的にも政治的に繁栄したイスラエルの時代があった。エジプトから脱出して、約束の地カナンに入った。近隣の地は、王をたてる。民衆の声が大きくなり、サムエルは王をたてて、北王国イスラエルが生まれていく。その後、南王国ユダ。統一王国の王として、サウル、ダビデ、ソロモンが生まれ、その後、イスラエルは大繁栄をしていく。その統一王国は、また北王国イスラエルと南王国ユダに分裂する。分裂後も、それぞれの王国は、繁栄をしていく。その時代に登場する預言者に、エリヤがいるのである。
旧約聖書 列王記下1:1~
(7節)アハズヤは、「お前たちに会いに上ってきて、そのようなことを告げたのはどんな男か」と彼らに尋ねた。「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と彼らが答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。

◆バアルとの戦い
「それはティシュベ人エリヤだ。」これは、有名な箇所である。その後、エリシャが出てくるが、エリヤの毛衣を着て登場する。わくわくする物語である。バアルの預言者対エリヤの戦いというのもある。列王記上の17章(旧約聖書p.561)で飢饉を予言し、ホレブの山(シナイ山)でかくまわれる。シナイ山には、エリヤの泉がある。砂漠の真ん中に満面と水をたたえた井戸がある。18章~エリヤがアハブの前に現れる。
 カナンの地に着いてから、主なる神を中心とした信仰共同体をつくっていたが、イスラエルは周辺の神々バアルの礼拝をはじめて、多神教の国に変わっていく。その中で、主の預言者としてエリヤが一人残った。バアルの預言者は450人、主なる神の預言者はエリヤが一人。イスラエルの信仰は、そこまで疲弊していた。
 列王記上18章 朗読
 (21節)「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」
 平和な時代であった。財政的にも破綻しておらず、人々が日々の暮らしをしていけた。何世代もの王のもとで、まつりを大事にしていた。自分たちの楽しみも平安もあった。

◆主の目にどう見えるか
 しかし、人々は次々と主の目に悪とされることを行った。
列王記上14:22~、15:26~、16:1~2、16:11~13、16:19~、
16:25~、16:30~
国は平和であった。喜びをもって、地上を生きていた。人の目から見たら、地上は平和であった。主の目に悪とされることを行った。「主の目」に悪とされることを行ったのである。そして、エリアは言うのである。「あなたがたは、いつまでどっちつかずに迷っているのか」
自らの思い、願いによって主を利用するのか。そのことをいつもエリアからいつも突きつけられている。それが、主の目から見たらどうなのか。そこを問うているのである。それを問うたのは、エリアであった。マルコによる福音書は、そのエリアを登場させたのである。エリアが、主の道をまっすぐに備えるのである。
そのとおり、洗礼者ヨハネが現れて、「蝮の子らよ」と叫ぶのである。マルコによる福音書の著者は、このヨハネの登場にこの言葉を差し挟んだのである。当時の人々は、これを読めば分かった。「エリアだ!」神の目を大事にせよというエリアである。神が私たちをどう見ているかをあらわす方が来られる。イエス様の前に、ヨハネの服装から、エリアが何をしたのかを問いかけるマルコの壮絶なヒントを見落としてはならないのである。
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