2005年8月28日
マルコによる福音書1:14~15
◆これまでのあらすじ
いよいよ、マルコによる福音書で、イエス様がはじめて言葉を発する。マルコによる福音書には、クリスマス物語がない。イースターの物語がない。最後の1週間を1/3かけて書いている。マルコによる福音書の目的は1章1節に記されている。「神の子イエスキリストの福音のはじめ。」こうして、マルコはクリスマス物語を省いてでも、福音について記したいと願っていた。
イエス様は神様から愛されていた神の「子」であった。愛されているがゆえに神から与えられる責務があった。それは、神様の御心に適うということであった。そのことを私たちは、心して聞いた。私たちも、神様から愛されているということを自覚している。そこで、ただ愛されているということにとどまるのではなく、神様の御心に適う者としてこの世を生きることを求められている。イエス様に対する神様の言葉としてだけではなく、私たちにも向けられている言葉であるときいた。
そして、イエスは訓練を受けられた。これをマルコは短い文章で記す。「それから“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」神の御心に適う者として歩む備えをされた。自分が生きる道として、神の御心に従って生きる道と神を神とせずに生きる道とを選択するときがあった。誘惑であった。短いが、内容は凝縮されている。
さあ、そして、いよいよイエス様の一言が出てくる。
◆神の福音
このあとの物語は比較的長さをとって記している。今日の箇所までは、きわめて短いが内容豊かな箇所なのである。そこに書かれている単語のひとつひとつには、深みがあり、皆様にはこだわりを持って覚えていただきたいと願う。それくらいにこの内容は深い。
イエス様が、これから述べ伝えるのは、神の福音である。他ならぬ「神の」福音なのである。以前に、今の若い人は辞書を引かずにインターネットで調べるという話をした。そのインターネットで調べると大字泉を無料でひける。それによると、福音とは、「喜びを伝える知らせ。良い便り。」例話として「福音をもたらす」と使う。喜びの知らせ。それが、誰からのものであるかが大事である。釜土先生の家であった、何か喜ばしい話ではない。これは「神の」福音である。神様から来る良い便りなのである。他ならぬ神から来る。これを読んで、「あら嬉しい」と思うかどうかは、これからの問題である。良い便りだが、これを聞いた人が、悪い便りだと思うと困る。人間とは、不思議なもので、良いことだと思って語っていても、相手は目をぱちくりということはよくある。
◆福音の受け止め方
新入園のときに、子どもたちは泣く。お母さんはおろおろする。しかし、こちらは泣いてくれたらほっとする。お父さんやお母さんが大好きなのに、ある時、いきなり幼稚園というところに連れてこられて、お母さんが去っていく。呆然としている子もいる。あるいは、お母さんから良く言い聞かされていて、歯を食いしばっている子もいる。
お母さんは、泣いてほしくないと思っているが、こちらは泣いてくれないと困る。そうでなければ、いかに家にいることが嫌な子どもだったかということになる。冷静に考えると当たり前の話である。こちらが、喜びとしていることとお母さんの受け止め方は違う。
さて、神様の福音である。これが福音だと思ってくれるならば、良かった良かったと大喜びしてくれるはずだ。これを福音だと思わなければ、喜びにならない。なぜ、それがそんなに嬉しいの?という話になる。イエス様は、神の福音を宣べ伝えてこう言った。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
みなさんは、この言葉を聞いて喜ぶか。それとも「だから何?」と思うか。
口語訳ではこうである。「時は満ちた。神の国は近づいた、悔い改め福音を信ぜよ。」より迫力がある。
どうだろうか。喜びを感じるだろうか。この言葉は「だから何?」なのである。意地の悪い人がこういう。福音を宣べ伝えたが、誰も弟子が集まってこなかった。だから、イエス様がペテロのところに行って弟子になりなさいと言った。この言葉は、意味がよく分からない。しかし、マルコによる福音書は、この先読み進めていくと、この言葉に戻ってくる。
◆時が満ちる
時が満ちるとは何か。この言葉だけで、一体どれだけの論文がかかれたことか。時とは何か。私たちの時間は、だらだらと流れているのではない。人生に節目があったように。大きな思い出がある。思い出のとき、幸せのときがある。同じように24時間を持っていても、ある人にとっては至福のときであり、ある人にとっては苦しみのときである。時は満ちるときがある。満ちるとは、神様の目からみた「満ちる」ということである。私たちのために時を与えている。世界を作られた「時」がある。カナン進入の「時」イスラエル捕囚の「時」キリストを生まれさせた「時」があった。この世界をプレゼントする「時」があった。それぞれの「時」が「満ちた」というのである。神様ご自身が忘れることのできない「時」が満ちたというのである。
別の単語に目を留めよう。「神の国」私たちが招かれることを知っている。「神の国」に行けるようになった、とは言っていない。「神の国」は「近づいた」のである。ここで終わったら、まだ神の福音は、福音らしかった。ところが、この次に「悔い改めて福音を信じなさい」と続く。悔い改めないとダメだと言う。なおかつ、信じるものだと言うのである。
そんなこと言われてもねぇ。信じろと言われても困る。嬉しいことは信じるものではない。嬉しいことは現実である。悔い改めなくても、喜びは喜びだろう。
◆イエス様の生涯を通して現れる福音
大字泉で2番目に出てくる意味は、「イエスキリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ。福音書に記されているキリストの生涯。」である。福音とは、人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせであり、しかもそれはイエスキリストによってもたらされた。そして、それはイエスキリストの生涯と深く関わっている。
福音を信じるということは、イエスの生涯を通して現れてくる「神の愛」を信じるということであり、そこに福音がある。イエスキリストがつけられる十字架に福音がある。神様の御前で、自分は罪人だと知っているものは、悔い改めなしに、この十字架を見ることはできないのである。また、誰が考えても、全能の神である父なる神の子が十字架につけて殺されるということはあり得ない。愛しているものを見捨てると言うことはあり得ない。しかし、神様は言う。キリストは見捨てるが、おまえたちは見捨てない。キリストは罰するが、あなたたちは罰しない。この神の愛は、信じるより方法がない。愛していることは、信じてもらうより方法がない。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコは堂々と、ヨハネが捕らえられた後、ヨハネのあり方の福音ではなく、イエスが話したことを記した。ここに神の愛が満ち満ちている。私たちの努力によって取りに行ったものではない。神の一方的な愛によって与えられた。これは、最後に聞くべき結論なのである。マルコはそれを最初に記した。これが、どういうふうに展開していくか。ますます楽しみになる。福音に満ちているマルコを読み進めていきたい。
マルコによる福音書1:14~15
◆これまでのあらすじ
いよいよ、マルコによる福音書で、イエス様がはじめて言葉を発する。マルコによる福音書には、クリスマス物語がない。イースターの物語がない。最後の1週間を1/3かけて書いている。マルコによる福音書の目的は1章1節に記されている。「神の子イエスキリストの福音のはじめ。」こうして、マルコはクリスマス物語を省いてでも、福音について記したいと願っていた。
イエス様は神様から愛されていた神の「子」であった。愛されているがゆえに神から与えられる責務があった。それは、神様の御心に適うということであった。そのことを私たちは、心して聞いた。私たちも、神様から愛されているということを自覚している。そこで、ただ愛されているということにとどまるのではなく、神様の御心に適う者としてこの世を生きることを求められている。イエス様に対する神様の言葉としてだけではなく、私たちにも向けられている言葉であるときいた。
そして、イエスは訓練を受けられた。これをマルコは短い文章で記す。「それから“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」神の御心に適う者として歩む備えをされた。自分が生きる道として、神の御心に従って生きる道と神を神とせずに生きる道とを選択するときがあった。誘惑であった。短いが、内容は凝縮されている。
さあ、そして、いよいよイエス様の一言が出てくる。
◆神の福音
このあとの物語は比較的長さをとって記している。今日の箇所までは、きわめて短いが内容豊かな箇所なのである。そこに書かれている単語のひとつひとつには、深みがあり、皆様にはこだわりを持って覚えていただきたいと願う。それくらいにこの内容は深い。
イエス様が、これから述べ伝えるのは、神の福音である。他ならぬ「神の」福音なのである。以前に、今の若い人は辞書を引かずにインターネットで調べるという話をした。そのインターネットで調べると大字泉を無料でひける。それによると、福音とは、「喜びを伝える知らせ。良い便り。」例話として「福音をもたらす」と使う。喜びの知らせ。それが、誰からのものであるかが大事である。釜土先生の家であった、何か喜ばしい話ではない。これは「神の」福音である。神様から来る良い便りなのである。他ならぬ神から来る。これを読んで、「あら嬉しい」と思うかどうかは、これからの問題である。良い便りだが、これを聞いた人が、悪い便りだと思うと困る。人間とは、不思議なもので、良いことだと思って語っていても、相手は目をぱちくりということはよくある。
◆福音の受け止め方
新入園のときに、子どもたちは泣く。お母さんはおろおろする。しかし、こちらは泣いてくれたらほっとする。お父さんやお母さんが大好きなのに、ある時、いきなり幼稚園というところに連れてこられて、お母さんが去っていく。呆然としている子もいる。あるいは、お母さんから良く言い聞かされていて、歯を食いしばっている子もいる。
お母さんは、泣いてほしくないと思っているが、こちらは泣いてくれないと困る。そうでなければ、いかに家にいることが嫌な子どもだったかということになる。冷静に考えると当たり前の話である。こちらが、喜びとしていることとお母さんの受け止め方は違う。
さて、神様の福音である。これが福音だと思ってくれるならば、良かった良かったと大喜びしてくれるはずだ。これを福音だと思わなければ、喜びにならない。なぜ、それがそんなに嬉しいの?という話になる。イエス様は、神の福音を宣べ伝えてこう言った。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
みなさんは、この言葉を聞いて喜ぶか。それとも「だから何?」と思うか。
口語訳ではこうである。「時は満ちた。神の国は近づいた、悔い改め福音を信ぜよ。」より迫力がある。
どうだろうか。喜びを感じるだろうか。この言葉は「だから何?」なのである。意地の悪い人がこういう。福音を宣べ伝えたが、誰も弟子が集まってこなかった。だから、イエス様がペテロのところに行って弟子になりなさいと言った。この言葉は、意味がよく分からない。しかし、マルコによる福音書は、この先読み進めていくと、この言葉に戻ってくる。
◆時が満ちる
時が満ちるとは何か。この言葉だけで、一体どれだけの論文がかかれたことか。時とは何か。私たちの時間は、だらだらと流れているのではない。人生に節目があったように。大きな思い出がある。思い出のとき、幸せのときがある。同じように24時間を持っていても、ある人にとっては至福のときであり、ある人にとっては苦しみのときである。時は満ちるときがある。満ちるとは、神様の目からみた「満ちる」ということである。私たちのために時を与えている。世界を作られた「時」がある。カナン進入の「時」イスラエル捕囚の「時」キリストを生まれさせた「時」があった。この世界をプレゼントする「時」があった。それぞれの「時」が「満ちた」というのである。神様ご自身が忘れることのできない「時」が満ちたというのである。
別の単語に目を留めよう。「神の国」私たちが招かれることを知っている。「神の国」に行けるようになった、とは言っていない。「神の国」は「近づいた」のである。ここで終わったら、まだ神の福音は、福音らしかった。ところが、この次に「悔い改めて福音を信じなさい」と続く。悔い改めないとダメだと言う。なおかつ、信じるものだと言うのである。
そんなこと言われてもねぇ。信じろと言われても困る。嬉しいことは信じるものではない。嬉しいことは現実である。悔い改めなくても、喜びは喜びだろう。
◆イエス様の生涯を通して現れる福音
大字泉で2番目に出てくる意味は、「イエスキリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ。福音書に記されているキリストの生涯。」である。福音とは、人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせであり、しかもそれはイエスキリストによってもたらされた。そして、それはイエスキリストの生涯と深く関わっている。
福音を信じるということは、イエスの生涯を通して現れてくる「神の愛」を信じるということであり、そこに福音がある。イエスキリストがつけられる十字架に福音がある。神様の御前で、自分は罪人だと知っているものは、悔い改めなしに、この十字架を見ることはできないのである。また、誰が考えても、全能の神である父なる神の子が十字架につけて殺されるということはあり得ない。愛しているものを見捨てると言うことはあり得ない。しかし、神様は言う。キリストは見捨てるが、おまえたちは見捨てない。キリストは罰するが、あなたたちは罰しない。この神の愛は、信じるより方法がない。愛していることは、信じてもらうより方法がない。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコは堂々と、ヨハネが捕らえられた後、ヨハネのあり方の福音ではなく、イエスが話したことを記した。ここに神の愛が満ち満ちている。私たちの努力によって取りに行ったものではない。神の一方的な愛によって与えられた。これは、最後に聞くべき結論なのである。マルコはそれを最初に記した。これが、どういうふうに展開していくか。ますます楽しみになる。福音に満ちているマルコを読み進めていきたい。