2005年10月30日
森山奈美 長老
ローマの信徒への手紙 5章1~11節
◆信仰義認
聖書には、グレートテキストと呼ばれる箇所がいくつかある。それは、1節だけのときもあれば、いくつかの節に渡るときもあるが、その箇所が聖書の教えの一番大事なことを集約的に表している箇所を、そう呼ぶ。たとえば、小聖書とも呼ばれるヨハネによる福音書3章の16節などは、大変に有名な箇所である。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」このたった一節で、聖書の中心的な教えを私たちに与えてくれている。今朝、私たちに与えられたテキスト、ローマの信徒への手紙5章1~11節も、グレートテキストのひとつ。
聖書朗読 ローマ5:1~3A
「信仰によって義とされる」これは、グレートテキストにふさわしい、聖書の中心的な教えのひとつである。では、「信仰によって義とされる」とは、どういうことか。義とされるとは、正しい関係、本来の関係になるということである。私たちと神様の正しい関係は、創世記にも記されている通り「神様と共に生きる関係」である。神様は、私たちを創られた。ところが、神様が愛していると言っているにも関わらず、だれも私のことを愛してはくれないと言ってみたり、神を神とせずに、自分勝手な思いの中で生きている。神様が共に生きようと言って下さっているのに、まるで神様がいないかのように「自分の人生は、自分のものだから」と言って、神様との関係がないかのように振舞う。これを「罪」と言う。神様との関係が壊れた状態である。
しかし、今日の聖書の箇所で言われているのは、この壊れた関係を「信仰によって義とされる」つまり、「信仰によって、本来の関係を取り戻す」ことができるということだ。私たちが、何か修行を積んだからでも、たくさん捧げ物をしたからでもなく、ただ「主イエスキリストによって」神様との間に平和を得るというのである。私たちは、それを信じて、神様の愛を仰いで信じる「信仰」によって、神様と共に生きるという、最も大きな喜びに生かされている。
2節には、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」さらに、3節には「苦難をも誇りとします」とある。口語訳聖書では、ここは「患難をも喜ぶ」となっていたが、「喜ぶ」ということは、「誇る」という意味です。どんなに苦しいことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、神様が「わたしは、あなたを見捨てない。私はあなたと共にいる」と言ってくださるということが、本当の喜びであるということは、体験したことのない人でないと分からない。そうそう。これ、先週も聞いた話。先週だけではない。私たちは、毎週、このメッセージを聞いている。それでも、また今日も同じように聖書は私たちに語りかける。
「信仰によって義とされる」つまり、信じることによって、神様と共に生きる喜びに入れられる。何を信じるのか。それは、神様の愛、そして、壊れてしまった神様との関係を修復し、私たちの罪を贖ってくださった、主イエスキリストの十字架と復活を信じるのである。
◆宗教改革
以前に、私たちは釜土先生から、こういう言葉を覚えるようにと言われたことがある。「信仰義認」という言葉である。そう、今日の聖書の箇所のスタートは、まさに「信仰義認」について語っている。この教理を再発見したのは、宗教改革者ルターである。明日は宗教改革記念日。今日は、そのことを記念する礼拝でもある。だから、宗教改革という出来事にも少し耳を傾けておきたい。
説教の準備をするために、「宗教改革」について、いろいろと調べていた。調べるといっても、今はあまり図書館へ行ったりはしない。インターネットで調べるのですが、インターネット上には、正しい情報も間違った情報も氾濫しています。膨大な情報の中で、宗教改革について、とても分かりやすく説明しているページがありました。それは、高校の社会の先生が、ご自分の授業の内容を公開しているページなのですが、実に臨場感あふれる内容です。こんな先生に世界史を習ったら、きっと楽しいだろうなと思いました。興味のある方はぜひ開いてみてください。そこでは、宗教改革について、こう記されていました。少し、要約してご紹介します。
宗教改革の解説ページ
当時ローマ教皇はレオ10世。~中略~
ルターはこういうことに疑問を感じて、1517年、「95カ条の論題」というローマ教会に対する質問状をヴィッテンベルグ城教会の扉に貼りつけた。95の問題点を指摘しているのですが、主な主張は次の3つ。
1,ローマ教会による免罪符販売を批判。お金を払えば救われるという免罪符の考え方を批判した。
2,では、人は何によって救われるのか。ルターは言う。「人は信仰によってのみ義とされる」。これを「信仰義認説」と言います。ローマ教会によってではなく、信仰によって救われるのです。信者が救われるようにローマ教皇が神さまに「とりなし」をする必要はないことになる。
3,では、どのように信仰すればよいのか。それまでは、ローマ教会の教えるままにしていることが信仰でした。ローマ教皇がお金をだして免罪符を買えば救われる、と教えるならばその通りにすればよかった。
しかし、ルターはそうではないと言う。聖書に書いてあるとおりにすることが信仰だ、と主張した。これを「聖書第一主義」という。(これも高校で習う)この段階でルターはローマ教会を否定していません。ローマ教会の教えでもおかしいと思う点があるなら、聖書と照らし合わせて考えよう、聖書に反しているならローマ教皇の教えでも間違っているんだ、ということです。
以上3点がルターの主張の要点。これが発表されると、すぐにヨーロッパを二分する大論争に発展しました。当時発明されたばかりの印刷術を使ってルターの「95カ条の論題」はたくさんのパンフレットに印刷されてヨーロッパ中に出回ったのです。
◆宗教改革は続いている
このあとも、ずっと授業は続く。高校の先生も教えてくれるように、ルターの主張は「聖書のみ」「恵みのみ」「万人祭司」ということである。
95箇条の論題の第1条は、次のとおり。
第1条「私たちの主であり師であるイエス・キリストが悔い改めよと言われたとき、主は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」
人はただ神の恵みにより、信仰のみによって救われる。このことを主張したルターは、この「恵みに生きる」とは「日ごとの悔い改め」、すなわち私たちの生涯が罪との不断の戦いであるということを、誰よりもよく知っていたのです。日ごとに悔い改めるということは、日ごとにこの「信仰義認」の恵みを受け取りなおすということである。一度、悔い改めて終わりではない。洗礼を受けたときに1回だけ悔い改めるのではない。週に1回、悔い改めて終わりではない。全生涯が悔い改めではないのか。ルターはそう言うのである。
このあたりは、みなさんも実感しているところではないだろうか。私は、そうである。洗礼を受けたのは高校2年生のときだが、そのあと劇的に人生が変化して、もう、ずっと神様と共に生きることを喜び続けていたか・・・。うーん。振り返れば、悔い改めることしきり。信仰弱い私は、なかなか、そうはいかなかった。今でもそう。
ルターの主張、ルターの改革のポイントが、まず、わたしたちキリスト者の信仰生活における「悔い改め」にスポットをあてているならば、教会の信仰についても、「不断に改革の教会」と言われるように、「宗教改革はまだ終らない」と言わなければなりません。ですから、宗教改革はただ過去にあっただけではないのです。宗教改革は現在もあり、将来もある。宗教改革は、今も続いている、と言ってもよい。
たとえば、ルターは、95箇条の課題をヴィッテンベルク城教会の扉に打ちつけたとき、はたして、その改革が2つの教会を生み出すということを想定していただろうか。ルターを始めとして宗教改革者の誰もが、少なくとも当初、宗教改革によってローマ・カトリック教会とプロテスタント教会という二つの教会が出現し、互いに分裂して終るとは考えもしなかっただろうし、ましてや願っていたわけでもない。「宗教改革はいまだ未完成だ」と言わざるをえないだろう。いまも、宗教改革中だと言ってもよい。
◆改革とは「基盤」を見出すこと
もうひとつ、宗教改革のからみで見ておきたいことがある。先週は七尾市会議員選挙があった。いま、七尾市の政治の大きな課題は、行財政“改革”である。「七尾市の家計」という冊子を見た方もいるかもしれない。どうも30億の赤字になって、このままでは財政債権団体に転落・・・。いま、七尾市政のやり方そのものを大きく変えなければいけない時期にきている。(選挙自体は、そのことを争点に戦われたという感じはなかったが、この行財政改革が課題であるということは事実である)
その前は、衆議院の総選挙があった。自民党のキャッチフレーズを覚えているdろうか?小泉首相が、ポスターに出てきて「改革を止めるな」と、やるわけだ。小泉改革。三位一体の改革。これで、「三位一体」という言葉がずいぶん有名になった。
このように「改革」とは、よく政治に使われる言葉でもある。ヨーロッパで15世紀から17世紀にかけて起こった宗教改革も、政治をともなった改革であったということは、ちょっと調べれば分かる。私も、七尾市の行財政改革推進委員会というところの委員をやっているが、どうも「改革」という言葉が、取り違えられていると感じることがよくあった。「改革」というのは、1回やって、終わりではない。また、何でも変えればいいというものでもないのである。
辞書で「改革」を調べると、こう書いてあった。
(1)基盤は維持しつつ、社会制度や機構・組織などをあらため変えること。
「役所の機構を―する」
(2)よりよくあらためること。
ということは、「基盤」は維持しなければいけないのです。では、宗教改革における、われわれの「基盤」とは何か?改革とは、ただ変えるのではなく、自分たちの「基盤」を見直すということでもあるのである。「ここは変えない」ということを見出すことなである。ルターの改革のポイントは、まさにキリスト者の基盤を確認するものであるならば、「聖書のみ」「恵みのみ」「万人祭司」という、この基盤となる福音を再発見するということが、まさにこの宗教改革だったのではないだろうか。
その改革の中で、私たちは、何を変えて、何を変えないべきか、という「基盤」を見出すということが重要になってくる。
◆あるもの探し・・・信仰の再発見
本日の説教題は、「福音の再発見」と書いた。この「再発見」ということばは、私が携わっている「まちづくり」の世界で、よく使います。まちの良さを再発見しようと、まちあるきをしたりする。ここで言う再発見とは、「価値を見出す」ということを意味している。
まちづくりでは、「当たり前になっていて、気づかないまちの良さをもう一度見直し、そこに価値を置く」ということをやる。たとえば、でか小屋の話。あれは、今まで倉庫として使っていた建物に「価値」を見出して、元の芝居小屋として再生しようという動きである。また、登録文化財の動きもそうである。何気なく見ていた建物に、価値を見出して、これはすばらしい建物だと再発見するのである。建物だけではない。御祓川も、食文化も、お祭りも、七尾湾も。いろんなまちのなかにある「あるもの」に価値をあてて、驚きを持ってみていく、それが「再発見」ということである。そして、自分たちのまちの価値を再発見することで、自分のまちを「誇り」に思う。七尾って捨てたもんじゃないな、と思う。これが、再発見の一番大きな効果である。再発見することで、どんどん自分のまちを好きになる。
私たちも「福音」を再発見することによって、神の愛を誇りに思うということが、宗教改革の中で、福音の再発見を通して起こった出来事ではないだろうか。
◆再発見のポイント
もう一度、まちづくりの話に戻る。再発見をするときに、いくつかのポイントがある。
1、よそ者とまち歩きをする。 2、専門家に解説してもらう 3、素直に驚く
よそ者とまち歩きをするということは、当たり前だと思っていることに驚きのまなざしを向けるということである。私たちは、信仰を与えられたという、驚くべき事態を「神の恵み」を実感しているだろうか。それを今一度、「すごい恵みだなぁ」と思ってみる。
天地創造の奇跡、キリストがこの世に来たりたもうた奇跡、病のいやし、5000人の給食に勝る奇跡が、私たち自身の信仰ではなかろうか。信仰によって義とされて、「永遠の命」を与えられるという希望。しかも、それが一方的に与えられている。これは、驚くべきことである。
2つめの専門家に解説してもらうとは、これはイエスさまのことである。イエスさまに、間をとりもってもらって、神様が私たちのことをどう思っているのか、どういう風に神様が私たちを愛してくださっているのか。それを上から教えてくれるのではなく、この世に来て下さって、私たちに分かるように教えてくださった。私たちはキリストの地上の働きを通して、神の愛に導きいれていただいていると、実感することができる。
宗教改革とは、本来の姿に立ち返ることである。それは、信仰を再発見するということでもある。信仰とは、何を仰いで信じるのか。それは、「神の愛、十字架の救い、永遠の命」である。このような、基本というか「これは変えてはいけない」という基盤を再確認したい。
「そのままのあなたで愛されている」というメッセージを聞き、十字架と復活によって、神と共に生きることが赦されている私たち。神様、私を愛してくれてありがとう。そのことに、もう一度、新鮮な驚きと感動を持って、福音を再発見し、神の愛を誇りとして、胸を張って今週も歩んでいこう。
森山奈美 長老
ローマの信徒への手紙 5章1~11節
◆信仰義認
聖書には、グレートテキストと呼ばれる箇所がいくつかある。それは、1節だけのときもあれば、いくつかの節に渡るときもあるが、その箇所が聖書の教えの一番大事なことを集約的に表している箇所を、そう呼ぶ。たとえば、小聖書とも呼ばれるヨハネによる福音書3章の16節などは、大変に有名な箇所である。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」このたった一節で、聖書の中心的な教えを私たちに与えてくれている。今朝、私たちに与えられたテキスト、ローマの信徒への手紙5章1~11節も、グレートテキストのひとつ。
聖書朗読 ローマ5:1~3A
「信仰によって義とされる」これは、グレートテキストにふさわしい、聖書の中心的な教えのひとつである。では、「信仰によって義とされる」とは、どういうことか。義とされるとは、正しい関係、本来の関係になるということである。私たちと神様の正しい関係は、創世記にも記されている通り「神様と共に生きる関係」である。神様は、私たちを創られた。ところが、神様が愛していると言っているにも関わらず、だれも私のことを愛してはくれないと言ってみたり、神を神とせずに、自分勝手な思いの中で生きている。神様が共に生きようと言って下さっているのに、まるで神様がいないかのように「自分の人生は、自分のものだから」と言って、神様との関係がないかのように振舞う。これを「罪」と言う。神様との関係が壊れた状態である。
しかし、今日の聖書の箇所で言われているのは、この壊れた関係を「信仰によって義とされる」つまり、「信仰によって、本来の関係を取り戻す」ことができるということだ。私たちが、何か修行を積んだからでも、たくさん捧げ物をしたからでもなく、ただ「主イエスキリストによって」神様との間に平和を得るというのである。私たちは、それを信じて、神様の愛を仰いで信じる「信仰」によって、神様と共に生きるという、最も大きな喜びに生かされている。
2節には、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」さらに、3節には「苦難をも誇りとします」とある。口語訳聖書では、ここは「患難をも喜ぶ」となっていたが、「喜ぶ」ということは、「誇る」という意味です。どんなに苦しいことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、神様が「わたしは、あなたを見捨てない。私はあなたと共にいる」と言ってくださるということが、本当の喜びであるということは、体験したことのない人でないと分からない。そうそう。これ、先週も聞いた話。先週だけではない。私たちは、毎週、このメッセージを聞いている。それでも、また今日も同じように聖書は私たちに語りかける。
「信仰によって義とされる」つまり、信じることによって、神様と共に生きる喜びに入れられる。何を信じるのか。それは、神様の愛、そして、壊れてしまった神様との関係を修復し、私たちの罪を贖ってくださった、主イエスキリストの十字架と復活を信じるのである。
◆宗教改革
以前に、私たちは釜土先生から、こういう言葉を覚えるようにと言われたことがある。「信仰義認」という言葉である。そう、今日の聖書の箇所のスタートは、まさに「信仰義認」について語っている。この教理を再発見したのは、宗教改革者ルターである。明日は宗教改革記念日。今日は、そのことを記念する礼拝でもある。だから、宗教改革という出来事にも少し耳を傾けておきたい。
説教の準備をするために、「宗教改革」について、いろいろと調べていた。調べるといっても、今はあまり図書館へ行ったりはしない。インターネットで調べるのですが、インターネット上には、正しい情報も間違った情報も氾濫しています。膨大な情報の中で、宗教改革について、とても分かりやすく説明しているページがありました。それは、高校の社会の先生が、ご自分の授業の内容を公開しているページなのですが、実に臨場感あふれる内容です。こんな先生に世界史を習ったら、きっと楽しいだろうなと思いました。興味のある方はぜひ開いてみてください。そこでは、宗教改革について、こう記されていました。少し、要約してご紹介します。
宗教改革の解説ページ
当時ローマ教皇はレオ10世。~中略~
ルターはこういうことに疑問を感じて、1517年、「95カ条の論題」というローマ教会に対する質問状をヴィッテンベルグ城教会の扉に貼りつけた。95の問題点を指摘しているのですが、主な主張は次の3つ。
1,ローマ教会による免罪符販売を批判。お金を払えば救われるという免罪符の考え方を批判した。
2,では、人は何によって救われるのか。ルターは言う。「人は信仰によってのみ義とされる」。これを「信仰義認説」と言います。ローマ教会によってではなく、信仰によって救われるのです。信者が救われるようにローマ教皇が神さまに「とりなし」をする必要はないことになる。
3,では、どのように信仰すればよいのか。それまでは、ローマ教会の教えるままにしていることが信仰でした。ローマ教皇がお金をだして免罪符を買えば救われる、と教えるならばその通りにすればよかった。
しかし、ルターはそうではないと言う。聖書に書いてあるとおりにすることが信仰だ、と主張した。これを「聖書第一主義」という。(これも高校で習う)この段階でルターはローマ教会を否定していません。ローマ教会の教えでもおかしいと思う点があるなら、聖書と照らし合わせて考えよう、聖書に反しているならローマ教皇の教えでも間違っているんだ、ということです。
以上3点がルターの主張の要点。これが発表されると、すぐにヨーロッパを二分する大論争に発展しました。当時発明されたばかりの印刷術を使ってルターの「95カ条の論題」はたくさんのパンフレットに印刷されてヨーロッパ中に出回ったのです。
◆宗教改革は続いている
このあとも、ずっと授業は続く。高校の先生も教えてくれるように、ルターの主張は「聖書のみ」「恵みのみ」「万人祭司」ということである。
95箇条の論題の第1条は、次のとおり。
第1条「私たちの主であり師であるイエス・キリストが悔い改めよと言われたとき、主は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」
人はただ神の恵みにより、信仰のみによって救われる。このことを主張したルターは、この「恵みに生きる」とは「日ごとの悔い改め」、すなわち私たちの生涯が罪との不断の戦いであるということを、誰よりもよく知っていたのです。日ごとに悔い改めるということは、日ごとにこの「信仰義認」の恵みを受け取りなおすということである。一度、悔い改めて終わりではない。洗礼を受けたときに1回だけ悔い改めるのではない。週に1回、悔い改めて終わりではない。全生涯が悔い改めではないのか。ルターはそう言うのである。
このあたりは、みなさんも実感しているところではないだろうか。私は、そうである。洗礼を受けたのは高校2年生のときだが、そのあと劇的に人生が変化して、もう、ずっと神様と共に生きることを喜び続けていたか・・・。うーん。振り返れば、悔い改めることしきり。信仰弱い私は、なかなか、そうはいかなかった。今でもそう。
ルターの主張、ルターの改革のポイントが、まず、わたしたちキリスト者の信仰生活における「悔い改め」にスポットをあてているならば、教会の信仰についても、「不断に改革の教会」と言われるように、「宗教改革はまだ終らない」と言わなければなりません。ですから、宗教改革はただ過去にあっただけではないのです。宗教改革は現在もあり、将来もある。宗教改革は、今も続いている、と言ってもよい。
たとえば、ルターは、95箇条の課題をヴィッテンベルク城教会の扉に打ちつけたとき、はたして、その改革が2つの教会を生み出すということを想定していただろうか。ルターを始めとして宗教改革者の誰もが、少なくとも当初、宗教改革によってローマ・カトリック教会とプロテスタント教会という二つの教会が出現し、互いに分裂して終るとは考えもしなかっただろうし、ましてや願っていたわけでもない。「宗教改革はいまだ未完成だ」と言わざるをえないだろう。いまも、宗教改革中だと言ってもよい。
◆改革とは「基盤」を見出すこと
もうひとつ、宗教改革のからみで見ておきたいことがある。先週は七尾市会議員選挙があった。いま、七尾市の政治の大きな課題は、行財政“改革”である。「七尾市の家計」という冊子を見た方もいるかもしれない。どうも30億の赤字になって、このままでは財政債権団体に転落・・・。いま、七尾市政のやり方そのものを大きく変えなければいけない時期にきている。(選挙自体は、そのことを争点に戦われたという感じはなかったが、この行財政改革が課題であるということは事実である)
その前は、衆議院の総選挙があった。自民党のキャッチフレーズを覚えているdろうか?小泉首相が、ポスターに出てきて「改革を止めるな」と、やるわけだ。小泉改革。三位一体の改革。これで、「三位一体」という言葉がずいぶん有名になった。
このように「改革」とは、よく政治に使われる言葉でもある。ヨーロッパで15世紀から17世紀にかけて起こった宗教改革も、政治をともなった改革であったということは、ちょっと調べれば分かる。私も、七尾市の行財政改革推進委員会というところの委員をやっているが、どうも「改革」という言葉が、取り違えられていると感じることがよくあった。「改革」というのは、1回やって、終わりではない。また、何でも変えればいいというものでもないのである。
辞書で「改革」を調べると、こう書いてあった。
(1)基盤は維持しつつ、社会制度や機構・組織などをあらため変えること。
「役所の機構を―する」
(2)よりよくあらためること。
ということは、「基盤」は維持しなければいけないのです。では、宗教改革における、われわれの「基盤」とは何か?改革とは、ただ変えるのではなく、自分たちの「基盤」を見直すということでもあるのである。「ここは変えない」ということを見出すことなである。ルターの改革のポイントは、まさにキリスト者の基盤を確認するものであるならば、「聖書のみ」「恵みのみ」「万人祭司」という、この基盤となる福音を再発見するということが、まさにこの宗教改革だったのではないだろうか。
その改革の中で、私たちは、何を変えて、何を変えないべきか、という「基盤」を見出すということが重要になってくる。
◆あるもの探し・・・信仰の再発見
本日の説教題は、「福音の再発見」と書いた。この「再発見」ということばは、私が携わっている「まちづくり」の世界で、よく使います。まちの良さを再発見しようと、まちあるきをしたりする。ここで言う再発見とは、「価値を見出す」ということを意味している。
まちづくりでは、「当たり前になっていて、気づかないまちの良さをもう一度見直し、そこに価値を置く」ということをやる。たとえば、でか小屋の話。あれは、今まで倉庫として使っていた建物に「価値」を見出して、元の芝居小屋として再生しようという動きである。また、登録文化財の動きもそうである。何気なく見ていた建物に、価値を見出して、これはすばらしい建物だと再発見するのである。建物だけではない。御祓川も、食文化も、お祭りも、七尾湾も。いろんなまちのなかにある「あるもの」に価値をあてて、驚きを持ってみていく、それが「再発見」ということである。そして、自分たちのまちの価値を再発見することで、自分のまちを「誇り」に思う。七尾って捨てたもんじゃないな、と思う。これが、再発見の一番大きな効果である。再発見することで、どんどん自分のまちを好きになる。
私たちも「福音」を再発見することによって、神の愛を誇りに思うということが、宗教改革の中で、福音の再発見を通して起こった出来事ではないだろうか。
◆再発見のポイント
もう一度、まちづくりの話に戻る。再発見をするときに、いくつかのポイントがある。
1、よそ者とまち歩きをする。 2、専門家に解説してもらう 3、素直に驚く
よそ者とまち歩きをするということは、当たり前だと思っていることに驚きのまなざしを向けるということである。私たちは、信仰を与えられたという、驚くべき事態を「神の恵み」を実感しているだろうか。それを今一度、「すごい恵みだなぁ」と思ってみる。
天地創造の奇跡、キリストがこの世に来たりたもうた奇跡、病のいやし、5000人の給食に勝る奇跡が、私たち自身の信仰ではなかろうか。信仰によって義とされて、「永遠の命」を与えられるという希望。しかも、それが一方的に与えられている。これは、驚くべきことである。
2つめの専門家に解説してもらうとは、これはイエスさまのことである。イエスさまに、間をとりもってもらって、神様が私たちのことをどう思っているのか、どういう風に神様が私たちを愛してくださっているのか。それを上から教えてくれるのではなく、この世に来て下さって、私たちに分かるように教えてくださった。私たちはキリストの地上の働きを通して、神の愛に導きいれていただいていると、実感することができる。
宗教改革とは、本来の姿に立ち返ることである。それは、信仰を再発見するということでもある。信仰とは、何を仰いで信じるのか。それは、「神の愛、十字架の救い、永遠の命」である。このような、基本というか「これは変えてはいけない」という基盤を再確認したい。
「そのままのあなたで愛されている」というメッセージを聞き、十字架と復活によって、神と共に生きることが赦されている私たち。神様、私を愛してくれてありがとう。そのことに、もう一度、新鮮な驚きと感動を持って、福音を再発見し、神の愛を誇りとして、胸を張って今週も歩んでいこう。