◆主イエスの問い
今日の御言葉を通して、主は私たちに次のように語りかけておられます。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」今、この御言葉を聞いている私たち一人一人がそのように問われているのです。私たちは一体この問いに対して、何と答えるでしょうか。
この問いは元々、ファリサイ派の人々に対して向けられたものでした。彼らは律法の専門家です。他の誰よりも律法を厳格に守り、神の御心に適った生活を送っていると自負していました。しかし、主イエスは彼らの偽善を暴かれました。彼らの信仰が上辺だけのものに過ぎず、心から神を畏れ敬っていないこと。律法を厳格に守っているということに安心してしまい、自分で自分を義としていること。そして、自分たちと同じように律法を守ることのできない人々を見下し、心の中で裁いていたこと。主イエスはそういう彼らの偽善的な態度を批判されたのです。そして、彼らが自分たちの偽善に気付き、心から悔改めるように促されたのです。
しかし、彼らは決して悔改めることはありませんでした。むしろ、自分たちの罪を指摘されればされるほど、彼らの心は頑なになって行ったのです。そして、何とかして主イエスを罠に陥れようと、敢えて意地悪な質問を主イエスにぶつけたのです。
◆ダビデの子
ところがここに来て、今度は彼らの方が逆に信仰を問われる立場に立たされたのです。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」そう問われたのです。そして、この方の人格に隠されている深い秘密の前に立たされることになったのです。
もちろん、この時、ファリサイ派の人々は、主イエスが御自身について問うておられるということに気付いてはいませんでした。彼らは主イエスが「メシア」であるとは信じていなかったからです。「メシア」というのは、旧約聖書のヘブライ語の言葉で「油注がれた者」という意味の言葉です。新約聖書のギリシャ語では「キリスト」という言葉で訳されています。「キリスト」という言葉も「油注がれた者」という意味です。旧約聖書においては、神がある人を特別な使命を果たすためにお選びになる時に、その人の頭に油を注ぐという儀式を行ないました。それは主に預言者や祭司や王といった人々でした。そこから「メシア」というのは、神の使命を果たすために特別に選ばれ、遣わされた人のことを意味するようになりました。旧約聖書においては、このメシアがダビデ王の子孫から生まれると約束されていたのです。ですから、ここでファリサイ派の人々がメシアは「ダビデの子です」と答えたのは間違いではなかったのです。
この「ダビデの子」という言葉にはいろいろな意味が込められています。ダビデというのは、イスラエルの歴史の中で最も偉大な王と称えられている人物です。彼の時代、イスラエル王国が成立し、イスラエルは最も繁栄しました。しかし、その後、王国は北と南に分裂し、捕囚に遭い、国は滅ぼされることになります。主イエスの時代にも、ユダヤの国はローマ帝国の支配下に置かれておりました。ユダヤの人々は重い税金を取り立てられ、皇帝崇拝を強いられ苦しい生活を強いられておりました。ですから、イスラエルの人々は再び、力ある指導者が現われ、ローマ帝国を滅ぼし、あの輝かしいダビデ王朝を再建する日を夢見ていたのです。人々はそういうメシアがダビデの子孫から生れることを期待していたのです。
◆メシアの秘密 真の人・真の神
しかし、主イエスは彼らが期待したようなメシアではなかったのです。否、遙にそれ以上の方であったのです。そのことを示すために、主イエスは詩編110編1節の言葉を引用されました。それはダビデ王自身の言葉とされています。そこには、次のように記されています。「主はわたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで』」。ここで最初に「主は」と言われている言葉は、旧約聖書では神の名を表す「ヤーウェ」あるいは「ヤハウェ」と言う言葉です。ヘブライ語のアルファベットでは四文字で書きます。しかし、十戒にも「神の名をみだりに唱えてはならない」とありますように、イスラエルの人々は神の名を口にすることを恐れて、これをヘブライ語で「わが主」という意味の「アドナイ」という言葉に読み替えたのです。そのようにしている内に、誰も本来の発音が分からなくなってしまったと言われています。それゆえに、この神の名は「神聖四字」と呼ばれるようになりました。「アドナイ」という言葉は、一般的に僕が主人を呼ぶ時に使う言葉で、神だけに使われる言葉ではありません。それは一般的に「主人」を表す言葉です。「わたしの主」と言われている2番目の言葉はこの「アドナイ」です。主イエスの解説によれば、ダビデが二番目に「わたしの主」と呼んでいるのは、メシアのことであると言うのです。これはこういうことです。人々はダビデの子孫からメシアが生れると信じて来た。しかし、そのダビデ自身が、そのメシアを「わたしの主」と呼んでいる。そうであるならば、それは単なるダビデの子ではなく、それ以上の存在ではないか。そう問うておられるのです。敢えて言うならば、最初の「主」は父なる神で、ダビデが「わたしの主」と呼んでいるのは、御子なるイエス・キリストのことです。しかし、ダビデが自分の子孫からイエス・キリストがお生まれになることを知ることができるはずはありませんから、ダビデは「霊を受けて」そのように語ったのだと主イエスは言われているのです。つまり、人間には知りえないことを、ダビデは聖霊の働きによって預言したというのです。
これは大変興味深いことではないでしょうか。ここでは、私たちが聖書を読む際にとても大切なことが語られているのです。聖書はイエス・キリストを証しするために書かれた書物です。ですから、イエス・キリストを信じることなしに、聖書を理解することはできません。聖霊の働きがなければ理解できないのです。私たちは使徒信条において「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生れ」と告白しています。これがイエス・キリストの人格の秘密なのです。イエス・キリストは、マリアより生れた点においては真の人です。ダビデの子なのです。しかし、この方は聖霊によって宿った点においては神の御子であり、真の神なのです。ダビデの主である方なのです。このメシアの秘密を理解する時、初めて聖書の御言葉を正しく理解することができるようになるのです。
聖書は私たちをイエス・キリストへと導き、この方を「わたしの主」と信じ、告白するために書かれた書物です。私たちがこの方を信じ、礼拝をするために書かれた書物です。ですから、聖書は礼拝の中で、私たちの主の御言葉として読まれる時に、初めて正しい仕方で聞かれるのです。
◆他者と共に生きる
この前の部分で語られている二つの戒めも、イエス・キリストが語られた御言葉として聞く時に、初めて正しく理解することができます。ここで主イエスがこの二つの戒めについて語ったきっかけはファリサイ派の問いかけでした。しかし、きっかけはいずれにしても、ここで大切なことは、主イエスにおいては、神を愛することと隣人を愛することとは、分かち難い仕方で結びついていたことです。それはこの方の人格の秘密と深い関わりがあるのです。この二つの戒めに共通することとは一体何でしょうか。それは一言で言えば「他者と共に生きる」ということです。人間が孤独な存在としてではなく、他者と共に生きる存在として造られていること。そのように他者と共に生きる時に、人間は本当に自由で幸せな人生を生きることができることをここで主イエスは教えて下さっているのです。人間は生来、神と共に生き、隣人と共に生きる存在として造られたのです。だから神を愛し、隣人を愛して生きる時に、人間は最も自然で最も幸せな人生を歩むことができるのです。
しかし、聖書においては、人間が神に背を向け、自分一人で生きようとし始めた時から、人間に不幸が訪れたのです。人間は真の神を神として崇めず、自分をあたかも神のように崇めるようになりました。それを聖書では罪、より厳密に言えば「原罪」と言います。その結果、隣人との関係もおかしくなりました。アダムはエバに罪の責任を転嫁したのです。そして、この夫婦から生れた最初の子供たちは、妬みゆえに、兄弟殺しの罪を犯しました。人間が神と向きあうことをやめ、自分を絶対化するようになってから、人間関係は崩れ始めたのです。私たちが神との正しい関係を失う所では、隣人との正しい関係はありえません。いつも自分を隣人の上に立て、隣人を自分の都合の良いように利用するようになります。私たちは隣人を愛しているように見えながら、隣人を自分のために利用していることが如何に多いことでありましょうか。
◆隣人との関係
聖路加病院の理事長をされておられる日野原重明先生は、その著書の中で、大変興味深いことを語っておられます。そこで、日野原先生は医師としての経験されておられますが、医師は宿命的にある「悪魔性」を心の内に持っていると言うのです。それは何かと申しますと、一人の患者を「人」としてではなく、「もの」として見てしまう誘惑だと言います。腕の良い外科医には特に見られることだと言うのですが、兎角、自分の腕を試したいために、患者を手術の実験台にしてしまうというのです。そこで、若い医師には「それが自分の愛する人や家族であっても手術をするかどうか、まず自分に問いなさい」と日野原先生は教育しているそうです。日野原先生は続けて次のように言っておられます。「…医師はかけがえのないひとりの人間である患者を見ずに、自らの研究の対象として、病んだその臓器を見ています。自分のもとに、ひとつでも多くのがん化した臓器や老化した血管がいまにも到着することを待ち望む気持ちにもとらわれます。厄介な病であればあるほど、研究意欲に燃える医師の心は湧き立つのです。」それを日野原先生は自分の内に住む「悪魔性」と呼んでおられるのです。
それは何も医者に限らず、私たちすべての者の内に潜んでいる悪魔性ではないでしょうか。人を人とも思わず、単なる「もの」として扱ってしまう誘惑は、私たち自身の内にもあります。それは最近の兄弟殺しや夫婦の間の殺人を待つまでもなく、私たちが常に犯している過ちです。自分にとって都合の良い内は人を利用するだけ利用しておいて、都合が悪くなると、ものを捨てるように人を捨ててしまうことがないでしょうか。
それは家庭においても言えることです。ただ同じ家の中に住んでいれば、それで家族なのではありません。私たちは家族に対して、一人の掛け替えのない人格として出会う時に、初めて家族になるのです。子どもに対してもそうでしょう。子供を愛しているように見えながら、親はしばしば自分の理想の子供の姿、自分の願望を子どもに押し付けているだけのことがあります。そこでは、本当に子どもと出会っていない。一人の掛け替えのない人格として子供と出会っていないのです。あるいは、教会の中でもそうでしょう。私たちは今こうして、同じ礼拝堂の中に身を置き、共に礼拝をしていますが、本当に隣りにいる人がわたしの隣人になっているでしょうか。
◆キリストによって愛する者へと変えられる
神との関係についても同じことが言えます。私たちはあたかも、私たちを幸福にするための道具であるかのように、神を「もの」のように扱っていないでしょうか。お賽銭を投げ入れて、お願い事をすれば叶えてくれるような機械仕掛けの神のように扱っていないでしょうか。あたかも使い捨てカメラのように、神を次々に代えて行くのが、現代人の姿ではないでしょうか。
しかし、そのような中途半端な関わり方しかできない私たちの所に、神は自ら人となって来て下さったのです。それがイエス・キリストというお方です。この方は御自身の命を捧げ尽くすほどに神を愛されました。文字通り、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる神を愛されました。イエス・キリストは、御自身の命を十字架において献げられることを通して、神の前に唯一正しいと認められる礼拝を捧げられたのです。
そして、同時に、この方は私たちの真の隣人となって下さったのです。神が人となられたということは、神が私たちを御自分と対等な人格として扱って下さることを意味します。神を神とも思わない私たち罪人をも、神はなお一人の掛け替えのない人格として愛して下さる。どこまでも身を低くし、私たちと同じ目線に立って向かい合い、私たちの心の奥深くまで分け入って、私たちの心の訴えに耳を澄ましてくださる。そして、私たちの罪を背負って、十字架の贖いの死を遂げて下さった。イエス・キリストは御自身の身を滅ぼすほどに、私たちを愛された。そのようにして、イエス・キリストは私たちの真の隣人となって下さったのです。イエス・キリストにおいては神への愛と隣人への愛が一つとなっているのです。
私たちはこの真の救い主によって罪から贖われ、キリストの御身体なる教会の肢とされた者たちです。教会はこの方が満ち満ちている場です。聖霊が働いておられる場です。この方は今は天にあって、神の右に座しておられます。そこから、御言葉と聖霊によって、私たちを御自分の身体として相応しく造り変えて下さるのです。私たちの内から神や人をもののように扱う悪魔のような心を取り除き、柔かく血の通った心に新しく造り変えて下さるのです。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛する者へと造り変えられて行くのです。このキリストの御身体なる教会においてこそ、神は真に「わたしの神」となり、隣人は真に「わたしの隣人」となるのです。この真の主を証しする日々を今週も歩んで参りましょう。
(2007年1月28日 2007年度石川地区交換講壇 野崎卓道牧師)
今日の御言葉を通して、主は私たちに次のように語りかけておられます。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」今、この御言葉を聞いている私たち一人一人がそのように問われているのです。私たちは一体この問いに対して、何と答えるでしょうか。
この問いは元々、ファリサイ派の人々に対して向けられたものでした。彼らは律法の専門家です。他の誰よりも律法を厳格に守り、神の御心に適った生活を送っていると自負していました。しかし、主イエスは彼らの偽善を暴かれました。彼らの信仰が上辺だけのものに過ぎず、心から神を畏れ敬っていないこと。律法を厳格に守っているということに安心してしまい、自分で自分を義としていること。そして、自分たちと同じように律法を守ることのできない人々を見下し、心の中で裁いていたこと。主イエスはそういう彼らの偽善的な態度を批判されたのです。そして、彼らが自分たちの偽善に気付き、心から悔改めるように促されたのです。
しかし、彼らは決して悔改めることはありませんでした。むしろ、自分たちの罪を指摘されればされるほど、彼らの心は頑なになって行ったのです。そして、何とかして主イエスを罠に陥れようと、敢えて意地悪な質問を主イエスにぶつけたのです。
◆ダビデの子
ところがここに来て、今度は彼らの方が逆に信仰を問われる立場に立たされたのです。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」そう問われたのです。そして、この方の人格に隠されている深い秘密の前に立たされることになったのです。
もちろん、この時、ファリサイ派の人々は、主イエスが御自身について問うておられるということに気付いてはいませんでした。彼らは主イエスが「メシア」であるとは信じていなかったからです。「メシア」というのは、旧約聖書のヘブライ語の言葉で「油注がれた者」という意味の言葉です。新約聖書のギリシャ語では「キリスト」という言葉で訳されています。「キリスト」という言葉も「油注がれた者」という意味です。旧約聖書においては、神がある人を特別な使命を果たすためにお選びになる時に、その人の頭に油を注ぐという儀式を行ないました。それは主に預言者や祭司や王といった人々でした。そこから「メシア」というのは、神の使命を果たすために特別に選ばれ、遣わされた人のことを意味するようになりました。旧約聖書においては、このメシアがダビデ王の子孫から生まれると約束されていたのです。ですから、ここでファリサイ派の人々がメシアは「ダビデの子です」と答えたのは間違いではなかったのです。
この「ダビデの子」という言葉にはいろいろな意味が込められています。ダビデというのは、イスラエルの歴史の中で最も偉大な王と称えられている人物です。彼の時代、イスラエル王国が成立し、イスラエルは最も繁栄しました。しかし、その後、王国は北と南に分裂し、捕囚に遭い、国は滅ぼされることになります。主イエスの時代にも、ユダヤの国はローマ帝国の支配下に置かれておりました。ユダヤの人々は重い税金を取り立てられ、皇帝崇拝を強いられ苦しい生活を強いられておりました。ですから、イスラエルの人々は再び、力ある指導者が現われ、ローマ帝国を滅ぼし、あの輝かしいダビデ王朝を再建する日を夢見ていたのです。人々はそういうメシアがダビデの子孫から生れることを期待していたのです。
◆メシアの秘密 真の人・真の神
しかし、主イエスは彼らが期待したようなメシアではなかったのです。否、遙にそれ以上の方であったのです。そのことを示すために、主イエスは詩編110編1節の言葉を引用されました。それはダビデ王自身の言葉とされています。そこには、次のように記されています。「主はわたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで』」。ここで最初に「主は」と言われている言葉は、旧約聖書では神の名を表す「ヤーウェ」あるいは「ヤハウェ」と言う言葉です。ヘブライ語のアルファベットでは四文字で書きます。しかし、十戒にも「神の名をみだりに唱えてはならない」とありますように、イスラエルの人々は神の名を口にすることを恐れて、これをヘブライ語で「わが主」という意味の「アドナイ」という言葉に読み替えたのです。そのようにしている内に、誰も本来の発音が分からなくなってしまったと言われています。それゆえに、この神の名は「神聖四字」と呼ばれるようになりました。「アドナイ」という言葉は、一般的に僕が主人を呼ぶ時に使う言葉で、神だけに使われる言葉ではありません。それは一般的に「主人」を表す言葉です。「わたしの主」と言われている2番目の言葉はこの「アドナイ」です。主イエスの解説によれば、ダビデが二番目に「わたしの主」と呼んでいるのは、メシアのことであると言うのです。これはこういうことです。人々はダビデの子孫からメシアが生れると信じて来た。しかし、そのダビデ自身が、そのメシアを「わたしの主」と呼んでいる。そうであるならば、それは単なるダビデの子ではなく、それ以上の存在ではないか。そう問うておられるのです。敢えて言うならば、最初の「主」は父なる神で、ダビデが「わたしの主」と呼んでいるのは、御子なるイエス・キリストのことです。しかし、ダビデが自分の子孫からイエス・キリストがお生まれになることを知ることができるはずはありませんから、ダビデは「霊を受けて」そのように語ったのだと主イエスは言われているのです。つまり、人間には知りえないことを、ダビデは聖霊の働きによって預言したというのです。
これは大変興味深いことではないでしょうか。ここでは、私たちが聖書を読む際にとても大切なことが語られているのです。聖書はイエス・キリストを証しするために書かれた書物です。ですから、イエス・キリストを信じることなしに、聖書を理解することはできません。聖霊の働きがなければ理解できないのです。私たちは使徒信条において「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生れ」と告白しています。これがイエス・キリストの人格の秘密なのです。イエス・キリストは、マリアより生れた点においては真の人です。ダビデの子なのです。しかし、この方は聖霊によって宿った点においては神の御子であり、真の神なのです。ダビデの主である方なのです。このメシアの秘密を理解する時、初めて聖書の御言葉を正しく理解することができるようになるのです。
聖書は私たちをイエス・キリストへと導き、この方を「わたしの主」と信じ、告白するために書かれた書物です。私たちがこの方を信じ、礼拝をするために書かれた書物です。ですから、聖書は礼拝の中で、私たちの主の御言葉として読まれる時に、初めて正しい仕方で聞かれるのです。
◆他者と共に生きる
この前の部分で語られている二つの戒めも、イエス・キリストが語られた御言葉として聞く時に、初めて正しく理解することができます。ここで主イエスがこの二つの戒めについて語ったきっかけはファリサイ派の問いかけでした。しかし、きっかけはいずれにしても、ここで大切なことは、主イエスにおいては、神を愛することと隣人を愛することとは、分かち難い仕方で結びついていたことです。それはこの方の人格の秘密と深い関わりがあるのです。この二つの戒めに共通することとは一体何でしょうか。それは一言で言えば「他者と共に生きる」ということです。人間が孤独な存在としてではなく、他者と共に生きる存在として造られていること。そのように他者と共に生きる時に、人間は本当に自由で幸せな人生を生きることができることをここで主イエスは教えて下さっているのです。人間は生来、神と共に生き、隣人と共に生きる存在として造られたのです。だから神を愛し、隣人を愛して生きる時に、人間は最も自然で最も幸せな人生を歩むことができるのです。
しかし、聖書においては、人間が神に背を向け、自分一人で生きようとし始めた時から、人間に不幸が訪れたのです。人間は真の神を神として崇めず、自分をあたかも神のように崇めるようになりました。それを聖書では罪、より厳密に言えば「原罪」と言います。その結果、隣人との関係もおかしくなりました。アダムはエバに罪の責任を転嫁したのです。そして、この夫婦から生れた最初の子供たちは、妬みゆえに、兄弟殺しの罪を犯しました。人間が神と向きあうことをやめ、自分を絶対化するようになってから、人間関係は崩れ始めたのです。私たちが神との正しい関係を失う所では、隣人との正しい関係はありえません。いつも自分を隣人の上に立て、隣人を自分の都合の良いように利用するようになります。私たちは隣人を愛しているように見えながら、隣人を自分のために利用していることが如何に多いことでありましょうか。
◆隣人との関係
聖路加病院の理事長をされておられる日野原重明先生は、その著書の中で、大変興味深いことを語っておられます。そこで、日野原先生は医師としての経験されておられますが、医師は宿命的にある「悪魔性」を心の内に持っていると言うのです。それは何かと申しますと、一人の患者を「人」としてではなく、「もの」として見てしまう誘惑だと言います。腕の良い外科医には特に見られることだと言うのですが、兎角、自分の腕を試したいために、患者を手術の実験台にしてしまうというのです。そこで、若い医師には「それが自分の愛する人や家族であっても手術をするかどうか、まず自分に問いなさい」と日野原先生は教育しているそうです。日野原先生は続けて次のように言っておられます。「…医師はかけがえのないひとりの人間である患者を見ずに、自らの研究の対象として、病んだその臓器を見ています。自分のもとに、ひとつでも多くのがん化した臓器や老化した血管がいまにも到着することを待ち望む気持ちにもとらわれます。厄介な病であればあるほど、研究意欲に燃える医師の心は湧き立つのです。」それを日野原先生は自分の内に住む「悪魔性」と呼んでおられるのです。
それは何も医者に限らず、私たちすべての者の内に潜んでいる悪魔性ではないでしょうか。人を人とも思わず、単なる「もの」として扱ってしまう誘惑は、私たち自身の内にもあります。それは最近の兄弟殺しや夫婦の間の殺人を待つまでもなく、私たちが常に犯している過ちです。自分にとって都合の良い内は人を利用するだけ利用しておいて、都合が悪くなると、ものを捨てるように人を捨ててしまうことがないでしょうか。
それは家庭においても言えることです。ただ同じ家の中に住んでいれば、それで家族なのではありません。私たちは家族に対して、一人の掛け替えのない人格として出会う時に、初めて家族になるのです。子どもに対してもそうでしょう。子供を愛しているように見えながら、親はしばしば自分の理想の子供の姿、自分の願望を子どもに押し付けているだけのことがあります。そこでは、本当に子どもと出会っていない。一人の掛け替えのない人格として子供と出会っていないのです。あるいは、教会の中でもそうでしょう。私たちは今こうして、同じ礼拝堂の中に身を置き、共に礼拝をしていますが、本当に隣りにいる人がわたしの隣人になっているでしょうか。
◆キリストによって愛する者へと変えられる
神との関係についても同じことが言えます。私たちはあたかも、私たちを幸福にするための道具であるかのように、神を「もの」のように扱っていないでしょうか。お賽銭を投げ入れて、お願い事をすれば叶えてくれるような機械仕掛けの神のように扱っていないでしょうか。あたかも使い捨てカメラのように、神を次々に代えて行くのが、現代人の姿ではないでしょうか。
しかし、そのような中途半端な関わり方しかできない私たちの所に、神は自ら人となって来て下さったのです。それがイエス・キリストというお方です。この方は御自身の命を捧げ尽くすほどに神を愛されました。文字通り、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる神を愛されました。イエス・キリストは、御自身の命を十字架において献げられることを通して、神の前に唯一正しいと認められる礼拝を捧げられたのです。
そして、同時に、この方は私たちの真の隣人となって下さったのです。神が人となられたということは、神が私たちを御自分と対等な人格として扱って下さることを意味します。神を神とも思わない私たち罪人をも、神はなお一人の掛け替えのない人格として愛して下さる。どこまでも身を低くし、私たちと同じ目線に立って向かい合い、私たちの心の奥深くまで分け入って、私たちの心の訴えに耳を澄ましてくださる。そして、私たちの罪を背負って、十字架の贖いの死を遂げて下さった。イエス・キリストは御自身の身を滅ぼすほどに、私たちを愛された。そのようにして、イエス・キリストは私たちの真の隣人となって下さったのです。イエス・キリストにおいては神への愛と隣人への愛が一つとなっているのです。
私たちはこの真の救い主によって罪から贖われ、キリストの御身体なる教会の肢とされた者たちです。教会はこの方が満ち満ちている場です。聖霊が働いておられる場です。この方は今は天にあって、神の右に座しておられます。そこから、御言葉と聖霊によって、私たちを御自分の身体として相応しく造り変えて下さるのです。私たちの内から神や人をもののように扱う悪魔のような心を取り除き、柔かく血の通った心に新しく造り変えて下さるのです。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛する者へと造り変えられて行くのです。このキリストの御身体なる教会においてこそ、神は真に「わたしの神」となり、隣人は真に「わたしの隣人」となるのです。この真の主を証しする日々を今週も歩んで参りましょう。
(2007年1月28日 2007年度石川地区交換講壇 野崎卓道牧師)