2006年5月28日 釜土 達雄牧師
◆にもかかわらずの信仰
今日、私たちは弟子たちを派遣する箇所を聞く。先週は、主イエスキリストがナザレで受け入れられなかった話を聞いた。生まれ、育ち、共に生きてきたイエス様を人々は知っていた。計算の繰り上がりや繰り下がり、日本語で言えば漢字、書き取り、読み書きを出来なかったときを知っていて、間違いをしていたときを知っていた。そういうことを知っていた人々は、神の御言葉を伝えていたイエス様を見たときに、「よく、言うわ。」と思った。こう書いてある。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」本人を知っているだけではなく、兄弟や親戚のことも知っている。性格や個性も知っている。人々は、こうやってイエス様に躓いた。イエス様のこと、またその家族のことが良く分かっているからこそ躓いた。私たちは、イエス様のことをもっと知りたいと思うかもしれない。イエス様のことをもっと知ることで、どれほど私たちが信仰的に満ちてくるかと思う。しかし、わたしたちよりもはるかにイエス様を知っていた人々が信仰に躓いている。
ローマの信徒への手紙はギリシャ語で書かれている。授業で北森先生からこう言われて安心した。「ギリシャ語をよく勉強しなさい。パウロが言っていることを原文でよく理解できるようになりなさい。しかし、そのときにギリシャが完璧にできたローマの人々が、すべて悔い改めた訳ではない。ギリシャ語がきちんとできることと信仰の問題は違う。」と教えられた。
「だからの信仰」ではなく、「にもかかわらずの信仰」が、私たちの信仰である。イエス様のことがよく分かっている。「だから」この人を神の子と認めるのではなく、知識としてイエス様のことを知っているかどうかと関わりなく、神様が遣わしてくださったこの方が神の子だと知っている。イエス様が地上に来られて、十字架につけられ、弱くこの地上を生きられた「にもかかわらず」神の子として、お立てになった方なのだと知っておきたい。
◆悔い改めの福音
そのイエス様が、付近の村々を歩いて宣べ伝えられた。付近というのは、ナザレの付近である。一本杉のあたりからみると、ちょっと離れて、小島や鍛冶町、石崎くらいまでの付近である。歩いて行くには少し距離があるが、聞いたことがならあるというレベルのところで教え始めた。ナザレとあまり状況は変わらなかったはずである。そのあとに、イエス様が十二弟子をお遣わしになる。それが今日のテキストである。
マルコ6:6b
イエス様は十二弟子を遣わしたが、しばしイエス様はナザレ周辺にとどまられた。何をしていたかは知らない。そのときに、弟子たちにこう言われた。「下着は二枚着てはならない」
与えられたのは、汚れた霊に対する権能であった。旅は素で行けということであった。杖一本だけで、パン持つな、袋も金も持つな。上着がなくなると命に関わる。下着は二枚持って行くな。着の身着のままで行け。あとはすべて主にゆだねよ、これがイエス様の言われたことである。
もうひとつは、「ひとつの町では同じ家にとどまりなさい。」
マルコ12節~13節
この十二人が、出掛けていったのは、「悔い改めさせるため」の宣教であった。「悔い改めさせるため」である。それは、バプテスマのヨハネがやっていた宣教の方法である。
マタイ3:1~12
バプテスマのヨハネが宣べ伝えていたのは、悔い改めに導く御言葉であった。人々が罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
悔い改めにふさわしい実を結べ。悔い改めのバプテスマ。これがヨハネの宣べ伝えていたことであった。そして、イエス様がいま弟子たちを使わしたのは、バプテスマのヨハネと同じメッセージを宣べ伝えることを命じられたのである。
だから、マルコ6:14~のように、イエス様の名が知れ渡り、洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったと言われたのである。ヘロデは、イエス様が悔い改めのメッセージを宣教しだして、ヨハネが生き返ったと思った。いま、イエス様が述べ伝えているのは、悔い改めさせるための宣教であった。これを知っておいてもらいたい。
◆マルコ28章の派遣
牧師は神学校を出るときに、「遣わされる」と言う。それぞれの伝道地に散っていく。先週も教区総会があったが、そこで伝道師の准任式があった。石川県では、小松教会に来た松下保真先生などが受けた。今日の聖書箇所では、悔い改めの福音のために、遣わされたのである。多くの牧師が遣わされていくときに、こちらで覚えてしまう。悔い改めの福音なので、「あなたたちは間違っている」などと言いかねない。そういう若い牧師を見ると、ナザレから遣わされた十二弟子だなと思う。これは、イエスキリストの十字架と復活前なのである。このメッセージは、十字架より前の宣教なのである。
マタイ28:16~
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
これが、復活の主が命じられた派遣である。私たちはこちらで派遣されなければいけない。そういう牧者が派遣される。この言葉も大事だが、その前に、もっと大事なことがある。それは、ひれ伏したということである。イエスにひれ伏した。しかし、疑う者もいた。マルコ6章では、だれもひれ伏していない。悔い改めの福音を宣べ伝えているだけである。この復活の主の前でひれ伏しているのである。あのマルコ6章は、人間イエスから派遣された弟子たち。マタイ28章は、神の子、しかも十字架につけられ復活された神の子、神ご自身からの派遣として描かれている。ひれ伏すとは、神に対してのみなされる。その派遣の命令のときに、「すべての民を私の弟子にしなさい」と言われる。
◆神の前での冷静な心
イエスキリストのことをよく知っている11人の弟子の中に疑うものもいたというのは、すばらしいではないか。復活の主が現れて、ひれ伏しながらも心の中は、「ほんとかな~」と思っている。これが、この教会に似ている。この方が神の子である、アーメンと言いながら、ふっと「大丈夫かなぁ」と思っている。そう、それは最初からそうであった。私たちがマインドコントロールにかかっているのではなく、冷静に疑う心を神はお許しになっている。私たちはそれほど、神の前で、誠実で冷静でよい、自分の心をしっかり持っていてよい。このことは、ぜひとも、知っていたい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、わたしたちが努めなければならないのは、弟子にすることである。バプテスマによって。「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という命令、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして父なる神を愛しなさい」という命令をしっかり守るように、教えろということである。
◆七尾教会が見た奇跡
もうひとつ、マルコ6章では、イエス様は、ナザレの村で留まった。しかし、復活の主は、私は世の終わりまで、あなたがたと共に居るとおっしゃる。マルコ6章で牧者が派遣されていると派遣されているのではなく、マタイ28章で派遣されていると知っておかなければならない。
私は、そのようにして、この七尾教会に着任した。1983年3月末日。不思議だった。その当時、七尾教会がお化け屋敷と言われていたのを知っている。礼拝堂の中もぼろぼろだった。幼稚園のことを聞いて、県の人から言われたのは、「そろそろ建て直しを考えてください」ということだった。なぜそんなことを言われたのかというと、石川県で唯一汲み取り式のトイレだったから。
みんなが一生懸命言っていた。今村先生がいなくなったら、幼稚園は終わりだと思っていた。釜土先生を迎えたということより、今村先生とのお別れで気持ちがひとつだった。外壁はぼろぼろ、草はぼうぼう。
エアコンもなかった。夏は暑く、冬は寒く。作田のおばあちゃんは、献金のおつりを要求した。田村一夫さんに、城山に連れて行かれて、これが七尾ですと。はじめて展望台から七尾を見て、綺麗な町だと思った。そのときに、七尾の町に祝福のお祈りをして、展望台を降りた。この町を、この教会を祝福してください。降りてきて、そのときに幼稚園のことも何も分からなかった。計画も何もなかった。3ヶ月くらいは、何も分からなかった。しかし、一つだけ、そのときに言っていたことがあった。隣の土地は手に入れようと言っていた。「また言っている」で、めげてはいけない。手を置いてお祈りをしてから帰ってください。田村一夫さんは、お祈りをして帰っていた。それが、現実になると信じてはいたが、生きている間にそうなるとは思わなかった。園舎の建築もそう。それから、3年くらい経ったときに、都市計画の図面を手に入れた。この道路計画のときにしかチャンスがないと思っていた。だから、事業が動き出したときに、これは七尾教会が手に入れるべき土地だとすぐに市役所に言えた。市役所の人は聞いていないと言った。そりゃ、そうである。それは、私と神様の話であり、市役所の人が知るはずがない。
ここは七尾教会に売ることになっていた。昨日まで工事していた。信号がつくことになった。だれもそんなことは思っていなかった。この駐車場も、はっきり申し上げるが、私たちの時代に大変いい仕事をさせてもらった。100年、200年先もこの道路はなくならない。だから、これから代々の人は、隣の土地を売ろうと考えなければ、ずっとこの道沿いに教会はある。
◆大いなる業を成す主
わたしたちは、こんなにも小さな群れ、こんなにも力のない群れ、こんなにも財力のない教会である。わたしたちにあったのは、「きっと神様は何とかしてくださる。」ということだけであった。しかし、聖書をよくよく読んでみてほしい。からし種ひとつ粒の信仰から、小さなものが大きくなるという話をしている。大きいものを小さくなって、何かをお与えになる話はない。なぜなら、あなたたちではなく私がするからだ、というのである。
悔い改めと病を治す話で終わったのではない。ナザレの町に留まって、君たち行ってらっしゃいと言ったのではない。「世の終わりまで、いつもあなたたちと共に居る」といわれたのである。小さなものが大きくなることを現実に見るであろう。私たちは見ている、そしてそれを見ている。この教会に交わった多くの人が去っていった。昔、一本杉にあって、この一等地からこの馬出に来たときに多くの反対があった。そのとき教会は割れた。そして礼拝出席者は減った。そんなことがあったとしても、神様はその教会を、ふたたび一等地に出してくださった。私たちは、どんなことをも用いて、善きに変えてくださる父なる神と共に生きている。
そして、その父なる神が何をして下さるかを知っている。私は世の終わりまで、あなたがたと共にいる。ただ御言葉を聞いているだけではなく、成してくださる大いなる業を共に喜び、感謝する道をわたしたちに与えてくださっている。
◆にもかかわらずの信仰
今日、私たちは弟子たちを派遣する箇所を聞く。先週は、主イエスキリストがナザレで受け入れられなかった話を聞いた。生まれ、育ち、共に生きてきたイエス様を人々は知っていた。計算の繰り上がりや繰り下がり、日本語で言えば漢字、書き取り、読み書きを出来なかったときを知っていて、間違いをしていたときを知っていた。そういうことを知っていた人々は、神の御言葉を伝えていたイエス様を見たときに、「よく、言うわ。」と思った。こう書いてある。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」本人を知っているだけではなく、兄弟や親戚のことも知っている。性格や個性も知っている。人々は、こうやってイエス様に躓いた。イエス様のこと、またその家族のことが良く分かっているからこそ躓いた。私たちは、イエス様のことをもっと知りたいと思うかもしれない。イエス様のことをもっと知ることで、どれほど私たちが信仰的に満ちてくるかと思う。しかし、わたしたちよりもはるかにイエス様を知っていた人々が信仰に躓いている。
ローマの信徒への手紙はギリシャ語で書かれている。授業で北森先生からこう言われて安心した。「ギリシャ語をよく勉強しなさい。パウロが言っていることを原文でよく理解できるようになりなさい。しかし、そのときにギリシャが完璧にできたローマの人々が、すべて悔い改めた訳ではない。ギリシャ語がきちんとできることと信仰の問題は違う。」と教えられた。
「だからの信仰」ではなく、「にもかかわらずの信仰」が、私たちの信仰である。イエス様のことがよく分かっている。「だから」この人を神の子と認めるのではなく、知識としてイエス様のことを知っているかどうかと関わりなく、神様が遣わしてくださったこの方が神の子だと知っている。イエス様が地上に来られて、十字架につけられ、弱くこの地上を生きられた「にもかかわらず」神の子として、お立てになった方なのだと知っておきたい。
◆悔い改めの福音
そのイエス様が、付近の村々を歩いて宣べ伝えられた。付近というのは、ナザレの付近である。一本杉のあたりからみると、ちょっと離れて、小島や鍛冶町、石崎くらいまでの付近である。歩いて行くには少し距離があるが、聞いたことがならあるというレベルのところで教え始めた。ナザレとあまり状況は変わらなかったはずである。そのあとに、イエス様が十二弟子をお遣わしになる。それが今日のテキストである。
マルコ6:6b
イエス様は十二弟子を遣わしたが、しばしイエス様はナザレ周辺にとどまられた。何をしていたかは知らない。そのときに、弟子たちにこう言われた。「下着は二枚着てはならない」
与えられたのは、汚れた霊に対する権能であった。旅は素で行けということであった。杖一本だけで、パン持つな、袋も金も持つな。上着がなくなると命に関わる。下着は二枚持って行くな。着の身着のままで行け。あとはすべて主にゆだねよ、これがイエス様の言われたことである。
もうひとつは、「ひとつの町では同じ家にとどまりなさい。」
マルコ12節~13節
この十二人が、出掛けていったのは、「悔い改めさせるため」の宣教であった。「悔い改めさせるため」である。それは、バプテスマのヨハネがやっていた宣教の方法である。
マタイ3:1~12
バプテスマのヨハネが宣べ伝えていたのは、悔い改めに導く御言葉であった。人々が罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
悔い改めにふさわしい実を結べ。悔い改めのバプテスマ。これがヨハネの宣べ伝えていたことであった。そして、イエス様がいま弟子たちを使わしたのは、バプテスマのヨハネと同じメッセージを宣べ伝えることを命じられたのである。
だから、マルコ6:14~のように、イエス様の名が知れ渡り、洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったと言われたのである。ヘロデは、イエス様が悔い改めのメッセージを宣教しだして、ヨハネが生き返ったと思った。いま、イエス様が述べ伝えているのは、悔い改めさせるための宣教であった。これを知っておいてもらいたい。
◆マルコ28章の派遣
牧師は神学校を出るときに、「遣わされる」と言う。それぞれの伝道地に散っていく。先週も教区総会があったが、そこで伝道師の准任式があった。石川県では、小松教会に来た松下保真先生などが受けた。今日の聖書箇所では、悔い改めの福音のために、遣わされたのである。多くの牧師が遣わされていくときに、こちらで覚えてしまう。悔い改めの福音なので、「あなたたちは間違っている」などと言いかねない。そういう若い牧師を見ると、ナザレから遣わされた十二弟子だなと思う。これは、イエスキリストの十字架と復活前なのである。このメッセージは、十字架より前の宣教なのである。
マタイ28:16~
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
これが、復活の主が命じられた派遣である。私たちはこちらで派遣されなければいけない。そういう牧者が派遣される。この言葉も大事だが、その前に、もっと大事なことがある。それは、ひれ伏したということである。イエスにひれ伏した。しかし、疑う者もいた。マルコ6章では、だれもひれ伏していない。悔い改めの福音を宣べ伝えているだけである。この復活の主の前でひれ伏しているのである。あのマルコ6章は、人間イエスから派遣された弟子たち。マタイ28章は、神の子、しかも十字架につけられ復活された神の子、神ご自身からの派遣として描かれている。ひれ伏すとは、神に対してのみなされる。その派遣の命令のときに、「すべての民を私の弟子にしなさい」と言われる。
◆神の前での冷静な心
イエスキリストのことをよく知っている11人の弟子の中に疑うものもいたというのは、すばらしいではないか。復活の主が現れて、ひれ伏しながらも心の中は、「ほんとかな~」と思っている。これが、この教会に似ている。この方が神の子である、アーメンと言いながら、ふっと「大丈夫かなぁ」と思っている。そう、それは最初からそうであった。私たちがマインドコントロールにかかっているのではなく、冷静に疑う心を神はお許しになっている。私たちはそれほど、神の前で、誠実で冷静でよい、自分の心をしっかり持っていてよい。このことは、ぜひとも、知っていたい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、わたしたちが努めなければならないのは、弟子にすることである。バプテスマによって。「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という命令、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして父なる神を愛しなさい」という命令をしっかり守るように、教えろということである。
◆七尾教会が見た奇跡
もうひとつ、マルコ6章では、イエス様は、ナザレの村で留まった。しかし、復活の主は、私は世の終わりまで、あなたがたと共に居るとおっしゃる。マルコ6章で牧者が派遣されていると派遣されているのではなく、マタイ28章で派遣されていると知っておかなければならない。
私は、そのようにして、この七尾教会に着任した。1983年3月末日。不思議だった。その当時、七尾教会がお化け屋敷と言われていたのを知っている。礼拝堂の中もぼろぼろだった。幼稚園のことを聞いて、県の人から言われたのは、「そろそろ建て直しを考えてください」ということだった。なぜそんなことを言われたのかというと、石川県で唯一汲み取り式のトイレだったから。
みんなが一生懸命言っていた。今村先生がいなくなったら、幼稚園は終わりだと思っていた。釜土先生を迎えたということより、今村先生とのお別れで気持ちがひとつだった。外壁はぼろぼろ、草はぼうぼう。
エアコンもなかった。夏は暑く、冬は寒く。作田のおばあちゃんは、献金のおつりを要求した。田村一夫さんに、城山に連れて行かれて、これが七尾ですと。はじめて展望台から七尾を見て、綺麗な町だと思った。そのときに、七尾の町に祝福のお祈りをして、展望台を降りた。この町を、この教会を祝福してください。降りてきて、そのときに幼稚園のことも何も分からなかった。計画も何もなかった。3ヶ月くらいは、何も分からなかった。しかし、一つだけ、そのときに言っていたことがあった。隣の土地は手に入れようと言っていた。「また言っている」で、めげてはいけない。手を置いてお祈りをしてから帰ってください。田村一夫さんは、お祈りをして帰っていた。それが、現実になると信じてはいたが、生きている間にそうなるとは思わなかった。園舎の建築もそう。それから、3年くらい経ったときに、都市計画の図面を手に入れた。この道路計画のときにしかチャンスがないと思っていた。だから、事業が動き出したときに、これは七尾教会が手に入れるべき土地だとすぐに市役所に言えた。市役所の人は聞いていないと言った。そりゃ、そうである。それは、私と神様の話であり、市役所の人が知るはずがない。
ここは七尾教会に売ることになっていた。昨日まで工事していた。信号がつくことになった。だれもそんなことは思っていなかった。この駐車場も、はっきり申し上げるが、私たちの時代に大変いい仕事をさせてもらった。100年、200年先もこの道路はなくならない。だから、これから代々の人は、隣の土地を売ろうと考えなければ、ずっとこの道沿いに教会はある。
◆大いなる業を成す主
わたしたちは、こんなにも小さな群れ、こんなにも力のない群れ、こんなにも財力のない教会である。わたしたちにあったのは、「きっと神様は何とかしてくださる。」ということだけであった。しかし、聖書をよくよく読んでみてほしい。からし種ひとつ粒の信仰から、小さなものが大きくなるという話をしている。大きいものを小さくなって、何かをお与えになる話はない。なぜなら、あなたたちではなく私がするからだ、というのである。
悔い改めと病を治す話で終わったのではない。ナザレの町に留まって、君たち行ってらっしゃいと言ったのではない。「世の終わりまで、いつもあなたたちと共に居る」といわれたのである。小さなものが大きくなることを現実に見るであろう。私たちは見ている、そしてそれを見ている。この教会に交わった多くの人が去っていった。昔、一本杉にあって、この一等地からこの馬出に来たときに多くの反対があった。そのとき教会は割れた。そして礼拝出席者は減った。そんなことがあったとしても、神様はその教会を、ふたたび一等地に出してくださった。私たちは、どんなことをも用いて、善きに変えてくださる父なる神と共に生きている。
そして、その父なる神が何をして下さるかを知っている。私は世の終わりまで、あなたがたと共にいる。ただ御言葉を聞いているだけではなく、成してくださる大いなる業を共に喜び、感謝する道をわたしたちに与えてくださっている。