日本基督教団 七尾教会

能登半島にたてられた七尾教会の日々です

バプテスマのヨハネ

2005年07月31日 | 主日礼拝
2005年7月31日
釜土達雄 牧師
マルコによる福音書1:1~8

◆マルコによる福音書
 前回までの3回は、たった1節に絞って、私たちは御言葉に耳を傾けてきた。繰り返しになるが、このマルコによる福音書は基本中の基本である。このマルコによる福音書を土台として、主にギリシャの人々にあてて書かれたマタイによる福音書、医者ルカによって主にローマの人々にあてて書かれたルカによる福音書と共に、共観福音書という。
このマルコによる福音書には特徴があった。イエスキリストの生涯というと必ず出てくるクリスマスの物語がない。また、キリスト教信仰の基本となっている復活の記述がない。その紙面の大部分を最後の1週間に割いている。1/3をあてている。キリストの最後の一週間が、福音の基本であると、懇切丁寧に記してある福音書である。山上の説教もほとんど記されていない。マルコは、多くの人々が知っているであろう出来事について、ほんの少しずつ触るだけであった。こういうことがあった。あなたは知っているでしょう。あなたも、このようなことを知っているでしょう。そのイエスが、最後にこのように十字架につけられていくということを記しているのである。

◆洗礼者ヨハネ
今日の説教題は、「バプテスマのヨハネ」である。聖書には昔から表題がついていた。今日のところには、「洗礼者ヨハネ、教えを述べる」という表題がついている。そして、4節にいきなりヨハネの名前が出てくる。はじめて、聖書を開く人にとっては、「洗礼者ヨハネ」は、どんな人かと思うだろう。わずかな文章の中で、ヨハネのイメージを膨らまそうとする。マルコは、このヨハネについて多くを記していない。「あなたは、この人を知っているでしょう。」という形で扱っている。来週、このヨハネについて掘り下げていきたい。ヨハネの語った中身について耳を傾けていく。
ヨハネがどのような人物かについて、詳しく話す時間もないため、ぜひ、興味のある人は、ルカによる福音書の1:1からを読んでいただきたい。クリスマス物語が登場する。天使ガブリエルのマリアへのメッセージ、あの有名なマリアの賛歌、イエスさまが馬小屋で生まれた話が、羊飼いたちにイエスの誕生が伝えられる話。これらの話が1~2章に丁寧に出てくる。クリスマス物語はとても有名である。聖書のことをまったく知らない人たちも、この話しについて耳にすることがある。しかし、1章から3章に至るまでにバプテスマのヨハネの話が挿入されている。
タイトルだけを見ていくと、1章5節からの物語には「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」とある。ザカリアとエリザベツの夫婦には子どもがいなかった。当時、子どものいない人物は救いからもれていた。しかし、彼は自分が救いからもれているにも関わらず、イスラエル全体の救いを祈らなければならなかった。そこに、子どもが生まれるメッセージが届く。
マリアは、バプテスマのヨハネの母となるエリザベトを訪ねる。1章39節「マリア、エリザベトを訪ねる」とある。ザカリアとマリアは親戚だった。そして、1章57節以下、バプテスマのヨハネが誕生する。そして、3章1節以下、バプテスマのヨハネが教えを述べ伝える。
その内容について、マルコは「ヨハネについては、あなたも知っていますよね」という形で、詳しく記述していない。みんなが知っていることについては、あえて問わない。むしろ、マルコ1章1~8節で記したいことは、バプテスマのヨハネのことを知ってますよね、といううことよりも、次のようなことであった。
1章の2節「預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、・・・その道筋をまっすぐにせよ。」
今日、御言葉として取り次ぎたいことは2つある。ひとつ目は、神様のご計画というのは、私たちが思うよりもはるかに前からあるということ。2つめは、イエスキリストがおいでになるまえに、イエスキリストのために備えをする役割を与えられた人々がいたということである。これを知っていていただきたい。聖書で一番有名なのは、誰もが知っているとおり、イエスキリストである。今日の聖書で聞くのは、そのまえにバプテスマのヨハネがいたということである。

◆逆転の発想
 聖書を読むときに、私と神様の関係、私と聖書の関係など、「私」を中心にして聖書を読んでいくものである。いつでも「私」を中心に福音を聞こうとする。神様が私たちを救ってくださるといっても、自分の救いのことを考える。神様を考えるときも、「私」にとって神様はどんな方かということを考える。それは、悪いことではない。しかし、そう考えている限り、聖書は分からない。ある時点で、逆転の発想で「神様」にとって、私はどのような存在か、「神様」はなぜ、私に命をおあたえになったかと、考えるときがなければいけない。
 例えとしてふさわしいかどうかは分からないが、6月から、七尾幼稚園には多くの実習生が来た。そういうときに、幼稚園のプロの教師と、実習生との間に決定的な違いが存在する。違いがあるがゆえに、頭の発想を変えてもらうように訓練する。実習生に打ち合わせのときに、何を言っているかというと、「あなたたちのために、子どもたちがいるのではありません。子どもたちのために、幼稚園教師がいるのです。」ということだ。
 あなたたちがかわいいと思うために子どもがいるのではありません。この話をするのが、大変なのである。北陸学院の菅原先生という助教授が、こういうことはしっかり教えておいてくださいと言う。1年生の頃には、かわいいと言っていただけなので、それが仕事をするようになるだけで、成果だという。本人が発想を変えてもらわないと絶対に分からない。
おととい、昨日は幼稚園のお泊り会であった。発想が変わると分からないことがたくさんある。昨日の朝、小丸山公園に行った。利家とまつの像があったので、私は子どもたちに説明をした。「ここにいらっしゃるのは、利家さんです。横にいるのはまつさん。むかし、ここにお城をつくった人で、とっても偉いんです。」
すると、Aちゃんが、「なんか悪いことしたん?もう、戻れんがん?どうしてこんな形になったん?王子様が来んとだめなん?」と聞く。大人は偉くなると銅像になると思っていたが、子どもは悪いことをして魔法が解けないと思っていた。石にされる前田利家。これは発想の転換をしなければ、理解できない。発想はいつも同じところにいると、何も分からない。自分のために幼稚園の子どもたちがいると思っている限り、どんなに努力しても、見抜かれてしまう。子どもだけでなく、お母さんも分かってしまう。
 信仰もそうである。聖書もそうである。私は最初から命を持っていて、世の中に八百万の神様がいて、その中にキリスト教の神様もいる。人生を生きていくときに、どの神様がいいかを考えて、神様が何を言っているか聞いてやろうという姿勢では、神様は自分の下になってしまう。その方を全能の神、命をお創りになった神とは、絶対に思えない。自分は聖書を読む力がある。聖書が何を言っているか、聞いてやろうその考え方では、聖書の前で真剣に神の御言葉に耳を傾けるという姿勢にはならない。

◆神様があなたを選んだ
私たちは洗礼を受けるときに、洗礼のあとにお祈りをする。昔からだいたい決まったお祈りがあり、私が使う式文の中にもこう残っている。
恵み深い父なる神よ、あなたは、ひとり子われらの主イエスキリストの贖いによって、私たちを罪より救ってくださったことを感謝します。あなたは、いま御前に立つ兄弟姉妹を、そのまだ生まれない先から選び、いまここにあなたと教会との前に信仰を告白し、御名に加え、教会の枝をしてくださったことを感謝します。
 こういう一文がある。「そのまだ生まれない先から選んでくださった」これは、教会が洗礼を受けた人々に、祈ってきた言葉である。洗礼を受けようとする人は、自分で神様を選んだつもりになっている。あなたが神様を選んだのではなく、神様があなたを選んだということを繰り返し学ぶのである。そう知っていないと、何も分からない。神様は、あなたたちを救いたいと思って、わざわざイエス様を十字架におつけになった。だから、私は偉いと思っている限り、さばかれるだろう。そうではなく、私たちがどれほど神様の御前で罪深い存在で、その私の身代わりをなってくださって、イエス様が十字架につけられたと知っている。似ているようだが、ぜんぜん違う。
 子どもたちのために、私がいると考えるか。私のために、子どもたちがいると考えるか。同じように保育の現場にいるが、発想が違うと、保育がぜんぜん違う。
 同じように礼拝堂に集い、神様を賛美する讃美歌を歌い、祈っていても、私のために神様がいると思う人と、神様のために私がいると考えるか。二人の中身はまるで違う。
 マルコは、イエスキリストの誕生前に、はるか前に、神様がこの地上にご計画を立てていたと語る。私たちが生まれる前から、神様は救いの業をなしておられたと語る。あなたたちに命を与えたのは、神であって、あなたたちが神を選ぶのではない。
よその神様の話を聞いて、ここもいいな、と思う。違う。神様は、そういうふうにどれでも自由に選びなさいと言っているのではない。「私は神である。私はあなたを創った。」
富士山の頂上に行く道は、たくさんあるが、富士山の頂上に行こうと思って、白山だったらどうするのか、という話がある。しかし、富士山に自分たちが登っていくと考えるのが間違い。聖書が語っているのは、神様が地上に降りてきてくださった。クリスマスである。神様のご計画は、私たちの生まれるはるか前から、この旧約聖書という形で営々と語り続けられている。

◆壮大な歴史にみる神のご計画
 キリストが生まれる前に、その役割を与えられた人々がいた。直前には、バプテスマのヨハネ。イエスキリストを身ごもって育てていたマリアという人物がいた。マリアが食事をできるように、子育てができるように、船大工として仕事をしていたヨセフがいた。彼らを支えていた親族がいた。彼らがイスラエルという国でアダムとエバの物語からはじまる壮大な聖書の歴史がある。あるときに、いきなりイエスが生まれたのではない。イエスという人物が、悟りを開いてキリスト教を始めたなどとは、とんでもない。壮大な歴史があるのだ。それが聖書である。

◆主から遣わされる私たち
そして今、主イエスキリストが十字架につけられて、復活して神の国に帰る。再びこの地上に来るという約束を聞いている。それを待ち望んでいる群れがいる。それが、私たちである。私たちは、イエスキリストにぶらさがって生きているのではない。地の塩、世の光として、この地上に遣わされているのである。だから、ミッションと言う。何をするために遣わされているのか。それぞれの持ち場立場に遣わされていくときに、その会社、その家族を自分のために利用するのか。その会社、その家族のために仕えていくのか。私たちの使命なのである。神様が私たちに仕えてくださったように、私たちもそれぞれの場所で仕える者として、遣わされていく。
 バプテスマのヨハネは、主イエスキリストのために、その道を備えるものとして、遣わされたのである。私たちも、主イエスキリストの名によって遣わされるキリスト者なのであるから、その道を備えるものとして、この礼拝堂から押し出されていきたい。
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福音のはじめ

2005年07月24日 | 主日礼拝
2005年7月24日
釜土達雄 牧師
マルコによる福音書1:1~8

◆福音とは
 同じ聖書の御言葉で3回目の取次ぎである。マルコによる福音書の1章1節以下に、その福音の最初が記されている。おさらいをしておきたい。4つの福音書の中で最初に書かれた福音書である。このマルコが基本となって、もっぱらユダヤ人のために記されたマタイによる福音書。また医者ルカは、テオピロに宛てて、マルコを基本として自らの資料を加えて、報告書として取りまとめた。それがルカによる福音書である。ヨハネによる福音書は、独自に自らの持っている資料で一気に書き上げられた。ヨハネ教団という独特のグループが作り上げた。
 マタイ、マルコ、ルカは、共観福音書と呼ばれる。聖書がこのような形で編纂される中で、ヨハネによる福音書は、非常に悩んで、最後に加えられた。したがって、聖書の中でもっともオーソドックスな福音書は、マルコによる福音書なのである。
 マルコによる福音書をしっかりと読み、福音に耳を傾けようとするとき、これは聖書の土台である福音書、福音書中の福音書であるということを覚えておきたい。マルコによる福音書には、クリスマスの物語もイースターの物語も存在していない。福音書には、何が記されているのか。福音とは何か。多くの若者が、辞書を引かずにインターネットで調べる。インターネットの大字泉で「福音」とくると、1番目には、「喜びを伝える知らせ。良いたより」と書かれている。福音とは良い便りなのである。悪い話、悲しい話ではなく、喜びを知らせる話である。この福音書を読んで、悲しい思いをしたり、暗くなっては困るのである。
 2番目には、「イエスキリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ。また、福音書に記されているキリストの生涯と教え」と書かれている。

◆十字架にみる福音とは
 マルコによる福音書は、まさにイエスキリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせが書いてある。基督教用語辞典ではなく、一般的な辞書に、こう書いてある。
 それにも関わらず、マルコによる福音書には、クリスマスの物語、イースターの物語がない。そして全体の1/3である11章から16章は、イエスキリストの最後の1週間が描かれている。ポンテオピラトによって判決を受け、十字架につけられていく。イエス様が殺されていく中身なのである。十字架につけられて、死んでいくのを最後まで見届けて、この福音書は終わる。イエスキリストの十字架の死によって、マルコによる福音書に、喜びを伝える良いたよりがあるのか。何ゆえ、人々は十字架の死に、人類の救い、神の国に関する喜ばしい知らせを見たのか。
 我々は、マルコによる福音書を読む上で、あの百人隊長に目を留めてきた。イエスの死が、何ゆえに「福音」となりえるのか。それをイエスの十字架を最初から最後まで見届けなければならなかった百人隊長のこの言葉にすべてを集約させている。
マルコ15章33節~「本当にこの人は、神の子だった」
神の子が、十字架上で神から見捨てられている。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」全能の神の子キリストが、神から見捨てられる地獄の苦しみを味わい、本来、私たちが味わうべき神の裁きを受けている。キリストが私たちの身代わりになってくださった。だから、福音なのである。
今日は、CSの説教で「さばくのは分かる。うちのじいちゃんも魚をさばく」と子どもたちが言っていて笑ってしまった。魚を料理しているのと、裁くのとは違う。人間が魚のように、さばかれたらおかしい。しかし、そういう言葉の遊びの中から覚えていってくれるのはよい。
裁かれるということによって、人々が何かを見出したのではない。福音とは、神様から裁かれるから、良い子になろうというのではない。神様から裁かれる神の子を見ていたのである。だから、イエスキリストによる人類の救いなのである。百人隊長の「本当にこの人は、神の子だった」と言った時に、もはや、私たちが地獄に行かなくても良い。福音は、十字架を見据えていったときに、はじめて生まれるのである。

◆福音のはじめ
今日、注目するのは、「はじめ」という言葉である。まさに、それはバプテスマのヨハネに照準が当てられている。イエスキリストの十字架にいたる前には、道を整えるものが存在するのである。そして、イエス様が現れ、十字架向かって生涯を歩まれる。その福音のはじめとして、世界中に御言葉を述べ伝えるものが遣わされていった。ヨーロッパにつたわり、アジアにつたわり、時を得て、この日本にもやってきた。この七尾の地にも、福音に預かる人々の群れとして教会がたてられた。そして、この福音の群れは、それぞれの立場に遣わされている。神の民として、地の塩、世の光として生きている。

◆キリストによる自由と平等
自由・平等・博愛。これは、現代社会の基本原則である。この3つは、福音書が土台となっている。出エジプトの出来事から、聖書は「自由」とは何かを語り続けている。神ではないものを神とし続けていた者にとって、神を神とすることによって、その他のものから解き放たれる「自由」である。神の絶対化がないと、様々なものが神になってくる。人の言ったこと、お金など、様々なものに心が奪われる。迷ったところに出てくる信仰を迷信というのである。コマーシャルなどは、そうである。トイレがさわやかになっても、家族の関係はそうそう変わらない。一つ一つのものが解決していくと、すべてが解決するように描かれる。神を神としないと、相対化されてしまう。
「誰も見ていなくても神様が見ている」ということを知っている、子どもたちの小さな社会のほうが、よっぽど自由である。すべては神の前では平等であるということから「自由」が出てきた。神の前で、平等に扱われる。神の愛、救われるというメッセージを等しく与えていただいたのではなかったか。もちろん、それぞれに与えられた得意な分野はある。しかし、神様から愛されるということについては、等しいのである。

◆愛以貫是、御心に従う
昔のクリスチャンの家には、掛け軸に「愛をもってこれを貫く」と書いてあった。これは明治のクリスチャンが大事にした言葉である。カチンとしたときに、一瞬「愛を持ってこれを貫く」という言葉を頭に浮かべてから、思いっきり叱る。愛がベースになかったら、意味がないと思うのか、好きだからやっているのか。使命だと考えるのか、好きだからと考えるのか。
 神の目から見て、正しいことなのか。神様がせよとおっしゃっていることなのか。いつも、神の目をしっかりと見据えているときに「愛を持ってこれを貫く」という言葉が響く。なぜか。イエス様が十字架にいたるまでに従順であったために、私たちもそれに習うのである。
 ゲツセマネで祈るイエス様。いつも祈りながら、神の御心なのかどうかをたずねていた。自分の思いではなく、神の御心をたずねていきながら、たどり着いたのが十字架であった。
 福音は、十字架で終わったのではなく、それぞれの持ち場、立場に散らされたときに、我々が、福音のはじめを担っている。私たちがキリスト者であるということは、地の塩・世の光、キリストの香りとして、博愛を生き様としていくことである。それが現代社会の生き様になった。われわれは、このことを誇りに思わなければならないし、マルコのささやかな言葉を通して、世界に神の愛を広げていったことを覚えておきたい。
 日本の高校生が世界史で学ぶことの半分は、キリストの世界が、どのように広がって行ったかという内容である。
 この福音が世界をつくっているのである。
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本日、長老研修会

2005年07月18日 | 教会の行事
今日は、金沢教会で北陸連合長老会の第1回長老研修会が行われています。
小堀先生を講師に「長老教会とは何か」をテーマに研修をしています。
釜土先生、池口長老、森山長老、釜土蘭子執事が出席しています。
項目だけご紹介

1.北陸連合長老会が目指すもの
1-1 一つの教会として
①信仰告白に結ばれて
②一つの秩序
③各個教会への支援と指導
④開拓伝道

2.長老教会の特質
2-1)教会の統治
①教会とは何か
②教会における権威
③長老の聖書的根拠
2-2)長老教会の歴史的系譜
①スイス→ヨーロッパ・イギリス→アメリカ
②日本基督公会→日本一致教会→日本基督教会→日本基督教団・連合長老会

この研修会は、3年間6回シリーズで、「北陸連合長老会の長老・長老会の常識」を形成することを目指して今後も開催される予定です。
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私たちのなすべき礼拝

2005年07月17日 | 主日礼拝
ローマの信徒への手紙 第12章1節~2節
堀岡啓信牧師(北陸学院中学・高校校長)

◆神から与えられる使命
 私が今働いております北陸学院では、先頃【全学宣言】というのをいたしました。【Realize your Mission】日本語では「あなたの使命を実現しよう」という宣言です。テレビや新聞などを用いて、北陸学院全体で一つの宣言をしたのです。
Missionと言えば、県内では北陸学院の愛称になっていますが、本来の意味は「使命」です。【Realize your Mission】「あなたの使命を実現しよう!」北陸学院に学ぶ生徒たち一人ひとりには、神様から尊い使命が与えられている、私たちはそう信じて教育に当たることを宣言したわけです。しかも、その場合、尊い使命と申しましても、何か大事業を成功させることだけを言うのではありません。使命という字は「命」を「使う」と書きますが、神様から与えられた自分の命を何のために使うか、それが使命だと思います。ですから、悩んでいる友のために自分の命の一時間を使う、それも立派な使命に生きる姿だと思うのです。
【Realize your Mission】「あなたの使命を実現しよう」この呼びかけはまた、学校の生徒たちにだけ向けられた呼びかけではないと私は思っています。正に、今朝、この礼拝に集ってきた私たち一人ひとりに向かっても語られている呼びかけだということです。主イエスは、ぶどう園で働く労働者の喩えをお語りになったことがありました。主人が、ぶどう園で働く労働者を、一日につき一デナリオンという労賃で雇う話です。九時頃から働き始めた者、十二時頃から働き始めた者、三時頃からの者、そして最後に夕刻の五時頃から働き始めた者。しかし、何と驚いたことに、労賃はすべて一律一デナリオンであったという話です。神様に雇われて、神様のぶどう園で働く。そこには、早くに働き始めた者もいれば、遅くになっての者もいるのです。若い時期に雇われた者もいれば、年が寄ってからの者もいるのです。神様から与えられたこの自分の命を何のために使うのか。それは、神様に雇っていただいた者としてどのように生きていくのかという課題です。そこに、早い遅いはありません。

◆自分自身を献げる
 今朝の聖書の御言葉、使徒パウロがローマの教会の兄弟姉妹たちに宛てて書いた手紙。その第12章の冒頭です。パウロは、教会に生きる仲間たちに向かって、こう語りかけます。
 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。
ここで「自分の体」とは、心と体を区別して心ではなく体を、という意味ではありません。心も体もひっくるめた「自分の全存在」という意味です。私たちは、毎日毎日、自分の体を用いて生きています。その具体的な生活全体のことを、この「自分の体を」という言葉は含んでいるのです。ですから、「自分の体を献げなさい」との御言葉は「自分の日常生活の全体を献げなさい」ということです。「家庭生活全体を」「社会生活全体を」とも受け止めることができます。
 先程「自分の使命を実現しよう」との呼びかけをご紹介しましたが、パウロによれば、自分の使命に生きようとするならば、あなたがたには第一になすべきことがあるということです。「自分の全存在を神様に献げること。」それが、第一のことです。
私自身、この「自分自身を神様に献げる」という問題をずっと考え続けてきた面があります。聖書の中に「自分を神に献げよ」という御言葉があることには以前から気が付いていたのです。けれども、心のどこかで、この御言葉を避けると言いますか、真正面から受け取らないようにしていた自分が長くいたように思うのです。そしてこのことは私一人のことに留まらず、日本のキリスト者全体の課題でもあろうと思います。「サンデークリスチャン」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。日曜日だけクリスチャンで、月曜から土曜までは別人のようになって生活しているという意味がこの言葉には込められているようです。信仰と生き方とが分離してしまっているという問題もあります。礼拝と生活との分離と言っても良いでしょう。そういった、問題の根底には、今朝の聖書が語る「献げ」の問題があると私は思っています。今朝のローマ書12章1節の御言葉が、真実に聞き届けていない問題・課題が日本の教会にはあるのではないでしょうか。

◆命は神の手の中にあり
 そこで、改めて、今朝の御言葉の冒頭に注目したいのです。「こういうわけで」そうパウロは語り始めています。「こういうわけで!」それは、これまで語ってきたことをすべてを受けての「こういうわけで」ということでしょう。即ち、パウロは、神御自身が御子イエス・キリストを十字架にお遣わしになって、私たちを神の御前に義として下さった。その福音を語り続けてきたのです。
 そして今朝私は、このパウロの「こういうわけで」と共に、主イエスの「だから」との御言葉をご一緒に聴きたく思っております。主イエスは、あの山上の説教において主の祈りを教えてくださる際にこう言われたのです。
だから、こう祈りなさい。
  天におられるわたしたちの父よ
  御名が崇められますように。(マタイ6・9)
この主がなさった山上の説教をしっかり聞き届けようとする時に、鍵になる言葉が「あなたがたの天の父」との御言葉です。主は、集まった弟子たち、群集に向かって、何度も繰り返して「あなたがたの天の父は」と語りかけられました。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収穫物を納めもしない。しかし、あなたがたの天の父は鳥たちを養ってくださる。あなたがたは知っているか。野に咲く花がどのように育つかを。良く注意して見てみなさい。野の花は、働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたの天の父がこのように美しく花を装っていて下さる。それが、あなたがたの天の父なのだ。そして、主は言われたのです。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と。「まして、あなたがたにはなおさら装ってくださる」と。
 主イエスが、天の父を指し示しながら語られた山上の説教。その急所は、あなたがたの命の責任者は天の父なる神である、ということです。あなたがた以上に、あなたがたの命のことで配慮しておられる方がおられる。あなたがたの命を日々養っていてくださる天の父がおられる。あなたがたの命はもう既に天の父のものなのだ。その恵みの御手の中に、あなたがたの命はもう治められているのだ。その天の父は、あなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。「だから、こう祈りなさい。」主はそう言われたのです。あなたがたは自分の命のことでもはや思い悩む必要は無い。あなたがたの命は天の父によって支えられ、保たれている。否、あなたがたの命のすべては、もはや天の父の御手の中にあるのだ。「だから、こう祈りなさい。私たちの天の父よ、御名が崇められますように。」
 私は、主が仰られた「だから、こう祈りなさい」の「だから」との御言葉は、パウロが語る「こういうわけで」との言葉に重なってくるなと思いました。パウロが、自分の体を神に献げなさい」と勧める時、私たちは「こういうわけで」というパウロの言葉を聞き逃すわけに行かないのです。
 この手紙は第12章から新しい区分に入ると言われます。12章以下は、実践的な生き方を勧めていると良く説明されるのです。そして、この12章に至るまでのところで、パウロは、神様の怒りの下に置かれた罪ある人間のことを語りました。その神の怒りの下にある人間が、キリストの贖いの血によって罪赦され義とされる。その大いなる救いの出来事をパウロは宣言するのです。それが、8章までに語られた中心メッセージです。そして、9章から11章のところでは、その救いの出来事を包み込んでいる神様の壮大なご計画の中で神の民全体の救いを語ります。そして、第11章の最後、神の憐れみの勝利が宣言されました。罪人の罪を赦す神の深い憐れみに心を動かされつつ、その救いの神に対する賛美を歌うことによって締めくくられたのです。それを受けて、今朝の12章冒頭で「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と語り始めました。罪人にすぎぬ私たちが、イエス・キリストの義の衣を着せ掛けられて、今や、神のものとされ、神様の御前に真っ直ぐ立つことがゆるされたのです。

◆神様のものとされる
パウロは言います。
こういうわけで、兄弟たち、姉妹たち、
神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。
 ここで「聖なる」とは「行いや人柄が清らかだ」という意味ではありません。「神様のものとされている」という意味です。神様が、御自分のご計画のために、特別に他から区別された、それが「聖なる」です。そして、更に「献げなさい!」これは本来の意味からいえば「神様の側に置きなさい」です。
 北陸学院の創設者の一人は、「メリー・ヘッセル」という女性です。ヘッセルはアメリカのキリスト者であり、信徒であった方ですが、志与えられて日本にやってきました。当時、日本への船旅は二十日間以上もかかったと言われます。命の危険を覚悟しなければならない面もあったようです。ヘッセルは「北陸に女子教育を」との使命を体現して、北陸学院の基礎を据えるべく、文字通り身を粉にして働きました。しかし、彼女は年若くして病を得てしまいます。本意ではありませんでしたが、やむなくアメリカに帰国。治療を受け、療養します。医師からは「日本に帰れば、また病気が悪くなるに決まっている。日本の気候はあなたの身体に合わない」と告げられる。けれどもヘッセルは「金沢に帰りたい」を繰り返し、「O Dear Kanazawa!」「愛する金沢よ」が口癖だったと言います。いつも金沢の話をしては「O Dear Kanazawa! 」「愛する金沢よ」が口癖になる程に金沢を愛し、心に留めていたのです。そして、遂に病癒えず、ヘッセルは天の父の下に召されました。41歳でした。
 北陸の湿った気候はヘッセルの身体に合わないものでした。ですから、人々の目には、金沢に居続けるヘッセルの姿は愚かと映ったかもしれません。しかし、ヘッセル女史はキリストから頂いた使命に生きたまでのことです。そして、最後彼女は、天の父の下に自分の体を置いたのです。――私たちも、キリストによって結び合わされた兄弟姉妹として、この北陸の地でキリストの香りを放つ者とされています。「天の父よ、御名が崇められますように」と祈りつつ、私たちはそれぞれの生活の場に遣わされて行くのです。そして、そこで祈るのです。「御国が来ますように」と。御国それは神のご支配です。「天の父よ、あなたの恵みのご支配がここに来ますように、そのためにこの私を用いて下さい。」そう祈りつつ、自らを献げて生きるのです。世に倣うのではなく、キリストに倣って、神の御心が地上に行われることのみを祈り求めるのです。神様が喜んでくださることをこの自分も行わせていただける、その喜びを胸に生きるのです。そこには、自らの罪との戦い、神のご支配に抗う世の様々な抵抗が必ず起ってきます。主よ、神の国が遍く実現するのは一体何時なのですか。その嘆きを味わうこともあります。しかし、そういう私たちに主キリストは言われるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。

◆主から遣わされる
 冒頭に【mission】という言葉をご紹介しました。私は、学生であった時に、ロマ・カトリック教会の神父養成の学校を訪れる機会がありました。その時に教わったのですが【mission】と【missile】は同じ仲間も言葉なのだそうです。つまり、【mission】の頭の「miss」と【missile】の頭の「miss」は同じ接頭辞なのだと言うのです。どういう意味か。この「miss」はA地点からB地点へと飛んでいくことを意味している、と言うのです。そう言えば、ミサイルというのは、正にA地点からB地点に飛んでいくものです。それと同じように、ミッションというのもA地点からB地点に派遣されて行く、そういう意味なのだというのです。
 更に、興味深いことには、カトリックでは聖餐のことをミサと言っていますが、ミサという言葉もミッションやミサイルと同じ仲間だと言うのです。【Missa(ラテン語)】ミサ! 主イエスの血に与り、主イエスの体に与る、即ち、主イエスが生きておられる永遠の命そのものに与る。それが聖餐です。この聖餐に与った者は、主によって、それぞれの生活の場へと、それぞれの家庭生活・社会生活の場へと派遣されていく。主が派遣される。否、主が共に行って下さるのです。
正に、メリー・ヘッセルはアメリカから遠くこの北陸の地に、主キリストによって派遣されてきた人でありました。
 今朝、私たちもまた、それぞれの生活の場へと、主によって、主と共に行くのです。この主と共に生きることこそ、本当の【Realize your mission】「あなたの使命を実現しよう」なのです。
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堀岡先生がいっらっしゃいました

2005年07月16日 | 教会の行事
7月17日は、釜土先生が小松教会での奉仕となりますので、
七尾教会の主日礼拝は、北陸学院の堀岡先生がご奉仕くださいました。
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命の光りを持つ

2005年07月10日 | 主日礼拝
05/07/10
七尾教会説教 能登圏デー交換講壇
 ヨハネによる福音書8:11-20

◆生活の中で必要不可欠な光
 本日は能登圏デーの交換講壇で、七尾教会の敬愛する兄弟姉妹方とともに礼拝を守ることが赦され感謝いたします。
 私達の生活の中には、必ず「光り」があります。暮らしのなかに、一日の生活の中で特に夜には、「光り」がなければ、何ひとつできません。
また、私達の心のなかにも「光り」がなければ、希望も断たれ、明るい未来を期待して待つというようなこともないでしょう。あかあかとした、派手で華やかな光りでなくてもよいのです。優しい光り、一筋の光りです。
光りと聞いて、私達がイメージするのは、どのような言葉でしょうか。
「太陽の光り」「星の光り」「春の光り」「灯台の光り」「光り輝く人生」など・・・。さまざまなものがあります。どれも、明るく、私達の心を、前向きな気持ちにさせてくれる言葉です。現代の人ならば、ここで「光りケーブル」や「光りモノ」という言葉をイメージするのでしょうか。
私達はまた、暗い夜道に、街灯の光りがともっていると、それだけで、暗い帰り道、ほっとした心地で帰路につくことができます。また、明るい家庭には家の中に明るい蛍光灯の光りが点っていて、生活に安心感をもたらします。そのようはものは、光りというよりもむしろ、明かりといった方がよいかのかもしれません。
 動物や植物などの生き物にとっても、光りは重要な存在です。日陰に適した花や植物もありますが、むしろ太陽の光を浴びて光合成をしながら成長していく植物がほとんどです。暗黒の中に成長する花や植物など、ほとんどないといってよいのではないでしょうか。光りは、それほどに私達にとって大切なものであり、必要不可欠な存在である、ということが分かります。

◆聖書における光
 聖書における光りは、創世記の混沌の世界、暗黒に対するものであり、私達を導くものとして書かれています。
詩編119篇には、神の言葉を光りとして、次のように書かれています。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」
御言葉の光りによって、人生の道のりが照らし出され明るい光りの中を歩むことができるからです。
聖書の中には、「光りの中を歩みなさい」ということが、ヨハネによる福音書12章35節~36節にはこう書かれています。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。」「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
そこで、今朝私達は主イエスが述べられた、次の言葉に注目をしてみたいと思います。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
主イエスご自身が、「私は世の光りである」と述べられています。しかし、よく考えてみますと、聖書のなかの他の福音書においては「あなたがたは世の光りである」というように、告げられてもいるのです。矛盾しているように思います。どうしてなのでしょうか。

◆まことの光、主イエス
 主イエスがこのようなことを語られた背景には、仮庵祭というお祭りの存在がありました。そのお祭りが最も盛んで、まっただ中の出来事です。この言葉が語られたその日は、エルサレム神殿において、ユダヤ教の「光りの祭り」とよばれるお祭りが行われていたのだそうです。主イエスはその光りの祭りとの関わりで、光りについての説教をなされたといわれています。ユダヤ教の人びとが信じた光りではなく、人間が目に見える光り以上の、まことの光りとしての主イエスについてご自身が、語ろうとされたのです。この世において人びとの光りとして存在する主イエス・キリストです。主イエスの真の光りによって、これまでのユダヤ教の光りの祭りが終わりを告げることが示されています。
 聖書の中で光りは、主イエスの救いへと導く象徴として、描かれています。東方の博士達を、主イエスの誕生の地へと導いた、星の光りです。星の光によって照らされて、ひとつの場所、救い主誕生の場所へと導かれたあの、星の光です。
 さて、ヨハネによる福音書においては、主イエスを表すための言葉が沢山用いられています。「ダビデの子」「神の子」「人の子」「主」「キリスト」などです。このような呼び方は、どれをとってもほぼ、主イエスのことだとわかりますが、ヨハネによる福音書は、この他にもさまざまな言葉で、主イエスを表そうとしました。たとえば、光も、その一つです。「光り」や、「真理」「命」という具体的なものというよりも、概念に近い言葉です。あるいは、「命のパン」や「まことのぶどうの木」「良い羊飼い」、「羊の門」や「復活であり、命である」などの言葉によって、主イエスはご自身を、世の人びとに表されました。しかし、よく考えてみますと、これらすべての表現は「わたしは・・・○○である。」という形であり、自分自身を人びとに顕すための言葉であります。このような、「わたしは、○○である」という表現によって、主イエスはご自身が神と等しい方であることを、告げておられるのです。神様と一つであること、それは主イエスが私達を神様の光りのもとへと導いて下さるお方であるということでもあります。それだけでなく、主イエスご自身が、「私は世の光りである」と言われます。「世」という言葉が闇であるならば、ここで告げられる世というのは、主イエスを拒絶し、受け入れることのできない勢力のことであると理解することができます。

◆希望の光
 主イエスはまた、罪について、それを暗闇とし、その反対に救いの希望を光りと表現されました。
「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」
 同じヨハネによる福音書12章のなかで、主イエスはこのように告げられました。それではなぜ、主イエスはこのようにして度々、ご自身を光りであると述べていたのでしょうか。その答えは、明かです。つまり、今までの罪赦される以前の人生と、主イエスと出会い、罪の赦しを得た後の人生になぞらえることができると思います。これまでは、暗闇を歩いていたものも、主イエスに出会うことによって、光りの中を歩むものとなることができるからです。
 「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。・・・・しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」
 神様は光りであって、闇が全くないお方です。この言葉と同様なことが、ヨハネによる福音書1章には、述べられています。
 ヨハネによる福音書1章には、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」命そのものが光りであるといわれています。光りを放つ命、あるいは光り輝く神々しい命、というよりは、命がイコール光りであると考えて良いと思います。
 けれども主イエスは、更に私達のこの命にも、光りがあるというのです。
 主イエスはこう、告げられました。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」暗闇の道を歩まないばかりでなく、命の光りを持つことができるといいます。また、さらにこう告げられました。
「しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。」
 主イエスの真実の姿、本当の姿は誰も知り得ない、と言われます。そのことは、主イエスが父なる神から遣わされたお方であるということを、表しています。肉に従って裁かず、真実の裁きをする、このことについても、同様です。ですから、私達は主イエスを信じることによって、光り照らされて、暗闇を歩かず、光りの中を歩むことができます。主イエスはこのことを神殿で教えられたとき、人びとはイエスを捉えようとしていましたが、できませんでした。「イエスの時がまだ来ていなかったからである」、と記されています。主イエスの時とは、十字架と復活の時です。主イエスの光りは、十字架と復活という事実がなければ光らなかった、といっても過言ではありません。その出来事のために、より一層、光り輝く希望が信じる私達に与えられているのであります。
 旧約聖書において「光り」が最初に記されているのは創世記1章の天地創造においてです。その光りは、神様がお造りになった光りです。光りは、神様を信じるものにとっては、導きの光りです。その象徴として、創世記には、神様が「光りあれ」といわれると、そのようになった、とされています。
 主イエスによって照らされる光りは、そもそも神様から与えられて、神様からあてられている照明であるということがいえます。
私達に置き換えるとどうでしょうか。それぞれの歩んでいる人生を振り返ってみて下さい。私達の人生にはその時々に応じて、暗闇と光りの両方があることと思います。闇を歩いている自分と、光りに照らされ光りの中を歩んでいる自分がいます。
主イエスを信じている私達は、主イエスの光りによって、私達ひとりひとりに命の光りを照らされ、輝いています。
 聖書の時代、イメージされ、理解されていた「光り」はどれほどの明るさだったのでしょうか。それは、恐らく現代のようなあかあかとした、華やかで、輝かしい光りではなかったと思います。
むしろ、燭台の光りを絶やさないよう過ごしていた時代ですから、蝋燭一本ほどの光りで十分明るいと認識していたに違いないのです。その当時の人びとは電気やスポットライトや、明るく照らす街灯などは全くありません。ですから、たった1本の蝋燭の光り、燭台の光りが本当に貴重で大切なものであったに違い在りません。一度ともした明かりを、絶やさないように灯し続けていたのです。きっと、私達が所有するどんなものよりも貴重な宝物のように、光りを大事にしていたことと思います。
 このように、眩しい光りでなくてもいいのです。すっと心に染みこむような、ほっとするような一筋の命の光りでよいのです。そのような命の光りを持つことによって、私達すべてのキリスト者が、この地を照らしていきたいと思います。主イエスに従って生きる私達、信じているもの全てに、この命の光りが与えられています。主に従って歩むキリスト者の間には、光っていない、光りのない命など、一つもないのです。
先日、イギリスにおいて、再び同時多発テロと呼ばれる爆発事件が起こりました。人びとの命が軽んじられ、世界を震撼させるそのような事件は、いわば暗闇の中の出来事であります。また、闇に葬っておきたいような、様々な事情がその裏には隠されているのかもしれません。
そのような暗い出来事の中にあって、光りのほうへと世界が導かれていくためには、僅かながらでもこの私達が、主から受けている光を、この世の灯台として、照らしていかなければならないと思うのです。
主に従って光りの中を歩み、闇の時代ともいえるこの暗い世の中に、私達がすすんで、御言葉の光りを灯していきたいと思います。
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