2005年7月31日
釜土達雄 牧師
マルコによる福音書1:1~8
◆マルコによる福音書
前回までの3回は、たった1節に絞って、私たちは御言葉に耳を傾けてきた。繰り返しになるが、このマルコによる福音書は基本中の基本である。このマルコによる福音書を土台として、主にギリシャの人々にあてて書かれたマタイによる福音書、医者ルカによって主にローマの人々にあてて書かれたルカによる福音書と共に、共観福音書という。
このマルコによる福音書には特徴があった。イエスキリストの生涯というと必ず出てくるクリスマスの物語がない。また、キリスト教信仰の基本となっている復活の記述がない。その紙面の大部分を最後の1週間に割いている。1/3をあてている。キリストの最後の一週間が、福音の基本であると、懇切丁寧に記してある福音書である。山上の説教もほとんど記されていない。マルコは、多くの人々が知っているであろう出来事について、ほんの少しずつ触るだけであった。こういうことがあった。あなたは知っているでしょう。あなたも、このようなことを知っているでしょう。そのイエスが、最後にこのように十字架につけられていくということを記しているのである。
◆洗礼者ヨハネ
今日の説教題は、「バプテスマのヨハネ」である。聖書には昔から表題がついていた。今日のところには、「洗礼者ヨハネ、教えを述べる」という表題がついている。そして、4節にいきなりヨハネの名前が出てくる。はじめて、聖書を開く人にとっては、「洗礼者ヨハネ」は、どんな人かと思うだろう。わずかな文章の中で、ヨハネのイメージを膨らまそうとする。マルコは、このヨハネについて多くを記していない。「あなたは、この人を知っているでしょう。」という形で扱っている。来週、このヨハネについて掘り下げていきたい。ヨハネの語った中身について耳を傾けていく。
ヨハネがどのような人物かについて、詳しく話す時間もないため、ぜひ、興味のある人は、ルカによる福音書の1:1からを読んでいただきたい。クリスマス物語が登場する。天使ガブリエルのマリアへのメッセージ、あの有名なマリアの賛歌、イエスさまが馬小屋で生まれた話が、羊飼いたちにイエスの誕生が伝えられる話。これらの話が1~2章に丁寧に出てくる。クリスマス物語はとても有名である。聖書のことをまったく知らない人たちも、この話しについて耳にすることがある。しかし、1章から3章に至るまでにバプテスマのヨハネの話が挿入されている。
タイトルだけを見ていくと、1章5節からの物語には「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」とある。ザカリアとエリザベツの夫婦には子どもがいなかった。当時、子どものいない人物は救いからもれていた。しかし、彼は自分が救いからもれているにも関わらず、イスラエル全体の救いを祈らなければならなかった。そこに、子どもが生まれるメッセージが届く。
マリアは、バプテスマのヨハネの母となるエリザベトを訪ねる。1章39節「マリア、エリザベトを訪ねる」とある。ザカリアとマリアは親戚だった。そして、1章57節以下、バプテスマのヨハネが誕生する。そして、3章1節以下、バプテスマのヨハネが教えを述べ伝える。
その内容について、マルコは「ヨハネについては、あなたも知っていますよね」という形で、詳しく記述していない。みんなが知っていることについては、あえて問わない。むしろ、マルコ1章1~8節で記したいことは、バプテスマのヨハネのことを知ってますよね、といううことよりも、次のようなことであった。
1章の2節「預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、・・・その道筋をまっすぐにせよ。」
今日、御言葉として取り次ぎたいことは2つある。ひとつ目は、神様のご計画というのは、私たちが思うよりもはるかに前からあるということ。2つめは、イエスキリストがおいでになるまえに、イエスキリストのために備えをする役割を与えられた人々がいたということである。これを知っていていただきたい。聖書で一番有名なのは、誰もが知っているとおり、イエスキリストである。今日の聖書で聞くのは、そのまえにバプテスマのヨハネがいたということである。
◆逆転の発想
聖書を読むときに、私と神様の関係、私と聖書の関係など、「私」を中心にして聖書を読んでいくものである。いつでも「私」を中心に福音を聞こうとする。神様が私たちを救ってくださるといっても、自分の救いのことを考える。神様を考えるときも、「私」にとって神様はどんな方かということを考える。それは、悪いことではない。しかし、そう考えている限り、聖書は分からない。ある時点で、逆転の発想で「神様」にとって、私はどのような存在か、「神様」はなぜ、私に命をおあたえになったかと、考えるときがなければいけない。
例えとしてふさわしいかどうかは分からないが、6月から、七尾幼稚園には多くの実習生が来た。そういうときに、幼稚園のプロの教師と、実習生との間に決定的な違いが存在する。違いがあるがゆえに、頭の発想を変えてもらうように訓練する。実習生に打ち合わせのときに、何を言っているかというと、「あなたたちのために、子どもたちがいるのではありません。子どもたちのために、幼稚園教師がいるのです。」ということだ。
あなたたちがかわいいと思うために子どもがいるのではありません。この話をするのが、大変なのである。北陸学院の菅原先生という助教授が、こういうことはしっかり教えておいてくださいと言う。1年生の頃には、かわいいと言っていただけなので、それが仕事をするようになるだけで、成果だという。本人が発想を変えてもらわないと絶対に分からない。
おととい、昨日は幼稚園のお泊り会であった。発想が変わると分からないことがたくさんある。昨日の朝、小丸山公園に行った。利家とまつの像があったので、私は子どもたちに説明をした。「ここにいらっしゃるのは、利家さんです。横にいるのはまつさん。むかし、ここにお城をつくった人で、とっても偉いんです。」
すると、Aちゃんが、「なんか悪いことしたん?もう、戻れんがん?どうしてこんな形になったん?王子様が来んとだめなん?」と聞く。大人は偉くなると銅像になると思っていたが、子どもは悪いことをして魔法が解けないと思っていた。石にされる前田利家。これは発想の転換をしなければ、理解できない。発想はいつも同じところにいると、何も分からない。自分のために幼稚園の子どもたちがいると思っている限り、どんなに努力しても、見抜かれてしまう。子どもだけでなく、お母さんも分かってしまう。
信仰もそうである。聖書もそうである。私は最初から命を持っていて、世の中に八百万の神様がいて、その中にキリスト教の神様もいる。人生を生きていくときに、どの神様がいいかを考えて、神様が何を言っているか聞いてやろうという姿勢では、神様は自分の下になってしまう。その方を全能の神、命をお創りになった神とは、絶対に思えない。自分は聖書を読む力がある。聖書が何を言っているか、聞いてやろうその考え方では、聖書の前で真剣に神の御言葉に耳を傾けるという姿勢にはならない。
◆神様があなたを選んだ
私たちは洗礼を受けるときに、洗礼のあとにお祈りをする。昔からだいたい決まったお祈りがあり、私が使う式文の中にもこう残っている。
恵み深い父なる神よ、あなたは、ひとり子われらの主イエスキリストの贖いによって、私たちを罪より救ってくださったことを感謝します。あなたは、いま御前に立つ兄弟姉妹を、そのまだ生まれない先から選び、いまここにあなたと教会との前に信仰を告白し、御名に加え、教会の枝をしてくださったことを感謝します。
こういう一文がある。「そのまだ生まれない先から選んでくださった」これは、教会が洗礼を受けた人々に、祈ってきた言葉である。洗礼を受けようとする人は、自分で神様を選んだつもりになっている。あなたが神様を選んだのではなく、神様があなたを選んだということを繰り返し学ぶのである。そう知っていないと、何も分からない。神様は、あなたたちを救いたいと思って、わざわざイエス様を十字架におつけになった。だから、私は偉いと思っている限り、さばかれるだろう。そうではなく、私たちがどれほど神様の御前で罪深い存在で、その私の身代わりをなってくださって、イエス様が十字架につけられたと知っている。似ているようだが、ぜんぜん違う。
子どもたちのために、私がいると考えるか。私のために、子どもたちがいると考えるか。同じように保育の現場にいるが、発想が違うと、保育がぜんぜん違う。
同じように礼拝堂に集い、神様を賛美する讃美歌を歌い、祈っていても、私のために神様がいると思う人と、神様のために私がいると考えるか。二人の中身はまるで違う。
マルコは、イエスキリストの誕生前に、はるか前に、神様がこの地上にご計画を立てていたと語る。私たちが生まれる前から、神様は救いの業をなしておられたと語る。あなたたちに命を与えたのは、神であって、あなたたちが神を選ぶのではない。
よその神様の話を聞いて、ここもいいな、と思う。違う。神様は、そういうふうにどれでも自由に選びなさいと言っているのではない。「私は神である。私はあなたを創った。」
富士山の頂上に行く道は、たくさんあるが、富士山の頂上に行こうと思って、白山だったらどうするのか、という話がある。しかし、富士山に自分たちが登っていくと考えるのが間違い。聖書が語っているのは、神様が地上に降りてきてくださった。クリスマスである。神様のご計画は、私たちの生まれるはるか前から、この旧約聖書という形で営々と語り続けられている。
◆壮大な歴史にみる神のご計画
キリストが生まれる前に、その役割を与えられた人々がいた。直前には、バプテスマのヨハネ。イエスキリストを身ごもって育てていたマリアという人物がいた。マリアが食事をできるように、子育てができるように、船大工として仕事をしていたヨセフがいた。彼らを支えていた親族がいた。彼らがイスラエルという国でアダムとエバの物語からはじまる壮大な聖書の歴史がある。あるときに、いきなりイエスが生まれたのではない。イエスという人物が、悟りを開いてキリスト教を始めたなどとは、とんでもない。壮大な歴史があるのだ。それが聖書である。
◆主から遣わされる私たち
そして今、主イエスキリストが十字架につけられて、復活して神の国に帰る。再びこの地上に来るという約束を聞いている。それを待ち望んでいる群れがいる。それが、私たちである。私たちは、イエスキリストにぶらさがって生きているのではない。地の塩、世の光として、この地上に遣わされているのである。だから、ミッションと言う。何をするために遣わされているのか。それぞれの持ち場立場に遣わされていくときに、その会社、その家族を自分のために利用するのか。その会社、その家族のために仕えていくのか。私たちの使命なのである。神様が私たちに仕えてくださったように、私たちもそれぞれの場所で仕える者として、遣わされていく。
バプテスマのヨハネは、主イエスキリストのために、その道を備えるものとして、遣わされたのである。私たちも、主イエスキリストの名によって遣わされるキリスト者なのであるから、その道を備えるものとして、この礼拝堂から押し出されていきたい。
釜土達雄 牧師
マルコによる福音書1:1~8
◆マルコによる福音書
前回までの3回は、たった1節に絞って、私たちは御言葉に耳を傾けてきた。繰り返しになるが、このマルコによる福音書は基本中の基本である。このマルコによる福音書を土台として、主にギリシャの人々にあてて書かれたマタイによる福音書、医者ルカによって主にローマの人々にあてて書かれたルカによる福音書と共に、共観福音書という。
このマルコによる福音書には特徴があった。イエスキリストの生涯というと必ず出てくるクリスマスの物語がない。また、キリスト教信仰の基本となっている復活の記述がない。その紙面の大部分を最後の1週間に割いている。1/3をあてている。キリストの最後の一週間が、福音の基本であると、懇切丁寧に記してある福音書である。山上の説教もほとんど記されていない。マルコは、多くの人々が知っているであろう出来事について、ほんの少しずつ触るだけであった。こういうことがあった。あなたは知っているでしょう。あなたも、このようなことを知っているでしょう。そのイエスが、最後にこのように十字架につけられていくということを記しているのである。
◆洗礼者ヨハネ
今日の説教題は、「バプテスマのヨハネ」である。聖書には昔から表題がついていた。今日のところには、「洗礼者ヨハネ、教えを述べる」という表題がついている。そして、4節にいきなりヨハネの名前が出てくる。はじめて、聖書を開く人にとっては、「洗礼者ヨハネ」は、どんな人かと思うだろう。わずかな文章の中で、ヨハネのイメージを膨らまそうとする。マルコは、このヨハネについて多くを記していない。「あなたは、この人を知っているでしょう。」という形で扱っている。来週、このヨハネについて掘り下げていきたい。ヨハネの語った中身について耳を傾けていく。
ヨハネがどのような人物かについて、詳しく話す時間もないため、ぜひ、興味のある人は、ルカによる福音書の1:1からを読んでいただきたい。クリスマス物語が登場する。天使ガブリエルのマリアへのメッセージ、あの有名なマリアの賛歌、イエスさまが馬小屋で生まれた話が、羊飼いたちにイエスの誕生が伝えられる話。これらの話が1~2章に丁寧に出てくる。クリスマス物語はとても有名である。聖書のことをまったく知らない人たちも、この話しについて耳にすることがある。しかし、1章から3章に至るまでにバプテスマのヨハネの話が挿入されている。
タイトルだけを見ていくと、1章5節からの物語には「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」とある。ザカリアとエリザベツの夫婦には子どもがいなかった。当時、子どものいない人物は救いからもれていた。しかし、彼は自分が救いからもれているにも関わらず、イスラエル全体の救いを祈らなければならなかった。そこに、子どもが生まれるメッセージが届く。
マリアは、バプテスマのヨハネの母となるエリザベトを訪ねる。1章39節「マリア、エリザベトを訪ねる」とある。ザカリアとマリアは親戚だった。そして、1章57節以下、バプテスマのヨハネが誕生する。そして、3章1節以下、バプテスマのヨハネが教えを述べ伝える。
その内容について、マルコは「ヨハネについては、あなたも知っていますよね」という形で、詳しく記述していない。みんなが知っていることについては、あえて問わない。むしろ、マルコ1章1~8節で記したいことは、バプテスマのヨハネのことを知ってますよね、といううことよりも、次のようなことであった。
1章の2節「預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、・・・その道筋をまっすぐにせよ。」
今日、御言葉として取り次ぎたいことは2つある。ひとつ目は、神様のご計画というのは、私たちが思うよりもはるかに前からあるということ。2つめは、イエスキリストがおいでになるまえに、イエスキリストのために備えをする役割を与えられた人々がいたということである。これを知っていていただきたい。聖書で一番有名なのは、誰もが知っているとおり、イエスキリストである。今日の聖書で聞くのは、そのまえにバプテスマのヨハネがいたということである。
◆逆転の発想
聖書を読むときに、私と神様の関係、私と聖書の関係など、「私」を中心にして聖書を読んでいくものである。いつでも「私」を中心に福音を聞こうとする。神様が私たちを救ってくださるといっても、自分の救いのことを考える。神様を考えるときも、「私」にとって神様はどんな方かということを考える。それは、悪いことではない。しかし、そう考えている限り、聖書は分からない。ある時点で、逆転の発想で「神様」にとって、私はどのような存在か、「神様」はなぜ、私に命をおあたえになったかと、考えるときがなければいけない。
例えとしてふさわしいかどうかは分からないが、6月から、七尾幼稚園には多くの実習生が来た。そういうときに、幼稚園のプロの教師と、実習生との間に決定的な違いが存在する。違いがあるがゆえに、頭の発想を変えてもらうように訓練する。実習生に打ち合わせのときに、何を言っているかというと、「あなたたちのために、子どもたちがいるのではありません。子どもたちのために、幼稚園教師がいるのです。」ということだ。
あなたたちがかわいいと思うために子どもがいるのではありません。この話をするのが、大変なのである。北陸学院の菅原先生という助教授が、こういうことはしっかり教えておいてくださいと言う。1年生の頃には、かわいいと言っていただけなので、それが仕事をするようになるだけで、成果だという。本人が発想を変えてもらわないと絶対に分からない。
おととい、昨日は幼稚園のお泊り会であった。発想が変わると分からないことがたくさんある。昨日の朝、小丸山公園に行った。利家とまつの像があったので、私は子どもたちに説明をした。「ここにいらっしゃるのは、利家さんです。横にいるのはまつさん。むかし、ここにお城をつくった人で、とっても偉いんです。」
すると、Aちゃんが、「なんか悪いことしたん?もう、戻れんがん?どうしてこんな形になったん?王子様が来んとだめなん?」と聞く。大人は偉くなると銅像になると思っていたが、子どもは悪いことをして魔法が解けないと思っていた。石にされる前田利家。これは発想の転換をしなければ、理解できない。発想はいつも同じところにいると、何も分からない。自分のために幼稚園の子どもたちがいると思っている限り、どんなに努力しても、見抜かれてしまう。子どもだけでなく、お母さんも分かってしまう。
信仰もそうである。聖書もそうである。私は最初から命を持っていて、世の中に八百万の神様がいて、その中にキリスト教の神様もいる。人生を生きていくときに、どの神様がいいかを考えて、神様が何を言っているか聞いてやろうという姿勢では、神様は自分の下になってしまう。その方を全能の神、命をお創りになった神とは、絶対に思えない。自分は聖書を読む力がある。聖書が何を言っているか、聞いてやろうその考え方では、聖書の前で真剣に神の御言葉に耳を傾けるという姿勢にはならない。
◆神様があなたを選んだ
私たちは洗礼を受けるときに、洗礼のあとにお祈りをする。昔からだいたい決まったお祈りがあり、私が使う式文の中にもこう残っている。
恵み深い父なる神よ、あなたは、ひとり子われらの主イエスキリストの贖いによって、私たちを罪より救ってくださったことを感謝します。あなたは、いま御前に立つ兄弟姉妹を、そのまだ生まれない先から選び、いまここにあなたと教会との前に信仰を告白し、御名に加え、教会の枝をしてくださったことを感謝します。
こういう一文がある。「そのまだ生まれない先から選んでくださった」これは、教会が洗礼を受けた人々に、祈ってきた言葉である。洗礼を受けようとする人は、自分で神様を選んだつもりになっている。あなたが神様を選んだのではなく、神様があなたを選んだということを繰り返し学ぶのである。そう知っていないと、何も分からない。神様は、あなたたちを救いたいと思って、わざわざイエス様を十字架におつけになった。だから、私は偉いと思っている限り、さばかれるだろう。そうではなく、私たちがどれほど神様の御前で罪深い存在で、その私の身代わりをなってくださって、イエス様が十字架につけられたと知っている。似ているようだが、ぜんぜん違う。
子どもたちのために、私がいると考えるか。私のために、子どもたちがいると考えるか。同じように保育の現場にいるが、発想が違うと、保育がぜんぜん違う。
同じように礼拝堂に集い、神様を賛美する讃美歌を歌い、祈っていても、私のために神様がいると思う人と、神様のために私がいると考えるか。二人の中身はまるで違う。
マルコは、イエスキリストの誕生前に、はるか前に、神様がこの地上にご計画を立てていたと語る。私たちが生まれる前から、神様は救いの業をなしておられたと語る。あなたたちに命を与えたのは、神であって、あなたたちが神を選ぶのではない。
よその神様の話を聞いて、ここもいいな、と思う。違う。神様は、そういうふうにどれでも自由に選びなさいと言っているのではない。「私は神である。私はあなたを創った。」
富士山の頂上に行く道は、たくさんあるが、富士山の頂上に行こうと思って、白山だったらどうするのか、という話がある。しかし、富士山に自分たちが登っていくと考えるのが間違い。聖書が語っているのは、神様が地上に降りてきてくださった。クリスマスである。神様のご計画は、私たちの生まれるはるか前から、この旧約聖書という形で営々と語り続けられている。
◆壮大な歴史にみる神のご計画
キリストが生まれる前に、その役割を与えられた人々がいた。直前には、バプテスマのヨハネ。イエスキリストを身ごもって育てていたマリアという人物がいた。マリアが食事をできるように、子育てができるように、船大工として仕事をしていたヨセフがいた。彼らを支えていた親族がいた。彼らがイスラエルという国でアダムとエバの物語からはじまる壮大な聖書の歴史がある。あるときに、いきなりイエスが生まれたのではない。イエスという人物が、悟りを開いてキリスト教を始めたなどとは、とんでもない。壮大な歴史があるのだ。それが聖書である。
◆主から遣わされる私たち
そして今、主イエスキリストが十字架につけられて、復活して神の国に帰る。再びこの地上に来るという約束を聞いている。それを待ち望んでいる群れがいる。それが、私たちである。私たちは、イエスキリストにぶらさがって生きているのではない。地の塩、世の光として、この地上に遣わされているのである。だから、ミッションと言う。何をするために遣わされているのか。それぞれの持ち場立場に遣わされていくときに、その会社、その家族を自分のために利用するのか。その会社、その家族のために仕えていくのか。私たちの使命なのである。神様が私たちに仕えてくださったように、私たちもそれぞれの場所で仕える者として、遣わされていく。
バプテスマのヨハネは、主イエスキリストのために、その道を備えるものとして、遣わされたのである。私たちも、主イエスキリストの名によって遣わされるキリスト者なのであるから、その道を備えるものとして、この礼拝堂から押し出されていきたい。