日本基督教団 七尾教会

能登半島にたてられた七尾教会の日々です

主の赦しを覚えよ

2005年05月29日 | 主日礼拝
ルカによる福音書22:39~46
ハイデルベルク信仰問答第51聖日

◆無条件のゆるしと人をゆるす難しさ
 ハイデルベルク信仰問答を読み進めて、もう終わりになろうとしている。来週が、ハイデルベルク信仰問答の最後の問答、52聖日となる。今は、「主の祈り」に耳を傾けているところである。
 本日の祈りは「われらに罪をおかすものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。主の祈りの中で、もっとも人気のない場所ではないか。私たちが主イエスキリストによって、無条件に罪をゆるしてもらったはずなのに、「われらが赦すように」というのは、いかがなものか。しかも、他人をゆるすことが難しいことを知っているのがわたしたちなのに、ゆるしているように、われらの罪をゆるしてほしいと、そのように祈ることが求められる。人をゆるすことが難しいことを知っている者には、この言葉通りに祈ることが難しい。
 今日の信仰問答でも、歯切れの悪い答えが続いているように思える。しかし、ぜひとも覚えておいてほしいのは、主の祈りの原型であるマタイの6章には13節のあとに、わざわざこういう言葉が続いているということだ。「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。(マタイ6:14~15)主の祈りを教えた後に、主イエスが、わざわざこの部分をくりかえしておっしゃっていることに注目しなければならない。私たちにとって耳障りであろうが、主イエスは、このことを私たちにはっきりとお示しになっているのである。
 私たちは、なるべく自分が人をゆるさずに、自分だけゆるしてもらおうと考える者である。主イエスの十字架は、私たちの罪を無条件にゆるすためであった。私がたとえ人をゆるさなくても、神はゆるしてくださる。十字架によって・・・と思いたい。いや、事実、そのとおりである。おっしゃるとおり、主イエスの十字架によって私たちの罪は無条件にゆるされる。ただし、そのイエス様が、主の祈りのあとに、あのように語っておられることは事実なのであり、知っていなければならない。
 なぜ主はそう語られたのか。私たちが人をそう簡単にゆるすということをしない者だからではないか。

◆ゆるすものになりなさい
 話は変わるが、花粉症になってしまった。鼻がぐずぐずする。先週は、「創られたすべてのものは善いものだった」という御言葉を取り次いだ。教会の駐車場に生えるこのカモガヤという植物が原因で、憎たらしいと思う。しかし、「神様の創られたものを憎んではいけない」と御言葉を取り次ぐことが求められる。神様がすべてのものをお創りになって、善いものだと言われても、カモガヤの花粉はちょっと困る。憎たらしい。受け入れられない自分がいる。同じように、そう言われても、蛇だけはどうも、ゴキブリだけはどうも・・・という人がいる。よく分かる。聖書に書いてあることをそのまま受け入れることは、そうそう簡単にはできない。
 神様は、共に愛しあい生きていくように人間をお創りになった。しかし、アダムとエバも、カインとアベルもそうであったように、私たちは、神様の願いから遠いものである。神様が一体どんな気持ちで私たちの前に立っておられるか。人をゆるさないなら、あなたがたの父も、あなたがたの罪をおゆるしにならない、と言って「人を赦さないものではなく、赦すものになりなさい」とおっしゃっているのではないか。
 ゆるさない理由を探すより先に、人をゆるすものになるべきではないか、と思うのである。

◆ゆるすとは忘れること
 「ゆるすというのは、忘れること」。しかも、「ゆるしたことさえも忘れること」。その時はじめてゆるしたことになる。この言葉をメモすることは、とても簡単だが、実際に「ゆるす」ことの難しさは、みなさんご存知のとおりである。人間関係の中で生きていると、そうはいかない「あいつはいつもそうだ」「あれは、まあいいとして、これはゆるせない」などと、ねちねち覚えている。ふっと目が覚めて「やっぱりゆるせない」ということも、人間生きていると、よくあることである。ゆるしたつもりでもゆるせないということは、よくある。

◆「ごめんなさい」は、形から入る
 幼稚園の先生は、魔法の言葉を子どもたちに教えている。「ごめんなさい」。「いいよ」。失敗しちゃったとき、ケンカになっちゃったときの魔法の言葉。「ごめんなさい」。「いいよ」。この魔法の言葉のやりとりで、仲直りが出来て、再び遊びが展開される。
 今も教育実習生が幼稚園にやってきている。実習生の先生は、子どもたちのケンカを見ると、どういう仲裁したらよいかを考えこんでしまう。「どうやって仲裁したり、納得させたりしたらよいのでしょうか?」と聞いてくる。そんなときに「本当にゆるしているかどうかはわからない。けれど、形から入ることが大事なんだ」そう教えていく。これは、大事なポイントだ。
 心がこもっていなくてもかまわない。「ごめんなさい」と口にする。本当にゆるしているわけではない。けれども「いいよ」と口にする。心のこもらない言葉を口にするのだが、それを繰り返していくうちに、いつの間にか心がこもってくる。「ごめんなさい」と言わなければいけないと思う。「いいよ」と言わなければいけないと思う。そう思っていると、してはいけないことをしなくなる。失敗したときにはあやまらなくてはいけないと思ってくる。あやまられたら、ゆるさなければならないと思ってくる。言葉を使い続けていくうちに、あとから心がこもってくることは、よくあることではないか。

◆「ゆるし」もまず形から
 「自信がないときは、自信があるように振舞いなさい。そうすれば自信が生まれてくる。不信仰だなと思うときは、信仰深く振舞いなさい。そうすれば、信仰が身に付いてくる」。そんな言葉がある。
 形から入るのは、悪いことではない。「心がこもるまでは、私はゆるさない」などと言ってはならない。ゆるせないという重荷を負いつつ、「ゆるします」と主のみ前で祈る。そこが大事だ。ゆるせないと思えば思うほど、その重荷を負いつつ「ゆるします」と祈る。そこがとてもとても大事なのだ。
 全能の神様は、私たちの罪をゆるしてくださった。たとえ、私たちが人をゆるさなくても、主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの罪をゆるしてくださった。これは真実である。しかしそのメッセージを耳にしたからと言って、私たち自身が「ゆるす者」に変わるわけではない。しかし、主なる神は、主なる神がわたしたちをゆるしてくださったように、私たちも主なる神の御心にしたがって「ゆるす者」として歩むことを願っておられるのである。
 だからこそ、この主の祈りをお教えになられた。そして、繰り返して「ゆるすものとなりなさい」と語ってくださるのである。「『私もゆるしますから、私の罪もゆるされますように』と祈りなさい」。キリスト者としてのゆるしの生活への招きなのである。
 地の塩、世の光として生きていくときに、まず形から。「ゆるせなくても、ゆるします」「一生懸命、ゆるそうと思います。だから、私たちの罪をもゆるしてください」。
 そのように祈る者として、今週も歩んでいきたい。
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みこころの天になるごとく地にも

2005年05月15日 | 主日礼拝
2005年5月15日
ルカによる福音書22:39~46
ハイデルベルク信仰問答第49聖日

◆ペンテコステ
 今日はペンテコステの日です。教会には3つの大きなお祭りがある。もっとも有名なのはクリスマス。教会は私たちの主イエスキリストが生まれたことを感謝し、礼拝を守り続けてきた。
神様が、わが子を地上に送られるほどに、この世を愛しているというメッセージが、人々に受け入れられ、「メリークリスマス」というようになった。いつから、教会はクリスマスをやるようになったのか、という電話がかかってくるほどである。それほどに、クリスマスは一般的になった。 私たちはこれを心から喜びたい。
 次に、比較的人々に知られているのは「イースター」である。なんといっても、卵屋さんが、イースターエッグと共に、大々的に宣伝している。主が十字架につけられて3日目によみがえられたことを祝う。
 もうひとつの大きなお祭りは「ペンテコステ」である。教会の誕生日である。誰もが教会が始めたということを知らずに祝われているものも多くある。「母の日」もそうである。一人の教会学校の信徒がはじめた。「父の日」もそうである。
 ペンテコステは、聖霊がくだり、教会が生まれたことを祝う。クリスマス、イースター、母の日、父の日と違って、一般の人は祝わない。教会とは何かを知っている人々による内輪の祝いである。

◆主がすべてを創られた
 全能の神がすべてのものをお創りになった。そして、いまも支配している。私たちの命は偶然にできたのではなく、神様がお創りになったものである。私たちの人生はでたらめではなく、神様がお創りになったものである。「神」が、両親を与え、ほかの時代ではなくこの時代に、ほかの国ではなくこの国に、私たちの命を与えた。
 ときどき、自分は何のために生まれてきたか分からないという人がいる。若い人に多い。しかし、創られたものが、何のために命があるかを問うてみても分からない。創った方に聞かなければ分からない。
 昔から言われることだが、茶碗には自分がなぜここにあるのかは分からない。茶碗を作った人に聞いてみなければわからない。お猪口も同様である。お猪口は、ご飯でもお味噌汁でもなく、お酒が入るのが似つかわしい。自分で考えるよりも、私はなぜ作られたのかを問う方が正しい。創られた者として存在する以上、創った方に聞かなければ分からない。

◆すべては神の許しのもとに
 ハイデルベルク信仰問答の際は、割と自由に聖書の箇所を選ぶことになっている。讃美歌もそうである。本日歌った77番には、今、取り次いだ話が入っている。
 神様は力を持っている方なので、天でも地でも、御心のままになるのが当たり前である
 神様の声があれば、天をめぐる日もとどまる
私が特に好きなのは、この3番である。
 あらぶる世の中の嵐が、力のかぎりに吹いてくる
 しかし、神様の許しがなければ、松にかけた小鳥の巣も微動だにしない
 
 これらの讃美歌は、ほんとうに意気消沈したときに歌うとよい。神様に許されて、嵐に翻弄されているのである。何ゆえにこのような試練をおあたえになっているかを問うことができる。
同じような讃美歌で90番がある。
「ここも神の御国なれば・・・」という歌いだしである。ここも神様の支配される国であるということを高らかに賛美する。
 ところが、神様がすべてを支配されているはずなのに、すべてが御心にしたがっているということを見ていない。すべてが御心のままになされているということを実感していない。本当に、神様がすべてを支配されているのであれば、何ゆえにこのような悲惨なことが起こるのか、ということがある。
 JRの事故は、キリスト教の仲間である同志社大学に向かう電車であった。多くの学生が乗っていた。その学校では、その学生たちのことを覚えて礼拝されているのが、報道されていた。本当に神様がいるのなら、なぜこのような惨いことが起こるのかというコメンテーター。その後ろで讃美歌が流れている。この者たちの魂を御許に委ねますと祈られている。
 しかし私たちは「なぜ、このような悲惨な現状を神はお見捨てになるのか」という。
主が与えてくださった、あの「主の祈り」を学んでいる。本日は、「御心の天になるごとく 地にもならせたまえ」という祈りである。地には、それがなっていないから、それが成るように祈りなさい、ということだ。神も仏もあるものか、と思うような陰惨な事件にわれわれは遭う。これはいったいどういうことか、ということを問う。そのときに、主は私たちに祈りを与えてくださっていた。神様の御心が、この地上に必ずしも成っているわけではないということを主イエスは知っていて、そのように祈りなさいとおっしゃった。

◆自由の中にある「愛」
 なぜ、全能の神であるにもかかわらず、このようなことが起こるのか。これが、教会への躓きになる。みんなが神様を信じるようにしておけば、何もトラブルが起こらない。という人がいる。事故が起こらないようにしておいてくれれば、いがみあうようにならないように、みんなが愛し合うようにしておいてくれれば、最初に創ったときに、ちゃんとしておいてくれればいい、と思う。中学3年から高校1年くらいに、こういったことをわいわいがやがやと話をする。ちゃんとそのころに良いアシストをしておかないと、大人になっても同じことを疑問に思う。
 若い方はよく聞いておいてほしい。愛というのは、愛することも愛さないこともできる自由の中で、あえて愛する方を選ぶから「愛」というのである。信じるというは、信じることも信じないこともできる自由の中で、あえて信じるから「信じる」ということなのである。最初から愛することしかできないプログラムの中に、愛はない。
 幼稚園の子どもたちをみてごらんなさい。友達とけんかをして、それでも、その友達と一緒に生きていくことの楽しさを知っている。やさしくされた経験をして、人と生きていくことのすばらしさを学んでいく。愛されることのすばらしさを知り、ぼくも私もやってみようと思う。
神様は、人間をお創りになったときに、この「自由」を中心においてくださった。信じることも信じないこともできる「自由」の中で、信じることを選ぶようにしてくださった。あなたは自由なのだ、と言ってくださった。
 愛することを選ばずに、愛さないことを選んでおきながら、愛するようにしておいてくれればいいのに、という。なんと愚かなことか。自分には「自由」があるのだから、夢がある。自分が一体、何になりたいのか、という欲がある。できるなら困難な道よりも安易な道を選びたいと思う。神の前での特権を持つものとして、主イエスキリストさえも揺れていたという場面を今日の聖書の箇所は語っている。

◆神の御国を求める群れ「教会」
 イエス様はゲッセマネで祈っておられた。「父よ、御心ならばこの杯を私から取り除けてください。しかし、私の願いではなく、御心のままになさってください」
誰も、十字架につきたいわけでない。自分の気持ち、自分の人生を考えるならば、嫌なことは避けて通りたい。この杯は「十字架」という杯であった。主イエスキリストの祈りは、自分のほうに目を向けている。神と語る権利がある。彼には自由がある。神から与えられた自由である。しかし、大事なことは、最後の方の言葉である。「私の願いではなく、御心のままに」
「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ることである。自分と関係のないところで、御心がなるのではなく、私に御心のままになさってください、と祈っている。私の中に御心が成るように。私を御心のままに用いてください、と主イエスは祈っているのである。

 教会が立てられてから、終末のときまでが、「教会の時代」である。終末のあと、神の御心がなされる御国が到来する。なぜ教会はペンテコステのときに建てられたのか。この地上で、神の御心がなされるように祈る者たちが、御心にしたがって歩むものたちの群れとして立てられているのである。
 愛することをあえて選ぶ者の群れ、信じることをあえて選ぶものの群れ。人から悪く言われようと、結果的に損をしようと、私たちは少なくとも主なる神の御心に従って歩もうとする。この地上を神の御心にしたがって歩むことを決心したものが集まるのが教会。力のないものを支えるために聖霊を送ってくださった。
 まず、わたしたちの中に神の御国を求めようではありませんか
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