ルカによる福音書22:39~46
ハイデルベルク信仰問答第51聖日
◆無条件のゆるしと人をゆるす難しさ
ハイデルベルク信仰問答を読み進めて、もう終わりになろうとしている。来週が、ハイデルベルク信仰問答の最後の問答、52聖日となる。今は、「主の祈り」に耳を傾けているところである。
本日の祈りは「われらに罪をおかすものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。主の祈りの中で、もっとも人気のない場所ではないか。私たちが主イエスキリストによって、無条件に罪をゆるしてもらったはずなのに、「われらが赦すように」というのは、いかがなものか。しかも、他人をゆるすことが難しいことを知っているのがわたしたちなのに、ゆるしているように、われらの罪をゆるしてほしいと、そのように祈ることが求められる。人をゆるすことが難しいことを知っている者には、この言葉通りに祈ることが難しい。
今日の信仰問答でも、歯切れの悪い答えが続いているように思える。しかし、ぜひとも覚えておいてほしいのは、主の祈りの原型であるマタイの6章には13節のあとに、わざわざこういう言葉が続いているということだ。「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。(マタイ6:14~15)主の祈りを教えた後に、主イエスが、わざわざこの部分をくりかえしておっしゃっていることに注目しなければならない。私たちにとって耳障りであろうが、主イエスは、このことを私たちにはっきりとお示しになっているのである。
私たちは、なるべく自分が人をゆるさずに、自分だけゆるしてもらおうと考える者である。主イエスの十字架は、私たちの罪を無条件にゆるすためであった。私がたとえ人をゆるさなくても、神はゆるしてくださる。十字架によって・・・と思いたい。いや、事実、そのとおりである。おっしゃるとおり、主イエスの十字架によって私たちの罪は無条件にゆるされる。ただし、そのイエス様が、主の祈りのあとに、あのように語っておられることは事実なのであり、知っていなければならない。
なぜ主はそう語られたのか。私たちが人をそう簡単にゆるすということをしない者だからではないか。
◆ゆるすものになりなさい
話は変わるが、花粉症になってしまった。鼻がぐずぐずする。先週は、「創られたすべてのものは善いものだった」という御言葉を取り次いだ。教会の駐車場に生えるこのカモガヤという植物が原因で、憎たらしいと思う。しかし、「神様の創られたものを憎んではいけない」と御言葉を取り次ぐことが求められる。神様がすべてのものをお創りになって、善いものだと言われても、カモガヤの花粉はちょっと困る。憎たらしい。受け入れられない自分がいる。同じように、そう言われても、蛇だけはどうも、ゴキブリだけはどうも・・・という人がいる。よく分かる。聖書に書いてあることをそのまま受け入れることは、そうそう簡単にはできない。
神様は、共に愛しあい生きていくように人間をお創りになった。しかし、アダムとエバも、カインとアベルもそうであったように、私たちは、神様の願いから遠いものである。神様が一体どんな気持ちで私たちの前に立っておられるか。人をゆるさないなら、あなたがたの父も、あなたがたの罪をおゆるしにならない、と言って「人を赦さないものではなく、赦すものになりなさい」とおっしゃっているのではないか。
ゆるさない理由を探すより先に、人をゆるすものになるべきではないか、と思うのである。
◆ゆるすとは忘れること
「ゆるすというのは、忘れること」。しかも、「ゆるしたことさえも忘れること」。その時はじめてゆるしたことになる。この言葉をメモすることは、とても簡単だが、実際に「ゆるす」ことの難しさは、みなさんご存知のとおりである。人間関係の中で生きていると、そうはいかない「あいつはいつもそうだ」「あれは、まあいいとして、これはゆるせない」などと、ねちねち覚えている。ふっと目が覚めて「やっぱりゆるせない」ということも、人間生きていると、よくあることである。ゆるしたつもりでもゆるせないということは、よくある。
◆「ごめんなさい」は、形から入る
幼稚園の先生は、魔法の言葉を子どもたちに教えている。「ごめんなさい」。「いいよ」。失敗しちゃったとき、ケンカになっちゃったときの魔法の言葉。「ごめんなさい」。「いいよ」。この魔法の言葉のやりとりで、仲直りが出来て、再び遊びが展開される。
今も教育実習生が幼稚園にやってきている。実習生の先生は、子どもたちのケンカを見ると、どういう仲裁したらよいかを考えこんでしまう。「どうやって仲裁したり、納得させたりしたらよいのでしょうか?」と聞いてくる。そんなときに「本当にゆるしているかどうかはわからない。けれど、形から入ることが大事なんだ」そう教えていく。これは、大事なポイントだ。
心がこもっていなくてもかまわない。「ごめんなさい」と口にする。本当にゆるしているわけではない。けれども「いいよ」と口にする。心のこもらない言葉を口にするのだが、それを繰り返していくうちに、いつの間にか心がこもってくる。「ごめんなさい」と言わなければいけないと思う。「いいよ」と言わなければいけないと思う。そう思っていると、してはいけないことをしなくなる。失敗したときにはあやまらなくてはいけないと思ってくる。あやまられたら、ゆるさなければならないと思ってくる。言葉を使い続けていくうちに、あとから心がこもってくることは、よくあることではないか。
◆「ゆるし」もまず形から
「自信がないときは、自信があるように振舞いなさい。そうすれば自信が生まれてくる。不信仰だなと思うときは、信仰深く振舞いなさい。そうすれば、信仰が身に付いてくる」。そんな言葉がある。
形から入るのは、悪いことではない。「心がこもるまでは、私はゆるさない」などと言ってはならない。ゆるせないという重荷を負いつつ、「ゆるします」と主のみ前で祈る。そこが大事だ。ゆるせないと思えば思うほど、その重荷を負いつつ「ゆるします」と祈る。そこがとてもとても大事なのだ。
全能の神様は、私たちの罪をゆるしてくださった。たとえ、私たちが人をゆるさなくても、主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの罪をゆるしてくださった。これは真実である。しかしそのメッセージを耳にしたからと言って、私たち自身が「ゆるす者」に変わるわけではない。しかし、主なる神は、主なる神がわたしたちをゆるしてくださったように、私たちも主なる神の御心にしたがって「ゆるす者」として歩むことを願っておられるのである。
だからこそ、この主の祈りをお教えになられた。そして、繰り返して「ゆるすものとなりなさい」と語ってくださるのである。「『私もゆるしますから、私の罪もゆるされますように』と祈りなさい」。キリスト者としてのゆるしの生活への招きなのである。
地の塩、世の光として生きていくときに、まず形から。「ゆるせなくても、ゆるします」「一生懸命、ゆるそうと思います。だから、私たちの罪をもゆるしてください」。
そのように祈る者として、今週も歩んでいきたい。
ハイデルベルク信仰問答第51聖日
◆無条件のゆるしと人をゆるす難しさ
ハイデルベルク信仰問答を読み進めて、もう終わりになろうとしている。来週が、ハイデルベルク信仰問答の最後の問答、52聖日となる。今は、「主の祈り」に耳を傾けているところである。
本日の祈りは「われらに罪をおかすものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。主の祈りの中で、もっとも人気のない場所ではないか。私たちが主イエスキリストによって、無条件に罪をゆるしてもらったはずなのに、「われらが赦すように」というのは、いかがなものか。しかも、他人をゆるすことが難しいことを知っているのがわたしたちなのに、ゆるしているように、われらの罪をゆるしてほしいと、そのように祈ることが求められる。人をゆるすことが難しいことを知っている者には、この言葉通りに祈ることが難しい。
今日の信仰問答でも、歯切れの悪い答えが続いているように思える。しかし、ぜひとも覚えておいてほしいのは、主の祈りの原型であるマタイの6章には13節のあとに、わざわざこういう言葉が続いているということだ。「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。(マタイ6:14~15)主の祈りを教えた後に、主イエスが、わざわざこの部分をくりかえしておっしゃっていることに注目しなければならない。私たちにとって耳障りであろうが、主イエスは、このことを私たちにはっきりとお示しになっているのである。
私たちは、なるべく自分が人をゆるさずに、自分だけゆるしてもらおうと考える者である。主イエスの十字架は、私たちの罪を無条件にゆるすためであった。私がたとえ人をゆるさなくても、神はゆるしてくださる。十字架によって・・・と思いたい。いや、事実、そのとおりである。おっしゃるとおり、主イエスの十字架によって私たちの罪は無条件にゆるされる。ただし、そのイエス様が、主の祈りのあとに、あのように語っておられることは事実なのであり、知っていなければならない。
なぜ主はそう語られたのか。私たちが人をそう簡単にゆるすということをしない者だからではないか。
◆ゆるすものになりなさい
話は変わるが、花粉症になってしまった。鼻がぐずぐずする。先週は、「創られたすべてのものは善いものだった」という御言葉を取り次いだ。教会の駐車場に生えるこのカモガヤという植物が原因で、憎たらしいと思う。しかし、「神様の創られたものを憎んではいけない」と御言葉を取り次ぐことが求められる。神様がすべてのものをお創りになって、善いものだと言われても、カモガヤの花粉はちょっと困る。憎たらしい。受け入れられない自分がいる。同じように、そう言われても、蛇だけはどうも、ゴキブリだけはどうも・・・という人がいる。よく分かる。聖書に書いてあることをそのまま受け入れることは、そうそう簡単にはできない。
神様は、共に愛しあい生きていくように人間をお創りになった。しかし、アダムとエバも、カインとアベルもそうであったように、私たちは、神様の願いから遠いものである。神様が一体どんな気持ちで私たちの前に立っておられるか。人をゆるさないなら、あなたがたの父も、あなたがたの罪をおゆるしにならない、と言って「人を赦さないものではなく、赦すものになりなさい」とおっしゃっているのではないか。
ゆるさない理由を探すより先に、人をゆるすものになるべきではないか、と思うのである。
◆ゆるすとは忘れること
「ゆるすというのは、忘れること」。しかも、「ゆるしたことさえも忘れること」。その時はじめてゆるしたことになる。この言葉をメモすることは、とても簡単だが、実際に「ゆるす」ことの難しさは、みなさんご存知のとおりである。人間関係の中で生きていると、そうはいかない「あいつはいつもそうだ」「あれは、まあいいとして、これはゆるせない」などと、ねちねち覚えている。ふっと目が覚めて「やっぱりゆるせない」ということも、人間生きていると、よくあることである。ゆるしたつもりでもゆるせないということは、よくある。
◆「ごめんなさい」は、形から入る
幼稚園の先生は、魔法の言葉を子どもたちに教えている。「ごめんなさい」。「いいよ」。失敗しちゃったとき、ケンカになっちゃったときの魔法の言葉。「ごめんなさい」。「いいよ」。この魔法の言葉のやりとりで、仲直りが出来て、再び遊びが展開される。
今も教育実習生が幼稚園にやってきている。実習生の先生は、子どもたちのケンカを見ると、どういう仲裁したらよいかを考えこんでしまう。「どうやって仲裁したり、納得させたりしたらよいのでしょうか?」と聞いてくる。そんなときに「本当にゆるしているかどうかはわからない。けれど、形から入ることが大事なんだ」そう教えていく。これは、大事なポイントだ。
心がこもっていなくてもかまわない。「ごめんなさい」と口にする。本当にゆるしているわけではない。けれども「いいよ」と口にする。心のこもらない言葉を口にするのだが、それを繰り返していくうちに、いつの間にか心がこもってくる。「ごめんなさい」と言わなければいけないと思う。「いいよ」と言わなければいけないと思う。そう思っていると、してはいけないことをしなくなる。失敗したときにはあやまらなくてはいけないと思ってくる。あやまられたら、ゆるさなければならないと思ってくる。言葉を使い続けていくうちに、あとから心がこもってくることは、よくあることではないか。
◆「ゆるし」もまず形から
「自信がないときは、自信があるように振舞いなさい。そうすれば自信が生まれてくる。不信仰だなと思うときは、信仰深く振舞いなさい。そうすれば、信仰が身に付いてくる」。そんな言葉がある。
形から入るのは、悪いことではない。「心がこもるまでは、私はゆるさない」などと言ってはならない。ゆるせないという重荷を負いつつ、「ゆるします」と主のみ前で祈る。そこが大事だ。ゆるせないと思えば思うほど、その重荷を負いつつ「ゆるします」と祈る。そこがとてもとても大事なのだ。
全能の神様は、私たちの罪をゆるしてくださった。たとえ、私たちが人をゆるさなくても、主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの罪をゆるしてくださった。これは真実である。しかしそのメッセージを耳にしたからと言って、私たち自身が「ゆるす者」に変わるわけではない。しかし、主なる神は、主なる神がわたしたちをゆるしてくださったように、私たちも主なる神の御心にしたがって「ゆるす者」として歩むことを願っておられるのである。
だからこそ、この主の祈りをお教えになられた。そして、繰り返して「ゆるすものとなりなさい」と語ってくださるのである。「『私もゆるしますから、私の罪もゆるされますように』と祈りなさい」。キリスト者としてのゆるしの生活への招きなのである。
地の塩、世の光として生きていくときに、まず形から。「ゆるせなくても、ゆるします」「一生懸命、ゆるそうと思います。だから、私たちの罪をもゆるしてください」。
そのように祈る者として、今週も歩んでいきたい。