◆御言葉の語られる時代、場所、状況
一連の物語の後半部分である。ファリサイ派、律法学者らが、聖書についてイエス様のところに学びに来ている。彼らは、聖書に忠実で、聖書の専門家であった。
イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をするのを見て、彼らは「あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と尋ねた。汚れた手というのは、神の御心に従わない手という意味でもあった。それに対してイエスは
律法を自分の都合の良いように曲解するのは間違っているといっている。そして、今日の箇所である。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の身体に入るもので人を汚すことが出来るものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」この次に十字架のようなマークがついている。15節から17節に飛んでいる。ここには、底本に節がかけている個所の異本による訳文が入る。後ろに、それが載っている。
今は印刷であるが、昔は、聖書はすべて写して手渡された。手書きで写していくときに、途中で間違いが起こる。そこで単語すべてに番号がついており、何番目の単語が何になっているかを
昔の修道士は、もっぱら写本をしていた。一生の間に10冊や20冊を写していく。書き写し間違いがあったら、1年かけてかいた聖書が無駄になる。礼拝堂の中に聖書66巻を持っていることもなかった。聖書を持っているとは、大変なことであった。今は、我々はそれぞれ自分の聖書を持っている。今から2000年前である。大和朝廷よりも昔、戦国時代より遥かに昔である。今よりずっと昔である。戦後は遠くなったというが、それよりもずっと昔である。そのときにイエス様が誕生して新約聖書ができる。その時代は印刷機がない。もちろん携帯もFAXもない。そういうものである。
ところが、旧約聖書が編纂されていく原型ができるのは、そこからさらに1000年前である。モーセ5書がまとめられたのが今から3000年前である。旧約聖書には、紀元前6000年前、8000年前のものが入っている。ある文章はエジプトで、ある文章は今のイラクのところで、ある文章はイスラエルで、またはシナイ山で書かれている。書かれたときも場所も違う。聞いている人々も違う。ある人は砂漠で、ある人は農耕地で、ある人は捕囚地で。ぜんぜん歴史状況が違う。イエス様は、聞く相手に応じて話し方を変えている。時代によって、場所によって、生活状況が違っていても神様は御言葉を語っている。時代や場所、状況が違うので、同じに聞いてはいけない。
◆神の心に耳を傾ける
聖書の言葉は、時代によって違うので、同じように考えてはいけない。聖書には、こう書いてある。聖書の言うとおりに生きなければいけないというと、旧約には、殺せと言っている個所がたくさんある。教会に子供連れで宗教勧誘に来る女性にお見せするのは、第一コリントの14章34節である。「婦人たちは、教会では黙っていなさい」
言いたいのは、「聖書を文字通り、そのまま受け取ることが正義ではない」ということである。当時は、市民権を持つことが許されていたのは男性だけであった。男性は移動の制限があった。女性の方が自由人であった。その男女の違いがあった。当時はそういう社会であった。時代の社会状況を考えずに、聖書の言葉を引用して、これは差別だといわれても困る。同じように、だから女性は黙っていなければいけない、ということはない。現代、教会において女性は黙っていては困るのである。
言いたいのは、時代の中で聖書の言葉は変わるということである。神様のメッセージは時代の中で語られる。だから、メッセージを聞かなければいけない。言葉面ではなく、その言葉が語られている、背後にある神様の心に耳を傾けなければ、聖書のメッセージを聞いたことにならない。なんと言われたか、ではなく、何を大事だと思っているのかの方に耳を傾ける。
◆本当に神様が言いたいこと
今日の7章の15節で、イエス様は、恐ろしいほどの聖書の否定をしている。
レビ記11章に清いものと汚れたものに関する規定が英々と記されていく。これは、新しい食べ物に触れる。全部、食べられると思うと、おなかを壊す。当時のイスラエルの人々は、これを神の言葉として聞いている。私たちが今でもよく知っている事柄である。豚には寄生虫がいることがあると知っている。当時は、このモーセとアロンが政治の中心であった。保健所の係りもやっていた。たった一つの統治機構がこの組織である。民数記は、住民台帳をつくっているのである。犯罪についても述べている。その後、イスラエルの人々は2000年を生きた。いろんな約束事が、形式的なものになっている。イエス様は、そういう風に聖書を読んでいる人に対して、極めて否定的であった。
「外から人の身体に入るもので人を汚すことができるものは何も無い」これは、レビ記11章の完全否定である。あそこで神様が言いたかったのは、そうではないという。あなたの心の中に、あなたを汚すものが出てくるのではないか。何も悪いことをしていないというが、本当か、というのである。
自分以外の人のせいにする。自分が辛い思いをすることも、すぐに周りのせいにする。しかし、そのことについて、イエス様は本当か、とおっしゃる。律法を使って、外からあくが入ってくるが、自分自身は清いというが、本当か、という。私たちは、その言葉をしっかり聞くべきである。あえて、具体例は出さない。あなたの心の中に、神様が嫌われるものがあって、出てきているのではないか。考えてみてほしい。
◆十字架によって赦されて清くなる
私が若いときに影響を受けた牧師、井田先生は「礼拝に来ている人を説教で悪く言ってはいけない。」と言った。その先生は、いつも福音しか語らない。罪の裁きについて語らない。何を言っているか、教会に来る人に傲慢な人などいないと言う。教会に来るときには、少なくとも自分よりも偉い神様、イエス様を認めているからである。礼拝の中で、イエス様の名前で祈り、ひれ伏す。礼拝の中で、人は傲慢ではない。ただ、出た瞬間に傲慢になる。
この中では、自分の心の中から出てくる悪いものを認めている。十字架が正面にある。私の罪ゆえにかけられた場所である。
十字架に向かっているときは、自分たちの罪を意識している。十字架から背を向けていくときにすぐに傲慢になれる。祝福も受けたし、許してもらったから大丈夫、となってしまう。少なくとも、イエス様はどうみていたか。人間の心から悪い想いが出てくる。私たちも知っている。それがゆえにイエス様が十字架にかかったことも知っている。
身体は十字架に背を向けても、心は十字架に正面に仰いで、出て行きたい。私たちが清くなったのではなく、主の十字架によって許されているにすぎないと知っていなければいけない。
(2006年7月23日 釜土達雄牧師)
一連の物語の後半部分である。ファリサイ派、律法学者らが、聖書についてイエス様のところに学びに来ている。彼らは、聖書に忠実で、聖書の専門家であった。
イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をするのを見て、彼らは「あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と尋ねた。汚れた手というのは、神の御心に従わない手という意味でもあった。それに対してイエスは
律法を自分の都合の良いように曲解するのは間違っているといっている。そして、今日の箇所である。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の身体に入るもので人を汚すことが出来るものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」この次に十字架のようなマークがついている。15節から17節に飛んでいる。ここには、底本に節がかけている個所の異本による訳文が入る。後ろに、それが載っている。
今は印刷であるが、昔は、聖書はすべて写して手渡された。手書きで写していくときに、途中で間違いが起こる。そこで単語すべてに番号がついており、何番目の単語が何になっているかを
昔の修道士は、もっぱら写本をしていた。一生の間に10冊や20冊を写していく。書き写し間違いがあったら、1年かけてかいた聖書が無駄になる。礼拝堂の中に聖書66巻を持っていることもなかった。聖書を持っているとは、大変なことであった。今は、我々はそれぞれ自分の聖書を持っている。今から2000年前である。大和朝廷よりも昔、戦国時代より遥かに昔である。今よりずっと昔である。戦後は遠くなったというが、それよりもずっと昔である。そのときにイエス様が誕生して新約聖書ができる。その時代は印刷機がない。もちろん携帯もFAXもない。そういうものである。
ところが、旧約聖書が編纂されていく原型ができるのは、そこからさらに1000年前である。モーセ5書がまとめられたのが今から3000年前である。旧約聖書には、紀元前6000年前、8000年前のものが入っている。ある文章はエジプトで、ある文章は今のイラクのところで、ある文章はイスラエルで、またはシナイ山で書かれている。書かれたときも場所も違う。聞いている人々も違う。ある人は砂漠で、ある人は農耕地で、ある人は捕囚地で。ぜんぜん歴史状況が違う。イエス様は、聞く相手に応じて話し方を変えている。時代によって、場所によって、生活状況が違っていても神様は御言葉を語っている。時代や場所、状況が違うので、同じに聞いてはいけない。
◆神の心に耳を傾ける
聖書の言葉は、時代によって違うので、同じように考えてはいけない。聖書には、こう書いてある。聖書の言うとおりに生きなければいけないというと、旧約には、殺せと言っている個所がたくさんある。教会に子供連れで宗教勧誘に来る女性にお見せするのは、第一コリントの14章34節である。「婦人たちは、教会では黙っていなさい」
言いたいのは、「聖書を文字通り、そのまま受け取ることが正義ではない」ということである。当時は、市民権を持つことが許されていたのは男性だけであった。男性は移動の制限があった。女性の方が自由人であった。その男女の違いがあった。当時はそういう社会であった。時代の社会状況を考えずに、聖書の言葉を引用して、これは差別だといわれても困る。同じように、だから女性は黙っていなければいけない、ということはない。現代、教会において女性は黙っていては困るのである。
言いたいのは、時代の中で聖書の言葉は変わるということである。神様のメッセージは時代の中で語られる。だから、メッセージを聞かなければいけない。言葉面ではなく、その言葉が語られている、背後にある神様の心に耳を傾けなければ、聖書のメッセージを聞いたことにならない。なんと言われたか、ではなく、何を大事だと思っているのかの方に耳を傾ける。
◆本当に神様が言いたいこと
今日の7章の15節で、イエス様は、恐ろしいほどの聖書の否定をしている。
レビ記11章に清いものと汚れたものに関する規定が英々と記されていく。これは、新しい食べ物に触れる。全部、食べられると思うと、おなかを壊す。当時のイスラエルの人々は、これを神の言葉として聞いている。私たちが今でもよく知っている事柄である。豚には寄生虫がいることがあると知っている。当時は、このモーセとアロンが政治の中心であった。保健所の係りもやっていた。たった一つの統治機構がこの組織である。民数記は、住民台帳をつくっているのである。犯罪についても述べている。その後、イスラエルの人々は2000年を生きた。いろんな約束事が、形式的なものになっている。イエス様は、そういう風に聖書を読んでいる人に対して、極めて否定的であった。
「外から人の身体に入るもので人を汚すことができるものは何も無い」これは、レビ記11章の完全否定である。あそこで神様が言いたかったのは、そうではないという。あなたの心の中に、あなたを汚すものが出てくるのではないか。何も悪いことをしていないというが、本当か、というのである。
自分以外の人のせいにする。自分が辛い思いをすることも、すぐに周りのせいにする。しかし、そのことについて、イエス様は本当か、とおっしゃる。律法を使って、外からあくが入ってくるが、自分自身は清いというが、本当か、という。私たちは、その言葉をしっかり聞くべきである。あえて、具体例は出さない。あなたの心の中に、神様が嫌われるものがあって、出てきているのではないか。考えてみてほしい。
◆十字架によって赦されて清くなる
私が若いときに影響を受けた牧師、井田先生は「礼拝に来ている人を説教で悪く言ってはいけない。」と言った。その先生は、いつも福音しか語らない。罪の裁きについて語らない。何を言っているか、教会に来る人に傲慢な人などいないと言う。教会に来るときには、少なくとも自分よりも偉い神様、イエス様を認めているからである。礼拝の中で、イエス様の名前で祈り、ひれ伏す。礼拝の中で、人は傲慢ではない。ただ、出た瞬間に傲慢になる。
この中では、自分の心の中から出てくる悪いものを認めている。十字架が正面にある。私の罪ゆえにかけられた場所である。
十字架に向かっているときは、自分たちの罪を意識している。十字架から背を向けていくときにすぐに傲慢になれる。祝福も受けたし、許してもらったから大丈夫、となってしまう。少なくとも、イエス様はどうみていたか。人間の心から悪い想いが出てくる。私たちも知っている。それがゆえにイエス様が十字架にかかったことも知っている。
身体は十字架に背を向けても、心は十字架に正面に仰いで、出て行きたい。私たちが清くなったのではなく、主の十字架によって許されているにすぎないと知っていなければいけない。
(2006年7月23日 釜土達雄牧師)