日本基督教団 七尾教会

能登半島にたてられた七尾教会の日々です

説教「人から、何が出てくるか」(マルコ 7:14~23)

2006年07月23日 | 主日礼拝
◆御言葉の語られる時代、場所、状況
 一連の物語の後半部分である。ファリサイ派、律法学者らが、聖書についてイエス様のところに学びに来ている。彼らは、聖書に忠実で、聖書の専門家であった。
 イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をするのを見て、彼らは「あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と尋ねた。汚れた手というのは、神の御心に従わない手という意味でもあった。それに対してイエスは
 律法を自分の都合の良いように曲解するのは間違っているといっている。そして、今日の箇所である。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の身体に入るもので人を汚すことが出来るものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」この次に十字架のようなマークがついている。15節から17節に飛んでいる。ここには、底本に節がかけている個所の異本による訳文が入る。後ろに、それが載っている。
 今は印刷であるが、昔は、聖書はすべて写して手渡された。手書きで写していくときに、途中で間違いが起こる。そこで単語すべてに番号がついており、何番目の単語が何になっているかを
昔の修道士は、もっぱら写本をしていた。一生の間に10冊や20冊を写していく。書き写し間違いがあったら、1年かけてかいた聖書が無駄になる。礼拝堂の中に聖書66巻を持っていることもなかった。聖書を持っているとは、大変なことであった。今は、我々はそれぞれ自分の聖書を持っている。今から2000年前である。大和朝廷よりも昔、戦国時代より遥かに昔である。今よりずっと昔である。戦後は遠くなったというが、それよりもずっと昔である。そのときにイエス様が誕生して新約聖書ができる。その時代は印刷機がない。もちろん携帯もFAXもない。そういうものである。
 ところが、旧約聖書が編纂されていく原型ができるのは、そこからさらに1000年前である。モーセ5書がまとめられたのが今から3000年前である。旧約聖書には、紀元前6000年前、8000年前のものが入っている。ある文章はエジプトで、ある文章は今のイラクのところで、ある文章はイスラエルで、またはシナイ山で書かれている。書かれたときも場所も違う。聞いている人々も違う。ある人は砂漠で、ある人は農耕地で、ある人は捕囚地で。ぜんぜん歴史状況が違う。イエス様は、聞く相手に応じて話し方を変えている。時代によって、場所によって、生活状況が違っていても神様は御言葉を語っている。時代や場所、状況が違うので、同じに聞いてはいけない。

◆神の心に耳を傾ける
 聖書の言葉は、時代によって違うので、同じように考えてはいけない。聖書には、こう書いてある。聖書の言うとおりに生きなければいけないというと、旧約には、殺せと言っている個所がたくさんある。教会に子供連れで宗教勧誘に来る女性にお見せするのは、第一コリントの14章34節である。「婦人たちは、教会では黙っていなさい」
言いたいのは、「聖書を文字通り、そのまま受け取ることが正義ではない」ということである。当時は、市民権を持つことが許されていたのは男性だけであった。男性は移動の制限があった。女性の方が自由人であった。その男女の違いがあった。当時はそういう社会であった。時代の社会状況を考えずに、聖書の言葉を引用して、これは差別だといわれても困る。同じように、だから女性は黙っていなければいけない、ということはない。現代、教会において女性は黙っていては困るのである。
 言いたいのは、時代の中で聖書の言葉は変わるということである。神様のメッセージは時代の中で語られる。だから、メッセージを聞かなければいけない。言葉面ではなく、その言葉が語られている、背後にある神様の心に耳を傾けなければ、聖書のメッセージを聞いたことにならない。なんと言われたか、ではなく、何を大事だと思っているのかの方に耳を傾ける。

◆本当に神様が言いたいこと
今日の7章の15節で、イエス様は、恐ろしいほどの聖書の否定をしている。
レビ記11章に清いものと汚れたものに関する規定が英々と記されていく。これは、新しい食べ物に触れる。全部、食べられると思うと、おなかを壊す。当時のイスラエルの人々は、これを神の言葉として聞いている。私たちが今でもよく知っている事柄である。豚には寄生虫がいることがあると知っている。当時は、このモーセとアロンが政治の中心であった。保健所の係りもやっていた。たった一つの統治機構がこの組織である。民数記は、住民台帳をつくっているのである。犯罪についても述べている。その後、イスラエルの人々は2000年を生きた。いろんな約束事が、形式的なものになっている。イエス様は、そういう風に聖書を読んでいる人に対して、極めて否定的であった。
 「外から人の身体に入るもので人を汚すことができるものは何も無い」これは、レビ記11章の完全否定である。あそこで神様が言いたかったのは、そうではないという。あなたの心の中に、あなたを汚すものが出てくるのではないか。何も悪いことをしていないというが、本当か、というのである。
 自分以外の人のせいにする。自分が辛い思いをすることも、すぐに周りのせいにする。しかし、そのことについて、イエス様は本当か、とおっしゃる。律法を使って、外からあくが入ってくるが、自分自身は清いというが、本当か、という。私たちは、その言葉をしっかり聞くべきである。あえて、具体例は出さない。あなたの心の中に、神様が嫌われるものがあって、出てきているのではないか。考えてみてほしい。

◆十字架によって赦されて清くなる
 私が若いときに影響を受けた牧師、井田先生は「礼拝に来ている人を説教で悪く言ってはいけない。」と言った。その先生は、いつも福音しか語らない。罪の裁きについて語らない。何を言っているか、教会に来る人に傲慢な人などいないと言う。教会に来るときには、少なくとも自分よりも偉い神様、イエス様を認めているからである。礼拝の中で、イエス様の名前で祈り、ひれ伏す。礼拝の中で、人は傲慢ではない。ただ、出た瞬間に傲慢になる。
 この中では、自分の心の中から出てくる悪いものを認めている。十字架が正面にある。私の罪ゆえにかけられた場所である。
 十字架に向かっているときは、自分たちの罪を意識している。十字架から背を向けていくときにすぐに傲慢になれる。祝福も受けたし、許してもらったから大丈夫、となってしまう。少なくとも、イエス様はどうみていたか。人間の心から悪い想いが出てくる。私たちも知っている。それがゆえにイエス様が十字架にかかったことも知っている。
 身体は十字架に背を向けても、心は十字架に正面に仰いで、出て行きたい。私たちが清くなったのではなく、主の十字架によって許されているにすぎないと知っていなければいけない。
(2006年7月23日 釜土達雄牧師)
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神によって生まれた(創世記1:1-3、ヨハネ1:1-13)

2006年07月09日 | 主日礼拝
◆もうひとつの生まれ故郷
私達の大抵の人々には、「生まれ故郷」というのがあります。自分自身のルーツです。しかし、そういったふるさと、というような生まれたところが「はっきりしない」と言う方もいらっしゃることと思います。私共は、埼玉県で生まれて、金沢で高校時代過ごし、それから大学へいくためにいろいろな土地へ出かけていったので、あまり生まれた故郷や生まれた町、自分の出所、というのを意識しませんでした。そういう意味で、自分がどこの出身かと問われると、返答に困ることが多々ありました。今は、出身はどこですか、と聞かれると素直に「生まれた土地は、埼玉です」と答えています。
ここにいらっしゃる皆さんは、自分の生まれや出所が七尾であるという方、能登であるという方がほとんどなのではないでしょうか?しかし、それ以外にも、私達に生まれ故郷があるとしたら・・・?私達はそのもうひとつの生まれについて、どのように受けとめ、説明していったらよいのでしょうか?
聖書のなかには、「生まれる」という言葉が何度か記されています。
時にはその言葉が「霊的に生まれる」という意味を表し、「洗礼」を指す場合もあります。「洗礼」は、霊的に新しく生まれる、という事だからです。自分で生まれるのではありません。「神様によって」新しくされます。

◆はじめに言があった
この世界のすべて、「神様によって」造られ、生み出されたと言う事が、
世界のはじめ、地は混沌であった、という言葉で聖書のはじめに記されています。混沌のなかに、光りが生まれる為には神様の言葉が必要でした。闇のなかにたった一言、「光りあれ」(創世記1章3節)
という言葉があってはじめて、この世に光りができたのです。私達はこの事柄を知ったとき、神の言葉の重みと偉大さ、そして神の臨在を確信します。一方、ヨハネによる福音書においては、
「はじめに言があった」(ヨハネによる福音書1章1節)
と告げられています。今一度、この「言(ことば)」という字に注目してみますと、新共同訳聖書にも、口語訳聖書にも「言」という字がたった一文字の漢字で記されています。日本語で通常「言葉」というと、葉っぱの字が入ります。国語でも「言葉」という熟語は、漢字2文字であるとされています。“言う”という字と“葉っぱ”という字、二文字で「言葉」です。けれども、私達の聖書には“葉っぱ”の字が入りません。言うという字、一文字で「言」とされているのです。
「はじめに言があった」(同書1章1節)
ここで告げられている言というのは、時代に合わせて変化していったものだ・・・という方がいました。次第に言葉は、吹けば飛んでいってしまうような、葉っぱのように、破るとちぎれてしまうような軽いものとなってしまった・・・。だから聖書では1文字なのに、後から「言」に葉っぱがついたのだ、というのです。言葉に重みがあるので、神様と共にあった言は葉っぱという字がつかないのだと考えるのです。・・・このように考えると、言葉そのもののもつ重みを改めて考えさせられるものです。
今朝は創世記第一章とヨハネによる福音書の一章をお読みいたしました。創世記の第一章は天地創造について書かれています。創世記第一章の天地創造に対して、新約聖書のヨハネによる福音書においては、「言葉が肉となった」と、キリストの救いの現れを示す「第二の創造」について書かれています。ヨハネによる福音書において
「はじめに言があった」(同書1章1節)
と述べられている「はじめ」というのは、天地創造の時であり、世界の「はじめ」のことです。神様が天地を創造される前、地は混沌であったのですから、何もなかった状態です。無の状態から、被造物が造られるには、まず「言」が被造物に先立って存在していたのです。ですから、ヨハネによる福音書第一章に記されている「言」は「被造物」ではないのです。神様によって造られる前から存在していたからです。この言葉は、神様と共にあった・・・とされています。神様と共にあったという言葉は、別の言い方をしますと、言は神であったと言うこともできるのです。この言は、神様が語りかけられ、神様が発する言なので神と共にあったのです。

◆神様によって生まれる
ここで私共は考えます。
世界のはじめ、混沌とした状態、無の状態とは、私達が「新しく生まれる」前の状態であるといえるのではないでしょうか。神様を信じ、キリスト者として歩んでいる今の私達は、空虚な空っぽの器、欠け足る器であった何もない状態から、神様の言葉によって新しく生み出されたひとりひとりであると。
真っ白いキャンバスのような空白の心のなかに、あるいは、真っ黒で灰色の心の中に、様々な色がつけられ、絵が描かれるように、私達は神様の言葉で満たされていきます。そこで私達は、御言葉を信じることによって、神様が吹き込んで下さる命の息、「聖霊」によって、新しい人へと新たに生み出されていくのです。
「万物は言によって成り、言によらずして成ったものは何一つなかった」
(同書1章3節)
と告げられています。すべてのものは、神様によって造られたからです。

◆御言葉によって生きる
この言には命がありました。言は霊であり、その霊が肉となり命となったというのは、まさに主イエス・キリストのことを現しています。命の言であるキリストです。人間を照らすまことの光りとして世に来た言です。
「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。」(同書1章4節~5節)
 主イエスは自ら、ご自身を「光りである」と呼ばれました。また、信じる民を「光りの子」であると呼んでいます。この福音書を書いたとされているヨハネは、光りである主イエスを「証しするために来た」と告げています。まことの救い主イエス・キリストは、暗闇のなかに輝く光です。
闇路を歩む私達を導く、灯台です。私達の行く道を明るく照らし出す、導き手であるといえます。しかし、
「暗闇は光りを理解しなかった。」(同書1章5節)
とあります。
別の訳の聖書では、「暗闇は光りに勝たなかった。」と記されています。暗闇というと、何か悪魔的なものをイメージ致します。光りと闇という対照的なこの二つは、私達の内面を突き刺すような深い印象を残します。
そのような闇に打ち勝つ光りである言、この言はなぜ「暗闇」に勝つのでしょうか。そこには、何にもまして、「力」があるからです。力があり、命があるのです。だからこそ私達はこの言、「御言葉」によって生きる力を得て、命を与えられるのです。
私達の生きる今の時代は、言葉というものが非常に薄っぺらいものになっています。私達の日頃の生活のなかで、あるいはちょっとした会話のなかで、交わされる言葉。相手が伝えている言葉。私達は気付かなうちに、さまざまなシーンで「言葉」を軽んじてしまいがちです。心の内側にあるものの半分も言葉にできないことがあります。言葉はコミュニケーションを円滑にする媒体ですが、‘薄っぺらい言葉’では、心がうまく伝わっていないのです。
そのような時代にあって、「御言葉」のもつ力は、光り輝いています。
御言葉は、はじめからあって、私達に命を与える言です。
主イエス・キリストは神様によって、すべてのものが造られる前からこの世と共に既に存在しておられたお方です。
私達はこの御言葉によって慰めを受け、力付けられ、励ましを受け、希望を与えられます。 この言は世に来てはじめて、まことの光りとしての存在を明らかにします。しかし、言がこの世に降るとき、世は言を受け入れることができない、下らない世の中に変わっていました。天地創造の時から、キリストが世に来られる時までに世界は変わってしまったのです。言を認めることができない、認識することができない世の中です。そのような世界にあってもなお、「信じる人々」によってこの言が受け入れられました。「信仰者」によって受け入れられたのです。

◆私たちの生まれ故郷は「神」
エフェソの信徒への手紙一の4章~5章には、「はじめに、神は天地を創造された」この創造される以前から、私達は神様によって定められていた、と告げられます。神様は、天地創造の前から、私達既にお選び下さっていたのです。ヨハネによる福音書の1章13節には、言について総括的に、次のように語られています。
 「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
(同書1章12節~13節)
キリストが、乙女マリアから肉によって生まれたのではなく、聖霊によって生まれたのと同様に、信じる私達もまた「神によって生まれた」ひとりひとりであるといえます。それ故に、私達の生まれ故郷(ふるさと)は「神」であるといえます。私達の居場所は神様のもとにあります。
私達は「神の子」として、神様から生まれたひとりひとりなのです。
すべてを新しく、希望に溢れたものとして下さる神様のもとから、力にみなぎる御言葉から、私達のすべてがはじまるのです。今、私達は、新しく生まれた時の信仰の根源に立ち帰って、自分自身のふるさとである「原点」にたって、神様の懐へと帰っていきたいと思います。
(能登圏デー交換講壇2006年7月9日 羽咋教会 内城 恵牧師)
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説教「主エスへの期待」(マルコ 6:53~56)

2006年07月02日 | 主日礼拝
◆派遣される弟子たち
 今日は、この短い聖書の箇所をテキストとして区切った。もとのギリシャ語の聖書では、節もなく、単語と単語もつながっていた。どこからどこまでが、ひとつの物語かということは、とても難しい問題であった。今日の箇所は、6章6節の後半から読んでいくと、ひとつの物語としてとても面白く、分かりやすい。弟子たちとイエス様の心のすれ違いという視点から、御言葉を聞いていくと、とても面白い。少なくともイエス様と弟子たちの間には、心のすれ違いが存在した。それを描くことによって、主が弟子たちに何を伝えようとしていたのか。のちのち、この物語から御言葉を聞く信仰の後輩たちに、何を伝えようとしたのか。マルコが私たちに伝えたかったメッセージを、よくよく聞いたらよいと思う。その物語の最初は、12人の派遣からであった。そして、12人を呼び出すというところから始まる。イエス様が弟子たちを集められる。その弟子たちを、それぞれの持ち場に遣わしていく。
 私は、この七尾教会に来てからずっと言っていることがある。みなさんは、この礼拝に集められているということを、心に留めたい。礼拝の最初は招詞である。そして、礼拝をして、この礼拝堂から押し出されていく。6節から13節までは、弟子たちが集められ、押し出されていくという形をみることができる。集められ、派遣される。キリストの弟子が、集められ、派遣されている。12人は出掛けていって、悔い改めさせるために宣教した。私たち一人ひとりの役割は違う。しかし、この12人の役割は、悔い改めさせるために御言葉を宣べ伝えるという職務を与えられた。多くの悪霊を追い出し、病を治す。これが、与えられた権能であった。目的は、悔い改めさせるためである。悔い改めの福音が、彼らの福音であった。
 福音と力はとても重要である。説教題にしようかどうか迷ったが、今日は「主イエスの期待」とした。迷っていたのは「力なき愛は無力である」と言う言葉である。「愛無き力は、暴力である」
「力なき愛は無力である。愛無き力は、暴力である」こういう言葉がある。知っている人が聞くと、誰が言ったか知っている。これは、少林寺の言葉である。似た言葉で、「力なき正義は無力である。愛無き正義は、暴力である」という言葉がある。これは、パンセが言っている。
 12人の弟子は、悪霊を追い出し、病を治す力が与えられた。力を伴う愛そのままである。神の力を持って望んだ。彼らは、福音を堂々と宣べ伝えることが許された。

◆弟子より群集を優先される主
 そして、彼らは力を持って役目を果たしたことを報告した。主イエスは、礼を言い、ねぎらった。私たちはどうだろうか。神様の権能をいただいて、それぞれのところに遣わされ、それぞれのところで働き、神様の前で報告をして、「ご苦労。あなたたちだけで、人里はなれたところへ行き、休みなさい。」といわれたら、嬉しいと思う。このように、休もうとしたら、人々が集まってきた。弟子たちは、我慢してつきあった。食事をする暇もないくらいに忙しく働き、休めといわれたのに、イエス様はしゃべりつづけたのである。
 食べ物もなかったから、弟子たちは食べることもできずに働いていたのに、あなたがたが彼らに食事を与えなさいと言われる。
 ここでイエス様の奇跡を目の前で知っていたのは、弟子たちだけである。大部分の人たちは、そのことを知らない。「あ、パンがあたった」と思っている。食事をする暇もないくらいに仕事をして、弟子たちに食事を与えるのではなく、弟子たちを使って人々に食事を与えた。
 その後も、舟に乗って向こう岸へ行こうとしたら嵐に遭って寝られなかった。休む暇が与えられない。休みなさいといわれたのは、イエス様である。しかし、弟子たちは働き詰めなのである。
 皆さんが、キリストの弟子であることは知っている。呼び出されていって、押し出されていて、主と共にあって嵐はなくなっていただろうか。食べ物が、豊かに与えられて休みの中にあっただろうか。抜き打ちテストのように、人々から聖書とは何かと問われたことはないか。主イエスが共に居てくださったからといって、順風満帆はない。マルコの重要なメッセージである。
 弟子たちに食事を与えるためにパンを与えたのではない。弟子たちをさておいて、群集のためにパンをお与えになった。弟子たちのために嵐を静めようとはなさらなかった。いよいよ休めると思ったら、病人を運び始めたら、その群集を癒された。弟子のことを第一に考えていたのであろうか。群集のことを第一に考えておられたのであろうか。
 私たちの主イエスキリストは、この弟子を通して、群集に福音を宣べ伝えておられる。

◆キリストを着る私たち
船橋教会に行ってきた。日本式の礼拝堂で有名なところである。クーラーがない。本間先生は、黒尽くめのスーツ。会堂改修工事で、長老会でクーラーを入れるかどうかでもめていたらしい。そこで、私は「キリストさん」の話をした。宗教連盟にいくと、キリストさんと呼ばれる話である。ペテロが、私の中にキリストが生きているのだ、という言葉を思い起こしながら、キリストさんと呼ばれる。私たちは、キリストとして生きている。主イエスキリストを着て、この世を生きている。主イエスキリストを着るというのは、このときの主イエスのように振舞えということである。イエス様の立場にたってみよう。弟子の報告にずっと耳を傾けていた。群集の前で話をしていたのはイエス様である。5つのパンと2匹の魚を増やしていてくださったのは、主イエスキリストである。沖に出て嵐に遭うが、弟子のために祈っておられたのは、主イエスキリストである。夜も寝ないで、祈っていた。主は休んでおられない。
 自分がキリストの弟子になったからには、主がこの群集のために働いておられるように、自分もこの群集のために働かなければならない。先週の船橋教会での聖書箇所は、ヨハネ3:16とした。聖書の全巻が、この1節に集約されている。
 神が愛しておられるのは、キリスト者だと思っている。神は、その一人子をお与えになったほどに、「世」を愛された、と書いてある。キリスト者を愛されたとは書いていない。
一人子を信じるものは、永遠の命を与えられる。永遠の命を与えられた者だけを愛されているのではない。この世を愛された。

◆この「世」を愛すものとして
 主イエスが、弟子たちと一緒にやっていたのは、神はこの世を愛されていることを伝えることであった。群集は、力ある奇跡には群がったが、悔い改めの福音には群がらなかった。主の愛しておられるこの世の人々が、悔い改めの福音には集まらず、力のある奇跡に群がったことを知っておきたい。私たちキリスト者は、奇跡にではなく、悔い改めの福音によって集められ、奇跡を起こす力を与えられている。
 弟子の心に、心を沿わせて、この世を愛するものになりなさい、と言われている。弟子のことはひとつも触れられない。主の心をひとつとなって、同じ奇跡を起こすものとして、地上を歩んでいきたい。
(2006年7月2日 釜土達雄牧師)
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