平維茂の子孫、平貞冬が、越前朝倉よりこの地へ来て城を築き朝倉を名乗った。保々西城の朝倉備前守と同族である。
永禄10年(1567年)にいたり最後の城主、茂福掃部輔盈豊は、織田信長の武将、滝川一益に不信を持たれ、長島城へ誘いだされ殺害された。城主を失った茂福城兵は滝川勢と激しく戦ったが攻め落とされたという。
滝川一益は目代として山口氏を置き治めさせた。
[所在地:三重県四日市市茂福町字里の内]
<アクセス>近鉄名古屋線・近鉄富田駅から南南西へ約1Kmまたは、霞ケ浦駅から北北東へ約1Km。
JR関西線・富田浜駅から西北へ約700m。
▼茂福城の概要
▼茂福城(主郭の北西角)
▼茂福城(主郭の北西角)
▼茂福城(主郭の北西角)
2017/04/30 訪城