今川氏の武将牧野古白が今川氏親の命により,永正2年(1505年)に今橋城を築き、のちにその名を吉田城に変えた。戦国時代には東三河支配の拠点であり、徳川家康が三河を取り戻すと、配下の酒井忠次を置いた。徳川家康の関東入国で、天正18年(1590年)に池田輝政が15万石で入城すると、城の大規模な整備拡張と城下町の整備を行って,現在見られる吉田城の基礎を築いた。しかし、池田輝政が、播磨姫路城へ移封され、その後、城主は、徳川譜代の大名がめがぐるしく交替し,寛延2年(1749年),浜松城主、松平(大河内)信祝の子松平信復が入城し、以後7代続いて松平信古の時、明治維新を迎えた。天守はなく鉄櫓をもって天守代用とした。明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴ない豊橋城とも呼ばれた。明治の廃城令で建物は、解体されたが、昭和29年(1954年)、隅櫓の鉄櫓が鉄筋コンクリート造りで模擬再建された。現在、城跡は豊橋公園となっています。
[所在地:愛知県豊橋市今橋町豊橋公園内]
<アクセス>JR豊橋駅下車徒歩約20分
▼吉田城の概要
▼吉田城の略図
▼吉田城本丸二之丸略絵図
▼本丸南御多門跡 ▼吉田城址の碑
▼本丸跡 ▼本丸井戸跡
▼腰曲輪
▼復興鉄櫓と櫓台の高石垣
▼復興鉄櫓 ▼復興鉄櫓よりの眺め
鉄板が張られた扉がつくなどの三重櫓。天守の代用とした。
2016/04/16 訪城