nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

大垣城

2014年02月10日 | 岐阜県の城郭・環濠

 大垣城は、明応9年(1500年)土豪の竹腰尚綱によって牛屋川東河岸にあった牛屋に築城したのが始まりです。天文4年(1535年)には、美濃国守護土岐氏の家臣の宮川安定が大尻に築城したとも言われています。天文13年(1544年)に織田信秀により落城し、織田信辰が5年間城主を務める。その後、天文18年(1549年)斎藤家臣の竹腰尚光が城主となる。永禄2年(1559年)には、氏家直元が城主となり、土塀・堀・総囲い等を整備する。織田氏、斎藤氏、織田氏、と支配権が移った後、天正11年(1583年)池田恒興が、城主となったころから、城郭として整備され、伊藤氏時代に白亜の天主が築かれた。関ヶ原の戦いでは、当時城主であった伊藤盛宗が西軍に属したために、西軍の本営として利用され、石田三成が、率いる主力部隊は、大垣城から決戦の地関ヶ原へ出撃。東軍は、関ヶ原盆地で繰り広げられた決戦に勝利を収めると、大垣城を包囲。石田三成の義弟の福原直高は、留守を任されていたが、降伏勧告に応じて開城した。江戸時代には、、譜代・親藩大名が歴任し、戸田氏10万石の時代に明治維新を迎えた。天主閣は、戦災によって焼失したが、昭和34年(1959年)再建された。本丸、二の丸跡は、大垣公園として整備されている。

 [所在地:岐阜県大垣市郭町二丁目]

アクセス>JR大垣駅下車南口から徒歩7分

大垣城の概要

大垣城絵図

東門(旧柳口門)

 

天主閣(復興天主閣)

 

 

乾隅櫓

 

西門                                   ▼戸田氏鉄公騎馬像

 

天主閣よりの眺

 

2014/02/09 訪城

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関ヶ原の戦    慶長5年(1600年)

 天下を二分する戦。東軍・徳川家康軍9万騎と西軍・毛利輝元(石田三成)軍8万騎が、美濃・関ヶ原で激突。結果は、西軍の敗北。

氏家直元(卜全)   (生年不明~1571年)

 美濃・大垣城主。西美濃三人衆の一人。斎藤氏に仕える重臣だが、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)稲葉良通(一鉄),安藤守就とともに、織田信長に内応。以後、織田信長配下として活躍。元亀2年(1571年)伊勢長島攻めに従軍。退却の時,殿軍を受け持ち、討ち死にした。長男直通が三人衆の一角を担った。


曽根城

2014年02月10日 | 岐阜県の城郭・環濠

 曽根城は、永禄年間(1558年~1569年)の初期,揖斐川の支流平野井川の湾曲部を利用して稲葉通貞により築かた平城です。本丸は、約1000坪、二の丸を含めると約5000坪と推定されます。その子稲葉良通(一鉄)は、斎藤龍興・織田信長に仕え、稲葉貞通の代の天正16年(1588年)に郡上八幡に移封。後は、西尾光教が入府するが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦後に揖斐陣屋に移り、慶長6年(1601年)廃城となった。享保19年(1734年),稲葉一鉄が母の菩提をともなう為に建立した華渓寺が、本丸跡に移築された。また、城跡周辺は、曽根城公園として整備されています。

[所在地:岐阜県大垣市曽根町1丁目]

アクセス>JR大垣駅下車、大垣駅北口より名阪近鉄バスで大野バスセンター行きに乗車 「曽根」下車徒歩8分

曽根城の概要

曽根城跡図

曽根城本丸跡に建つ華渓寺

 

曽根城の石垣          ▼曽根城公園

 

曽根華渓寺の福水

 

2014/02/9 訪城

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稲葉良通(一鉄)  (1516年~1588年)

 美濃崇福寺の僧侶だったが、牧田合戦で一族討ち死にのため家を継ぐ。土岐・斎藤氏に仕える重臣で、美濃・曽根城主。しかし、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)氏家直元・安藤守就とともに、織田信長に内通、稲葉山落城の因を作った。以後、氏家直元。安藤守就とともに西美濃三人衆と称された。織田信忠が美濃支配を譲られた後も、三人衆は、織田信長に直属した。姉川合戦で徳川家康援軍として武勇を上げた。本能寺の変後、秀吉・勝家の対立深まる中、秀吉方に属した。その後、揖斐郡・清水城に移り、74歳で病没。

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梁川星厳記念館(華渓寺境内)

 当地出身(曽根出身)の江戸時代の漢詩人梁川星厳とその妻紅蘭を記念した梁川星厳記念館です。

梁川星厳邸宅跡(大垣市指定史跡)      ▼梁川星厳・紅蘭の像(曽根城公園)

 


墨俣城

2014年02月10日 | 岐阜県の城郭・環濠

 長良川西岸の墨俣の地は、交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた。尾張の織田信長による美濃侵攻にあたって、織田方の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が永禄9年(1566年)の長良川の美濃川の岸に、わずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣城である。一夜にして築いた伝わるが、建築資材を筏に組んで上流から流し、2,3,日で組み立てたものであった。そして藤吉郎は、完成した城の城将に据えられたという。現在は、河川改修で城跡の半分が削られてしまったが、残された土地は公園として整備され、公園内に鉄筋コンクリート造四層六階建ての天主様式の墨俣一夜城歴史資料館が建つ。墨俣一夜城歴史資料館では、築城当時のようすが映像などによって解説・展示されている。

[所在地:岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1]

アクセス>JR大垣駅南口から名阪近鉄バスで岐阜聖徳学園大学行きに乗車、「墨俣」下車徒歩約5分

                                                                           

                                         ▼豊臣橋のたもとには、瓢箪とともに「太閤出世橋」の碑が、、、

 

 

             ▼模擬天主閣(墨俣一夜城歴史資料館)

 

                 藤吉郎の馬柵

 

 

太閤秀吉出世の泉

 

模擬天主閣よりの眺め

 

2014/02/09 訪城

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安藤守就(道足)   (生年不明~1582年)

 美濃の人。本巣郡・北方城主。斎藤氏に仕える重臣の一人だが、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年),稲葉良通(一鉄)・氏家直元とともに織田信長に降りる。以後彼らは西美濃三人衆と呼ばれ、まとまって行動をすることが多い。美濃が織田信忠の支配下に置かれた後も、彼等は織田信長に直属した。天正8年(1580年)8月、武田に通じたとの嫌疑により、突然追放され所領を失う。本能寺の変後、旧領復帰のため隆起した安藤守就ら安藤一族を討伐したのはかっての三人衆の同僚であった稲葉良通(一鉄)であった。

稲葉良通(一鉄)  (1516年~1588年)

 美濃崇福寺の僧侶だったが、牧田合戦で一族討ち死にのため家を継ぐ。土岐・斎藤氏に仕える重臣で、美濃・曽根城主。しかし、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)氏家直元・安藤守就とともに、織田信長に内通、稲葉山落城の因を作った。以後、氏家直元・安藤守就とともに西美濃三人衆と称される。織田信忠が美濃支配権を譲られた後も、三人衆は、織田信長に直属した。姉川合戦で徳川家康援軍として武勇を上げた。本能寺の変後、秀吉・勝家の対立の深まる中、秀吉方に属した。その後、揖斐郡・清水城に移り、74歳で病没。

氏家直元(ト全) (生年不明~1571年)

 美濃・大垣城主。西美濃三人衆の一人。斎藤氏に仕える重臣だが、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)稲葉良通(一鉄)・安藤守就とともに、織田信長に内応。以後、織田信長配下として活躍。元亀2年(1571年)伊勢長島攻めに従軍。退却の時、殿軍をうけ持ち、討ち死にした。後、長男直通が三人衆の一角を担った。