瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

慈悲の波動

2012年11月18日 | 瞑想日記
最近、ずっと気になっていることがある。先日、私自身の瞑想合宿レポートを久しぶりに読み返したことはすでに触れた。その中でいちばん気になっているのは、最後のレポートの一節だ。

修行と家族:2005夏★ヴィパッサナー瞑想合宿レポート (5)

この時の合宿の9日目に、私が地橋先生から、あるいは地橋先生を通して地橋先生を超えたところから来る「慈悲の波動」を実感して嗚咽したことを書いている。この「慈悲」の波動がずっと気になっている。

もちろんその時の実感は今は感覚としては残っていない。しかし、このような波動が確かに存在し、それをはっきりと感じられることに驚きを覚えた。レポートを読み返してみて、改めてそこに大切な意味があることを感じている。

あの時私は、それが本当は何なのかが最初、分からなかった。だから、それを利用して瞑想の「成果」を出したいという欲をだした。そして何度か瞑想を試みたが、思ったような「成果」は得られなかった。それでやっとわかった。それは「成果」を求めるエゴの立場とは、まったく違うところから来る波動だということが。

慈悲はエゴを超えている。エゴが慈悲の波動を利用してエゴにとって満足できる「成果」を得ようとする試みほど、慈悲の波動にとって似つかわしくないものはない。それが分かった時、私は嗚咽したのだ。

その慈悲の波動が今、とても気になっている。気になっているから何をしようという発想があるわけではない。ただ、気になっている。

そして慈悲の波動のことと同時に、もう一つ思い出すことがある。これはもう恐らく十数年前に見た夢だ。一言でいうと白鶴が地上から飛び立つ夢なのだが、白鶴は私にとってあることを象徴していた。

自分に与えられた仕事を、損得の感情なく、つまりエゴの意識なく、ただひたすらに行うこと。白鶴を思い出すと、そういう行為の純粋さへの思いが同時に沸き起こった。今でも、その感覚は残っている。そして、その感覚は慈悲の波動から受け取った感覚と深くつながっているのだ。