瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

さ迷い、そして戻る

2012年11月20日 | 瞑想日記
帰宅時、職場から駅まで40分弱歩いている。その間、意識が移りゆく対象に言葉てラべリングすることで気づきを継続するというサティの行を行う。うまく続くときもあればそうでないときもある。

かつて
『呼吸による癒し』珠玉の言葉

にラリー・ローゼンバークのこの本『呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想』のなかの印象的な言葉を選んで、私の感想を入れながら掲載した。それを読み返すと、いまでも瞑想のヒントとなる。

◆「修行にとりつかれて、何かを獲得しようという考えが潜入してくる典型的な場面のひとつは、呼吸と共にとどまることを仕事にしてしまうときです。私たちはシンプルな指導を受ると、呼吸と共にあるときは成功でそうでないときは失敗なのだと、すぐに成功や失敗のドラマを作りあげてしまいます。実際には、呼吸と共にあること、心がさ迷い出してしまうこと、さ迷ったことを知ること、穏やかに戻ってくること、そのすべてのプロセスが瞑想なのです。戻ってくるときに、自分を責めたり、裁いたり、失敗したという感じを抱かずに戻ってくることがとても大切です。五分間座っていて、千回戻ってこなければならないのならば、ただそうしなさい。それを自分で大問題にしない限り、問題はないのです。」

上の文章では呼吸を中心対象として選んでいるが、歩く瞑想の時は、そのつど意識の中心になった対象に気づきを入れていく。それでも心がさ迷いだして、サティ(気づき)を忘れ、雑念に溺れることがある。それを失敗ととらえるの必要はない。さ迷いでたことも、さ迷い出たことに気づくことも、穏やかに戻ってくることも、いい悪いの問題ではなく、そのすべてが瞑想のプロセスなのだ。どれほど心がさ迷い出ても、それを大問題とせず、何度でも戻ってくる、それ自体が瞑想なのだ。

◆「究極的な目標――それは簡単にできることではなく時間もかかります――は何かというと、たとえば怒り、寂しさ、絶望といったあらゆる経験がそのエネルギー共に浮上してくるままにすることです。これらのものが沸き起こってくるのを受け入れ、意識の光のもとで変容させるのです。こうした意識状態には莫大なエネルギーが存在しており、私たちは多くの時間そのエネルギーを抑圧しています。そのため、そのエネルギーを失ってしまうばかりか、抑圧のためにまた大量のエネルギーを使っているのです。私たちが徐々に学んでいくのは、怒り、寂しさ、絶望といったものの出現を許し、それがおのずから変容し、そのエネルギーが開放されていくようにすることです。この修行においてあなたは問題を解くのではなく、問題を溶かしてしまうのです。」

歩く瞑想をしていると、悲しみの感情が何度ともなく沸き起こってくる。その出現をゆるし、それがおのずから変容するにまかせる。これもサティを行ずるときの、とても大切な心がまえだ。何度でも自分に確認しなければならない。 

前の記事で紹介した『やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方』で、自分のからだを観察して、何か感じをつかんだら、その感じをただそのままそこに置いておく、というのも、ほぼ同じことを言っている

「あなたの感情をあるがままに置いておくことができたなら、その時こそ、感じが変わるのです。変えようとすると、変わらないのです」、つまりおのずから変容するにまかせるということだ。
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やさしいフォーカシング

2012年11月20日 | 読書日誌
◆『やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方』(アン・ワイザー コーネル)

フォーカシングとは、「からだを使って、自分の気づきを促し、こころを癒していく」現 代心理療法のエッセンスを凝縮した方法だという。 ジェンドリンが、カウンセリングの成功例を研究しているときに、成功事例にはクライエントの側にある共通の特徴があることを発見した。それはクライエントが、面接のどこかで 「話し方がゆっくりになって、言葉の歯切れが悪くなり、その時に感じていることを言い表す言葉を探し始め」るということ。自分の内側の「心とも身体ともつかない曖昧な漠然とした感じ」を確かめるように話していたのである。 この「内面の曖昧な感じに触れる」という内的な体験のプロセスをジェンドリンは、フォーカシングと名づけた。

以前に紹介した『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』の著者、トールは、 「自分 の感情を知るのが難しいなら、からだの内面にあるエネルギー場に、意識を集中させてみましょう。からだを内面から感じるのです。これで自分の感情を感じることができるはずです」 といっている。

トールも、からだの内への気づきを重視しているのだが、フォーカシングは、それを誰もがいつでもできる取り組みやすい技法(わざ)として方法を確立した。心理療法から生まれでたこうした細やかに洗練された方法を利用しない手はない。

「フォーカシングは、からだとの信頼関係を結んで、からだの気づきを通して、この自分 自身の豊かな部分が伝えてくれる智恵に耳を傾けられるようにしてくれます。フォーカシングは、からだが大声で叫び出す前に、ささやいているうちに、そのささやきを聴けるようにしてくれます。フォーカシングは、内なる正しさの感覚にかなうよう、人生を変えていきます。」  

その変化は、おだやかでゆっくりしたものであるようだ。  

ヴィパッサナー瞑想も一瞬一瞬の体内感覚への気づきを重視するが、あわせてフォーカシ ングを学ぶことは、体験を深めるのに役立つのではないかと思う。  

自分のからだを観察して、何か感じをつかんだら、その感じをただそのままそこに置いて おく。自分で判断を下したり、自分の感情を回避したり、なぜそう感じるのかを突きとめようとしても、結局同じところにとどまるか、もっと嫌な気分になるかだろう。  

「あなたの感情をあるがままに置いておくことができたなら、その時こそ、感じが変わる のです。変えようとすると、変わらないのです。」  

誰がやってもそれを感じ取り、意識の光にもたらす、つまりあるがままに置いておくことができるよう、ひとつひとつステップを踏んで進んでいけるよう、工夫されている。 私も、自分ひとりでいつでもどこでもできるフォーカシングの方法を学び、深めていきたい。文章はやさしく、説明はかゆいところに手が届くような細やかさだ。
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