瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

江戸川べりの歩行瞑想

2012年11月21日 | 瞑想日記
仕事の関係で、吉川、三郷あたりの江戸川べりの土手を1時間半ほど歩いた。その間はもちろんサティ(知覚したものすべてに気づきを入れる修行)を行った。風は少しあったが、午後の日差しが温かく、気持ちよく歩けた。筑波山がくっきり見えるほど視界もよい日で、土手とその周辺の草木が目に心地よかった。

「妄想には妄想の働きがある。妄想は妄想でしっかり仕事をしてくれるので、サティによってしっかり妄想を気付いておくことが大切だ。」

これは最初の瞑想合宿(2001年・ヴィパッサナー瞑想合宿レポート Ⅰでの地橋先生の言葉だ。ここ数日、このブログで引用した文章も、結局これと同じことを、別の言葉で表現している。要するに、私にとってはこの言葉が気になるということ。この言葉に反して、妄想・雑念と戦ってしまうということだろう。

「私たちはシンプルな指導を受ると、呼吸と共にあるときは成功でそうでないときは失敗なのだと、すぐに成功や失敗のドラマを作りあげてしまいます。実際には、呼吸と共にあること、心がさ迷い出してしまうこと、さ迷ったことを知ること、穏やかに戻ってくること、そのすべてのプロセスが瞑想なのです。戻ってくるときに、自分を責めたり、裁いたり、失敗したという感じを抱かずに戻ってくることがとても大切です。五分間座っていて、千回戻ってこなければならないのならば、ただそうしなさい。それを自分で大問題にしない限り、問題はないのです。」(『呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想』)

「あなたの感情をあるがままに置いておくことができたなら、その時こそ、感じが変わる のです。変えようとすると、変わらないのです。」(『やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方』)

最近、ある友人と交わしたやりとりが非常に気になっている。「そんなことも分からないのか、分からせてやるぞ」といった類の感情とともに何度もそのことを考えている自分を発見する。江戸川べりを歩いている時も、何度かあの時の会話をめぐって考えている自分を発見した。

しかし今日は、思考に走っても、それをあわてて打ち消すというより、ゆったりとそういう自分を見ながら、ゆっくりと知覚へのサティに立ち返ることができていた。思考する自分を見ているもう一人の自分がいた。思考に埋没してしまう自分を優しく見ている誰かがいた。

大切なのは、思考や感情に巻き込まれても、それを否定しつつ打ち消すのではなく、ただ優しく気づいていればよいということ。時間はかかるかもしれないが、それによって変化が生じる。