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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

一日断食と瞑想

2006年04月09日 | 瞑想日記
◆一日断食
昨日、一日断食。先週は都合で行わなかったので2週間ぶり。最近、朝食はとらないにしても、一回の食事量や間食が多くなっており、一番痩せていたころより、4キロほど増えた(63キロ)。週に一回の一日断食はぜひキープしたい。今朝の体重は61キロ。

断食を始めると、排泄機能が増し、日に3回も便が出て、腸がすっきりする。昨日もそのすっきり感を充分に味わった。断食を始めた頃の、気持ちの張りはないにせよ、断食中の心身の独特の感覚は、毎週確認していきたい。

◆瞑想
今朝の瞑想は、特に気の感覚が鮮明だった。最近、瞑想中の気の感覚がクリアになっているのだが、今朝特にそれを感じたのは、断食中ということもあるのだろうか。両手のひらと丹田、頭部の間での気の共鳴、全身に響く気の感覚などが、細やかで、しかも強い。

限りあるいのちを生きる自覚

2006年04月06日 | 瞑想日記
これまで何回も、限りあるいのちを生きることの自覚ということを書いてきた。私は毎日、このことを「発見」しているような気がする。自覚の度合いに応じて、「発見」も浅かったり、深かったりする。しかし、これはやはり「発見」といってよいような、そのつど新たな感覚だ。

その「発見」のもとで世俗的・日常的な意味や価値が相対化される。世間的な欲望が相対化される。その分だけ、世俗的な欲望や目標、その結果に左右されない行為をなすことができるような気がする。

現実には、周囲の評価を気にしたり、恐れたりということはまだまだある。世俗的な欲望に捕らわれている部分もかなり多い。しかし、限りあるいのちへの自覚が深まれば深まるほど、世俗的な結果や評価とは別の動機に根ざした行為が、たとえわずかでも広がっていくような気がする。

仕事の面でも、新年度の体制でスタートした。自分を行為に促す動機が、エゴへのどのような捕らわれに根ざしているのか、その気づきを深めつつ、少しでもエゴを超えたところから仕事に打ち込んでいきたい。

相対化する眼:再び

2006年04月03日 | 瞑想日記
最近、自転車が故障したのを直さずに、職場への行き帰りをずっと歩いていた。先日、駅前の駐輪場も解約した。適度な運動、そしてサティ(歩く瞑想)のための貴重な時間だ。暑くなったら再び自転車に乗るかもしれないが。

帰宅時、歩道に西日が射し、前を行く人の長い影を作っていた。そのような何気ない日常の風景を「見た」。今、今、今をサティし続けた。この一瞬一瞬が日常的な意味連関の中に埋没せずに、浮き上がる。

限られた時間の中で生きる「今」という視点で今を意識すると、「生きる」ことが相対化される感覚がある。日常的な意味連関の中に埋もれていた視点が浮上する。「生きる」ことを別の視点から眺めている。そこに埋没していた「日常的な意味連関」が相対化される。

埋没しない視点があるからこそ、より自覚的に、よりクリアに「生きる」ことができるような気がする。

偉大な探究6

2006年04月02日 | 読書日誌
◆『存在することのシンプルな感覚』より
『存在することのシンプルな感覚』に戻る。
《要約》非二元の伝統は、より高い意識状態を否定するのではない。個人を心的-自我的な自己(概念的、言語的思考が意識のあり方を決定する自己)に続く、特別な意識状態に至らせる多くの修行方法がある。瞑想意識や観想、祈りなどに表れる超越的な愛、慈悲の感覚、超感覚的な知覚などがそうである。しかし非二元の伝統が主張するのは、そうした時間のなかに始まって時間のなかで終わる特別の変容状態は「非-時間」とは関係がない、ということである。本当の目的は「非-状態」であり、この状態のない、という条件こそが、意識の状態の真実の性質なのである。意識の変化が究極のポイントなのではない。変化しないものを認識することがポイントなのである。

にもかかわらず、伝統的には、自分の真剣さをみせるために、終わらせなければならない、幾つかの初歩的な修行がある。それは、心的-自我的な自己を超える様々な種類の瞑想的な意識に習熟することを含んでいる。だが、これらのどの状態も、最終的なものでも、特権化されるべきものではない。変化する状態が目標でもゴールなのでもない。こうした様々な瞑想状態に入ったり出たりすることで、あなたは、そのどれもが最終ゴールなのではないことを理解する。状態が変化することがポイントなのではない、ということを認識することがポイントなのである。p359(『統合心理学への道』より)

☆ここに、なぜウィルバーが一方で「瞑想の効果」をときつつ、他方で非-二元のあり方が、瞑想による変容とは関係ないと主張するのかが、明確に語られている。修行による状態の変化がポイントなのではない。核心は、状態の変化の中にあるのではない。瞑想は、瞑想による変化がどれも最終ゴールなのではないことを認識するためにある。

いずれにせよウィルバーは、一方で修行や瞑想の意味を説きつつ、他方で「偉大な探究」(瞑想や修行もその一つである)が、現にあるものに対する大いなる敵となってしまうと語る。私自身、その二つの視点を忘れずに、さらにヴィパッサナー瞑想を続けていく気持ちは、変わらない。

ただし、ウィルバーのいう非-二元の伝統は、明らかに大乗的、アドバイタ的な伝統に根ざしている。こうした非-二元の伝統とテーラワーダの伝統との違いを自分なりに確認していくことが必要である。

偉大な探究5

2006年04月01日 | 読書日誌
◆『統合心理学への道』より
ここでは、ウィルバーが「瞑想の効果」をどのように捉えているか、『統合心理学への道』の同名のタイトルを持つ第10章から要約してみたい。

《要約》成長・発達と超越とは違った言葉ではあるが、同じプロセスを指す言葉である。

ポイントは、自己が、それぞれの成長・発達段階と同一化するとき、自己は完全にその構造に埋め込まれているということである。したがって自己は、そうした構造を対象化して見ることも経験することもできない。自己の主観的な諸構造は、それぞれの段階において、無意識になるのである。これを埋め込まれた、埋没した無意識という。

次の段階では、自己はその構造の埋め込みから離れる(非同一化、分化、超越)。そして、新たに出現(創発)した高次の構造と同一化する。この構造が、新しい埋め込まれた自己を構成し、その構造を対象として見ることはできない。したがって新しい埋没した無意識を構成する。成長とは、埋め込みと埋め込みからの離脱のたえまないプロセスであり、同一化し、超越する。私たちは、自分が超越していないものに支配されている。

瞑想は、遅かれ早かれ、埋め込まれた自己、埋め込まれた無意識を、埋め込みから解き放ち始める。自身の内外に起きるすべてに気づいているマインドフルな目撃者であることによって、個人の主観的構造が対象化され、個人の現在のレベルの発達段階から脱同一化し、解き放たれる。p343-350

☆ここで「瞑想の効果」は、成長・発達・超越のプロセスの中に位置づけられている。一方でこれは、否定しようのない真実である。人は、確かに上のようなプロセスを経て成長し続ける。その時、マインドフルな目撃者であることを訓練する瞑想は、確かに効果がある。

たとえば、劣等感に支配され、自分と他者の関係を優劣意識でしか見れず、行動の動機も劣等感の補償を原動力としていた場合、彼はその主観的な構造には無自覚である(埋め込まれた無意識)。しかし、その主観的な構造が対象化されると、人はそこから自由になる。ところが、次に出現する高次の構造は埋め込まれた無意識となる。これを繰り返していくのである。

昨日書いた、「相対化する眼」は、あるレベルでの基底となる構造を対象化し、相対化するという意味でもある。

もちろん偉大な探究としての瞑想は、最後には捨て去られなければならない。