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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

跳躍

2006年02月17日 | 読書日誌
◆『存在することのシンプルな感覚』より

「それ(スピリット)は始めがあって終わりのある時間の流れのなかには入らない。それはすべての時間を支え、すべての場所を支えるものであり、どのような部分性もなく、歴史を押したり、引っぱったりするものではない。‥‥

それはわたしたちを常に前へと引っ張るが、それ自身は常に退く。そのために常に全体性と部分性を同時に与えるのである。この瞬間における全体性は、次の瞬間における全体性の部分である。世界は常に、いかなる瞬間においても、完全であると同時に不完全である。こうして世界決して充足することのない充足を運命づけられている。‥‥

しかし個人の発達で、一定の段階に達した時点では、「無形」のものへの急激な跳躍がいつでも起こりうる。発達が高次に達するにつれて、跳躍はよりたやすく、起こりやすいものとなる。しかし「無形」のものそれ自体は跳躍の結果でもなければ、それによって現れるものでもない。」136(『進化の構造』より)

ここに、個人の発達(成長)と、そこから「無形」のものへの跳躍が語られている。「無形」のものは、時空を超え、それを支えるがゆえに、時間の中のいかなる努力の結果として獲得されるものではない。にもかかわらず発達によって、跳躍は起こりやすいものとなる。

心理的成長と悟り、瞑想と悟りとの関係を語りうるとすれば、ウィルバーが語るようなものになるのだろうか。もしかしたら、ウィルバー自身の中にも考え方の変化があったのかもしれないが。

今なすべき行為に満ち足りる

2006年02月15日 | 瞑想日記
自転車が故障したため、ここ10日間ほど駅から職場の間を歩いている。往復40分くらいか。その間サティを心がけている。思考が入ってくることはしばしばあるが、だいたい思考している自分に気づく。思考に巻き込まれていかず、気づくこと。それが大事なのだと思う。

昨日書いたように一方に心に突き刺さる棘のような苦痛がある。しかし他方には「充実」がある。与えられた日々の課題を結果に左右されず淡々とおこなっていくという態度からくる「充実」といえるかもしれない。

時間の中で、さらに多くを、今日よりもさらによい明日を、求めつつ生きていく意識構造そのものが問題なのだろう。そうやって求め続けても、結局最後には自我の死が待っている。時間の中で求めるものはすべて消え去っていく。未来に向かって「もっと多くを」と求め続けることを止めて、今なすべき行為に一瞬一瞬満ち足りていくところに静かな喜びがある。

苦しみの意味

2006年02月14日 | 読書日誌
◆『存在することのシンプルな感覚』より

「苦しみ否定されるべき意識ではない。‥‥それは「統一意識」の外で生きるということが、結局のところ、不満、苦しみ、悲しみしか生まないということがわかり始めた、という意味で良いのである。境界のある人生とは、絶え間のない戦いの人生である。恐怖、不安、苦痛、死の人生である。麻痺させるような代償行為、注意の拡散、幻惑などを通じて、わたしたちは、みんなで幻の境界自体を問うことをやめてしまうことにする。しかし、この幻の境界こそ、苦しみの車輪がやむことなく回り続ける、そもそもの原因なのである。‥‥

苦しみとは、したがって、偽りの境界をそれと認識することへ向けての最初の動きである。正しく理解すれば、それは人を解放へと向かわせる。なぜなら、苦しみは境界を超えた地点を指し示すからである。」113・114(『無境界』より)


最近の自分自身を振りかえっても、苦しみが自分を成長させた。自己収縮の境界が消えたとは言えないが、それを押し広げてゆるめた。そして、その分楽になった。

今の私には、心に刺さった棘のような、ひとつの苦しみがあるが、それとてまた、私に偽りの境界をそれと認識させるきっかけとなるであろう。苦しみを避けるのではなく、ありがたいものとしてそれに直面すること。

七覚支08(In This Very Lifeより)

2006年02月12日 | In This Very Lifeより
久しぶり(ほぼ一ヶ月ぶり)にSayadaw U PandiraのIn This Very Lifeのなかの七覚支について解説した章を取り上げる。この場でその内容をあくまでも私自身の実践上の関心から要約し、感想を付け加えたりしながら、紹介しするという作業である。(客観的なまとめではなく個人的な関心からのノート程度のものであり、まとめについての責任は私にある。)

七覚支は次のようなものであった。

1)念覚支
2)択法(ちゃくほう)覚支
3)精進覚支
4)喜の覚支
5)軽安覚支
6)定の覚支
7)捨の覚支

現在2)択法(ちゃくほう)覚支のところを取り上げている。

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◆択法覚支Investigationの原因
択法覚支Investigationは、どのようにして起こるのか。ブッダによれば原因は一つである。自然に湧き起こる洞察、直接的な知覚である。そのような洞察を実現するためには、マインドフルネスを活性化しなければならない。そうすれば、心は現象の本性への洞察を得るであろう。そのためには、賢明で適切な注意が必要なのである。心を対象にマインドフルに向かわせるのである。そうすれば、最初の洞察、直接的な知覚を得るのである。

択法覚支Investigationが起これば、さらなる洞察は、子どもが幼稚園から高校、大学へと進むように、自然に順番に続いていくのである。102
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要するに思考を介在させずに直接的に知覚するということだろう。日々の瞑想、あるいは日常生活の中でのサティあるのみ。瞑想では、思考が湧き上がってきたら「思考」とサティし、直接的な知覚に戻る。腹の膨らみなら膨らみに戻る。そのシンプルな繰り返しである。その繰り返しのなかで徐々に思考が少なくなっていく。思考に邪魔されずに腹の動きそのものを見るようになる。そうくことを繰り返すなかで、直接的な知覚が何であるかが分かっていくのであろう。

一日断食16 :00

2006年02月12日 | 断食・少食
瞑想は20分程度。13時少し前に玄米のおかゆで昼食。この後、息子が残したチャーハンなど多めに食べてしまった。加えてクッキー類も。ここまでは食べている間のサティを忘れていた。これからは、食べたいという欲求にも、食べているときにもしっかりとサティを入れよう。

前回も書いたが、一日断食をして一晩寝ると空腹感がなくなる。であれば、前日の昼食まで食べて、一晩過ぎればかなり楽に一日断食ができるのではないか。やって見たいと思うのだが、夕食を見てしまうとつい食べたくなる。次回またチャレンジしてみよう。

夕方また瞑想をしたい。