瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

鈴木秀子氏の臨死体験

2019年06月09日 | 覚醒・至高体験をめぐって
『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」のの事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は鈴木秀子氏の事例である。

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鈴木秀子氏は、日本近代文学を専攻する聖心女子大学の教授で、聖心会のシスターでもあり、エニアグラムやゲシュタルト・セラピーその他の心理療法にも豊かな実践経験をもつ。また、文学療法の開発者としても知られる。その著『死にゆく者からの言葉』(文藝春秋社)は、ベストセラーとなって、多くの人々の心に深く静かな感動を与えた。彼女の「臨死体験」は、『死にゆく者からの言葉 (文春文庫) 』でも報告されているが、ここでは、その体験がより詳しく報告されている、同氏の『神は人を何処へ導くのか (知的生きかた文庫) 』から収録する。

その体験をしたとき鈴木氏は、学会に出席するため、友人のいる修道院に泊めてもらっていた。その修道院は、宮家の立派な屋敷を改造した建物で、二階の客間から下に降りる階段は高く急であった。その夜、寝つかれなかった彼女は、何となく夜中に起き出し、暗がりの廊下を壁づたいにそっと歩いた。曲がり角らしきところで一歩足を踏み出したが、実はそこは廊下ではなく、その急な階段だったのである。 踏み出した瞬間、体はバランスを失った。恐怖を感じる暇もなく、一気に下まで落ち、床に叩きつけられて、そのまま気を失ってしまう。

ふと気づくと、私のからだは宙に浮かんでいます。そして、空中にまっすぐ浮いている私を、高いところから、もう一人の私が見つめているのです。空中に浮かんだ私の足の周りを、なぜかたくさんの筍の皮のようなものが覆っていました。

それが蓮の花びらだとわかったのは、ずっとあとのことです。台湾のさる有名なお寺を訪れたとき、仏像の足の周りを筍の皮のようなものが包んでいるのを見て、あ、これだったんだと思いました。それは蓮の花びらでできた台座でした。
 
その筍の皮のような花びらが足もとから一枚一枚散っていくのです。高いところからそれを見ているもう一人の私は、花びらが散るごとに、自分が一つひとつの苦しみから解放されて、自由になっていくのがわかりました。
一枚落ちると、
 「ああ、これでもう人の言うことに煩わされなくてすむ、私は自由になった」  
 と思い、さらにもう一枚落ちると、
 「もう人に気を遣い、不安に脅かされなくてもすむ、私は自由になった」 とつぶやいているのです。限りない解放感と喜びが胸に溢れてきました。  

花びらが最後の一枚になり、これが落ちたら完全な自由になれると思ったとき、最後の一枚の花びらは落ちることなく、からだがすっと飛翔しました。そのとき、見ている自分と見られている自分が一つになりました。   
一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、私は今まで見たことのないような美しい光に包み込まれました。白っぽい金色の輝きに満ちた、いちめん光の世界にいたのです。まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。  

それは人格を持つ命そのものの光であり、深い部分で、自分とつながり、交流している生きた光なのでした。これが至福なのだ、完全に自由なのだ、と私は感じていま した。不思議なくらい、五感も思考もすべてが生き生きと冴えわたっています。オリンピック選手がベストコンディションで世界記録を破る瞬間とは、こんな状態のときなのでしようか。からだの全機能が最高の状態に保たれ、調和し、研ぎ澄まされているのです。 その冴えわたった意識の中で、私ははっきりと理解したのでした。

 「この命そのものの光の主に、私はすべてを知りつくされ、理解され、受けいれられ、許され、完全に愛しぬかれている」 これが愛の極致なのだと。 もし愛の究極の状態というものがあるのなら、こういう感情に貫かれることではないかしらとも思いました。真に満たされた状態とは、こういうことを言うのでしよう。 しかもその満たされた光の世界には、時がないのです。あっ、これが永遠なんだと私は思いました。 心は愛に満たされ、知性は冴え、能力のすべてが最高の状態で調和しています。

そんな至福感に包まれていたとき、どこからか声が聞こえてきました。
「癒してください、癒してください」
 


続きは以下でご覧ください。⇒ 鈴木秀子氏の臨死体験

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