瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』08

2012年04月07日 | 読書日誌
引き続き、『意識のスペクトル 1』の章ごとに要約。第3章の四回目である。

K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』 第3章 意識としてのリアリティ(続き)

◆華厳派
分離した「物」は存在しないということは、すべての「物」は同一であるということであり、華厳派は、この同一性を強調するアプローチを選ぶ。すなわち空を吟味して、深遠な法界(ダルマダートゥ;リアリティの領域)の教義にまとめた。

世界は、一個一個の宝石がほかのすべての宝石を反映し、逆にその反映がほかのすべての宝石のなかに存在する輝く宝石の網にたとえられる(因陀羅網の喩え)。無限の法界においては、個々の物がすべて、いついかなるときにもいささかの欠陥も省略もなく完璧な形で、同時にほかの一切も含む。

分離したすべての「物」の基盤、すなわちリアリティは、心である。世界は一粒の砂であり、天界は一輪の野花であり、内部はことごとく外部であるなら、個々の物は実は心にほかならない。

そして、法界は華厳「哲学」の基礎をなすものとはいえ、究極的には哲学ではなく、非二元的な知の様式に基づく体験であることを忘れてはならない。法界の相互浸透と相互同化の教義は、それ自体、言葉ではとても表現できない匿名の無にとどまる非二元的なリアリティ体験を言葉に置き換えようとする人類最高の試みである。(P108~110)

西洋思想において、法界の考え方に近いものは、システム理論、ゲシュタルト心理学、ホワイトヘッドの有機体哲学のなかに見い出される。西洋科学は全体として法界的な宇宙観に急速に接近しつつある。「一方通行の因果律の内で活動する分離可能な単位という枠組では不充分であることは判明したこと、それが現代科学の一特徴といってよかろう。したがって、全体性、包括的、有機体的、ゲシュタルトといった概念の科学の全領域における出現は、われわれが最後の手段として、相互作用しあう要素からなるシステムに照らして考えなければならない。」(ベルタランフィ)(P111)

◆瑜伽行派(唯識)
瑜伽行派は、主体と客体の二元論の役割を、幻想を生み出し、世界を自己欺瞞に陥れるものとして強調している。瑜伽行派はそれを、一貫した深遠な心理学の基礎に据えたがゆえに取り上げる価値がある。対象化はすべて幻想である。あるいは単に、あらゆる対象は、すべて幻想である。そして、あらゆる対象は頭の産物である。これが瑜伽行派の洞察の核心をなす洞察であろう。主体と客体が二つのものでないことを心底から悟ると、プラジュニャー(般若)、つまり非二元的な知の様式が目覚める。唯心のリアリティが明らかにされるのは、この様式においてにほかならない。(P113~116)

世界のおもな伝統の簡単な概観の締めくくりとして

大半の伝統では、類推的、否定的、指示的という三つのアプローチがすべて活用されるが、そのいずれに強調点を置くかは、伝統によって異なる。

人間が自己を世界から切り離し、そこから「知識」を引き出せないのは、目が目自体を見ることができないのと同じことである。ところが人間は、二元的な知識に頼り切っているので、意味をなさないことを試み、自分が成功したと思い込む。けれども、もち世界を見るものと見られるもの、知るものと知られるもの、主体と客体に分断することによって、否応なく世界が世界自体から分け隔てられて、自己欺瞞に陥るのであるなら、「主体と客体が一つのものである」ことを理解することによってのみ、現実世界の認識が可能となる。この認識のみが「絶対的真実」なのである。(P118~120)

リアリティとは、主体と客体が分断されず、時空に広がる分離した対象に抽象化されない縫い目のない衣である。それゆえ真の世界の発見は、「対象から疎外された主体」や「時空の中に浮かぶ独立した物の総体」が、実は「一つの身体の部分」であることを明らかにする。これは、リアリティとその知覚とが、同じ一つのものであることを意味する。それは「世界の世界による知覚」(R・H・ブライス)と呼ぶこともできる。(P121・122)