引き続き、『
意識のスペクトル 1』の章ごとに要約。第3章に入る。
K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』 第3章 意識としてのリアリティ
象徴的・地図の知識によって提示される世界像は、文化の違いやそれぞれの個人によっても異なる。ところが非二元的な知の様式は何らかの観念とか象徴を内容とするのではなく、リアリティそのもの、いつどこにおいても同一のリアリティ自体を表す。同一のリアリティについて、種々の象徴的地図を用いていろいろな説明の仕方があるが、普遍的伝統は、それについて語ることをやめ、かわりにそれを直接体験することを主張した。(P64・65)
非二元的な知の様式への変換は、アイデンティティの変換に帰着する。すなわち、知ろうとする主体と知られる客体とを分離し、知られる客体を適当な象徴(名称)で表す二元的な知の様式にのみ頼っている間は、われわれも同様に世界から切り離され、疎外されていると感じる。このときアイデンティティは、役割や自己イメージという象徴的な自己像によって把握され、自分自身に二元的に客体化されてしまう。(P68)(自我のレベル・実存のレベル)
知の様式が意識のレベルに対応し、リアリティが特定の知の様式であるとなれば、リアリティとは一つの意識のレベルである。リアリティとは、われわれが心と名づけた非二元的な意識のレベルから顕れるものだ。厳密には、リアリティが一方にあり、その知識がもう一方にあるのではない。非二元的知というものがすなわちリアリティなのだ。リアリティとは一つの意識のレベルであり、このレベルのみが現実的なのである。(P69・70)
リアリティが意識のレベルであり、唯心であるということは、世界が見る状態と見られる状態に分断されず、観測者が観測されるものであるという意識状態にあるということである。二元論の切断によって世界が不具にされ自己欺瞞に陥るとするなら、リアリティはこの切断以前でしか、しかるべき状態にありえない。二元的な知の様式は、アイデンティティを、知るものに限定してしまうので、ほかのすべてである知られるものは実質的に異質な部外者であるかに見える。しかし、非二元的な知の様式への転換を果たすと、知るものは知られるものとすべてであると感じるので、アイデンティティも同様に孤立した個人から全体へと転換する。(P71・72)
リアリティについて語る二つの基本的な象徴的敷衍のタイプ
1)線型的、一次元的、分析的、論理的な敷衍。科学、法律、哲学などの敷衍様式。
2)絵画的、多次元的、想像的な敷衍。芸術、神話、詩、空想、夢などの様式。(p75)
リアリティについて語る三つのおもな方法
→それぞれ何に似ているか、何でないか、到達するために何をなしうるかを表す。
1)類推法‥‥リアリティを似たものによって説明する。宗教的なイコン、曼荼羅など。
2)否定法‥‥リアリティを徹底的に否定的に説明する。「あらず、あらず」、「空」など。
3)指示法‥‥自分でそれを発見するための実体験的規則。仏教の「戒定慧」など。
(P75~79)
以下、この三つの方法を用いて、絶対者に関心を寄せる世界のおもな伝統が概観される。